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第三章:キャロライン
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眠れないまま朝を迎え、ガブリエルはクラウドと共に朝の仕事に取りかかっていた。
まだ辺りは暗く、温かい陽射しは射し込んでいない。だが今日は復活祭がある。それをまだ体験した事のないガブリエルは、楽しみにしていた。
「ガゼットさん、今日はいいお天気になりそうよ」
堂内に蝋燭を灯して回る、愛しい背中に声をかけた。
「あぁ、そのようだね」
クラウドは上品な笑みを口元に浮かべると、リヤサの裾を僅かに引きずりながら先へと向かった。その後を追いながらガブリエルは、昨夜クラウドに懇願して許されたキスの感触を思い出していた。
クラウド・ガゼットと言う老人は、このソレニティ大聖堂の司教補佐を務めている。出会った時から真面目で、一緒にベッドへ入る事も拒否していた。その理由を宗教上の問題だと彼は言っていたが、結局クラウドはガブリエルを許容した。そこに深い慈悲以上のものを感じていたが、ガブリエルは口にしなかった。
言えばきっと怒るだろうと思っていた。
以前の記憶を忘れてしまっていても、無理に思い出す努力はしなかった。1人で寂しい思いをしている訳ではなかったし、何よりガブリエルはクラウドを好きになっていた。もし記憶を思い出したら、この気持ちも、クラウドの事も、消えてしまうのではないかと恐れていた。
しかし、努力を全く怠っていた訳ではない。毎朝の祈りに、ガブリエルは聖母マリアへと願っていた。
──記憶が戻りますように……
もし今取り戻せしたとしても、クラウドは喜んでガブリエルを送ってくれるだろう。
──まだ大丈夫だ。
まだきっと悲しくない。
まだクラウドを愛していない。
だが日に日にガブリエルの胸に芽生える好き、と言う感情は、ついにあの日愛に変わった。
ガブリエルがピアノを弾く夢を見て、鐘楼でクラウドの歌声を聞いた日だ。
──何といい声なのだろう。
低く、だがそれだけではない。クラウドは少し嗄れたような声だが、深みがあって、ガブリエルは胸を貫かれた。
また、恋しい気持ちを奏でるクラウドの声は、その曲を書いた本人のように感情豊かだった。
まるで、自分に歌われているようだと錯覚させる目線。ガブリエルは奏でながら、クラウドと1つに重なったのだと感じた。
現実にクラウドと結ばれる事はない。
ガブリエルはただの娘であり、彼は聖職者だ。
それはとても崇高な職業であり、高潔で清らかな心身でもって神に仕えるのだ。
だが夢に現れるクラウドは、少々掟を破るような、ガブリエルに都合のいい男である事もしばしばあった。それは夢なのだから、多少の理想や願望が反映しているのだ。
彼は優しくガブリエルを抱き締めたり、愛を囁いたりする。そんな夢を見た朝には、ガブリエルの胸ははち切れんばかりに高鳴っていた。
だがそれも、もう夢だけでは我慢出来なくなっていた。その理由を、ガブリエルはクラウドの歌のせいだと感じていた。
──あれは狡い。
そう思ったが、言わなかった。言えば自分が、本当に子供のように思えるからだ。
募る想いを暴走させない為に、毎日ガブリエルは耐えた。だがそれも焼け石に水で、明日が特別な日なのだと思うと、途端努力は虚しく爆発した。
それにクラウドは怒りこそしなかったが、酷く困惑し、そして自らの想いを告白してくれた。
嬉しくて堪らなかったが、すぐにそれは悲しみに変わった。
──いくら気持ちが通じていようとも、それ以上の事はないのだ。
神様は意地悪だ、とガブリエルは、クラウドの背中を追いながら思った。
何故神は、クラウドを聖職者にしたのだろう?もしそうじゃなかったら、いくらでも自由に結ばれただろうに。
