悩める子爵と無垢な花

トウリン

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悪いオオカミ

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 フィオナの迷いをどう受け取ったのか、エミールが小首をかしげて彼女を覗き込んでくる。
「私が怖い?」
「え?」
 欠片も思っていなかったことを問いかけられて、フィオナは目をしばたたかせた。
 エミールは目を丸くしているフィオナの手をすくい取る。そしてそっとその甲をかすめるように唇を触れさせた。
「大丈夫、触れるのはこのくらいまでだから。あなたは安全だ」
 屈託のないエミールの笑顔につられて、フィオナの唇にも笑みが浮かぶ。それを了承と受け取ったのか、エミールは取っていた彼女の手を握り締め、引いた。
「じゃあ、行こうか」
「あ……」
 フィオナに拒む隙を与えず歩き出した――出そうとしたエミールの足が、方向転換をしたところで止まる。
 一拍遅れてエミールと同じ方に向いたフィオナは、彼が動きを止めた理由を目にして、小さく息を呑んだ。

 先ほどエミールがフィオナに対してそうしていたように道を塞ぐようにして立っているのは――

「ルーカスさん……」
 室内の灯りを背にしているから、彼の表情は見えにくい。けれど、フィオナがその名を口にしたことで淡い微笑を浮かべたことは見て取れた。
「探したよ、フィオナ。ダメじゃないか。言ったはずだよ、私の目が届くところにいるように、と」

 怒っている。

 優しく穏やかな声にも拘らず、フィオナにはそれが伝わってきた。まるでいくつもの細い針で突かれているかのように、肌がピリピリと痛む気がする。

「ごめ――」
「こちらにおいで」
 謝罪すら許さず、ルーカスが命じた。
 刹那、鞭で打たれた仔馬のように、フィオナはピクリと肩を跳ねさせる。その拍子に、彼女の手を捉えていたエミールの手が解けた。

 すぐさま、ほとんど駆け足でフィオナはルーカスのもとに向かう。
 ルーカスはフィオナが手の届くところに辿り着くなり、彼女の腰に手を回して自分の脇に引き寄せた。腰に絡んで締め付けてくる彼の腕の力は苦しいほどだ。
 その力の強さからルーカスの怒りのほどが伝わってきて、フィオナはおずおずと彼を見上げる。けれど、銀灰色の眼差しは彼女に応えることはなく、射殺しそうなほどの鋭さをもってこの場にいるもう一人へと向けられていた。

「彼は、どちらの方だい?」
 フィオナに一瞥もくれず、ルーカスが問うてきた。
 いつものように穏やかであるにも拘らず、底にひんやりとしたものを感じさせるその声に、フィオナは口ごもりながら答える。
「エミール・ラクロワさまです。わたくしを、心配してくださって……」
「そう。それはありがとうございました。私はルーカス・アシュクロフトと申します。フィオナの――お目付け役のようなもので。彼女がお手を煩わせてしまったようで申し訳ありません」
 にこやかな声でそう言ったけれども――やはり、その眼は「にこやか」とは程遠いものだった。

 見据えるルーカスを束の間見返し、エミールが笑みを浮かべる。彼のそれもまた、先ほどまでフィオナに向けていた温かなものとはどこかが違っていた。
「いや、私も楽しい時を過ごさせてもらった。実は、彼女とは以前にも会っていてね、残念ながら私のことは思い出してもらえなかったが……そこは、まあ、過去よりもこれから新たなものを築いていけばいいだけだ。そうだろう、フィオナ?」
 親しげな口調でエミールがフィオナに呼びかけた。と、ルーカスの手にいっそう力がこもる。
 エミールとルーカスはどちらも微笑みを浮かべて視線を交わしているけれど、それがぶつかるところで火花が散っているように見えるのは、フィオナの気のせいだろうか。

 オロオロしながら二人の間で視線を行き来させるフィオナをよそに、会話が進む。
「フィオナはまだ病み上がりですので、基本的には安静が望ましいと医師から言われております」
(え?)
 フィオナは目を丸くしてルーカスを見上げた。
 そんなことは一言も言われていない。
 というよりも、医者の診察など、フィオナは受けていない。そもそも、熱病自体が嘘なのだし。
 けれども真実など知らないエミールはルーカスの言葉に小首をかしげ、そして笑顔になる。
「そうかい? じゃあ、馬車での散歩にしようか。あるいは、観劇とかね。ゆっくりできるように個室を用意させよう」
 物言いは飄々としているが、エミールは自分の望みを引き下げる気はなさそうだ。
 そっと窺うと、ルーカスはわずかに目を細めてエミールを見据えていた。そんな眼差しをしているとフィオナの知る彼ではないように思われて、知らず肩が強張った。と、それが伝わったのか、ルーカスの視線が落ちてくる。

