鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

17. 他学部でのハラスメント事案とTA面談

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 年が明けて授業が再開された火曜日の昼、逢宮大学准教授の鳴成秋史とTAを務める月落渉の姿は大学内の食堂にあった。
 3階の教職専用スペースにて対面で座る彼らの前には、茶色を基調としたパンの川が流れている。

「んん……先生、このピロシキ美味しいです」
「それは大変喜ばしいことですが、月落くん。せっかくあるのでサラダから食べましょうね?きみの血糖値の急上昇が心配です」
「先生の思いやりが嬉しいです。血糖値スパイク回避のために、研究室に帰ったらスクワットするようにしますね」
「良い心がけです。私はそれを鑑賞しながら、食後の紅茶を愉しむことにしましょう」
「先生も一緒にいかがですか?」
「遠慮します」

 コブサラダを食べ終え、チキンシチューのトーストサンドの包み紙を剥がす鳴成がそう言う。

 たっぷりレタスとハムのサンド
 明太マヨネーズのクッペ
 プルコギトルティーヤ
 スパムとワカモレのカルツォーネ
 グラタンコロッケパン
 白身魚のタルタルコッペ
 チリチーズドッグ

 干支である馬の顔の形をした練乳ホイップのクリームパンだけは川の流れを外れて、鳴成の手元に置かれている。
 デザートにと残しておくべきか、途中で食べてしまうか、悩むところだ。

「あらま、鳴成准教授とTAの月落渉さん、新年明けましておめでとうございます」

 プルコギトルティーヤに手を伸ばしていた月落の横からぬぬぬっと現れたのは、事務系職員の許斐ヨリ子である。
 彼女が、「お隣失礼しますね」と食事の載ったトレーを置くと、周囲にいた、主に女性陣から非難めいた声が漏れた。
 赤いうる艶リップを横に引き伸ばしながら、許斐は気にせずに月落の隣へと座った。
 持っていたミニバッグから、ピンクガネーシャ柄のハンカチを取り出している。

「明けましておめでとうございます、許斐さん」
「今年もよろしくおねが……と言うには僕は残り僅かな勤務生活でした。なので、今年も鳴成准教授をどうぞよろしくお願いします」
「かしこまりました。今年も来年もそれ以降もずっと、鳴成准教授に関する事務作業は私が誠心誠意承らせていただきます。それにしても月落さんはお辞めになるという噂が出回って以降、より一層ファンの方々からの弓矢が多くなられたようですね」

 許斐が視線を移す先には、食事をしているのかいないのか分からない頻度でちらちらとこちら側を窺い見る人々。
 赤い紐の職員証を首からぶら下げている面々が中心だが、中には青い紐の教員や緑の紐の技術系職員も含まれているようである。

 四方から突き刺さる矢じりを諸ともしない許斐は首元にハンカチをセットすると、タイのラーメンであるクイッティアオの大盛を大きな口で食べ始めた。
 汁物を食べているのに全く落ちないリップは新年でも健在だ。
 トーストサンドを半分ほど食べ終えた鳴成が、許斐に問う。

「アジアコーナーは新年からタイ推しだったようですね?」
「そうなんです。またまた一週間限定のようです。新年でお節料理とお汁粉をこれでもかと食べて、七福神もかくやというほどに幸せを蓄えたというのに、これからまたノーダイエットの日々が続きます。自分を甘やかしすぎだとは承知していますが、これも共通テストを乗り越えるための体力作りだというのを大義名分にして……だはっ」

 明るく言い放つ様子に微笑みながら、プルコギトルティーヤを爆速で胃に収めた月落はようやくコブサラダに手を伸ばす。
 咀嚼を止めた鳴成は、しばし馬の顔とにらめっこ中だ。

「先生、どうしました?包装、開けましょうか?」
「いえ、いつ食べようか悩んでいただけです。今にするか、最後にするか」
「ちなみに、今日の午後のスイーツは、カシスバターを紅茶の落雁で挟んだ和風クッキーサンドです。昨日、幼馴染から届いたのを直輸入しました」
「直輸入……封も開けず?」
「封も開けず」
「貰ってそのまま、ですか?」
「はい。右から左で持ってきました」

