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避けられない失敗の予感
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「──それで済むと思ってるんですか」
前川の声が、スピーカーから出た。
会議室の空気が、一瞬で変わった。変わったのではない。刺された。声が空気を刺した。
真琴はテーブルの前に座っている。スピーカーフォンが真ん中に置かれている。スピーカーの穴から出てくる声は、怒っていた。怒っているのだが、怒鳴ってはいなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。普通の声量で、普通の速度で、刃物のようなことを言っていた。
「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」
真琴の口が開かない。
開かない。開こうとしている。喉の奥で「申し訳ございません」が形を作ろうとしている。形はできている。音にならない。音にする筋肉が、動かない。
一秒。
二秒。
先方の声が続いた。
「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。その時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」
わかっている。
わかっている。謝罪だ。最初に、謝罪だ。説明でも弁明でも事実確認でもなく、まず「申し訳ございません」の一言だ。
分かっていて、出ない。
三秒──
---
1
前夜のことだ。
二十時三分に帰宅した。ポストに封筒があった。白い封筒。同じ紙質。開けた。
---
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 発生日:明日
>
> 時刻:15:00
>
> 状態:固まる
>
> 事象:謝罪の初動が遅れ、信用を落とす。
>
> 発生条件:想定外の角度で感情をぶつけられ、準備した言葉が機能しない。
>
> 結果:先方の不信感が確定する。
>
> 備考:発生する。
---
「発生する」。
四文字だけの備考だった。
これまでの報告書は、備考欄に補足情報を書いていた。条件の詳細、回避のヒント、あるいは皮肉のような一文。情報量があった。情報量がある限り、真琴は対策を立てることができた。
今回は、何もない。
「発生する」。それだけ。回避の余地がない。回避の方法が書かれていない。書かれていないのではなく、存在しないのだと、四文字が言っていた。
真琴はノートを開いた。
謝罪のテンプレートを作った。あの夜、言い訳を×と○に分けたのと同じ手つきで。ページの上に、想定される場面を書いた。
場面A:先方が数字の誤りを指摘した場合。
→「ご指摘ありがとうございます。確認不足でした。申し訳ございません。本日中に修正版をお送りします」
場面B:先方が対応の遅さに不満を示した場合。
→「お待たせして申し訳ございません。現在の進捗をお伝えします」
場面C:先方が感情的に怒った場合。
→「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」
三つ書いた。三つとも、構造は同じだった。謝罪→事実認定→次のアクション。論理的だった。正しかった。
真琴はペンを置いた。ペンの軸がノートの罫線と平行になるように位置を直した。
──でも、これは「読む」ための文章だった。
謝罪は、読むものではない。言うものだ。声に出すものだ。相手の目を見て、相手の温度を感じて、その温度に合った速度で、口から出すものだ。
テンプレートを何枚書いても、口は動かない。
真琴は報告書の備考欄を見た。「発生する」。
発生する。何をしても、発生する。
明日の十五時に、真琴は固まる。固まって、謝罪が遅れて、信用を落とす。
分かっている。分かっていて、準備している。準備しているのに、準備が効かないことも分かっている。
矛盾していた。矛盾しているまま、真琴はノートにもう一つ、テンプレートを書き足した。
場面D:何が起きるか分からない場合。
→「──」
ダッシュだけ書いて、止まった。
何が起きるか分からない場合、何を言えばいいかも分からない。分からないことを準備することは、できない。
ノートを閉じた。封筒をテーブルの上に置いた。角を揃えた。
揃えた。でも今夜は、揃えても呼吸が楽にならなかった。
---
2
翌朝。九時十五分。
真琴はデスクでメールを確認していた。B社の案件が動いている。昨日、真央がサービス追加の初回無償オプションを提案し、先方は前向きだった。今日は追加の確認事項をまとめて送る予定だった。
九時二十三分。真央が電話をかけた。B社の田中宛。
真琴は隣で、送付資料の最終チェックをしていた。数字を確認した。表の列幅を揃えた。注釈の位置を調整した。
九時三十一分。真央が電話を切った。
「ちょっと気になることがあって」
真央の声が、少し低かった。
「田中さん、昨日の提案はOKなんだけど、途中で"前回の報告書の数字、確認してもらえますか"って言ってた。前回の──先月の月次レポートのことだと思う」
「先月の?」
「うん。たぶん注釈のとこ。"暫定値"って書いてあった部分、確定値に更新されてるか気にしてるっぽい」
真琴の指が止まった。
先月の月次レポート。注釈。暫定値。
あのとき──真琴は注釈を「確認します、今日中に差し替えます」と言って修正した。修正した。確定値に更新した。更新して、送った。
送った──はずだった。
「送ったよね?」
「送った。確定版は送ってる」
「だよね。じゃあ、先方の手元にあるのが古いバージョンなのかも」
古いバージョン。
つまり、真琴が送った確定版が正しく届いているかどうか。あるいは、先方の担当者が古いファイルを見ているだけかもしれない。あるいは──送付時にファイルを間違えた可能性。
可能性。可能性が三つ浮かんだ。どれが正しいか、今の段階では分からない。
「確認する。送信履歴を見る」
「うん、お願い」
真琴はメールの送信履歴を開いた。先月の日付。B社宛。添付ファイル。
ファイル名を見た。
「Report_B_Monthly_v2_final.xlsx」
開いた。注釈を確認した。
「確定値」と書かれていた。正しかった。送った内容は正しかった。
──でも。
送信日時を見た。当日の18時47分。月次レポートの共有期限は18時だった。
四十七分遅れている。
