失敗報告書

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避けられない失敗の予感

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「──それで済むと思ってるんですか」

前川の声が、スピーカーから出た。

会議室の空気が、一瞬で変わった。変わったのではない。刺された。声が空気を刺した。

真琴はテーブルの前に座っている。スピーカーフォンが真ん中に置かれている。スピーカーの穴から出てくる声は、怒っていた。怒っているのだが、怒鳴ってはいなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。普通の声量で、普通の速度で、刃物のようなことを言っていた。

「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」

真琴の口が開かない。

開かない。開こうとしている。喉の奥で「申し訳ございません」が形を作ろうとしている。形はできている。音にならない。音にする筋肉が、動かない。

一秒。

二秒。

先方の声が続いた。

「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。その時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」

わかっている。

わかっている。謝罪だ。最初に、謝罪だ。説明でも弁明でも事実確認でもなく、まず「申し訳ございません」の一言だ。

分かっていて、出ない。

三秒──

---

 1

前夜のことだ。

二十時三分に帰宅した。ポストに封筒があった。白い封筒。同じ紙質。開けた。

---

>   失敗報告書  
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 発生日:明日
>
> 時刻:15:00
>
> 状態:固まる
>
> 事象:謝罪の初動が遅れ、信用を落とす。
>
> 発生条件:想定外の角度で感情をぶつけられ、準備した言葉が機能しない。
>
> 結果:先方の不信感が確定する。
>
> 備考:発生する。

---

「発生する」。

四文字だけの備考だった。

これまでの報告書は、備考欄に補足情報を書いていた。条件の詳細、回避のヒント、あるいは皮肉のような一文。情報量があった。情報量がある限り、真琴は対策を立てることができた。

今回は、何もない。

「発生する」。それだけ。回避の余地がない。回避の方法が書かれていない。書かれていないのではなく、存在しないのだと、四文字が言っていた。

真琴はノートを開いた。

謝罪のテンプレートを作った。あの夜、言い訳を×と○に分けたのと同じ手つきで。ページの上に、想定される場面を書いた。

場面A:先方が数字の誤りを指摘した場合。
→「ご指摘ありがとうございます。確認不足でした。申し訳ございません。本日中に修正版をお送りします」

場面B:先方が対応の遅さに不満を示した場合。
→「お待たせして申し訳ございません。現在の進捗をお伝えします」

場面C:先方が感情的に怒った場合。
→「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」

三つ書いた。三つとも、構造は同じだった。謝罪→事実認定→次のアクション。論理的だった。正しかった。

真琴はペンを置いた。ペンの軸がノートの罫線と平行になるように位置を直した。

──でも、これは「読む」ための文章だった。

謝罪は、読むものではない。言うものだ。声に出すものだ。相手の目を見て、相手の温度を感じて、その温度に合った速度で、口から出すものだ。

テンプレートを何枚書いても、口は動かない。

真琴は報告書の備考欄を見た。「発生する」。

発生する。何をしても、発生する。

明日の十五時に、真琴は固まる。固まって、謝罪が遅れて、信用を落とす。

分かっている。分かっていて、準備している。準備しているのに、準備が効かないことも分かっている。

矛盾していた。矛盾しているまま、真琴はノートにもう一つ、テンプレートを書き足した。

場面D:何が起きるか分からない場合。
→「──」

ダッシュだけ書いて、止まった。

何が起きるか分からない場合、何を言えばいいかも分からない。分からないことを準備することは、できない。

ノートを閉じた。封筒をテーブルの上に置いた。角を揃えた。

揃えた。でも今夜は、揃えても呼吸が楽にならなかった。

---

 2

翌朝。九時十五分。

真琴はデスクでメールを確認していた。B社の案件が動いている。昨日、真央がサービス追加の初回無償オプションを提案し、先方は前向きだった。今日は追加の確認事項をまとめて送る予定だった。