「ねぇガゼットさん、どうして聖職者になろうと思ったの?」
鐘楼へと、細い螺旋階段を上がる。クラウドはするするとリヤサを引きずり、ガブリエルの前にいた。
「私がこの職に就こうと思った理由かね。それを聞いてどうするのだね?」
少しガブリエルを振り返ったクラウドは、相変わらずツンとしている。
「聞きたいの。ねぇ、教えて」
階段を2段飛ばしてクラウドのすぐ後ろまで追い付くと、ガブリエルはリヤサの裾を僅かだけ持ち上げてやった。とても手触りのいい黒いリヤサは、クラウドによく似合っていた。
「この大聖堂の美しさと荘厳さに惹かれて、私が10歳の時に決めたのだ」
鐘楼に着くと、クラウドは大きな鐘を見上げた。その目には慈しみが含まれていて、ガブリエルは少しだけムッとした。
「そうね、とても綺麗だもの」
そう言うと、ガブリエルはクラウドを追い越し、復活祭に賑わう街を見下ろした。
その時ふと、雨樋に光を見たガブリエルは、よくよく目を凝らした。するとそこに、美しい青色をした石が引っ掛かっていた。
「まぁ、あれは何かしら?」
体を折り曲げて指先を懸命に伸ばしてみるが、あと少しで届かなかった。
「何だね?」
クラウドも歩み寄ってくると、ガブリエルと同じ様に雨樋を見下ろした。
「とても綺麗な石があるわ」
「あれは……」
そう言ったクラウドの横顔が曇った。さては、あれはクラウドのものなのかとガブリエルは思った。
「私が取ってあげるから」
そう言って再び体を折り曲げると、今度は爪先をぎりぎりまで伸ばしてみた。すると指先は微かに石を撫でた。あと少し、と爪先を上げた途端、ガブリエルの体がぐらついた。
「ガブリエル!」
クラウドが庇い、ガブリエルは鐘楼の中に尻餅をついた。だが変わりにクラウドが体勢を崩してしまい、鐘楼から落ちて雨樋に手をかける事になってしまった。
「ガゼットさん!」
ガブリエルは顔面蒼白になりながら、慌てて縁から手を差し出した。その時腕を酷く擦りむいて血が出たが、構いやしなかった。
「手を伸ばして!」
互いに手を伸ばすと、クラウドはガブリエルの腕を掴んだ。だが力の弱いガブリエルは、クラウドを引っ張り上げる事が出来なかった。
「もういい……ガブリエル、私はもういい」
諦めたような笑みを浮かべたクラウドは、ガブリエルの腕から手を放した。だが間髪のところでガブリエルはクラウドの手を掴むと、彼を叱咤した。
「諦めないで!すぐ、私が助けるから……ねぇ、そんな顔しないで!」
指先からは、徐々に力が抜けて行く。それに従い、クラウドの体は下がって行った。
「君まで落ちる事はない。ガブリエル、お前は……お前だけは生きておくれ」
そう言うと、ガブリエルの手からクラウドは放れて行った。
「いやぁ!クラウド!」
ガブリエルは声を張り上げた。その時、擦りむいた腕から血が滴ると、まだ雨樋に引っ掛かっている石に落ちた。途端辺りは目映い光りに包まれ、ガブリエルは思わず目を閉じた。
「俺を呼んだのはお前か?」
クラウドとは違う、何者か分からない声がして、ガブリエルは目を開いた。すると目の前に、真っ黒く巨大な、悪魔のような者がいた。
「クラウド!」
その姿に驚きつつ、ガブリエルはクラウドを呼んだ。するとクラウドは、その得体の知れない何かに摘ままれ、浮いていた。
「あぁ、神様!」
助かった奇跡にガブリエルは涙した。すると巨大なそれは、契約をしろ、と言ってきた。
「契約をしたら、お前の願いは叶えられる」
「え……?でも貴方、彼を助けてくれたんじゃないの?」
そうガブリエルが言うと、そいつは笑った。クラウドは大きく揺れ、短い悲鳴を上げた。
「たまたま掴んだだけだ。俺には関係のない奴だしな」
摘まんだクラウドを顔の高さまで持ち上げたそいつは、今にも彼を放してしまいそうだった。