遅れた理由は覚えている。あの日、真琴は注釈の文言を三回書き直した。「暫定値」を「確定値」に変えるだけではなく、注釈全体の表現を整えた。整えるのに時間がかかった。正確にしようとして、遅れた。
遅れは四十七分。致命的ではない。でも、先方がその四十七分の間に古いバージョンを印刷して会議に使っていたら──
古いバージョンが「公式」として扱われている可能性。
真琴の胃の底が、冷えた。
---
3
十四時五十五分。
オンライン会議の接続が始まった。会議室に真琴と真央がいた。画面に先方の顔が映った。三人。田中、その上司の前川、もう一人は初めて見る顔だった。
音声確認。画面共有のテスト。挨拶。短い雑談。真琴は相槌を打った。声は平坦だった。まだ本題に入っていない。まだ大丈夫。
田中が口を開いた。
「今日は前川も同席します。それと、管理部の吉村です」
管理部。
管理部が出てくるということは、案件が「営業」の範囲を超えている。信用の問題、あるいは契約の問題として、社内でエスカレーションされている。
真琴の背筋が、少しだけ硬くなった。
十五時〇〇分。榊原が入室した。画面の右下に名前が表示された。
田中が話し始めた。
「先日のサービス追加の提案、前向きに検討しています。ただ、一点確認したいことがあって」
「はい」
「先月の月次レポートなんですが、うちの手元にあるバージョンと、最新版で数字が違っています」
真琴の心臓が一回、強く打った。
「前回のミーティングで共有いただいた資料では"暫定値"となっていた数字が、最新版では"確定値"に変わっています。差額は──小さいんですが、うちはその暫定値をベースに稟議を通してるんです」
暫定値をベースに稟議を通している。
つまり、先方は古い数字で社内決裁を取った。真琴が送った確定版は、先方の稟議のあとに届いた。四十七分の遅れが、先方の意思決定プロセスと噛み合わなかった。
数字の差は小さい。でも、「報告された数字と違う数字で決裁を取った」という事実が、先方の管理部にとっては問題になる。
前川が口を開いた。
声は穏やかだった。怒鳴っていなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。
「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」
真琴の呼吸が、止まった。
「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。稟議にかける準備も、社内の調整も、全部あの数字をベースにやった。その数字が"暫定"だったこと自体は分かってます。でも、確定版が届いたのが稟議の後だった。こちらの時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」
わかっている。
わかっている。謝罪だ。
最初に、謝罪だ。
真琴の口が開かない。
---
4
開かない。
喉の奥に言葉がある。「申し訳ございません」が、喉の筋肉の間に挟まっている。形はできている。音にならない。
テンプレートを作った。昨夜、ノートに四パターン書いた。場面Cが一番近い。「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」。書いた。覚えた。覚えたはずだった。
でも、前川の怒り方が違った。
想定していたのは「数字が違う」という指摘だった。論点が明確で、反論か訂正で応答できる種類の怒り。
前川は数字の話をしていない。「時間」の話をしている。「信用」の話をしている。正しいか間違っているかではなく、「あなた方は、こちらの時間をどう思っているのか」と聞いている。
それに対する正解が、真琴の中にない。
一秒。
画面の中で、前川の目がこちらを見ていた。田中は少し下を向いていた。管理部の吉村はペンを持ったまま動かなかった。
二秒。
隣で真央が目配せした。目の端に真央の動きが映った。真央の口が小さく動いた。何か──「言って」と読める形だった。
言えない。
何を言えばいい。「申し訳ございません」でいいのか。「こちらの不手際です」でいいのか。それで前川の言う「まず何を言うべきか」に答えたことになるのか。正しい言葉はどれだ。正しい順番は何だ。正しい──
三秒。
体が固まっていた。
報告書の通りだった。状態:固まる。十五時に固まる。書かれた通りに、書かれた時刻に、真琴は固まった。
画面の右下に、通知が浮いた。
---
5
木下修一。CS部門統括マネージャー。榊原の上。真琴から見れば二階層上の人間。
一行だけだった。
> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」
一行。
真琴はその文字を読んだ。読んだ瞬間、喉の中で詰まっていたものが、ほんの少しだけ動いた。
動いた理由は、内容ではなかった。「今すぐ」という二文字が、思考を止めた。考える前に動け、と書いてある。考えて動くのではなく、動いてから考えろ、と書いてある。
正しい言葉を探していた。探すのをやめた。
探すのをやめた瞬間、口が開いた。
「──申し訳ございません」
声が出た。
声が出た。震えていた。平坦ではなかった。安定していなかった。喉の奥から押し出された音は、かすれていて、細くて、きれいではなかった。
でも、出た。
「確定版の送付が遅れたことで、御社の稟議にご迷惑をおかけしました。こちらの不手際です」
言った。言えた。テンプレート通りではなかった。場面Cの文章とも違っていた。でも、順番は合っていた。謝罪が最初に来た。説明はまだしていない。言い訳も、していない。
前川の顔が、ほんの少しだけ変わった。怒りが消えたのではない。怒りの中に、「聞く用意」が混ざった。
五秒前まで、前川は「何を言うべきか分かるよね?」と待っていた。待っている間の五秒は、信用が落ちていく五秒だった。
信用は落ちた。
落ちたけれど、落ち続けることは止まった。
---
6
「──ここからは、三十分で対応の道筋をお示しさせてください」
真琴の声は、まだ震えていた。でも、動いていた。固まっていた体が、少しずつ溶けていた。溶けた部分から、言葉が出ていた。
テーブルの上のノートを開いた。昨夜書いたテンプレートではなく、白紙のページを開いた。白紙に、今この瞬間の手順を書いた。
「まず、事実関係を整理します。先月の送付タイミングと、御社の稟議日程の突合を本日十六時までに完了します」
書きながら言った。言いながら書いた。手と口が同時に動いている。初めての感覚だった。