 月落は両手で箱を持つ仕草をすると、空中でそれを言葉通りに右から左に移動させた。

「あはは、それはほとんど横流しと同義ですね」
「幼馴染も僕が開けないのを見越して豪華な包装にしてくれたので、後で一緒に開けたいです」
「ええ、楽しみにしてます……では、このお馬さんとは今ここでさよならすることにしましょう」
「先生って、そういうのどこから食べる人ですか?」
「うーん、そうですね。無難に、耳からですね」
「たい焼きは?」
「尻尾です。これは流派が分かれますよね。きみは?」
「頭です。尻尾のカリカリを最後に食べたいので。許斐さんはどこからですか?」

 『つきなる』と勝手に命名して秘かに推している二人の、ほのぼのとした会話を盗み聞きしていた許斐はいきなり話を振られて、啜っていた麺を盛大に放出しそうになる。
 社会的に抹殺されないために、寸でのところで堪えたが。
 何とか飲み込みながら、何でもない顔で彼女は「お腹です」と答えた。

「真ん中からですか?珍しいですね」
「ええ、一番あんこが詰まっているところからバクっといくのが好きです。人生何があるか分かりませんから、その直後に不測の事態が起きたとしても、一口目が最大ハッピーだと後悔することも少ないかと思いまして」
「理由が斬新ですけど、許斐さんらしいですね。僕、頭か尻尾かしか考えませんでした。新流派だ……」
「今度、私も挑戦してみようと思います。一口目が最大ハッピー」
「お店、探しておきますね」
「それなら月落さん、たい焼きの御三家はご存じですか?」

 意外にもたい焼きマニアだった許斐によって、美味しいたい焼きの店のレクチャーがしばし行われた。




「あら、いけない。ついつい長居してしまいました」

 たい焼き談義に花を咲かせていた許斐は、腕時計を見ると急いで首元のハンカチを取った。
 まだ昼休憩と呼べる時間は残っているが、同じように帰り支度をしている赤紐の職員は多い。
 不思議そうに見上げる鳴成と月落に、許斐は謝罪と共に手短に事情を説明した。

「忙しなくて申し訳ございません。昨年11月に行われたハラスメント調査ですが、12月頭で一旦集計終了後、疑惑のある先生方への再調査を実施、必要に応じて面談が行われていました」
「僕たちTAも委員会の方々の前で面接をした、あの件ですか?」
「そうです。全学部生、全院生、そして全教職員にもウェブで匿名のアンケートに協力をしていただきました。ほとんどの先生方は対象外でしたが、一部で寄せられた意見がありましたので、それを元に面談を行った次第です。これから、その結果に基づく協議を委員会の方々と行う予定なんです」
「それは大変ですね。ハラスメントはデリケートな問題なので取り扱いも注意が必要となれば、許斐さんや事務職員の方の負担も大きいでしょう。中には独特な個性をお持ちの先生もいらっしゃる、と噂話に疎い私でも聞き及んでいますし」
「大きな声では言いにくいですが、取り扱い注意と書かれた名札持ちの先生や職員が数名在籍しているのは事実です。ですが、あの一件が比較的大きなものだったので、ここで対策を取らなければ大学の死活問題になりかねません。新年早々議題が重たいですが、タイ料理を食べて頑張ります。それでは失礼いたします」

 濃紺のジャケットの裾を直しながら立ち上がった許斐は、胸に手を当てて恭しくお辞儀をした。
 そして、ヒールの低い靴で床を踏みしめて帰って行った。

「一部の先生方にハラスメント疑惑が持ち上がったのは、中々穏やかじゃないですね」

 無糖のブラックコーヒーをペットボトルで飲む月落が、鳴成に視線を合わせる。
 組んだ両手の指先を動かしながら、鳴成は数度小さく頷いた。

「そうですね。パワハラ、セクハラ、アカハラ、その他差別的な発言など、閉ざされた空間の大学ではどれも日常的に起こりうる可能性が高いのは事実です。そのどれかの領域に踏み込んでしまった先生がいらっしゃるのであれば、とても残念です」
「現に11月の事件は大学内に激震が走りましたもんね。僕が面談した委員会の方々も、実は他大学でも意外と少なくない数の懲戒処分が行われていると仰ってましたし」
「きみが受けた、委員会の調査面談について伺っても?」
「はい。特に担当教員に口外厳禁という注意はなかったので、お話しても大丈夫だと思います」




―――――――――――――――




 時は遡ること2か月前の11月初旬。
 鳴成は臨時で開かれた、外国語学部英語学科の全教員に召集がかけられた会議に出席していた。
 ひとりの不参加もないようにと6限が終わった19時45分からの開催であった。