「待って!私の願いは彼を助ける事よ!」
慌ててそう言うと、そいつは、それなら契約を、と言った。
「止すのだ、ガブリエル!こいつは悪魔なのだぞ!」
クラウドが手足をバタつかせたが、そいつは笑って何処からか紙を取り出し、ガブリエルへと渡してきた。
「いかにも、俺は悪魔だ。だが名はある。ゼフィルだ」
どこかで聞いたような名前だったが、今のガブリエルには、それを深く考える余裕もなく、反対するクラウドをじっと見つめてから、血で用紙に自分の名前を書いた。
「ガブリエルだと?ふん、偽名は止せ。お前はキャロライン……俺はお前を知っている」
用紙を突っ返したゼフィルは、困惑するガブリエルを睨んできた。だがガブリエルには、これしか自分の名前は分からなかった。ゼフィルにキャロラインと言われても、やはり聞き覚えがあるだけで、ピンとこない。
「何だ、忘れてるのか?相変わらず……呆けてやがる」
そう言ったゼフィルは、クラウドを鐘楼の中に放り入れると煙に包まれた。
「クラウド!」
倒れるクラウドに駆け寄り、そっと体を起こしてやった。だがクラウドの顔は怒りに満ちていて、ガブリエルを睨んだ。
「奴は悪魔なのだ!契約をしてはならぬ!それに、私は悪魔に救われてまで生き長らえたくはない」
ガブリエルは大きなショックを受けたが、心神深いクラウドの言う事も最もだと思った。だがそれ以上に、クラウドには生きていて欲しかった。
「ごめんなさい……」
俯くと、視線の先に靴が見え、ガブリエルは顔を上げた。すると見知らぬ、蛇のような顔をした男がいた。
「貴方は……誰?」
そう言ってはみたが、ガブリエルの体は言いようのない緊張に包まれていた。
──彼を知っている気がする……
「俺はゼフィルだ。キャロライン、まさかお前が契約しちまうとはな……」
寂しい顔をし、ゼフィルはガブリエル達の側に屈んだ。
「お前……!あの悪魔なのか?」
「まぁな。アンタ……クラウド・ガゼットか。キャロラインを助けてくれたんだな」
2人は見つめあっていた。ガブリエルはそんな両者を交互に見遣っていたが、突然頭痛がして顔をしかめた。
──あぁ……私はキャロラインだ……
失っていた記憶が蘇り、ガブリエルは瞬きをしてからキャロラインになった。だが、クラウドの事は忘れてはいなかった。
「……そうか」
記憶の渦に巻き込まれている間に、2人は何か話しをしていたらしい。それがどのような会話か分からなかったが、キャロラインはゼフィルを見つめた。
「ゼフィル、貴方……大丈夫?」
そう言うと、2人は一斉にキャロラインを振り返った。ゼフィルは笑っていたが、クラウドは驚愕しているようだった。
「ガブリエル、お前は……」
「ガゼットさん、私、思い出したわ。私は彼を……ゼフィルと一緒に河へ飛び込んだの。そして……」
その後はクラウドもよく知っている事なので、口にするのは止めた。
「そう……か。記憶が戻ったのか……それは、何よりだ」
そう言うと、クラウドは立ち上がった。次いでゼフィルも立ち上がると、キャロラインを一瞥した。
「ガゼット、アンタはキャロラインを助けてくれた。だから今回は、その借りを返したって事で、契約は無かった事にしてやるよ」
キャロラインは目を見開いた。せっかくこうして会えたのに、またゼフィルはあのブルーサファイアに戻ってしまうのか。するとクラウドが、ツンとして言った。
「ほぅ……それで、私が喜ぶと思うのかね?だとしたら、お前は検討違いをしておる」
「何でだ?」
困惑して問い返すゼフィルを見つめながら、キャロラインはあの夜の事を思い出していた。
顔の傷を治してくれたゼフィルは、悪魔にされてブルーサファイアに閉じ込められた。それを解放する為には、次に願いを叶えて欲しい者を待たなければならない。