「次に、数字の差分が御社の稟議内容に影響するかどうか、影響範囲を確認します。こちらは白石と二名体制で、明日の午前中までに一次回答します」
真央が頷いた。小さく、確実に。真琴の言葉を拾って、自分のメモに書き込んでいる。
「三点目として、今回の送付遅延の原因と再発防止策を、今週中にまとめて共有します」
三つ。
三つの手順を、声に出した。完璧ではなかった。三つ目の「今週中」は曖昧だった。榊原ならもっと具体的な日時を入れただろう。木下なら、もっと短い期限を切っただろう。
でも、三つ出した。固まっていた体から、三つの手順が出た。
前川が言った。
「……分かりました。まず、十六時の件を待ちます」
声のトーンが、少しだけ下がった。怒りが消えたのではない。怒りの上に、「対応を見る」という判断が乗った。怒りながら待つことを選んだ。
それは信用ではなかった。猶予だった。
猶予をもらった。
---
7
会議が終わった。画面が暗くなった。
真琴はテーブルの上に両手を置いた。
手が震えていた。
会議の間は気づかなかった。声が震えていることには気づいていた。でも手が震えていることには気づかなかった。手はノートに字を書いていたから、震えを文字に変換していた。文字を書き終わった今、変換先がなくなって、震えが手に戻ってきた。
真央が立ち上がった。
「真琴」
「……うん」
「十六時、一緒にやろう。送信履歴と稟議日程の突合、私が先方スケジュールの方やる」
「──ありがとう」
声が小さかった。自分の声が、自分でも聞こえないくらい小さかった。
榊原がオンラインのまま声をかけた。
「真琴。木下さんにも報告しておく。三十分の立て直し、ちゃんとやれ」
「はい」
チャットを見た。木下からのメッセージが一行だけ残っていた。
> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」
この一行がなかったら。
この一行がなかったら、真琴はまだ固まっていただろう。五秒が十秒になり、十秒が三十秒になり、前川は「もういいです」と言って通話を切っただろう。
一行が、四秒目の終わりに届いた。
五秒目に、真琴は動いた。動けた。自分の意志だったのか、木下の言葉に押されたのか、分からなかった。
分からなかったけれど、動いた。
それだけが、事実だった。
---
8
十五時十八分。
真琴は会議室を出た。廊下を歩いた。トイレに入った。
手を洗った。
水が冷たかった。冷たい水が指の間を通って、シンクに落ちた。指を見た。震えが少しだけ収まっていた。少しだけ。まだ指先に振動が残っている。心臓の鼓動が指の末端まで届いている。
鏡を見た。
自分の顔が映っていた。いつもの顔だった。目の下に影がある。唇が少し乾いている。それ以外は、いつもと同じだった。
固まった人間の顔は、外からは分からない。
会議室で前川に見られていたとき、真琴の顔はどう見えていただろう。黙っている人間。黙って、何かを考えている人間。あるいは、何も考えていない人間。外側からは区別がつかない。
でも内側では、すべてが止まっていた。
止まっていた。そして、動いた。
真琴は両手で顔を覆った。冷たい水がついた手のひらが、頬に触れた。冷たさが心地よかった。冷たさが、現実だった。
──死んでない。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。大げさだった。死ぬような場面ではなかった。クレーム対応で、謝罪が五秒遅れて、信用が少し落ちた。それだけだ。命に関わることではない。
でも、真琴の体は「死ぬかもしれない」と思っていた。固まっている間、呼吸が浅くなり、心拍が上がり、指先が冷え、視野が狭くなった。体は、生存の危機として処理していた。
その危機を、通過した。
通過したあと、体に残っているのは震えと冷たさだった。でもその下に、別のものがあった。
──経験。
この五秒間を、体が記憶した。固まって、動いて、声を出して、手順を示した。その一連の動作が、筋肉のどこかに刻まれた。
次に同じことが起きたら、五秒が四秒になるかもしれない。四秒が三秒になるかもしれない。なるかどうかは分からない。でも、ゼロ回と一回は違う。
一回、経験した。
真琴は顔から手を離した。鏡の中の自分の顔を見た。目が少しだけ赤かった。泣いたのではない。力を入れすぎたのだ。
水を止めた。手を拭いた。ハンカチをポケットに押し込んだ。
揃えられなかった。けれど、それで世界は壊れなかった。
---
9
十六時。
約束通り、事実関係の突合を先方に送った。
送ったのは真琴だった。真央がスケジュール情報を整理し、真琴が送付履歴とファイルのバージョンを照合した。四十七分の遅延と、先方の稟議承認時刻との関係を時系列で示した。
結論は明確だった。確定版の送付が稟議承認の四十七分後だった。数字の差分は全体の〇・三パーセント。稟議の結論に影響する規模ではない。ただし、「確定版が届く前に決裁した」という事実が管理部の記録として残る。
送信ボタンを押した。
押した瞬間、胸の中で何かが軋んだ。これで終わりではない。明日の午前中に一次回答。今週中に再発防止策。まだ続く。まだ終わらない。
でも、一つ送った。
一つ送ったという事実が、胸の軋みの隣に、小さな温度を作った。ぬるくはなかった。熱くもなかった。ただ、「動いた」という温度だった。
十六時二十分。先方から返信があった。
> 「確認しました。明日の回答をお待ちします」
一行だった。感情がなかった。怒りもなかった。許しもなかった。ただ、「待つ」と書いてあった。
待ってくれている。
まだ、切られていない。
---
10
十九時十二分。
退勤した。駅に向かって歩いていた。空が暗かった。街灯がオレンジ色に光っていた。
スマートフォンが鳴った。チャット。高瀬慎。
> 「今日の件、聞きました。大変でしたね」
指が画面の上で止まった。
高瀬が知っている。A社との合同定例に途中参加する立場だから、CS内の情報は回ってくる。B社の件も、耳に入ったのだろう。
「大変でした」と返そうとした。やめた。それは事実だが、それだけでは何も伝えていない。
「──固まりました。最初の五秒」
打った。送った。
送ってから、後悔した。弱さを見せた。弱さを見せる相手を選んでいる。高瀬に見せたいのか、高瀬にしか見せられないのか。どちらなのか分からなかった。
既読がついた。三点リーダが表示された。
> 「五秒で立て直したなら、十分です」
真琴は立ち止まった。