九時二十三分。真央が電話をかけた。B社の田中宛。

真琴は隣で、送付資料の最終チェックをしていた。数字を確認した。表の列幅を揃えた。注釈の位置を調整した。

九時三十一分。真央が電話を切った。

「ちょっと気になることがあって」

真央の声が、少し低かった。

「田中さん、昨日の提案はOKなんだけど、途中で"前回の報告書の数字、確認してもらえますか"って言ってた。前回の──先月の月次レポートのことだと思う」

「先月の?」

「うん。たぶん注釈のとこ。"暫定値"って書いてあった部分、確定値に更新されてるか気にしてるっぽい」

真琴の指が止まった。

先月の月次レポート。注釈。暫定値。

あのとき──真琴は注釈を「確認します、今日中に差し替えます」と言って修正した。修正した。確定値に更新した。更新して、送った。

送った──はずだった。

「送ったよね?」

「送った。確定版は送ってる」

「だよね。じゃあ、先方の手元にあるのが古いバージョンなのかも」

古いバージョン。

つまり、真琴が送った確定版が正しく届いているかどうか。あるいは、先方の担当者が古いファイルを見ているだけかもしれない。あるいは──送付時にファイルを間違えた可能性。

可能性。可能性が三つ浮かんだ。どれが正しいか、今の段階では分からない。

「確認する。送信履歴を見る」

「うん、お願い」

真琴はメールの送信履歴を開いた。先月の日付。B社宛。添付ファイル。

ファイル名を見た。

「Report_B_Monthly_v2_final.xlsx」

開いた。注釈を確認した。

「確定値」と書かれていた。正しかった。送った内容は正しかった。

──でも。

送信日時を見た。当日の18時47分。月次レポートの共有期限は18時だった。

四十七分遅れている。

遅れた理由は覚えている。あの日、真琴は注釈の文言を三回書き直した。「暫定値」を「確定値」に変えるだけではなく、注釈全体の表現を整えた。整えるのに時間がかかった。正確にしようとして、遅れた。

遅れは四十七分。致命的ではない。でも、先方がその四十七分の間に古いバージョンを印刷して会議に使っていたら──

古いバージョンが「公式」として扱われている可能性。

真琴の胃の底が、冷えた。

---

 3

十四時五十五分。

オンライン会議の接続が始まった。会議室に真琴と真央がいた。画面に先方の顔が映った。三人。田中、その上司の前川、もう一人は初めて見る顔だった。

音声確認。画面共有のテスト。挨拶。短い雑談。真琴は相槌を打った。声は平坦だった。まだ本題に入っていない。まだ大丈夫。

田中が口を開いた。

「今日は前川も同席します。それと、管理部の吉村です」

管理部。

管理部が出てくるということは、案件が「営業」の範囲を超えている。信用の問題、あるいは契約の問題として、社内でエスカレーションされている。

真琴の背筋が、少しだけ硬くなった。

十五時〇〇分。榊原が入室した。画面の右下に名前が表示された。

田中が話し始めた。

「先日のサービス追加の提案、前向きに検討しています。ただ、一点確認したいことがあって」

「はい」

「先月の月次レポートなんですが、うちの手元にあるバージョンと、最新版で数字が違っています」

真琴の心臓が一回、強く打った。

「前回のミーティングで共有いただいた資料では"暫定値"となっていた数字が、最新版では"確定値"に変わっています。差額は──小さいんですが、うちはその暫定値をベースに稟議を通してるんです」

暫定値をベースに稟議を通している。

つまり、先方は古い数字で社内決裁を取った。真琴が送った確定版は、先方の稟議のあとに届いた。四十七分の遅れが、先方の意思決定プロセスと噛み合わなかった。

数字の差は小さい。でも、「報告された数字と違う数字で決裁を取った」という事実が、先方の管理部にとっては問題になる。

前川が口を開いた。

声は穏やかだった。怒鳴っていなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。

「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」

真琴の呼吸が、止まった。

「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。稟議にかける準備も、社内の調整も、全部あの数字をベースにやった。その数字が"暫定"だったこと自体は分かってます。でも、確定版が届いたのが稟議の後だった。こちらの時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」

わかっている。

わかっている。謝罪だ。

最初に、謝罪だ。

真琴の口が開かない。

---

 4

開かない。

喉の奥に言葉がある。「申し訳ございません」が、喉の筋肉の間に挟まっている。形はできている。音にならない。

テンプレートを作った。昨夜、ノートに四パターン書いた。場面Cが一番近い。「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」。書いた。覚えた。覚えたはずだった。

