悩める子爵と無垢な花

トウリン

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トラントゥール家

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 フランジナの貴族のご多分に漏れず、トラントゥール男爵もまた主都ラルスに居を構えていた。

「ここ、ですか?」
 一軒の屋敷の門扉の前で馬車を降りたフィオナは、その奥に建つ建物を見て、次いでその目を隣に立つルーカスに移す。
「まあ、そうらしいね」
 ルーカスはそう答えて、目顔で彼女に感想を問う。
「え、と……きれいなお屋敷ですね」
 正直な気持ちだと受け取るには、答えに少々時間がかかっていた。

 さもありなん。

 ルーカスは屋敷を眺め、内心で嗤う。
 ロンディウムと同じように貴族の居宅はラルスの中央に集まっているが、どれも総じて華美な印象を受ける。何というか、装飾過多で、しかもまとまりがない。
 グランスの貴族の屋敷はある種の様式のようなものが感じられるのだけれども、ここフランジナのものは、まるで所有者が周囲とは違うものにしようと躍起になっているような、そんなバラバラさ加減があった。
 今、二人が立つトラントゥール家の屋敷も、外観からして、良く言えば絢爛、本音を言えばけばけばしいという代物だ。開け放たれた門から玄関まで、ずらりと大理石の彫刻が並んで訪問者を見下ろしている。

「取り敢えず、入ってみるかい?」
 ルーカスは再びフィオナを見遣って問いかけた。

 想像していた『我が家』とは違っていたのだろう。明らかに、彼女は怯んでいる。胸の内の不安が、わずかに見張られた目と、微かに震える唇と、関節が白く浮くほどに難く握り合わされた手に現れていた。

「フィオナ?」
 そっと呼びかけるとフィオナは小さく息を呑み、一拍置いて、ルーカスを見上げてきた。
「行きます」
 震える声でそう答えはしたが、まるで処刑場にでも赴こうとしているような面持ちだ。

 ルーカスは色の失せた彼女の頬に、指の節で触れる。柔らかなそれはひやりとしていて、彼は広げた両手のひらで包んで温めてやりたくなった。だが、そんなことをすれば、きっと微かに開かれた薄紅色の唇に口付けたくなってしまう。
 自分の理性を過信できないルーカスは、そうする代わりに指の背を顎の下まで滑らせ、うつむきがちだった彼女の顔を上げさせた。

「何なら、数日置いてからでもいいんだよ? 二、三日、街の宿屋で過ごして気持ちの準備をしても。前もって連絡してあるわけでもないのだから」
 目を覗き込んでの彼の誘惑に、フィオナの眼差しが束の間揺れた。唇を噛んだその仕草に、頷くのだろうかと思ったが、予想に反して彼女はかぶりを振る。
「いいえ。先延ばしにしてみても、何も変わりませんから」
「そう?」
 首をかしげて視線を送ると、フィオナは硬い顔のままコクリと頷いた。
 健気で必死なその風情に、ルーカスは彼女を抱き上げ来た道を取って返したくなる衝動に駆られた。が、それを笑顔の下に抑え込み、彼女の背に手を添える。
「じゃあ、嫌なことはさっさと済ませてしまおうか。悩んでいるよりも実行してしまった方が、楽になるものだよ」
 思いとは真逆なことをツラツラ吐いて笑いかけると、釣られたようにフィオナの表情が緩んだ。
「そうですね。……行きましょう」
 彼女はルーカスにというよりも自分自身に言い聞かせるように、顎を引いた。

 その眼からも声からも、フィオナが今すぐグランスに取って返したいと切実に願っているのが、ひしひしと伝わってくる――そして同時に、そうやって逃げ出そうとする自分を懸命に抑え込もうとしていることも。
 そんなフィオナに、ルーカスの舌が思わず動く。
「大丈夫、私がついているから。君が幸せであることを確認するまで、傍にいるよ」
 その台詞は、少しばかり真意を偽っていた。
 正しくは、『幸せになっても』だ。
 幸せになったフィオナの隣にいるのはルーカスで、彼女を幸せにしていくのもルーカスなのだから。

「ルーカスさん」
 パッと嬉しそうに輝いた顔が、一転、曇る。
「でも、ルーカスさんは……」
 口ごもった彼女が言わんとしていることは、容易に察しがつく。
「警邏隊のこと? それなら、たっぷり休みを巻き上げてきたから大丈夫。何しろ、この五年間、毎日無休でやってきたからね。そろそろ手を抜かせてもらってもいい頃合いだ」
 冗談めかしてそう言って、ルーカスはフィオナに微笑みかけた。

 実際、ウィリスサイド警邏隊隊員たちは、優秀だ。今の彼らならよほどのことがない限りルーカスがいなくても問題ない。
 第一、ルーカスの『副隊長』は、そもそもがお飾りとして始まった役職だ。当初は、いてもいなくてもいいような扱いをするつもりだったはず。いざ働かせてみたら意外に彼が『使える』人間だったということの方が、予定外のことだったに違いない。
 今回、休みをもぎ取るために上と掛け合った時、一番効果があったのはその言い分だった。
 ニッコリ笑ってそこを指摘したルーカスに、本部の者は気まずそうに顔を見合わせて許可をくれたのだ。