歩道の真ん中で立ち止まった。後ろから来た人が横を通り過ぎた。気づかなかった。
五秒で立て直した、と高瀬は言っている。真琴は五秒「固まった」と言った。同じ五秒を、高瀬は「立て直した時間」として捉えている。
> 「失敗しても、戻せたなら十分です。うまくやるより、早く戻せる人の方が、信用されますよ」
二つの文が、画面に並んだ。
失敗しても、戻せたなら十分。
それは、報告書の言語ではなかった。報告書は「失敗」と「回避」の二値だった。失敗するか、しないか。〇か×か。グラデーションがなかった。
高瀬の言葉には、グラデーションがあった。失敗する。でも戻す。戻せたなら、それは十分だと。
十分。
真琴は画面を見た。返信を打った。
> 「戻せたかどうか、まだ分かりません。明日の回答次第です」
正直だった。正直すぎたかもしれない。でも、嘘は打てなかった。
高瀬からの返信。
> 「明日も、戻す側にいてください。応援してます」
応援。
真琴は歩き始めた。スマートフォンをポケットに入れた。入れるとき、角度を気にしなかった。ポケットの中で斜めになっていても、直さなかった。
高瀬の言葉が、胸の中にあった。冷たくはなかった。熱くもなかった。ただ、あった。
失敗しても、戻せたなら十分。
まだ信じられない。でも、聞いた。聞いたことは、消えない。
この温度を失いたくない、と思った瞬間がいちばん怖い。
---
11
二十時四十三分。
帰宅した。靴を脱いだ。靴の向きを──揃えた。これは、まだやめられない。
テーブルに座った。
今日を振り返った。
十五時。固まった。五秒。声が出なかった。報告書の通りだった。
でも、六秒目に動いた。
動いて、謝罪した。テンプレート通りではなかった。準備は効かなかった。準備が効かないことを知った。それでも声は出た。
声が出たあと、手順を三つ示した。三つとも完璧ではなかった。三つ目は曖昧だった。曖昧でも、出した。出したら、先方は「待つ」と言った。
信用は落ちた。
報告書の通りだった。謝罪の初動は遅れた。先方の不信感は上がった。報告書が予告したことは、すべて起きた。
すべて起きた。
でも、報告書が書いていないことも起きた。
真琴が立て直したこと。三十分で対応の道筋を示したこと。先方が「待つ」と言ったこと。真央が横で支えたこと。榊原が「ちゃんとやれ」と言ったこと。木下の一行が届いたこと。
報告書は、失敗だけを書く。回復は書かない。
回復は、真琴が自分で書くものだった。
──今日、自分は回避できなかった。
できなかった。完璧には避けられなかった。五秒、固まった。信用を落とした。
でも、処理できた。
処理は、回避とは違う動詞だった。回避は「起きないようにする」こと。処理は「起きたあとに動く」こと。
今まで真琴は、回避だけを練習してきた。起きないようにすることだけに全力を注いできた。起きないようにして、起きなかったことを安堵して、安堵の甘さに沈んでいた。
今日初めて、起きたあとに動いた。
動いた結果は、完璧ではなかった。先方は怒っていた。信用は落ちた。明日もまだ続く。
でも、致命傷にはならなかった。
致命傷にならなかったのは、運ではなかった。六秒目に動いたからだった。三十分で手順を出したからだった。真央が隣にいたからだった。木下の一行が届いたからだった。
一人で完璧に避けることはできなかった。
一人ではないから、不完全でも生き延びられた。
この感覚は初めてだった。
真琴は手を見た。もう震えていなかった。指先の冷たさも、戻っていた。体温が通っていた。
手を握った。開いた。握った。開いた。
動く。手が、動く。
今日の五秒間で止まった手が、今は動いている。
でも同時に、恐怖も生まれていた。
また同じことが起きたら? 次も動けるか? 次も木下の一行が届くか? 次も真央が隣にいるか?
一人だったら。
一人で、あの五秒を迎えたら。
その恐怖が、胸の底に沈んでいた。今日の経験の隣に、新しい恐怖が生まれていた。経験と恐怖が、同じ場所に並んでいた。
---
12
二十一時十五分。
ポストを確認した。
封筒があった。
白い封筒。いつもと同じ。
開けた。
---
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 明日、あなたは"隠す"。
---
それだけだった。
事象がない。時刻がない。発生条件がない。結果がない。状態がない。備考がない。
一行だけ。
「明日、あなたは"隠す"」。
何を隠すのか。いつ隠すのか。なぜ隠すのか。書かれていない。何も書かれていない。
白い紙の中央に、一行だけが印刷されている。余白が広い。余白の広さが、圧だった。情報がないことが、情報だった。
今までの報告書は、少なくとも「何が起きるか」を教えてくれた。数字の間違い、名前の間違い、言い訳、判断の遅れ。内容を知っていたから、対策を立てられた。対策が効かないことはあっても、準備する行為そのものが心を保っていた。
今回は、準備の対象がない。
隠す。
何を?
真琴はテーブルの上に封筒を置いた。角を揃えようとした。
手が止まった。
今日、トイレでハンカチを揃えなかった。揃えられなかったけれど、世界は壊れなかった。
今、余裕はあるのかないのか。
分からなかった。
封筒の角が、テーブルの端と平行になっていなかった。少しだけ傾いていた。一ミリか二ミリ、ずれていた。
直さなかった。
直さなかったのではない。直そうとして、途中で力が抜けた。今日一日の疲労が、指先から芯まで浸透していた。揃える体力が、残っていなかった。
ずれたまま、封筒がテーブルの上にあった。
真琴はそれを見ていた。
ずれている。不完全だ。気持ち悪い──はずだった。気持ち悪いはずなのに、今夜は気持ち悪さの手前に、別の感覚があった。
疲れた。
ただ、疲れた。
疲れているとき、人は不完全を許す。許すのではなく、不完全と戦う力が残っていないだけだ。でも、結果として──ずれたまま、世界は続いている。
封筒はずれていた。テーブルの端と平行ではなかった。
それでも、何も起きなかった。
真琴は椅子に深く座った。背中が背もたれに沈んだ。天井を見た。白い天井。蛍光灯は消してある。台所の小さな灯りだけが、部屋を薄く照らしている。
明日、あなたは"隠す"。
今日、真琴は「怖い」を隠さなかった。高瀬に「固まりました」と言った。先方に「こちらの不手際です」と言った。隠さなかった。隠さずに、生き延びた。
なのに、明日は「隠す」と書かれている。
今日できたことが、明日できなくなるのか。
それとも──今日隠さなかったから、明日隠すものが別に生まれるのか。
