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8〈過去 首謀者と呼ばれた少年 視点〉

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 左目が熱い。
 左目だけがものをうつす。
 耳が聞こえないのに、周りの人達が何かを話している姿が見える。
――ああ、血が欲しい。
 怖いな。
 何を言っているのだろう。
――血の塊がたくさんある。
 僕のこと?
 景虎もいる。
 ううん。
 彼の本当の名前は別にあるんだ。
 僕には嘘をついていた。
――喉が渇いた。喉が……渇いたよ。
 本当の名前を、僕に呼ばれるのが、嫌だったんだ……。

 全身が熱い。
 痛くて、熱くて、痛くて、辛い。
――誰でもいい。僕を殺して。血が足りない。このままじゃ、僕は。だから、殺して。
 食べていないから、指を動かすのも、きつい。
 死にたいな。
 憎しみを受けとめるだけに生きることは、とても苦しいんだ。
 何も考えられなくなるんだ……。
――僕が僕じゃなくなってしまう前に。早く。
 早く、ここじゃないどこかに、逝きたい。

 周りの人達は、僕がみんなを騙したって言う。
 それこそ、いがみ合っていた人達がみんな、僕を憎むことで団結している。
 おかしくもないのに、笑ってしまいそうで、それなのに、どうしてか、笑う代わりに涙が溢れるんだ。

 幼い頃から、景虎と名乗る男が傍にいた。
 彼は、僕の家族が盗賊に襲われていたところに出くわし、助けたのだと、何度も説明した。家族の中で、僕だけが唯一、生き残った。だから、連れて帰ったのだ、と。
 これもきっと嘘だ。僕の家族は生きていた。でも、その時、僕は小さかったし、繰り返し話されたから、曖昧な記憶が塗り替えられちゃって、その男の言ったことが、僕の本当になったんだ。

 その人は、僕を愛していると耳がこそばくなるくらい、囁いた。
 愛しているから、〈希望〉という花言葉を持つ〈雪の涙〉をプレゼントさせて欲しい。
 その人は微笑んで、〈雪の涙〉を、僕のお皿にだけ盛ってくれた。
 これは特別なんだよ。愛する君にだから、食べてもらいたいんだ。
 とっても優しい笑顔で、その人は、僕に毒を与え続けた。

 その人は僕が文字を学ぶことを否定した。
 同じ歳の子がしているような計算や歴史の勉強も、しなくて良いと言った。
 自分が補うから、そんなことを記憶する必要はない。
 僕は彼を信じ、彼の望むままに行動した。
 だから、僕は今でも、文字が読めないし、初等教育を受けている子ができる簡単な計算も、できない。
 もし、僕が文字を読めたなら、知りたいな。
〈雪の涙〉の花言葉が、本当に〈希望〉なのかどうか。
 一つでも、彼が言ったことに、本当があったなら、それだけで、僕はとても嬉しいんだ。

 ねえ、僕を嫌いな、あなた。
 あなたは覚えているかな?
 僕は突然、治癒の力が使えるようになったね。
 その力を見て、あなたは僕を選ばれた人間だと誇ってくれた。
 あなたの生まれた国には、そういう伝説が残っているって話してくれたんだよ。
 あなたの故郷は雨がほとんど降らない、荒れた土地だったから、人々を癒したり、枯れかけた農作物を甦らせる治癒の力を持つ人は、神様にも等しいんだよね。
 あなたは僕を選ばれた者として担ぎ上げた。
 神様にも等しい僕がいるから、あなたは軍事大国である隣の国との戦いに、今なら勝てるって、出会う人々に言った。
 多くの人が共感してくれたね。
 あなたの言葉を、そして、僕の治癒の力が選ばれた力だって、信じてくれた。
 みんな、良い人達だった。
 僕達は大きな戦力を持つ、隣の国と互角に戦ったね。
 たくさんの人達が苦しみながら、仲間を守るための、人を殺す武器を作り、使った。
 僕は傷ついた人達をできる限り、治した。
 怪我をしても、治ることが当たり前になっていたね。
 だから、僕の力が弱まると、傷ついた人達は、裏切られたって顔をした。あなたは謝りながら、僕の腕に刃を当てたんだ。僕が力を使えなくなっても、体液は有効だったから。
 切るところが少なくなってきた頃、あなたは僕に大量の〈雪の涙〉を食べさせた。そうしたら、また治癒の力を使うことができるようになった。戦うことを諦めかけていた人達は、とても喜んでくれた。
 文字が読めない僕にだって、わかったよ。
 僕の治癒の力は選ばれた人間だから現れた力じゃなくて、〈雪の涙〉を食べていることで得た力なんだって。

〈雪の涙〉をたくさん、たくさん体に浸透させたことで、僕は生き物の血がないと、意識を正常に保てなくなってきた。
 あなたも予想しなかったことだったんだよね。驚いていたの、知っていたよ。
 あなたは自分のために、僕に血をくれた。
 そうしたら、わかっちゃったんだ。
 あなたが僕を愛していないこと。
 あなたの血が、あなたの過去を教えてくれた。
 僕はね。
 悪夢だと思いたくて、あなたの真実から目を背けた。
 愛されているって思いたかったんだ。
 嘘でも、嘘が暴かれる前に死んじゃえば、僕にとっては、嘘も本当のまま終わらせることができるでしょ?