でも、前川の怒り方が違った。

想定していたのは「数字が違う」という指摘だった。論点が明確で、反論か訂正で応答できる種類の怒り。

前川は数字の話をしていない。「時間」の話をしている。「信用」の話をしている。正しいか間違っているかではなく、「あなた方は、こちらの時間をどう思っているのか」と聞いている。

それに対する正解が、真琴の中にない。

一秒。

画面の中で、前川の目がこちらを見ていた。田中は少し下を向いていた。管理部の吉村はペンを持ったまま動かなかった。

二秒。

隣で真央が目配せした。目の端に真央の動きが映った。真央の口が小さく動いた。何か──「言って」と読める形だった。

言えない。

何を言えばいい。「申し訳ございません」でいいのか。「こちらの不手際です」でいいのか。それで前川の言う「まず何を言うべきか」に答えたことになるのか。正しい言葉はどれだ。正しい順番は何だ。正しい──

三秒。

体が固まっていた。

報告書の通りだった。状態:固まる。十五時に固まる。書かれた通りに、書かれた時刻に、真琴は固まった。

画面の右下に、通知が浮いた。

---

 5

木下修一。CS部門統括マネージャー。榊原の上。真琴から見れば二階層上の人間。

一行だけだった。

> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」

一行。

真琴はその文字を読んだ。読んだ瞬間、喉の中で詰まっていたものが、ほんの少しだけ動いた。

動いた理由は、内容ではなかった。「今すぐ」という二文字が、思考を止めた。考える前に動け、と書いてある。考えて動くのではなく、動いてから考えろ、と書いてある。

正しい言葉を探していた。探すのをやめた。

探すのをやめた瞬間、口が開いた。

「──申し訳ございません」

声が出た。

声が出た。震えていた。平坦ではなかった。安定していなかった。喉の奥から押し出された音は、かすれていて、細くて、きれいではなかった。

でも、出た。

「確定版の送付が遅れたことで、御社の稟議にご迷惑をおかけしました。こちらの不手際です」

言った。言えた。テンプレート通りではなかった。場面Cの文章とも違っていた。でも、順番は合っていた。謝罪が最初に来た。説明はまだしていない。言い訳も、していない。

前川の顔が、ほんの少しだけ変わった。怒りが消えたのではない。怒りの中に、「聞く用意」が混ざった。

五秒前まで、前川は「何を言うべきか分かるよね?」と待っていた。待っている間の五秒は、信用が落ちていく五秒だった。

信用は落ちた。

落ちたけれど、落ち続けることは止まった。

---

 6

「──ここからは、三十分で対応の道筋をお示しさせてください」

真琴の声は、まだ震えていた。でも、動いていた。固まっていた体が、少しずつ溶けていた。溶けた部分から、言葉が出ていた。

テーブルの上のノートを開いた。昨夜書いたテンプレートではなく、白紙のページを開いた。白紙に、今この瞬間の手順を書いた。

「まず、事実関係を整理します。先月の送付タイミングと、御社の稟議日程の突合を本日十六時までに完了します」

書きながら言った。言いながら書いた。手と口が同時に動いている。初めての感覚だった。

「次に、数字の差分が御社の稟議内容に影響するかどうか、影響範囲を確認します。こちらは白石と二名体制で、明日の午前中までに一次回答します」

真央が頷いた。小さく、確実に。真琴の言葉を拾って、自分のメモに書き込んでいる。

「三点目として、今回の送付遅延の原因と再発防止策を、今週中にまとめて共有します」

三つ。

三つの手順を、声に出した。完璧ではなかった。三つ目の「今週中」は曖昧だった。榊原ならもっと具体的な日時を入れただろう。木下なら、もっと短い期限を切っただろう。

でも、三つ出した。固まっていた体から、三つの手順が出た。

前川が言った。

「……分かりました。まず、十六時の件を待ちます」

声のトーンが、少しだけ下がった。怒りが消えたのではない。怒りの上に、「対応を見る」という判断が乗った。怒りながら待つことを選んだ。

それは信用ではなかった。猶予だった。

猶予をもらった。

---

 7

会議が終わった。画面が暗くなった。

真琴はテーブルの上に両手を置いた。

手が震えていた。

会議の間は気づかなかった。声が震えていることには気づいていた。でも手が震えていることには気づかなかった。手はノートに字を書いていたから、震えを文字に変換していた。文字を書き終わった今、変換先がなくなって、震えが手に戻ってきた。