分からなかった。
分からないまま、真琴は目を閉じた。
封筒がテーブルの上で、少しだけ傾いていた。
直さないまま、夜が来た。
前川の声が、スピーカーから出た。
会議室の空気が、一瞬で変わった。変わったのではない。刺された。声が空気を刺した。
真琴はテーブルの前に座っている。スピーカーフォンが真ん中に置かれている。スピーカーの穴から出てくる声は、怒っていた。怒っているのだが、怒鳴ってはいなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。普通の声量で、普通の速度で、刃物のようなことを言っていた。
「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」
真琴の口が開かない。
開かない。開こうとしている。喉の奥で「申し訳ございません」が形を作ろうとしている。形はできている。音にならない。音にする筋肉が、動かない。
一秒。
二秒。
先方の声が続いた。
「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。その時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」
わかっている。
わかっている。謝罪だ。最初に、謝罪だ。説明でも弁明でも事実確認でもなく、まず「申し訳ございません」の一言だ。
分かっていて、出ない。
三秒──
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前夜のことだ。
二十時三分に帰宅した。ポストに封筒があった。白い封筒。同じ紙質。開けた。
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> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 発生日:明日
>
> 時刻:15:00
>
> 状態:固まる
>
> 事象:謝罪の初動が遅れ、信用を落とす。
>
> 発生条件:想定外の角度で感情をぶつけられ、準備した言葉が機能しない。
>
> 結果:先方の不信感が確定する。
>
> 備考:発生する。
---
「発生する」。
四文字だけの備考だった。
これまでの報告書は、備考欄に補足情報を書いていた。条件の詳細、回避のヒント、あるいは皮肉のような一文。情報量があった。情報量がある限り、真琴は対策を立てることができた。
今回は、何もない。
「発生する」。それだけ。回避の余地がない。回避の方法が書かれていない。書かれていないのではなく、存在しないのだと、四文字が言っていた。
真琴はノートを開いた。
謝罪のテンプレートを作った。あの夜、言い訳を×と○に分けたのと同じ手つきで。ページの上に、想定される場面を書いた。
場面A:先方が数字の誤りを指摘した場合。
→「ご指摘ありがとうございます。確認不足でした。申し訳ございません。本日中に修正版をお送りします」
場面B:先方が対応の遅さに不満を示した場合。
→「お待たせして申し訳ございません。現在の進捗をお伝えします」
場面C:先方が感情的に怒った場合。
→「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」
三つ書いた。三つとも、構造は同じだった。謝罪→事実認定→次のアクション。論理的だった。正しかった。
真琴はペンを置いた。ペンの軸がノートの罫線と平行になるように位置を直した。
──でも、これは「読む」ための文章だった。
謝罪は、読むものではない。言うものだ。声に出すものだ。相手の目を見て、相手の温度を感じて、その温度に合った速度で、口から出すものだ。
テンプレートを何枚書いても、口は動かない。
真琴は報告書の備考欄を見た。「発生する」。
発生する。何をしても、発生する。
明日の十五時に、真琴は固まる。固まって、謝罪が遅れて、信用を落とす。
分かっている。分かっていて、準備している。準備しているのに、準備が効かないことも分かっている。
矛盾していた。矛盾しているまま、真琴はノートにもう一つ、テンプレートを書き足した。
場面D:何が起きるか分からない場合。
→「──」
ダッシュだけ書いて、止まった。
何が起きるか分からない場合、何を言えばいいかも分からない。分からないことを準備することは、できない。
ノートを閉じた。封筒をテーブルの上に置いた。角を揃えた。
揃えた。でも今夜は、揃えても呼吸が楽にならなかった。
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2
翌朝。九時十五分。
真琴はデスクでメールを確認していた。B社の案件が動いている。昨日、真央がサービス追加の初回無償オプションを提案し、先方は前向きだった。今日は追加の確認事項をまとめて送る予定だった。
九時二十三分。真央が電話をかけた。B社の田中宛。
真琴は隣で、送付資料の最終チェックをしていた。数字を確認した。表の列幅を揃えた。注釈の位置を調整した。
九時三十一分。真央が電話を切った。
「ちょっと気になることがあって」
真央の声が、少し低かった。
「田中さん、昨日の提案はOKなんだけど、途中で"前回の報告書の数字、確認してもらえますか"って言ってた。前回の──先月の月次レポートのことだと思う」
「先月の?」
「うん。たぶん注釈のとこ。"暫定値"って書いてあった部分、確定値に更新されてるか気にしてるっぽい」
真琴の指が止まった。
先月の月次レポート。注釈。暫定値。
あのとき──真琴は注釈を「確認します、今日中に差し替えます」と言って修正した。修正した。確定値に更新した。更新して、送った。
送った──はずだった。
「送ったよね?」
「送った。確定版は送ってる」
「だよね。じゃあ、先方の手元にあるのが古いバージョンなのかも」
古いバージョン。
つまり、真琴が送った確定版が正しく届いているかどうか。あるいは、先方の担当者が古いファイルを見ているだけかもしれない。あるいは──送付時にファイルを間違えた可能性。
可能性。可能性が三つ浮かんだ。どれが正しいか、今の段階では分からない。
「確認する。送信履歴を見る」
「うん、お願い」
真琴はメールの送信履歴を開いた。先月の日付。B社宛。添付ファイル。
ファイル名を見た。
「Report_B_Monthly_v2_final.xlsx」
開いた。注釈を確認した。