「先程、君が説明してくれたであろう。神を崇拝する私が、ガブリエル……いや、キャロラインか……彼女の愛する者を、悪魔のまま放っておけると思うのかね?それで私が、幸せだと思うのかね?」
そう言うと、クラウドはゼフィルに手を差し出した。
「アンタ、それでいいのか?聖職者が悪魔になんて……」
キャロラインは両手で口を覆った。クラウドの覚悟に、何と言えば分からない。キャロラインは2人を愛していた。何と欲張りな女だと、自分でも思う。だが、選ぶ事など出来やしない。
「ガゼットさん、そんな……」
やっとの思いで口を開いたが、それ以上は出てこなかった。するとクラウドは、キャロラインを優しい、鐘を見上げた時と同じ様な慈しみの眼差しで見つめてきた。
──あぁ、この人を止める事は出来ない……
キャロラインは直感的にそう思った。
「お前達はまだ若い。私はもう十分に生きたのだ。例え神に捧げた身心であろうと、君が幸せになるのなら喜ばしい事だ」
「ガゼットさん……私は……」
愛している、と言いたかった。だがそれをクラウドは遮った。
「契約書を……」
ゼフィルは黙ったまま、それをクラウドに手渡した。クラウドは指先を噛んで血を出すと、それで自身の名前を書いた。
「今日は復活祭だ。キャロライン、君の恋人が復活するのだ、泣くんじゃない」
そう言ったクラウドと、ゼフィルの体は光りに包まれた。
「クラウド……ありがとう……」
それが最後の言葉になった。
それを聞いたクラウドは、微笑みながらブルーサファイアへと消えた。途端光は太陽の輝きだけになり、残されたのはキャロラインとゼフィル、そしてブルーサファイアだけだった。
「ねぇ、ゼフィル……」
この街で暮らさない?そう言うと、ゼフィルは勿論、と答えてくれた。
キャロラインはブルーサファイアを拾うと、これを指輪にしようと思った。そうしたら、彼とも一緒にいられる。振り返ると、太陽の輝きで鐘が黄金に光っていた。それはとても神々しい。
2人は暫く抱き合っていた。
了
まだ辺りは暗く、温かい陽射しは射し込んでいない。だが今日は復活祭がある。それをまだ体験した事のないガブリエルは、楽しみにしていた。
「ガゼットさん、今日はいいお天気になりそうよ」
堂内に蝋燭を灯して回る、愛しい背中に声をかけた。
「あぁ、そのようだね」
クラウドは上品な笑みを口元に浮かべると、リヤサの裾を僅かに引きずりながら先へと向かった。その後を追いながらガブリエルは、昨夜クラウドに懇願して許されたキスの感触を思い出していた。
クラウド・ガゼットと言う老人は、このソレニティ大聖堂の司教補佐を務めている。出会った時から真面目で、一緒にベッドへ入る事も拒否していた。その理由を宗教上の問題だと彼は言っていたが、結局クラウドはガブリエルを許容した。そこに深い慈悲以上のものを感じていたが、ガブリエルは口にしなかった。
言えばきっと怒るだろうと思っていた。
以前の記憶を忘れてしまっていても、無理に思い出す努力はしなかった。1人で寂しい思いをしている訳ではなかったし、何よりガブリエルはクラウドを好きになっていた。もし記憶を思い出したら、この気持ちも、クラウドの事も、消えてしまうのではないかと恐れていた。
しかし、努力を全く怠っていた訳ではない。毎朝の祈りに、ガブリエルは聖母マリアへと願っていた。
──記憶が戻りますように……
もし今取り戻せしたとしても、クラウドは喜んでガブリエルを送ってくれるだろう。
──まだ大丈夫だ。
まだきっと悲しくない。
まだクラウドを愛していない。
だが日に日にガブリエルの胸に芽生える好き、と言う感情は、ついにあの日愛に変わった。
ガブリエルがピアノを弾く夢を見て、鐘楼でクラウドの歌声を聞いた日だ。
──何といい声なのだろう。