真央が立ち上がった。

「真琴」

「……うん」

「十六時、一緒にやろう。送信履歴と稟議日程の突合、私が先方スケジュールの方やる」

「──ありがとう」

声が小さかった。自分の声が、自分でも聞こえないくらい小さかった。

榊原がオンラインのまま声をかけた。

「真琴。木下さんにも報告しておく。三十分の立て直し、ちゃんとやれ」

「はい」

チャットを見た。木下からのメッセージが一行だけ残っていた。

> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」

この一行がなかったら。

この一行がなかったら、真琴はまだ固まっていただろう。五秒が十秒になり、十秒が三十秒になり、前川は「もういいです」と言って通話を切っただろう。

一行が、四秒目の終わりに届いた。

五秒目に、真琴は動いた。動けた。自分の意志だったのか、木下の言葉に押されたのか、分からなかった。

分からなかったけれど、動いた。

それだけが、事実だった。

---

 8

十五時十八分。

真琴は会議室を出た。廊下を歩いた。トイレに入った。

手を洗った。

水が冷たかった。冷たい水が指の間を通って、シンクに落ちた。指を見た。震えが少しだけ収まっていた。少しだけ。まだ指先に振動が残っている。心臓の鼓動が指の末端まで届いている。

鏡を見た。

自分の顔が映っていた。いつもの顔だった。目の下に影がある。唇が少し乾いている。それ以外は、いつもと同じだった。

固まった人間の顔は、外からは分からない。

会議室で前川に見られていたとき、真琴の顔はどう見えていただろう。黙っている人間。黙って、何かを考えている人間。あるいは、何も考えていない人間。外側からは区別がつかない。

でも内側では、すべてが止まっていた。

止まっていた。そして、動いた。

真琴は両手で顔を覆った。冷たい水がついた手のひらが、頬に触れた。冷たさが心地よかった。冷たさが、現実だった。

──死んでない。

その言葉が、頭の中に浮かんだ。大げさだった。死ぬような場面ではなかった。クレーム対応で、謝罪が五秒遅れて、信用が少し落ちた。それだけだ。命に関わることではない。

でも、真琴の体は「死ぬかもしれない」と思っていた。固まっている間、呼吸が浅くなり、心拍が上がり、指先が冷え、視野が狭くなった。体は、生存の危機として処理していた。

その危機を、通過した。

通過したあと、体に残っているのは震えと冷たさだった。でもその下に、別のものがあった。

──経験。

この五秒間を、体が記憶した。固まって、動いて、声を出して、手順を示した。その一連の動作が、筋肉のどこかに刻まれた。

次に同じことが起きたら、五秒が四秒になるかもしれない。四秒が三秒になるかもしれない。なるかどうかは分からない。でも、ゼロ回と一回は違う。

一回、経験した。

真琴は顔から手を離した。鏡の中の自分の顔を見た。目が少しだけ赤かった。泣いたのではない。力を入れすぎたのだ。

水を止めた。手を拭いた。ハンカチをポケットに押し込んだ。

揃えられなかった。けれど、それで世界は壊れなかった。

---

 9

十六時。

約束通り、事実関係の突合を先方に送った。

送ったのは真琴だった。真央がスケジュール情報を整理し、真琴が送付履歴とファイルのバージョンを照合した。四十七分の遅延と、先方の稟議承認時刻との関係を時系列で示した。

結論は明確だった。確定版の送付が稟議承認の四十七分後だった。数字の差分は全体の〇・三パーセント。稟議の結論に影響する規模ではない。ただし、「確定版が届く前に決裁した」という事実が管理部の記録として残る。