 フィオナと目が合った瞬間にルーカスはそれまでの険しさを綺麗に拭い去って、彼女に微笑みかけてきた。それが見慣れた笑顔だったから、フィオナはホッとして彼に笑み返す。そんな彼女に、ルーカスは眉尻を下げていっそう表情を和らげた。
 そこに、軽い声が割り込んでくる。

「さて、では、フィオナのお迎えも来たことだし、私はそろそろ失礼しようと思うのだが」
 見れば、エミールは、愉快そうに片眉を上げてフィオナたちを眺めていた。
「ああ、私たちが邪魔でしたね。どうぞお通りください」
 ルーカスがフィオナの肩に手をのせ、エミールが通れるようにと彼女をどかす。ルーカスと並ぶ形で手すり沿いに立っても、フィオナの肩を包み込むように置かれた彼の手はそのままそこにとどまった。

 エミールはゆったりとした足取りでフィオナたちの方へと向かってくる。そのまま通り過ぎるかと思われた彼は、フィオナの前まで来てふと足を止めた。
「?」
 首をかしげて見上げるフィオナを、エミールはジッと見つめ返してくる。肩に置かれたルーカスの手に力がこもり、気持ち、彼に引き寄せられた。
 あまりにまじまじと視線を注がれフィオナが気詰まりになりかけた時、エミールがふわりと笑った。そうして流れるような動きでフィオナの手を取り、そこに、先ほどと同じように口付ける。
「またね」
 覗き込むようにしてフィオナと目を合わせてそう残し、エミールは室内へと戻っていった。

「……彼とはどのくらい一緒にいたの?」
 エミールの背を見送っていたフィオナは、低い声でそう問われ、ルーカスを振り返る。
「わたくしがここに来てすぐに、あの方も来られて……」
「なら、そこそこの時間になるわけだ」
 呟きには、不穏な響きがあった。
 エミールの為に何か言わなければと思ったけれど、フィオナが口を開くよりも先にルーカスが厳しい眼差しを向けてくる。

「君はどうして私の言うことを守らなかったんだ? 目が届くところにいるようにと言っただろう」
「ごめんなさい……」
 悄然とうな垂れたフィオナに、ややして、ルーカスはため息をこぼした。
「まったく。こういう場所には、ろくでもない男が腐るほどいるんだ。彼はたまたまそうではなかったようだが、警戒心を持たないとあっという間に餌食になってしまう。これからは、絶対に男と二人きりになってはいけないよ?」
「はい」
 殊勝に頷いたフィオナに、またため息が届く。
「本当に、大げさに言っているわけではないからね。悪いオオカミというものは、そこかしこにいるものなのだから」
 フィオナはそこで目を上げた。
「あの方は――」
「悪い人ではない、と? こんな短い時間しか言葉を交わしていないのに、何を根拠にそう言い切れるんだい?」
「それは……」
 ない。
 ルーカスに似た雰囲気と、ケイティに似た瞳をしていたというだけでは、彼が信頼に足る人物だという証拠にはなり得ないだろう。

 反論できずにうつむいたフィオナの顎を、ルーカスがそっと持ち上げる。
「君にかかったら、『悪い人間』など滅多にいなくなってしまう。盗人にも飲んだくれて暴れた男にも、何かしらそうせざるを得なくなった理由とやらを見つけるのだからな、君は。でも、いいかい? 間違っても、男が皆、警邏隊の面々のようだと思っていてはいけないよ。基本的には、男はみんなオオカミだ。隙を見せてはいけない」
「あの方も、同じようなことをおっしゃっていました」
 だから、やっぱり悪い人ではないのではないだろうか。
 おずおずと言ってみると、ルーカスは眉間にしわを寄せてフィオナを見下ろしてくる。そして、三度目のため息をつかれた。

「少しやり方を間違えたかな……まあ、それが君なのだから、仕方がないか」
 諦め混じりの声でそう呟き、ルーカスはフィオナの顎を支えていた手を滑らせて、彼女の頬を包み込む。
「まったく、諸々、面倒なことになったものだ。後悔先に立たずとはこのことだな」
 低い声での呟きが、ルーカスの口からこぼれた。
 パッと顔を上げると彼と眼が合って、苦笑と半々の微笑みが返ってくる。
 言葉だけ聞けばフィオナに愛想を尽かしたとも取れそうなのに、その声の調子も、触れてくる手も、微笑みも、どれもとてもとても優しくて、彼女は、その呟きをどう受け止めればいいのか判らなかった。
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