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順調の罠
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1
「これも真琴に頼んでいい?」
榊原の声が、右から来た。
同時に、画面の左下でチャットの通知が光った。別部署の担当者からだった。「急ぎで確認したいのですが」。
真琴の口が開いた。「はい」が喉の入口まで上がってきた。反射だった。頼まれたら受ける。受けたら処理する。処理したら評価される。その回路が、もう体に焼きついている。
「はい」が唇に触れる直前に、報告書の文字が脳の裏側で光った。
「断れずに引き受けて疲弊する」。
口を閉じた。
---
2
昨夜に戻る。
封筒を開けたのは、二十時三分だった。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 事象:断れずに引き受けて疲弊する
> 備考:発生する
「断れずに」。
その四文字が、真琴の輪郭をなぞった。正確に。丁寧に。真琴という人間の形を知っている四文字だった。
断れない。頼まれたら受ける。受けたほうが安全だから。断ったら空気が変わる。断ったら「できない人」になる。断ったら──恥をかく。
昨日の報告書が、ここに繋がっている。「恥をかく」を避けるために挑戦を降りた。降りたら「賢い」と言われた。でも今日の報告書は、受けることが失敗だと言っている。
断ることも失敗。受けることも失敗。あの出口のなさが、そのまま帳票の文字になっていた。
ノートを開いた。ページの真ん中に線を引いた。左に「×」、右に「○」。前にもやった。言い訳を矯正した夜と同じやり方だった。
左側。
「大丈夫です、やります」×
「はい、引き受けます」×
「私がやったほうが早いので」×
右側。
「今は難しいです」○
「優先順位を確認します」○
「明日以降でもいいですか」○
書きながら、気づいた。右側の言葉は、全部「相手を傷つけない断り方」だった。空気を壊さない断り方。
回避の回避。断ることすら、回避の技術で処理しようとしている。
ペンを置いた。封筒をテーブルの上に重ねた。角を合わせた。揃えると、胸の圧が少しだけ下がった。
まだ効く。この儀式は、まだ効く。
---
3
火曜日の朝。
九時十五分。朝会が終わった直後から、依頼が来た。
最初は榊原だった。
「来週の部長報告の資料、真琴にベースを作ってほしい。金曜までに」
「承知しました」
これは受けられる。資料作成は真琴の範囲内だ。数字を整え、構成を組み、文面を磨く。チェックリストで潰せる仕事。
二本目は、チャットで来た。別部署の企画担当から。
「CS側のデータ、至急で抜き出してもらえますか。午後の会議で使いたいんです」
至急。午後。今から三時間半。
三本目は、真央だった。
「真琴、ごめん。クレーム案件の通話ログ、整理してもらっていい? 今日中に先方に送りたくて」
三つの依頼が、十五分の間に積み上がった。
真琴の胃の底に、冷たいものが溜まった。三つとも受けたら、今日一日が全部埋まる。昼食を取る時間もなくなる。夕方には頭が回らなくなる。疲弊する。報告書の通りになる。
ノートの右側が頭に浮かんだ。「○」の列。
---
4
真琴は、別部署の企画担当に返信した。
「データの範囲を確認したいのですが、全件ですか、それとも直近三ヶ月分ですか。範囲によっては午後の会議には間に合わないかもしれません」
返信は二分で来た。
「直近三ヶ月で大丈夫です。間に合わなければ明日朝でも」
至急ではなかった。至急という言葉の圧に、真琴は一瞬で反応しかけた。でも確認した。確認したら、余白が出た。
企画担当のデータは明日朝に回す。真央の通話ログを午前中に片付ける。榊原の資料は今日から着手して金曜に仕上げる。
優先順位を組み替えた。三つの依頼を三つとも受けるのではなく、一つの期限をずらした。
空気は壊れなかった。企画担当からは「助かります」と返ってきた。全員が満足した。
胸の奥で、正しい場所に戻ったような快感があった。