送信ボタンを押した。

押した瞬間、胸の中で何かが軋んだ。これで終わりではない。明日の午前中に一次回答。今週中に再発防止策。まだ続く。まだ終わらない。

でも、一つ送った。

一つ送ったという事実が、胸の軋みの隣に、小さな温度を作った。ぬるくはなかった。熱くもなかった。ただ、「動いた」という温度だった。

十六時二十分。先方から返信があった。

> 「確認しました。明日の回答をお待ちします」

一行だった。感情がなかった。怒りもなかった。許しもなかった。ただ、「待つ」と書いてあった。

待ってくれている。

まだ、切られていない。

---

 10

十九時十二分。

退勤した。駅に向かって歩いていた。空が暗かった。街灯がオレンジ色に光っていた。

スマートフォンが鳴った。チャット。高瀬慎。

> 「今日の件、聞きました。大変でしたね」

指が画面の上で止まった。

高瀬が知っている。A社との合同定例に途中参加する立場だから、CS内の情報は回ってくる。B社の件も、耳に入ったのだろう。

「大変でした」と返そうとした。やめた。それは事実だが、それだけでは何も伝えていない。

「──固まりました。最初の五秒」

打った。送った。

送ってから、後悔した。弱さを見せた。弱さを見せる相手を選んでいる。高瀬に見せたいのか、高瀬にしか見せられないのか。どちらなのか分からなかった。

既読がついた。三点リーダが表示された。

> 「五秒で立て直したなら、十分です」

真琴は立ち止まった。

歩道の真ん中で立ち止まった。後ろから来た人が横を通り過ぎた。気づかなかった。

五秒で立て直した、と高瀬は言っている。真琴は五秒「固まった」と言った。同じ五秒を、高瀬は「立て直した時間」として捉えている。

> 「失敗しても、戻せたなら十分です。うまくやるより、早く戻せる人の方が、信用されますよ」

二つの文が、画面に並んだ。

失敗しても、戻せたなら十分。

それは、報告書の言語ではなかった。報告書は「失敗」と「回避」の二値だった。失敗するか、しないか。〇か×か。グラデーションがなかった。

高瀬の言葉には、グラデーションがあった。失敗する。でも戻す。戻せたなら、それは十分だと。

十分。

真琴は画面を見た。返信を打った。

> 「戻せたかどうか、まだ分かりません。明日の回答次第です」

正直だった。正直すぎたかもしれない。でも、嘘は打てなかった。

高瀬からの返信。

> 「明日も、戻す側にいてください。応援してます」

応援。

真琴は歩き始めた。スマートフォンをポケットに入れた。入れるとき、角度を気にしなかった。ポケットの中で斜めになっていても、直さなかった。

高瀬の言葉が、胸の中にあった。冷たくはなかった。熱くもなかった。ただ、あった。

失敗しても、戻せたなら十分。

まだ信じられない。でも、聞いた。聞いたことは、消えない。

この温度を失いたくない、と思った瞬間がいちばん怖い。

---

 11

二十時四十三分。

帰宅した。靴を脱いだ。靴の向きを──揃えた。これは、まだやめられない。

テーブルに座った。

今日を振り返った。

十五時。固まった。五秒。声が出なかった。報告書の通りだった。

でも、六秒目に動いた。

動いて、謝罪した。テンプレート通りではなかった。準備は効かなかった。準備が効かないことを知った。それでも声は出た。

声が出たあと、手順を三つ示した。三つとも完璧ではなかった。三つ目は曖昧だった。曖昧でも、出した。出したら、先方は「待つ」と言った。

信用は落ちた。

報告書の通りだった。謝罪の初動は遅れた。先方の不信感は上がった。報告書が予告したことは、すべて起きた。

すべて起きた。

でも、報告書が書いていないことも起きた。

真琴が立て直したこと。三十分で対応の道筋を示したこと。先方が「待つ」と言ったこと。真央が横で支えたこと。榊原が「ちゃんとやれ」と言ったこと。木下の一行が届いたこと。