「確定値」と書かれていた。正しかった。送った内容は正しかった。
──でも。
送信日時を見た。当日の18時47分。月次レポートの共有期限は18時だった。
四十七分遅れている。
遅れた理由は覚えている。あの日、真琴は注釈の文言を三回書き直した。「暫定値」を「確定値」に変えるだけではなく、注釈全体の表現を整えた。整えるのに時間がかかった。正確にしようとして、遅れた。
遅れは四十七分。致命的ではない。でも、先方がその四十七分の間に古いバージョンを印刷して会議に使っていたら──
古いバージョンが「公式」として扱われている可能性。
真琴の胃の底が、冷えた。
---
3
十四時五十五分。
オンライン会議の接続が始まった。会議室に真琴と真央がいた。画面に先方の顔が映った。三人。田中、その上司の前川、もう一人は初めて見る顔だった。
音声確認。画面共有のテスト。挨拶。短い雑談。真琴は相槌を打った。声は平坦だった。まだ本題に入っていない。まだ大丈夫。
田中が口を開いた。
「今日は前川も同席します。それと、管理部の吉村です」
管理部。
管理部が出てくるということは、案件が「営業」の範囲を超えている。信用の問題、あるいは契約の問題として、社内でエスカレーションされている。
真琴の背筋が、少しだけ硬くなった。
十五時〇〇分。榊原が入室した。画面の右下に名前が表示された。
田中が話し始めた。
「先日のサービス追加の提案、前向きに検討しています。ただ、一点確認したいことがあって」
「はい」
「先月の月次レポートなんですが、うちの手元にあるバージョンと、最新版で数字が違っています」
真琴の心臓が一回、強く打った。
「前回のミーティングで共有いただいた資料では"暫定値"となっていた数字が、最新版では"確定値"に変わっています。差額は──小さいんですが、うちはその暫定値をベースに稟議を通してるんです」
暫定値をベースに稟議を通している。
つまり、先方は古い数字で社内決裁を取った。真琴が送った確定版は、先方の稟議のあとに届いた。四十七分の遅れが、先方の意思決定プロセスと噛み合わなかった。
数字の差は小さい。でも、「報告された数字と違う数字で決裁を取った」という事実が、先方の管理部にとっては問題になる。
前川が口を開いた。
声は穏やかだった。怒鳴っていなかった。声量は普通だった。速度も普通だった。
「正しいとか間違ってるとかじゃないんですよ。そこじゃないんです」
真琴の呼吸が、止まった。
「こちらは、あなた方を信用して時間を使ったんです。稟議にかける準備も、社内の調整も、全部あの数字をベースにやった。その数字が"暫定"だったこと自体は分かってます。でも、確定版が届いたのが稟議の後だった。こちらの時間に対して、まず何を言うべきか──わかりますよね?」
わかっている。
わかっている。謝罪だ。
最初に、謝罪だ。
真琴の口が開かない。
---
4
開かない。
喉の奥に言葉がある。「申し訳ございません」が、喉の筋肉の間に挟まっている。形はできている。音にならない。
テンプレートを作った。昨夜、ノートに四パターン書いた。場面Cが一番近い。「申し訳ございません。まず、こちらの不手際です」。書いた。覚えた。覚えたはずだった。
でも、前川の怒り方が違った。
想定していたのは「数字が違う」という指摘だった。論点が明確で、反論か訂正で応答できる種類の怒り。
前川は数字の話をしていない。「時間」の話をしている。「信用」の話をしている。正しいか間違っているかではなく、「あなた方は、こちらの時間をどう思っているのか」と聞いている。
それに対する正解が、真琴の中にない。
一秒。
画面の中で、前川の目がこちらを見ていた。田中は少し下を向いていた。管理部の吉村はペンを持ったまま動かなかった。
二秒。
隣で真央が目配せした。目の端に真央の動きが映った。真央の口が小さく動いた。何か──「言って」と読める形だった。
言えない。
何を言えばいい。「申し訳ございません」でいいのか。「こちらの不手際です」でいいのか。それで前川の言う「まず何を言うべきか」に答えたことになるのか。正しい言葉はどれだ。正しい順番は何だ。正しい──
三秒。
体が固まっていた。
報告書の通りだった。状態:固まる。十五時に固まる。書かれた通りに、書かれた時刻に、真琴は固まった。
画面の右下に、通知が浮いた。
---
5
木下修一。CS部門統括マネージャー。榊原の上。真琴から見れば二階層上の人間。
一行だけだった。
> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」
一行。
真琴はその文字を読んだ。読んだ瞬間、喉の中で詰まっていたものが、ほんの少しだけ動いた。
動いた理由は、内容ではなかった。「今すぐ」という二文字が、思考を止めた。考える前に動け、と書いてある。考えて動くのではなく、動いてから考えろ、と書いてある。
正しい言葉を探していた。探すのをやめた。
探すのをやめた瞬間、口が開いた。
「──申し訳ございません」
声が出た。
声が出た。震えていた。平坦ではなかった。安定していなかった。喉の奥から押し出された音は、かすれていて、細くて、きれいではなかった。
でも、出た。
「確定版の送付が遅れたことで、御社の稟議にご迷惑をおかけしました。こちらの不手際です」
言った。言えた。テンプレート通りではなかった。場面Cの文章とも違っていた。でも、順番は合っていた。謝罪が最初に来た。説明はまだしていない。言い訳も、していない。
前川の顔が、ほんの少しだけ変わった。怒りが消えたのではない。怒りの中に、「聞く用意」が混ざった。
五秒前まで、前川は「何を言うべきか分かるよね?」と待っていた。待っている間の五秒は、信用が落ちていく五秒だった。
信用は落ちた。
落ちたけれど、落ち続けることは止まった。
---
6
「──ここからは、三十分で対応の道筋をお示しさせてください」
真琴の声は、まだ震えていた。でも、動いていた。固まっていた体が、少しずつ溶けていた。溶けた部分から、言葉が出ていた。
テーブルの上のノートを開いた。昨夜書いたテンプレートではなく、白紙のページを開いた。白紙に、今この瞬間の手順を書いた。
「まず、事実関係を整理します。先月の送付タイミングと、御社の稟議日程の突合を本日十六時までに完了します」
書きながら言った。言いながら書いた。手と口が同時に動いている。初めての感覚だった。
「次に、数字の差分が御社の稟議内容に影響するかどうか、影響範囲を確認します。こちらは白石と二名体制で、明日の午前中までに一次回答します」