低く、だがそれだけではない。クラウドは少し嗄れたような声だが、深みがあって、ガブリエルは胸を貫かれた。
また、恋しい気持ちを奏でるクラウドの声は、その曲を書いた本人のように感情豊かだった。
まるで、自分に歌われているようだと錯覚させる目線。ガブリエルは奏でながら、クラウドと1つに重なったのだと感じた。
現実にクラウドと結ばれる事はない。
ガブリエルはただの娘であり、彼は聖職者だ。
それはとても崇高な職業であり、高潔で清らかな心身でもって神に仕えるのだ。
だが夢に現れるクラウドは、少々掟を破るような、ガブリエルに都合のいい男である事もしばしばあった。それは夢なのだから、多少の理想や願望が反映しているのだ。
彼は優しくガブリエルを抱き締めたり、愛を囁いたりする。そんな夢を見た朝には、ガブリエルの胸ははち切れんばかりに高鳴っていた。
だがそれも、もう夢だけでは我慢出来なくなっていた。その理由を、ガブリエルはクラウドの歌のせいだと感じていた。
──あれは狡い。
そう思ったが、言わなかった。言えば自分が、本当に子供のように思えるからだ。
募る想いを暴走させない為に、毎日ガブリエルは耐えた。だがそれも焼け石に水で、明日が特別な日なのだと思うと、途端努力は虚しく爆発した。
それにクラウドは怒りこそしなかったが、酷く困惑し、そして自らの想いを告白してくれた。
嬉しくて堪らなかったが、すぐにそれは悲しみに変わった。
──いくら気持ちが通じていようとも、それ以上の事はないのだ。
神様は意地悪だ、とガブリエルは、クラウドの背中を追いながら思った。
何故神は、クラウドを聖職者にしたのだろう?もしそうじゃなかったら、いくらでも自由に結ばれただろうに。
「ねぇガゼットさん、どうして聖職者になろうと思ったの?」
鐘楼へと、細い螺旋階段を上がる。クラウドはするするとリヤサを引きずり、ガブリエルの前にいた。
「私がこの職に就こうと思った理由かね。それを聞いてどうするのだね?」
少しガブリエルを振り返ったクラウドは、相変わらずツンとしている。
「聞きたいの。ねぇ、教えて」
階段を2段飛ばしてクラウドのすぐ後ろまで追い付くと、ガブリエルはリヤサの裾を僅かだけ持ち上げてやった。とても手触りのいい黒いリヤサは、クラウドによく似合っていた。
「この大聖堂の美しさと荘厳さに惹かれて、私が10歳の時に決めたのだ」
鐘楼に着くと、クラウドは大きな鐘を見上げた。その目には慈しみが含まれていて、ガブリエルは少しだけムッとした。
「そうね、とても綺麗だもの」
そう言うと、ガブリエルはクラウドを追い越し、復活祭に賑わう街を見下ろした。
その時ふと、雨樋に光を見たガブリエルは、よくよく目を凝らした。するとそこに、美しい青色をした石が引っ掛かっていた。
「まぁ、あれは何かしら?」
体を折り曲げて指先を懸命に伸ばしてみるが、あと少しで届かなかった。
「何だね?」
クラウドも歩み寄ってくると、ガブリエルと同じ様に雨樋を見下ろした。
「とても綺麗な石があるわ」
「あれは……」
そう言ったクラウドの横顔が曇った。さては、あれはクラウドのものなのかとガブリエルは思った。
「私が取ってあげるから」
そう言って再び体を折り曲げると、今度は爪先をぎりぎりまで伸ばしてみた。すると指先は微かに石を撫でた。あと少し、と爪先を上げた途端、ガブリエルの体がぐらついた。
「ガブリエル!」
クラウドが庇い、ガブリエルは鐘楼の中に尻餅をついた。だが変わりにクラウドが体勢を崩してしまい、鐘楼から落ちて雨樋に手をかける事になってしまった。
「ガゼットさん!」
ガブリエルは顔面蒼白になりながら、慌てて縁から手を差し出した。その時腕を酷く擦りむいて血が出たが、構いやしなかった。
「手を伸ばして!」