報告書は、失敗だけを書く。回復は書かない。

回復は、真琴が自分で書くものだった。

──今日、自分は回避できなかった。

できなかった。完璧には避けられなかった。五秒、固まった。信用を落とした。

でも、処理できた。

処理は、回避とは違う動詞だった。回避は「起きないようにする」こと。処理は「起きたあとに動く」こと。

今まで真琴は、回避だけを練習してきた。起きないようにすることだけに全力を注いできた。起きないようにして、起きなかったことを安堵して、安堵の甘さに沈んでいた。

今日初めて、起きたあとに動いた。

動いた結果は、完璧ではなかった。先方は怒っていた。信用は落ちた。明日もまだ続く。

でも、致命傷にはならなかった。

致命傷にならなかったのは、運ではなかった。六秒目に動いたからだった。三十分で手順を出したからだった。真央が隣にいたからだった。木下の一行が届いたからだった。

一人で完璧に避けることはできなかった。

一人ではないから、不完全でも生き延びられた。

この感覚は初めてだった。

真琴は手を見た。もう震えていなかった。指先の冷たさも、戻っていた。体温が通っていた。

手を握った。開いた。握った。開いた。

動く。手が、動く。

今日の五秒間で止まった手が、今は動いている。

でも同時に、恐怖も生まれていた。

また同じことが起きたら? 次も動けるか? 次も木下の一行が届くか? 次も真央が隣にいるか?

一人だったら。

一人で、あの五秒を迎えたら。

その恐怖が、胸の底に沈んでいた。今日の経験の隣に、新しい恐怖が生まれていた。経験と恐怖が、同じ場所に並んでいた。

---

 12

二十一時十五分。

ポストを確認した。

封筒があった。

白い封筒。いつもと同じ。

開けた。

---

>   失敗報告書  
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 明日、あなたは"隠す"。

---

それだけだった。

事象がない。時刻がない。発生条件がない。結果がない。状態がない。備考がない。

一行だけ。

「明日、あなたは"隠す"」。

何を隠すのか。いつ隠すのか。なぜ隠すのか。書かれていない。何も書かれていない。

白い紙の中央に、一行だけが印刷されている。余白が広い。余白の広さが、圧だった。情報がないことが、情報だった。

今までの報告書は、少なくとも「何が起きるか」を教えてくれた。数字の間違い、名前の間違い、言い訳、判断の遅れ。内容を知っていたから、対策を立てられた。対策が効かないことはあっても、準備する行為そのものが心を保っていた。

今回は、準備の対象がない。

隠す。

何を?

真琴はテーブルの上に封筒を置いた。角を揃えようとした。

手が止まった。

今日、トイレでハンカチを揃えなかった。揃えられなかったけれど、世界は壊れなかった。

今、余裕はあるのかないのか。

分からなかった。

封筒の角が、テーブルの端と平行になっていなかった。少しだけ傾いていた。一ミリか二ミリ、ずれていた。

直さなかった。

直さなかったのではない。直そうとして、途中で力が抜けた。今日一日の疲労が、指先から芯まで浸透していた。揃える体力が、残っていなかった。

ずれたまま、封筒がテーブルの上にあった。

真琴はそれを見ていた。

ずれている。不完全だ。気持ち悪い──はずだった。気持ち悪いはずなのに、今夜は気持ち悪さの手前に、別の感覚があった。

疲れた。

ただ、疲れた。

疲れているとき、人は不完全を許す。許すのではなく、不完全と戦う力が残っていないだけだ。でも、結果として──ずれたまま、世界は続いている。

封筒はずれていた。テーブルの端と平行ではなかった。

それでも、何も起きなかった。

真琴は椅子に深く座った。背中が背もたれに沈んだ。天井を見た。白い天井。蛍光灯は消してある。台所の小さな灯りだけが、部屋を薄く照らしている。

明日、あなたは"隠す"。

今日、真琴は「怖い」を隠さなかった。高瀬に「固まりました」と言った。先方に「こちらの不手際です」と言った。隠さなかった。隠さずに、生き延びた。

なのに、明日は「隠す」と書かれている。

今日できたことが、明日できなくなるのか。

それとも──今日隠さなかったから、明日隠すものが別に生まれるのか。

分からなかった。

分からないまま、真琴は目を閉じた。

封筒がテーブルの上で、少しだけ傾いていた。

直さないまま、夜が来た。
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白雪の雫
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突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

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