真央が頷いた。小さく、確実に。真琴の言葉を拾って、自分のメモに書き込んでいる。
「三点目として、今回の送付遅延の原因と再発防止策を、今週中にまとめて共有します」
三つ。
三つの手順を、声に出した。完璧ではなかった。三つ目の「今週中」は曖昧だった。榊原ならもっと具体的な日時を入れただろう。木下なら、もっと短い期限を切っただろう。
でも、三つ出した。固まっていた体から、三つの手順が出た。
前川が言った。
「……分かりました。まず、十六時の件を待ちます」
声のトーンが、少しだけ下がった。怒りが消えたのではない。怒りの上に、「対応を見る」という判断が乗った。怒りながら待つことを選んだ。
それは信用ではなかった。猶予だった。
猶予をもらった。
---
7
会議が終わった。画面が暗くなった。
真琴はテーブルの上に両手を置いた。
手が震えていた。
会議の間は気づかなかった。声が震えていることには気づいていた。でも手が震えていることには気づかなかった。手はノートに字を書いていたから、震えを文字に変換していた。文字を書き終わった今、変換先がなくなって、震えが手に戻ってきた。
真央が立ち上がった。
「真琴」
「……うん」
「十六時、一緒にやろう。送信履歴と稟議日程の突合、私が先方スケジュールの方やる」
「──ありがとう」
声が小さかった。自分の声が、自分でも聞こえないくらい小さかった。
榊原がオンラインのまま声をかけた。
「真琴。木下さんにも報告しておく。三十分の立て直し、ちゃんとやれ」
「はい」
チャットを見た。木下からのメッセージが一行だけ残っていた。
> 「今すぐ謝罪。説明は後。三十分で立て直す」
この一行がなかったら。
この一行がなかったら、真琴はまだ固まっていただろう。五秒が十秒になり、十秒が三十秒になり、前川は「もういいです」と言って通話を切っただろう。
一行が、四秒目の終わりに届いた。
五秒目に、真琴は動いた。動けた。自分の意志だったのか、木下の言葉に押されたのか、分からなかった。
分からなかったけれど、動いた。
それだけが、事実だった。
---
8
十五時十八分。
真琴は会議室を出た。廊下を歩いた。トイレに入った。
手を洗った。
水が冷たかった。冷たい水が指の間を通って、シンクに落ちた。指を見た。震えが少しだけ収まっていた。少しだけ。まだ指先に振動が残っている。心臓の鼓動が指の末端まで届いている。
鏡を見た。
自分の顔が映っていた。いつもの顔だった。目の下に影がある。唇が少し乾いている。それ以外は、いつもと同じだった。
固まった人間の顔は、外からは分からない。
会議室で前川に見られていたとき、真琴の顔はどう見えていただろう。黙っている人間。黙って、何かを考えている人間。あるいは、何も考えていない人間。外側からは区別がつかない。
でも内側では、すべてが止まっていた。
止まっていた。そして、動いた。
真琴は両手で顔を覆った。冷たい水がついた手のひらが、頬に触れた。冷たさが心地よかった。冷たさが、現実だった。
──死んでない。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。大げさだった。死ぬような場面ではなかった。クレーム対応で、謝罪が五秒遅れて、信用が少し落ちた。それだけだ。命に関わることではない。
でも、真琴の体は「死ぬかもしれない」と思っていた。固まっている間、呼吸が浅くなり、心拍が上がり、指先が冷え、視野が狭くなった。体は、生存の危機として処理していた。
その危機を、通過した。
通過したあと、体に残っているのは震えと冷たさだった。でもその下に、別のものがあった。
──経験。
この五秒間を、体が記憶した。固まって、動いて、声を出して、手順を示した。その一連の動作が、筋肉のどこかに刻まれた。
次に同じことが起きたら、五秒が四秒になるかもしれない。四秒が三秒になるかもしれない。なるかどうかは分からない。でも、ゼロ回と一回は違う。
一回、経験した。
真琴は顔から手を離した。鏡の中の自分の顔を見た。目が少しだけ赤かった。泣いたのではない。力を入れすぎたのだ。
水を止めた。手を拭いた。ハンカチをポケットに押し込んだ。
揃えられなかった。けれど、それで世界は壊れなかった。
---
9
十六時。
約束通り、事実関係の突合を先方に送った。
送ったのは真琴だった。真央がスケジュール情報を整理し、真琴が送付履歴とファイルのバージョンを照合した。四十七分の遅延と、先方の稟議承認時刻との関係を時系列で示した。
結論は明確だった。確定版の送付が稟議承認の四十七分後だった。数字の差分は全体の〇・三パーセント。稟議の結論に影響する規模ではない。ただし、「確定版が届く前に決裁した」という事実が管理部の記録として残る。
送信ボタンを押した。
押した瞬間、胸の中で何かが軋んだ。これで終わりではない。明日の午前中に一次回答。今週中に再発防止策。まだ続く。まだ終わらない。
でも、一つ送った。
一つ送ったという事実が、胸の軋みの隣に、小さな温度を作った。ぬるくはなかった。熱くもなかった。ただ、「動いた」という温度だった。
十六時二十分。先方から返信があった。
> 「確認しました。明日の回答をお待ちします」
一行だった。感情がなかった。怒りもなかった。許しもなかった。ただ、「待つ」と書いてあった。
待ってくれている。
まだ、切られていない。
---
10
十九時十二分。
退勤した。駅に向かって歩いていた。空が暗かった。街灯がオレンジ色に光っていた。
スマートフォンが鳴った。チャット。高瀬慎。
> 「今日の件、聞きました。大変でしたね」
指が画面の上で止まった。
高瀬が知っている。A社との合同定例に途中参加する立場だから、CS内の情報は回ってくる。B社の件も、耳に入ったのだろう。
「大変でした」と返そうとした。やめた。それは事実だが、それだけでは何も伝えていない。
「──固まりました。最初の五秒」
打った。送った。
送ってから、後悔した。弱さを見せた。弱さを見せる相手を選んでいる。高瀬に見せたいのか、高瀬にしか見せられないのか。どちらなのか分からなかった。
既読がついた。三点リーダが表示された。
> 「五秒で立て直したなら、十分です」
真琴は立ち止まった。
歩道の真ん中で立ち止まった。後ろから来た人が横を通り過ぎた。気づかなかった。
五秒で立て直した、と高瀬は言っている。真琴は五秒「固まった」と言った。同じ五秒を、高瀬は「立て直した時間」として捉えている。