疲弊していない。報告書の予言は回避できた。優先順位を確認し、期限を調整し、自分の容量の中に仕事を収めた。正しい。賢い。何も壊していない。
──なのに、快感が消えた後に、いつもの冷たさが来た。小さな冷たさ。回避に成功したときに必ず来る、あの感覚。
---
5
午前中。
真央の通話ログを整理した。タイムスタンプ順に並べ、発言者を色分けし、要点を三行以内に要約した。手が自動で動いた。
整理しながら、ログの中身を読んだ。
真央がクライアントと話している。声のトーンはわからない。テキストだけだ。でもテキストの中に、真央の呼吸が見えた。
「──おっしゃる通りです。こちらの確認が遅れたのは事実です」
謝罪。真央が先に謝っている。事実を認めて、頭を下げている。
「──ただ、今後の対応として、三つ提案させてください」
謝った直後に、提案に切り替えている。間がない。謝罪と提案の間に、沈黙がない。
真琴なら、謝罪の後に沈黙を置く。相手の反応を待つ。安全を確認してから次の言葉を出す。
真央は待たない。謝って、すぐ前に出る。前に出るから、噛む。言い直す。修正しながら進む。
ログの中盤に、こんなやりとりがあった。
「──えっと、すみません、数字が手元にないんですが──」
真央が詰まっている。数字を持っていなかった。準備が足りなかった。
「──すぐ確認して折り返します。十分いただけますか」
十分で確認する、と約束した。約束して、折り返して、数字を出した。
真琴なら、数字がない状態で通話には入らない。入る前に確認する。確認が終わるまで電話をかけない。かけないから、詰まらない。詰まらないから、恥をかかない。
でも真央は電話をかけた。詰まって、謝って、折り返して、最終的に相手の要望を三点にまとめた。
真琴はそのログを、タイムスタンプ順に、色分けして、要約した。
整理する側にいる。整理は得意だ。得意だから、ここにいる。
ここに、しかいない。
---
6
十二時。昼休み。
真琴は弁当箱を開けた。鮭とほうれん草と卵焼き。きれいに詰めてある。
真央は席で、コンビニのサンドイッチを片手に、クライアントへのメールを打っていた。食べながら仕事をしている。真央の時間には、仕事と食事の境界がない。
真琴の時間には境界がある。全部区切られている。区切られているから、はみ出さない。はみ出さないから、壊れない。
でも区切りの中に入れられるものは、区切りの大きさまでだ。
十三時。チームチャットに通知が入った。榊原から。
「来週の部長報告、説明は真央に任せようと思う。クレーム案件のリーダーだし、直接説明したほうがいい。真琴は資料作成をそのまま頼む」
資料を作るのは真琴。説明するのは真央。
資料は裏方だ。数字を整え、構成を組み、見やすく磨く。説明は表舞台だ。部長の前に立ち、声で伝え、質問に答える。
資料を作った人間は、誰にも見えない。説明した人間が、実績になる。
「承知しました」
返信した。丁寧で、正しくて、一秒も遅れなかった。
---
7
十五時。
チャットの通知が光った。高瀬慎。
「お疲れさまです。先日の件、確認取れたので共有します」
用件だった。真琴は内容を確認し、「ありがとうございます、問題ありません」と返した。
十五秒後。
「あと──」
この「あと」を、真琴はもう知っていた。用件の後に来る、境界の外側の一行。
「"落ち着いたら"って前に言ってましたけど、候補日出していいですか。30分だけ、声で話したくて」
真琴の指が止まった。
「候補日」。高瀬は待つのをやめた。待つのをやめて、でも押してはいない。「出していいですか」は許可を求めている。出してほしくないなら断れるように、質問の形にしている。
高瀬の優しさが、ここにある。押さない。でも引かない。
真琴の胸の中で、二つの温度がぶつかった。
温かさ。高瀬の声を聞きたかった。30分だけでも。「大丈夫です」ではない言葉を、声に乗せて届けたかった。
冷たさ。声で話したら、文面のように推敲できない。言葉が生のまま出る。間違える可能性がある。
冷たさが勝った。いつも冷たさが勝つ。
「ありがとうございます。今週はちょっと立て込んでいて──来週あたり、調整させてください」
送った。
送信した瞬間だけ、胸の奥の圧がふっと抜けた。