「今の私には、この問題の方が重要懸案だ。君を無事に家族に届け、なおかつそこで幸せになれるのかを見極めるのはね」
 フィオナの気を楽にしようと口にした台詞に、ほんの一瞬、彼女の顔が曇った。
 どうしてそんな顔を、と彼が眉をひそめると同時に、彼女が微笑む。
「そうですね、そうですよね。わたくしがちゃんとしないと、いけませんよね」
 何か微妙な齟齬を感じたが、ルーカスはその正体を掴み損ねる。
 取り敢えず、フィオナの気持ちが浮上したのだから、機を逃さず動いた方が良さそうだ。
「……では、行こうか」
 彼の促しに、先ほどよりも力強く、フィオナが頷いた。

 二人は、冷たい大理石の神々に睨み下ろされながら門の奥へと進む。トラントゥール家は派手な外観をしているが大きくはなく、門から玄関まではさして歩かずに済んだ。
 両開きの扉の前に立ち、ルーカスは呼び鈴を叩き鳴らす。
 ややしてそれが開かれ、中から初老の男性が姿を見せた。ルーカスの背後に立つフィオナには気付いていない様子で、執事と思しき彼は訝しげな眼差しを注いできた。
 ルーカスが今身にまとっているものは、素材は上等だが派手な豪華さはない。不躾な視線がルーカスの頭の天辺からつま先まで一往復し、彼の顔に戻ってきたときにはあからさまに見下す色を含んだものになっていた。

「どちら様でしょう?」
 問いの形を取った慇懃な口調から漂うのは、拒絶だ。
「当屋敷はトラントゥール男爵家のものですが?」
 一歩たりとも入れさせんという風情で立つ男に、相手の素っ気なさはどこ吹く風でルーカスは愛想よく笑いかける。
「それなら間違いはありません。トラントゥール男爵にお会いしたくて訪ねてきました。末の娘さんのことで」

「え?」
 束の間、男の顔から一切の表情が抜け落ちた。その隙を逃さずルーカスは半分ほど身を引き、後ろにいたフィオナを彼の視界に入れる。
「彼女はこちらのお嬢様ではありませんか?」
 フィオナを見た瞬間、執事の顎がガクリと落ちた。そして次の瞬間、パッと扉の向こうに消える。
 一拍置いてバタンと荒い音を立てて閉まった扉に、フィオナが目をしばたたかせた。

「ルーカスさん……?」
 フィオナは不安そうに見上げてきたが、男の反応にルーカスはここに来たのは間違いではなかったと確信する。
「大丈夫、すぐにまた戻って来る」
 微笑みながらのルーカスのその台詞が終わらぬうちに、再び、先ほどよりも勢いよく、扉が開け放たれた。そうしたのは、やはり執事だ。

「どうぞ、こちらへ」
 ね? と見下ろすと、フィオナは困惑した面持ちを返してきた。
 ルーカスは彼女を先に入れ、その隣に並んで執事の後に続く。

 トラントゥールの屋敷は内装もやはり華美で押しつけがましく、派手なばかりで品がない。
 一般的には、こういうところに主の気風が反映される。
 この屋敷についてもそれが当てはまるのだとすれば、フィオナがこんなに繊細な少女に育ったのは奇跡に近いというものだ。今のフィオナにここで過ごした記憶はないとはいえ、それまでの日々が彼女という存在を作り上げたはずなのだから。
 いったいどんな『家族』が姿を現すことやらと思いつつ、ルーカスは廊下を進む。それとなくフィオナの様子を窺うと、まるで異世界にでもいるような顔をしていた。少なくとも、屋敷に足を踏み入れた途端に記憶が戻った、ということはないらしい。

 やがて執事が一枚の扉の前で立ち止まる。彼がそれを軽く叩くと、尊大な声音で中から返事があった。
「お客様をお連れいたしました」
 執事はそう告げ、扉を開ける。

 恐らく無意識のうちに、フィオナが一歩後ずさった。ルーカスが細いその背に手を当てると、ハッと彼女が彼を振り仰いでくる。
 大きく見開かれた深い海の色を映した青い目が、不安に揺れている。

「私が一緒だ」
 身を屈め、可愛らしい耳に口を寄せてそう囁くと、フィオナは微かに息を呑んだ。フルリと、華奢な肩が震える。
「行けるかい?」
 少し身を離し、再び彼女の目を見つめた。
 ここまで来て、もう引き返すことは難しい。
 だが、この土壇場でフィオナの気がくじけたのならば、ルーカスは全てをなかったことにして彼女をここから連れ去ってもいいと思った。

 目と目を合わせ、フィオナの心の内を探る。そして、彼女もまた、何かを求めるようにルーカスの目を見つめ返してきた。

 視線が絡み合ったのは、ほんの束の間のこと。

 フィオナの中で、何かが動いたのが見て取れた。

「大丈夫です」
 その一言と共に彼女は小さく頷き、華奢な顎を上げる。そうして、優雅な身のこなしで一歩を踏み出した。
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