 登壇した学部長によって配られた分厚い資料に目を通しながら、鳴成は耳を傾ける。
 前方のスクリーンには、『他学部で発生したハラスメント事案について』という画面が映し出されている。

「ご多忙のなか、お集りいただきありがとうございます。夜も遅い時間帯ですので早速本題に入ります。先日、経済学部の学生から担当教授のセクシュアルハラスメントについての訴えがありました。しかしこの件は、大元を辿れば別の因果が絡まっている可能性があり、それはそれで大変問題のあるものでした。ですので、大学教員内で迅速に共有し同様の事象の有無を調査せよ、との通達が学長より発出されましたので、ここに共有いたします」

 事件のあらましはこうだ。

 経済学部経営学科で教鞭を執る50代の男性教授は、化粧品最大手メーカーの外部顧問を兼任している。
 そこに近づいたのは、大学3年生になったばかりの女子生徒だった。

 昨今の就活界隈では学生優位の売り手市場だからと学生を安心させるような表現が散見されるが、そこは一寸先は闇の時代。
 将来的に転職は視野に入れつつも新卒で入るならばやはり安定が一番、と各業界の大手企業に応募が殺到するのは当然だ。
 その狭き門の前では圧倒的に買い手市場であり、跳ね返されて倒れる挑戦者の影が後を絶たない。
 選考がどんどんと早期化するこも大学生の不安を煽り、その結果、とある女子学生の就活への意気込みはダークサイドへと堕ちてしまった。

 すなわち、ゼミの担当教授と個人的に仲良くなって、その教授が顧問を務める会社へと口利きをしてもらおうとしたのである。

 その作戦は、ゴールデンウィーク終了後から開始された。
 初めはゼミ終わりに少し会話する程度から。
 男性教授の他の授業を調べ、偶然を装って大学敷地内で出会う回数を増やした。
 徐々に距離を縮めていき、個人的な連絡先の交換、メッセージのやり取りを頻繁にするようになる。
 学外で会う約束を取りつけ、学校終わりで食事やカフェに行き、最終的には休日を一緒に過ごす間柄にまで発展した。

 そして夏休みも終わり、後期授業が開始となった頃。
 大学3年生が早期選考優遇のあるインターンシップへと果敢に挑戦ながら様々な経験を積む時期に、その関係には突然の終止符が打たれた。

 件の女子学生は日々の言葉の端々に、化粧品メーカーの内定への忖度を滲ませていた。
 にも関わらず結果は惨敗。
 選考に進むどころか、エントリーシート提出の時点で落ちてしまった。
 激怒した女子学生は教授に詰め寄ったけれど、『そんな根回しは出来ないと伝えたはずだ』と一刀両断され、さらに激怒した。

 コネのために好きでもないおじさんに媚びを売ったのに、全部水の泡。
 まだ春の本選考はあるけれど、大学で遊び放題してしまいアピールポイントのない自分に勝ち残れる自信はなくお先真っ暗。
 就職活動という人生最大の苦しみにもがく同級生を高みの見物でもしようと思っていたのに、時間も労力も気持ちも無駄になった。

 そう憤慨した彼女は、教授とのメッセージや録音していた会話内容をセクハラとして学生課に持ち込んで訴えを起こした。
 自分の思惑は一旦棚に上げられるのならば可能な限り棚に上げて、セクハラというファーストインパクトで教授を深海へと沈めてしまおうという力任せの強硬手段。

 10月初めに学生課へと駆け込んだ彼女の話は即刻相談窓口へと伝わり、ハラスメント防止委員会による調査が迅速に行われた。

「女子学生側から好意を持って近づいてきた、と教授は主張しておいででした。なおかつ、関係を持つ代わりに就職の斡旋を要求されていて、どちらかと言えば被害者だとご自身のことを形容されたようです。それについては現在調査中です。教授と学生が交わしていたメッセージのやり取りについては、名前の部分を伏せつつかいつまんで最後のページに載せてあります」

 一斉に紙を捲る音が響く。
 それだけで、関心の高さが分かるようだ。

「30歳も年齢の離れた異性に送るには不適切この上ない文面だと、常識をお持ちの方ならお感じになると思います。ご覧になるのは任意です。ご気分を害しても責任は取りかねますので、ご了承ください」

 中々に物騒な物言いに、けれど興味を引っ掻かれてしまった鳴成は、資料を最後のページまで捲る。
 そこには、以下の文字が印刷されていた。


 『おはよう~。今日のご機嫌はどうかな?
   昨日は楽しかったね。楽しい夜をありがとう。
   こんなおじさんになって、まさか観覧車に乗る日がくるなんて思いませんでした。
   しかも隣にはラブリーでプリティーな天使がいるなんて!最っ高!