「来週あたり」。「来週」ではない。「あたり」がついている。「あたり」は逃げ道だ。断ったわけじゃない。断れない代わりに、先送りにした。
高瀬から返信。
「了解です。来週、こちらから聞きますね」
高瀬は「あたり」を受け取って、「こちらから聞く」と言った。真琴の逃げ道を塞がずに、でも忘れないと伝えた。
画面を閉じた。指先が冷えていた。でも冷えた指先の奥に、かすかな温度が残っていた。「来週」。来週は来る。来週が来たら、高瀬が聞いてくる。
答えを先送りにした。先送りも、回避の一形態だった。
---
8
十七時。
今日一日を振り返った。
疲弊していない。報告書の予言は回避した。
でも今日、真琴の手元に残った仕事を並べてみると──
通話ログの整理。資料のベース作成。データの抜き出し。
全部、整えるタイプの仕事だった。確認し、並べ、磨く。判断がいらない。正解がある。正解を出せば終わる。
判断が必要な仕事は、全部他の人に流れた。企画担当への説明。クレーム案件の方針判断。部長への報告。全部、真央か誰かがやっている。
真琴は資料を作る。裏方の、整える仕事。
それが真琴の「範囲」になっていた。
範囲は狭い。でも安全だ。範囲の中にいれば、失敗しない。失敗しないから、恥をかかない。評価が落ちない。
評価は落ちない。でも、上がらない。
上がらないことの痛みが、一日ごとに深くなっている。
---
9
十八時。
帰り支度をしていると、チームチャットに通知が来た。真央から。
「クレーム案件の初動対応、先方から"迅速で助かった"とフィードバックいただきました。引き続きよろしくお願いします」
迅速で助かった。
数字がなくて詰まった通話。謝って、折り返して、十分で確認した通話。あの通話が「迅速」と評価された。
真琴なら絶対にしないミスを、真央はした。したのに、結果として「迅速」と言われた。
真琴が作った通話ログの整理は、誰の目にも触れない。チャットで共有されるのは真央の名前だった。
苦い。
苦いという感情が、胃の底から上がってきた。嫉妬ではない。嫉妬ならもっと熱い。これは冷たい苦さだった。自分が選んだ場所にいる苦さだった。
自分で降りた。自分でサポートに回った。誰に強制されたのでもない。
真琴が選んだ。選んだ結果、ここにいる。
---
10
帰宅は十九時四十五分。
ポストに白い封筒が一通。
部屋に戻って、封を切った。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 事象:判断が遅れてチームに迷惑をかける
> 備考:発生する
「判断が遅れて」。
また判断だ。数字の確認ではない。名前の練習ではない。判断。自分で考えて、自分で決めて、自分で出す。それが「遅れる」と書いてある。
封筒を他の封筒の上に重ねた。角を合わせた。
もう何通目かわからない。最初の一通は9:12のチャット誤送信だった。あのときは、準備すれば回避できた。報告書が求めるものが、毎回大きくなっている。具体的なものから抽象的なものへ。チェックリストで潰せるものから、潰せないものへ。
判断の速さは、経験から来る。経験とは、やったことがあるということだ。やったことがあるから、次にどうすればいいかわかる。わかるから、速い。
真琴には経験がない。
判断の必要な仕事を、全部避けてきたからだ。全部他人に渡してきたからだ。安全な範囲にいたから、判断の経験がない。経験がないから、判断が遅い。遅いから、チームに迷惑をかける。
これが──利息だ。
報告書により回避し続けた結果、積み上がらなかった経験値。その不足が、請求書として届いている。
利息は、時間で来る。
ノートを開いた。ペンを持った。「判断を速くする方法」。書けるのか。判断はチェックリストではない。テンプレートではない。「×」と「○」の列では矯正できない。
判断は、やってみないと身につかない。
やってみる。それは、失敗する可能性に踏み込むということだ。
ペンを置いた。
---
11
その日の夕方。
退勤間際に、チームチャットに真央の名前で投稿があった。
「クレーム案件、先方との合意取れました。契約継続+追加サポートの提案を受けていただきました。チームのサポートのおかげです、ありがとうございます!」