互いに手を伸ばすと、クラウドはガブリエルの腕を掴んだ。だが力の弱いガブリエルは、クラウドを引っ張り上げる事が出来なかった。
「もういい……ガブリエル、私はもういい」
諦めたような笑みを浮かべたクラウドは、ガブリエルの腕から手を放した。だが間髪のところでガブリエルはクラウドの手を掴むと、彼を叱咤した。
「諦めないで!すぐ、私が助けるから……ねぇ、そんな顔しないで!」
指先からは、徐々に力が抜けて行く。それに従い、クラウドの体は下がって行った。
「君まで落ちる事はない。ガブリエル、お前は……お前だけは生きておくれ」
そう言うと、ガブリエルの手からクラウドは放れて行った。
「いやぁ!クラウド!」
ガブリエルは声を張り上げた。その時、擦りむいた腕から血が滴ると、まだ雨樋に引っ掛かっている石に落ちた。途端辺りは目映い光りに包まれ、ガブリエルは思わず目を閉じた。
「俺を呼んだのはお前か?」
クラウドとは違う、何者か分からない声がして、ガブリエルは目を開いた。すると目の前に、真っ黒く巨大な、悪魔のような者がいた。
「クラウド!」
その姿に驚きつつ、ガブリエルはクラウドを呼んだ。するとクラウドは、その得体の知れない何かに摘ままれ、浮いていた。
「あぁ、神様!」
助かった奇跡にガブリエルは涙した。すると巨大なそれは、契約をしろ、と言ってきた。
「契約をしたら、お前の願いは叶えられる」
「え……?でも貴方、彼を助けてくれたんじゃないの?」
そうガブリエルが言うと、そいつは笑った。クラウドは大きく揺れ、短い悲鳴を上げた。
「たまたま掴んだだけだ。俺には関係のない奴だしな」
摘まんだクラウドを顔の高さまで持ち上げたそいつは、今にも彼を放してしまいそうだった。
「待って!私の願いは彼を助ける事よ!」
慌ててそう言うと、そいつは、それなら契約を、と言った。
「止すのだ、ガブリエル!こいつは悪魔なのだぞ!」
クラウドが手足をバタつかせたが、そいつは笑って何処からか紙を取り出し、ガブリエルへと渡してきた。
「いかにも、俺は悪魔だ。だが名はある。ゼフィルだ」
どこかで聞いたような名前だったが、今のガブリエルには、それを深く考える余裕もなく、反対するクラウドをじっと見つめてから、血で用紙に自分の名前を書いた。
「ガブリエルだと?ふん、偽名は止せ。お前はキャロライン……俺はお前を知っている」
用紙を突っ返したゼフィルは、困惑するガブリエルを睨んできた。だがガブリエルには、これしか自分の名前は分からなかった。ゼフィルにキャロラインと言われても、やはり聞き覚えがあるだけで、ピンとこない。
「何だ、忘れてるのか?相変わらず……呆けてやがる」
そう言ったゼフィルは、クラウドを鐘楼の中に放り入れると煙に包まれた。
「クラウド!」
倒れるクラウドに駆け寄り、そっと体を起こしてやった。だがクラウドの顔は怒りに満ちていて、ガブリエルを睨んだ。
「奴は悪魔なのだ!契約をしてはならぬ!それに、私は悪魔に救われてまで生き長らえたくはない」
ガブリエルは大きなショックを受けたが、心神深いクラウドの言う事も最もだと思った。だがそれ以上に、クラウドには生きていて欲しかった。
「ごめんなさい……」
俯くと、視線の先に靴が見え、ガブリエルは顔を上げた。すると見知らぬ、蛇のような顔をした男がいた。
「貴方は……誰?」
そう言ってはみたが、ガブリエルの体は言いようのない緊張に包まれていた。
──彼を知っている気がする……
「俺はゼフィルだ。キャロライン、まさかお前が契約しちまうとはな……」
寂しい顔をし、ゼフィルはガブリエル達の側に屈んだ。
「お前……!あの悪魔なのか?」
「まぁな。アンタ……クラウド・ガゼットか。キャロラインを助けてくれたんだな」
2人は見つめあっていた。ガブリエルはそんな両者を交互に見遣っていたが、突然頭痛がして顔をしかめた。