> 「失敗しても、戻せたなら十分です。うまくやるより、早く戻せる人の方が、信用されますよ」
二つの文が、画面に並んだ。
失敗しても、戻せたなら十分。
それは、報告書の言語ではなかった。報告書は「失敗」と「回避」の二値だった。失敗するか、しないか。〇か×か。グラデーションがなかった。
高瀬の言葉には、グラデーションがあった。失敗する。でも戻す。戻せたなら、それは十分だと。
十分。
真琴は画面を見た。返信を打った。
> 「戻せたかどうか、まだ分かりません。明日の回答次第です」
正直だった。正直すぎたかもしれない。でも、嘘は打てなかった。
高瀬からの返信。
> 「明日も、戻す側にいてください。応援してます」
応援。
真琴は歩き始めた。スマートフォンをポケットに入れた。入れるとき、角度を気にしなかった。ポケットの中で斜めになっていても、直さなかった。
高瀬の言葉が、胸の中にあった。冷たくはなかった。熱くもなかった。ただ、あった。
失敗しても、戻せたなら十分。
まだ信じられない。でも、聞いた。聞いたことは、消えない。
この温度を失いたくない、と思った瞬間がいちばん怖い。
---
11
二十時四十三分。
帰宅した。靴を脱いだ。靴の向きを──揃えた。これは、まだやめられない。
テーブルに座った。
今日を振り返った。
十五時。固まった。五秒。声が出なかった。報告書の通りだった。
でも、六秒目に動いた。
動いて、謝罪した。テンプレート通りではなかった。準備は効かなかった。準備が効かないことを知った。それでも声は出た。
声が出たあと、手順を三つ示した。三つとも完璧ではなかった。三つ目は曖昧だった。曖昧でも、出した。出したら、先方は「待つ」と言った。
信用は落ちた。
報告書の通りだった。謝罪の初動は遅れた。先方の不信感は上がった。報告書が予告したことは、すべて起きた。
すべて起きた。
でも、報告書が書いていないことも起きた。
真琴が立て直したこと。三十分で対応の道筋を示したこと。先方が「待つ」と言ったこと。真央が横で支えたこと。榊原が「ちゃんとやれ」と言ったこと。木下の一行が届いたこと。
報告書は、失敗だけを書く。回復は書かない。
回復は、真琴が自分で書くものだった。
──今日、自分は回避できなかった。
できなかった。完璧には避けられなかった。五秒、固まった。信用を落とした。
でも、処理できた。
処理は、回避とは違う動詞だった。回避は「起きないようにする」こと。処理は「起きたあとに動く」こと。
今まで真琴は、回避だけを練習してきた。起きないようにすることだけに全力を注いできた。起きないようにして、起きなかったことを安堵して、安堵の甘さに沈んでいた。
今日初めて、起きたあとに動いた。
動いた結果は、完璧ではなかった。先方は怒っていた。信用は落ちた。明日もまだ続く。
でも、致命傷にはならなかった。
致命傷にならなかったのは、運ではなかった。六秒目に動いたからだった。三十分で手順を出したからだった。真央が隣にいたからだった。木下の一行が届いたからだった。
一人で完璧に避けることはできなかった。
一人ではないから、不完全でも生き延びられた。
この感覚は初めてだった。
真琴は手を見た。もう震えていなかった。指先の冷たさも、戻っていた。体温が通っていた。
手を握った。開いた。握った。開いた。
動く。手が、動く。
今日の五秒間で止まった手が、今は動いている。
でも同時に、恐怖も生まれていた。
また同じことが起きたら? 次も動けるか? 次も木下の一行が届くか? 次も真央が隣にいるか?
一人だったら。
一人で、あの五秒を迎えたら。
その恐怖が、胸の底に沈んでいた。今日の経験の隣に、新しい恐怖が生まれていた。経験と恐怖が、同じ場所に並んでいた。
---
12
二十一時十五分。
ポストを確認した。
封筒があった。
白い封筒。いつもと同じ。
開けた。
---
> 失敗報告書
>
> 対象者:綾瀬真琴
>
> 明日、あなたは"隠す"。
---
それだけだった。
事象がない。時刻がない。発生条件がない。結果がない。状態がない。備考がない。
一行だけ。
「明日、あなたは"隠す"」。
何を隠すのか。いつ隠すのか。なぜ隠すのか。書かれていない。何も書かれていない。
白い紙の中央に、一行だけが印刷されている。余白が広い。余白の広さが、圧だった。情報がないことが、情報だった。
今までの報告書は、少なくとも「何が起きるか」を教えてくれた。数字の間違い、名前の間違い、言い訳、判断の遅れ。内容を知っていたから、対策を立てられた。対策が効かないことはあっても、準備する行為そのものが心を保っていた。
今回は、準備の対象がない。
隠す。
何を?
真琴はテーブルの上に封筒を置いた。角を揃えようとした。
手が止まった。
今日、トイレでハンカチを揃えなかった。揃えられなかったけれど、世界は壊れなかった。
今、余裕はあるのかないのか。
分からなかった。
封筒の角が、テーブルの端と平行になっていなかった。少しだけ傾いていた。一ミリか二ミリ、ずれていた。
直さなかった。
直さなかったのではない。直そうとして、途中で力が抜けた。今日一日の疲労が、指先から芯まで浸透していた。揃える体力が、残っていなかった。
ずれたまま、封筒がテーブルの上にあった。
真琴はそれを見ていた。
ずれている。不完全だ。気持ち悪い──はずだった。気持ち悪いはずなのに、今夜は気持ち悪さの手前に、別の感覚があった。
疲れた。
ただ、疲れた。
疲れているとき、人は不完全を許す。許すのではなく、不完全と戦う力が残っていないだけだ。でも、結果として──ずれたまま、世界は続いている。
封筒はずれていた。テーブルの端と平行ではなかった。
それでも、何も起きなかった。
真琴は椅子に深く座った。背中が背もたれに沈んだ。天井を見た。白い天井。蛍光灯は消してある。台所の小さな灯りだけが、部屋を薄く照らしている。
明日、あなたは"隠す"。
今日、真琴は「怖い」を隠さなかった。高瀬に「固まりました」と言った。先方に「こちらの不手際です」と言った。隠さなかった。隠さずに、生き延びた。
なのに、明日は「隠す」と書かれている。
今日できたことが、明日できなくなるのか。
それとも──今日隠さなかったから、明日隠すものが別に生まれるのか。
分からなかった。
分からないまま、真琴は目を閉じた。
封筒がテーブルの上で、少しだけ傾いていた。
直さないまま、夜が来た。
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