契約継続。追加サポート。
真央が取った。リーダーとして引き受けて、電話をかけて、謝って、提案して、合意を取り付けた。
「チームのサポートのおかげ」。真琴が整理した通話ログも、その「サポート」に含まれている。含まれているけど、名前は出ない。
榊原がチャットに反応した。「よくやった」。西園寺がスタンプを押した。
真琴は画面を見つめた。
西園寺が席に来た。コーヒーを持っていた。穏やかな顔をしていた。
「綾瀬さん、今回もサポートありがとう。資料、すごく助かった」
「いえ」
「あなたは安定枠だね」
西園寺は笑った。悪意はなかった。純粋な感謝と、純粋な評価だった。安定枠。安定していて、枠に収まっている人。ミスがなくて、波がなくて、いつも同じ品質を出せる人。
真琴も笑った。空気を壊さないために。
「ありがとうございます」
声は平らだった。
西園寺は去った。
真琴は画面に向かった。榊原の資料を整えていた。数字を確認し、構成を磨き、文面を推敲していた。得意な仕事だった。正解のある仕事だった。
「安定枠」。
その三文字が、胸の中で鍵の音を立てた。カチリ、と。小さな音だった。何かが閉まった音だった。何かが固定された音だった。
枠。枠の中にいれば安全だ。失敗しない。恥をかかない。空気を壊さない。
枠の中からは、出られない。
出なくていい。出る必要がない。今のままで十分だと、西園寺は言った。
十分。
十分とは、それ以上はいらないということだ。
真琴は資料の数字を確認した。確認マークを入れた。赤いペンで、5ミリの均一な線を引いた。正確だった。
正確で、安定していて、枠に収まっている。
封筒のように。
「これも真琴に頼んでいい?」
榊原の声が、右から来た。
同時に、画面の左下でチャットの通知が光った。別部署の担当者からだった。「急ぎで確認したいのですが」。
真琴の口が開いた。「はい」が喉の入口まで上がってきた。反射だった。頼まれたら受ける。受けたら処理する。処理したら評価される。その回路が、もう体に焼きついている。
「はい」が唇に触れる直前に、報告書の文字が脳の裏側で光った。
「断れずに引き受けて疲弊する」。
口を閉じた。
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2
昨夜に戻る。
封筒を開けたのは、二十時三分だった。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 事象:断れずに引き受けて疲弊する
> 備考:発生する
「断れずに」。
その四文字が、真琴の輪郭をなぞった。正確に。丁寧に。真琴という人間の形を知っている四文字だった。
断れない。頼まれたら受ける。受けたほうが安全だから。断ったら空気が変わる。断ったら「できない人」になる。断ったら──恥をかく。
昨日の報告書が、ここに繋がっている。「恥をかく」を避けるために挑戦を降りた。降りたら「賢い」と言われた。でも今日の報告書は、受けることが失敗だと言っている。
断ることも失敗。受けることも失敗。あの出口のなさが、そのまま帳票の文字になっていた。
ノートを開いた。ページの真ん中に線を引いた。左に「×」、右に「○」。前にもやった。言い訳を矯正した夜と同じやり方だった。
左側。
「大丈夫です、やります」×
「はい、引き受けます」×
「私がやったほうが早いので」×
右側。
「今は難しいです」○
「優先順位を確認します」○
「明日以降でもいいですか」○
書きながら、気づいた。右側の言葉は、全部「相手を傷つけない断り方」だった。空気を壊さない断り方。
回避の回避。断ることすら、回避の技術で処理しようとしている。
ペンを置いた。封筒をテーブルの上に重ねた。角を合わせた。揃えると、胸の圧が少しだけ下がった。
まだ効く。この儀式は、まだ効く。
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3
火曜日の朝。
九時十五分。朝会が終わった直後から、依頼が来た。
最初は榊原だった。
「来週の部長報告の資料、真琴にベースを作ってほしい。金曜までに」