──あぁ……私はキャロラインだ……
失っていた記憶が蘇り、ガブリエルは瞬きをしてからキャロラインになった。だが、クラウドの事は忘れてはいなかった。
「……そうか」
記憶の渦に巻き込まれている間に、2人は何か話しをしていたらしい。それがどのような会話か分からなかったが、キャロラインはゼフィルを見つめた。
「ゼフィル、貴方……大丈夫?」
そう言うと、2人は一斉にキャロラインを振り返った。ゼフィルは笑っていたが、クラウドは驚愕しているようだった。
「ガブリエル、お前は……」
「ガゼットさん、私、思い出したわ。私は彼を……ゼフィルと一緒に河へ飛び込んだの。そして……」
その後はクラウドもよく知っている事なので、口にするのは止めた。
「そう……か。記憶が戻ったのか……それは、何よりだ」
そう言うと、クラウドは立ち上がった。次いでゼフィルも立ち上がると、キャロラインを一瞥した。
「ガゼット、アンタはキャロラインを助けてくれた。だから今回は、その借りを返したって事で、契約は無かった事にしてやるよ」
キャロラインは目を見開いた。せっかくこうして会えたのに、またゼフィルはあのブルーサファイアに戻ってしまうのか。するとクラウドが、ツンとして言った。
「ほぅ……それで、私が喜ぶと思うのかね?だとしたら、お前は検討違いをしておる」
「何でだ?」
困惑して問い返すゼフィルを見つめながら、キャロラインはあの夜の事を思い出していた。
顔の傷を治してくれたゼフィルは、悪魔にされてブルーサファイアに閉じ込められた。それを解放する為には、次に願いを叶えて欲しい者を待たなければならない。
「先程、君が説明してくれたであろう。神を崇拝する私が、ガブリエル……いや、キャロラインか……彼女の愛する者を、悪魔のまま放っておけると思うのかね?それで私が、幸せだと思うのかね?」
そう言うと、クラウドはゼフィルに手を差し出した。
「アンタ、それでいいのか?聖職者が悪魔になんて……」
キャロラインは両手で口を覆った。クラウドの覚悟に、何と言えば分からない。キャロラインは2人を愛していた。何と欲張りな女だと、自分でも思う。だが、選ぶ事など出来やしない。
「ガゼットさん、そんな……」
やっとの思いで口を開いたが、それ以上は出てこなかった。するとクラウドは、キャロラインを優しい、鐘を見上げた時と同じ様な慈しみの眼差しで見つめてきた。
──あぁ、この人を止める事は出来ない……
キャロラインは直感的にそう思った。
「お前達はまだ若い。私はもう十分に生きたのだ。例え神に捧げた身心であろうと、君が幸せになるのなら喜ばしい事だ」
「ガゼットさん……私は……」
愛している、と言いたかった。だがそれをクラウドは遮った。
「契約書を……」
ゼフィルは黙ったまま、それをクラウドに手渡した。クラウドは指先を噛んで血を出すと、それで自身の名前を書いた。
「今日は復活祭だ。キャロライン、君の恋人が復活するのだ、泣くんじゃない」
そう言ったクラウドと、ゼフィルの体は光りに包まれた。
「クラウド……ありがとう……」
それが最後の言葉になった。
それを聞いたクラウドは、微笑みながらブルーサファイアへと消えた。途端光は太陽の輝きだけになり、残されたのはキャロラインとゼフィル、そしてブルーサファイアだけだった。
「ねぇ、ゼフィル……」
この街で暮らさない?そう言うと、ゼフィルは勿論、と答えてくれた。
キャロラインはブルーサファイアを拾うと、これを指輪にしようと思った。そうしたら、彼とも一緒にいられる。振り返ると、太陽の輝きで鐘が黄金に光っていた。それはとても神々しい。
2人は暫く抱き合っていた。
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