 ああ、血が足りない。
 頭の中が血のことだけになってしまう。
 血が欲しい。
 喉の乾きがなくなるくらいの、血が。
 あれ?
 口一杯に、甘い味が広がってく。
 喉が勝手に動く。
 頭の中に、映像が流れ込んでくる。
 景虎と名乗った、僕が大切だった人の記憶だ。
 嫌だ!
 これ以上は嫌だ!
 嫌なのに、口にあった血を全部、飲み込んでしまった。
 本当は吐き出したかったのに。

 なに?
 どうして、僕が起きたら、嬉しそうにするの?
 あなたは僕が嫌いなのに。
 その皿にのった食べ物は、どういうつもり?
 今まで、僕がどんなに食べたいと言っても、目も合せてくれなかったくせに。
 僕に生きていて欲しいの?
 僕が生きていたら都合がいいから?
 あなたの左目は、どうして包帯が巻かれているの?
 また、戦いが始まったの?
 だから、僕が必要になった?
 血を供給するために腕を切ってまでして、僕を生かし、働かせたかった?
 僕はもうボロボロだよ?

 そっか。そうだったね。
 あなたは僕がどうなろうと、どうでもよかったっけ。

 ほら、あなたは何も言わずに、牢屋の扉に鍵をかけて去って行く。
 僕はもう、戦いのための便利な道具にされるのは、ごめんだ。
 あなたは誤解している。
 僕にだって、心がある。
 あなたがみんなの戦争への憎悪を、僕になすりつけたあの時だって、僕は心を持っていた。

 あなたは、僕達の仲間や隣の国の人達に、たくさんの犠牲が出て、戦況も停滞していたのを目の当たりにして、僕達に隣の国へ停戦を申し入れようって言い出した。
 僕達はあなたを信じ、隣の国と荒野で対峙したんだ。それぞれの後ろには、その国の兵士が控えていた。
 僕はあなたと、そして相手の国は王と彼の信頼する騎士が、中央に出た。停戦協定が結ばれれば、戦わなくてよくなる。僕はあの時、未来に光りを見ていた。
 あなたや仲間が傷つくこともなくなる。あなたや仲間が、守りたいもののために、誰かを傷つける必要もなくなる。それはどんなに幸せなことだろうって。

 あなたが僕を足蹴にし、僕の喉元に剣を当てるまで、そんな呑気なことを考えていたんだ。
 あなたは驚く人達に言ったね。
 今回の戦争を仕組んだのは、僕だって。
 僕の治癒の力は〈雪の涙〉によるものだって。
 自分もまんまと騙されたって。
 戸惑う人達の中に、何人か賛同する人がいて、声をあげたよね。
 あれは、あなたが用意した人だった。
 後から知って、僕は心を殴られたみたいに落ち込んだっけ。
 あなた達の言葉は巧みだった。
 疲れ、心が傷ついていた人達は、悪意の標的を示され、それに向かって矛を向けた。
 あなたは僕が仲間に殺されかけても、傍観していたね。

 足音がする。
 今度は集団のお出ましだ。
 やっぱり、あなたもいるんだね。
 腕は手当してもらったんだ。
 あなた以外は、聴診器を首にかけているから、医療に携わる人達で、ようするに、武術にとんでいるわけではない。今しかない。
 あなたからの血は力になったよ。
 ここから逃げ出すためには、充分なほど。

 狭く暗い牢屋から夜空へと飛び出す。
 細い手足が動くことを喜んでいる。
 綺麗な夜空。
 星が輝いている。
 空気がおいしい。
 景色がどこまでも続いている。
 森へと駆け入る。
 素足が土や枯れ葉を感じる。
 生きている。
 涙が流れた。
 帰る場所がなくても、僕は生きていたいんだ。
 たとえ、誰からも愛されなくても、生きていたい。
 だって、世界はこんなにも美しい。

 骨が浮き出た腹部の奥が、熱くなる。
 そよぐ風が心地よくて、足を止めた。
 追っ手は来ない。
 僕は自由だ。
 懐かしい香りが、鼻孔をかすめる。
 振り返るなと僕の体のどこかが、警告を鳴らしたのに、僕は首をそちらへと向けてしまった。

〈雪の涙〉が辺り一面に咲いていた。
 風が吹くたび、白い花が揺れ、香りが濃くなる。
――死ね。
 揺らぐ花の数だけ、その声が大きく、重なっていく。
「死ななきゃ」
 違う。僕は。
 抗おうとするのに、足が〈雪の涙〉を目指す。
――苦しめ。
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。誰か。僕を止めて。
 僕は土に膝をつけると、白い花をむしり取り、口へ入れた。
 葉で手が切れて、繊維を上手に飲み込めないのに、次から次へと無理矢理、花を詰め込んでいく。
 苦しいのに、やめられない。
 悲しいはずなのに、涙が出ているのに、僕の顔は笑っている。

〈雪の涙〉を食べ過ぎて、お腹が痛い。
 昔から食べていたことも祟ってか、毒が許容量を超えたのだろう。血を吐いた。吐いても吐いても、まだ出てくる。
 よろよろと歩いていくと、真ん中に大きな岩がある池に行き着いた。
 水面に、月が映っている。
 惹きつけられるように、池に足を入れた。
 冷たい。
 そうだ。水は冷たいんだった。
 再発見だ。でも、そうだったんだって思えることが嬉しくて、つい、口元が緩んでしまう。ふと、自分の左目が、本来の水色ではなく、黄色であることに気づいた。

 どうして、景虎と同じ色……?
 そういえば、あなたは左目を包帯で覆っていた。
 まさか、この目はあなたの?

 衝撃が前方から体を貫き、その先に浮かんだ想いを離散させた。
 けど、傾く身体を持ち直して、池を歩く。
 水が波打っている。
 赤い波だ。
 追っ手は来てないはずなのにな。
 今度は上から痛みが走った。
 視界がかすみ、意識が飛ぶ。
 足が意思を持ったように、僕を大岩まで運ぶ。そして、僕は力尽きた。
 何も映らないはずの瞳が、何も聞こえないはずの耳が、人々の歓声を見聞きしていた。
 僕は空から、僕の体をなぶる人達を眺めていた。
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