「承知しました」
これは受けられる。資料作成は真琴の範囲内だ。数字を整え、構成を組み、文面を磨く。チェックリストで潰せる仕事。
二本目は、チャットで来た。別部署の企画担当から。
「CS側のデータ、至急で抜き出してもらえますか。午後の会議で使いたいんです」
至急。午後。今から三時間半。
三本目は、真央だった。
「真琴、ごめん。クレーム案件の通話ログ、整理してもらっていい? 今日中に先方に送りたくて」
三つの依頼が、十五分の間に積み上がった。
真琴の胃の底に、冷たいものが溜まった。三つとも受けたら、今日一日が全部埋まる。昼食を取る時間もなくなる。夕方には頭が回らなくなる。疲弊する。報告書の通りになる。
ノートの右側が頭に浮かんだ。「○」の列。
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4
真琴は、別部署の企画担当に返信した。
「データの範囲を確認したいのですが、全件ですか、それとも直近三ヶ月分ですか。範囲によっては午後の会議には間に合わないかもしれません」
返信は二分で来た。
「直近三ヶ月で大丈夫です。間に合わなければ明日朝でも」
至急ではなかった。至急という言葉の圧に、真琴は一瞬で反応しかけた。でも確認した。確認したら、余白が出た。
企画担当のデータは明日朝に回す。真央の通話ログを午前中に片付ける。榊原の資料は今日から着手して金曜に仕上げる。
優先順位を組み替えた。三つの依頼を三つとも受けるのではなく、一つの期限をずらした。
空気は壊れなかった。企画担当からは「助かります」と返ってきた。全員が満足した。
胸の奥で、正しい場所に戻ったような快感があった。
疲弊していない。報告書の予言は回避できた。優先順位を確認し、期限を調整し、自分の容量の中に仕事を収めた。正しい。賢い。何も壊していない。
──なのに、快感が消えた後に、いつもの冷たさが来た。小さな冷たさ。回避に成功したときに必ず来る、あの感覚。
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5
午前中。
真央の通話ログを整理した。タイムスタンプ順に並べ、発言者を色分けし、要点を三行以内に要約した。手が自動で動いた。
整理しながら、ログの中身を読んだ。
真央がクライアントと話している。声のトーンはわからない。テキストだけだ。でもテキストの中に、真央の呼吸が見えた。
「──おっしゃる通りです。こちらの確認が遅れたのは事実です」
謝罪。真央が先に謝っている。事実を認めて、頭を下げている。
「──ただ、今後の対応として、三つ提案させてください」
謝った直後に、提案に切り替えている。間がない。謝罪と提案の間に、沈黙がない。
真琴なら、謝罪の後に沈黙を置く。相手の反応を待つ。安全を確認してから次の言葉を出す。
真央は待たない。謝って、すぐ前に出る。前に出るから、噛む。言い直す。修正しながら進む。
ログの中盤に、こんなやりとりがあった。
「──えっと、すみません、数字が手元にないんですが──」
真央が詰まっている。数字を持っていなかった。準備が足りなかった。
「──すぐ確認して折り返します。十分いただけますか」
十分で確認する、と約束した。約束して、折り返して、数字を出した。
真琴なら、数字がない状態で通話には入らない。入る前に確認する。確認が終わるまで電話をかけない。かけないから、詰まらない。詰まらないから、恥をかかない。
でも真央は電話をかけた。詰まって、謝って、折り返して、最終的に相手の要望を三点にまとめた。
真琴はそのログを、タイムスタンプ順に、色分けして、要約した。
整理する側にいる。整理は得意だ。得意だから、ここにいる。
ここに、しかいない。
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6
十二時。昼休み。
真琴は弁当箱を開けた。鮭とほうれん草と卵焼き。きれいに詰めてある。
真央は席で、コンビニのサンドイッチを片手に、クライアントへのメールを打っていた。食べながら仕事をしている。真央の時間には、仕事と食事の境界がない。
真琴の時間には境界がある。全部区切られている。区切られているから、はみ出さない。はみ出さないから、壊れない。
でも区切りの中に入れられるものは、区切りの大きさまでだ。
十三時。チームチャットに通知が入った。榊原から。
「来週の部長報告、説明は真央に任せようと思う。クレーム案件のリーダーだし、直接説明したほうがいい。真琴は資料作成をそのまま頼む」
資料を作るのは真琴。説明するのは真央。
資料は裏方だ。数字を整え、構成を組み、見やすく磨く。説明は表舞台だ。部長の前に立ち、声で伝え、質問に答える。
資料を作った人間は、誰にも見えない。説明した人間が、実績になる。
「承知しました」
返信した。丁寧で、正しくて、一秒も遅れなかった。
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7
十五時。
チャットの通知が光った。高瀬慎。
「お疲れさまです。先日の件、確認取れたので共有します」
用件だった。真琴は内容を確認し、「ありがとうございます、問題ありません」と返した。
十五秒後。
「あと──」
この「あと」を、真琴はもう知っていた。用件の後に来る、境界の外側の一行。
「"落ち着いたら"って前に言ってましたけど、候補日出していいですか。30分だけ、声で話したくて」
真琴の指が止まった。
「候補日」。高瀬は待つのをやめた。待つのをやめて、でも押してはいない。「出していいですか」は許可を求めている。出してほしくないなら断れるように、質問の形にしている。
高瀬の優しさが、ここにある。押さない。でも引かない。
真琴の胸の中で、二つの温度がぶつかった。
温かさ。高瀬の声を聞きたかった。30分だけでも。「大丈夫です」ではない言葉を、声に乗せて届けたかった。
冷たさ。声で話したら、文面のように推敲できない。言葉が生のまま出る。間違える可能性がある。
冷たさが勝った。いつも冷たさが勝つ。
「ありがとうございます。今週はちょっと立て込んでいて──来週あたり、調整させてください」
送った。
送信した瞬間だけ、胸の奥の圧がふっと抜けた。
「来週あたり」。「来週」ではない。「あたり」がついている。「あたり」は逃げ道だ。断ったわけじゃない。断れない代わりに、先送りにした。
高瀬から返信。
「了解です。来週、こちらから聞きますね」
高瀬は「あたり」を受け取って、「こちらから聞く」と言った。真琴の逃げ道を塞がずに、でも忘れないと伝えた。
画面を閉じた。指先が冷えていた。でも冷えた指先の奥に、かすかな温度が残っていた。「来週」。来週は来る。来週が来たら、高瀬が聞いてくる。
答えを先送りにした。先送りも、回避の一形態だった。
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8
十七時。
今日一日を振り返った。
疲弊していない。報告書の予言は回避した。
でも今日、真琴の手元に残った仕事を並べてみると──
通話ログの整理。資料のベース作成。データの抜き出し。
全部、整えるタイプの仕事だった。確認し、並べ、磨く。判断がいらない。正解がある。正解を出せば終わる。
判断が必要な仕事は、全部他の人に流れた。企画担当への説明。クレーム案件の方針判断。部長への報告。全部、真央か誰かがやっている。
真琴は資料を作る。裏方の、整える仕事。
それが真琴の「範囲」になっていた。
範囲は狭い。でも安全だ。範囲の中にいれば、失敗しない。失敗しないから、恥をかかない。評価が落ちない。
評価は落ちない。でも、上がらない。
上がらないことの痛みが、一日ごとに深くなっている。
---
9
十八時。
帰り支度をしていると、チームチャットに通知が来た。真央から。
「クレーム案件の初動対応、先方から"迅速で助かった"とフィードバックいただきました。引き続きよろしくお願いします」
迅速で助かった。
数字がなくて詰まった通話。謝って、折り返して、十分で確認した通話。あの通話が「迅速」と評価された。
真琴なら絶対にしないミスを、真央はした。したのに、結果として「迅速」と言われた。
真琴が作った通話ログの整理は、誰の目にも触れない。チャットで共有されるのは真央の名前だった。
苦い。
苦いという感情が、胃の底から上がってきた。嫉妬ではない。嫉妬ならもっと熱い。これは冷たい苦さだった。自分が選んだ場所にいる苦さだった。
自分で降りた。自分でサポートに回った。誰に強制されたのでもない。
真琴が選んだ。選んだ結果、ここにいる。
---
10
帰宅は十九時四十五分。
ポストに白い封筒が一通。
部屋に戻って、封を切った。
> 失敗報告書
> 対象者:綾瀬真琴
> 発生日:明日
> 事象:判断が遅れてチームに迷惑をかける
> 備考:発生する
「判断が遅れて」。
また判断だ。数字の確認ではない。名前の練習ではない。判断。自分で考えて、自分で決めて、自分で出す。それが「遅れる」と書いてある。
封筒を他の封筒の上に重ねた。角を合わせた。
もう何通目かわからない。最初の一通は9:12のチャット誤送信だった。あのときは、準備すれば回避できた。報告書が求めるものが、毎回大きくなっている。具体的なものから抽象的なものへ。チェックリストで潰せるものから、潰せないものへ。
判断の速さは、経験から来る。経験とは、やったことがあるということだ。やったことがあるから、次にどうすればいいかわかる。わかるから、速い。
真琴には経験がない。
判断の必要な仕事を、全部避けてきたからだ。全部他人に渡してきたからだ。安全な範囲にいたから、判断の経験がない。経験がないから、判断が遅い。遅いから、チームに迷惑をかける。
これが──利息だ。
報告書により回避し続けた結果、積み上がらなかった経験値。その不足が、請求書として届いている。
利息は、時間で来る。
ノートを開いた。ペンを持った。「判断を速くする方法」。書けるのか。判断はチェックリストではない。テンプレートではない。「×」と「○」の列では矯正できない。
判断は、やってみないと身につかない。
やってみる。それは、失敗する可能性に踏み込むということだ。
ペンを置いた。
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11
その日の夕方。
退勤間際に、チームチャットに真央の名前で投稿があった。
「クレーム案件、先方との合意取れました。契約継続+追加サポートの提案を受けていただきました。チームのサポートのおかげです、ありがとうございます!」
契約継続。追加サポート。
真央が取った。リーダーとして引き受けて、電話をかけて、謝って、提案して、合意を取り付けた。
「チームのサポートのおかげ」。真琴が整理した通話ログも、その「サポート」に含まれている。含まれているけど、名前は出ない。
榊原がチャットに反応した。「よくやった」。西園寺がスタンプを押した。
真琴は画面を見つめた。
西園寺が席に来た。コーヒーを持っていた。穏やかな顔をしていた。
「綾瀬さん、今回もサポートありがとう。資料、すごく助かった」
「いえ」
「あなたは安定枠だね」
西園寺は笑った。悪意はなかった。純粋な感謝と、純粋な評価だった。安定枠。安定していて、枠に収まっている人。ミスがなくて、波がなくて、いつも同じ品質を出せる人。
真琴も笑った。空気を壊さないために。
「ありがとうございます」
声は平らだった。
西園寺は去った。
真琴は画面に向かった。榊原の資料を整えていた。数字を確認し、構成を磨き、文面を推敲していた。得意な仕事だった。正解のある仕事だった。
「安定枠」。
その三文字が、胸の中で鍵の音を立てた。カチリ、と。小さな音だった。何かが閉まった音だった。何かが固定された音だった。
枠。枠の中にいれば安全だ。失敗しない。恥をかかない。空気を壊さない。
枠の中からは、出られない。
出なくていい。出る必要がない。今のままで十分だと、西園寺は言った。
十分。
十分とは、それ以上はいらないということだ。
真琴は資料の数字を確認した。確認マークを入れた。赤いペンで、5ミリの均一な線を引いた。正確だった。
正確で、安定していて、枠に収まっている。
封筒のように。
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