   俺は世界一の幸せ者だね。
   こんなに純粋で性格も良くて俺の話をちゃんと聞いてくれる子が
   俺のゼミ取ってくれてデートもしてくれるなんて夢みたい。
   成績の話も出たけど、○○ちゃんは頑張ってるし
   俺もそこのところはちゃんと考えてるから心配しなくてだいじょぶ。
   大人に任せなさい。

   あのね俺ね、本気で妻とは別れてもいいと思ってるから。
   娘ももうすぐ成人するし、俺的には何の問題もないから。
   年齢の壁なんて客観的なもので、当事者の俺からしたらただの数字でしかない。
   本当に愛してるし、愛してるの上ってなんて表現したらいいんだろう?
   論文に載ってるか探してみようかな~なんて。
   痛い奴だって?ごめん。
   今度いっぱい抱きしめてあげるから許して。

   おじさんだけど○○ちゃんへの愛情は誰にも負けないよ~。
   ちゅきちゅき。会いたいくて会いたくて我慢が出来ない。
   俺のことこんなにしたんだから、ちゃんと責任取ってね?』


 閉じた。
 後悔しながらそっと閉じた。

 悪寒に似た壮絶に気持ちの悪い痺れが、腹部からも背中からも立ち昇る。
 その感覚に耐え切れずに思わず目も閉じた。
 脳裏に焼き付いてしまった情報を消去しようとするが、悲しいかな、無理だった。
 記憶として定着しないように願いながら瞼を持ち上げると、前に座る女性の准教授がそのページを取り外してビリビリに破り捨てているところだった。

 非難の声が多く上がる中でどこか表情を硬くする教員もいて、それは学部長をはじめ学科長や同席した事務職員によって秘かなチェック対象として認知された。

「女子学生からはセクハラ被害として届出が出されたため、該当教授への聴き取り調査が行われました。はじめは、女子学生側から好意を持って接触してきた、同意の上だったと教授は主張されていました。ですが、家庭を持ちながらも学生へ恋愛感情を抱いたことや、一線を越える関係への発展を迫ったのは教授からであったことを、最終的にお認めになりました。10月末付けで諭旨解雇処分となっています」

 世知辛いな、と鳴成は胸の内で思う。
 けれど、そこに同情の余地はないなとも思う。

 高校生からほんの少し階段を上がっただけの、精神的に未成熟な世代を相手にする大学教職員は、鋼の精神を持っていなければならない。
 判断能力は発展途上の子供たち。
 ハリボテで作られた理屈でも、尤もらしい口車で論ぜられれば容易に騙されてしまう若者に対して、歴とした大人が個人的な感情を抱くのは正常ではない。
 たとえばそれが、学生たちと同年代の若い教職員とであれば、万が一で成立する関係性もあり得るだろうが、極稀なケースだ。
 枠の中に囲われ守られている存在に、年の離れた、親と同世代の者が手を出すなどあってはならない。

 だからこそ、今回の教授に関しては自業自得だという感想しか鳴成の中には生まれない。
 たとえそれが、利用され罠に嵌められ職を失ったとしても。
 自分の持つ倫理観には抵触している。

「女子学生についてですが、就職の斡旋要求を行ったかどうかを確認する場を再度設けましたが、そのような行為については否定しています。主張した教授側には証拠が何も残っていなかったため、一旦処分保留となっています」

 顛末を聞き終えた教員たちから、どっとため息が漏れた。
 全くもって他人事ではない事件に、遠くへ意識を飛ばす者もいる。

「さて、今日皆さんにお集りいただいたのは、この件に関して共有するのが第一目的でありました。しかし、ここからが真の本題となります。今回の事件を通して、学内では我々の預かり知らぬところで各種のハラスメントが横行していてもおかしくはない、というのが先日行われた学部長会議での結論です。明るみに出なければ存在しないものとして扱うのは些か時代錯誤であり、危機感を持って学内の秩序を守ることでより良い学習環境を提供できる、との意見にまとまりました。よって逢宮大学では今後2週間、第三者委員会によるハラスメント調査を実施します」

 登壇する学部長の背後で、プロジェクターに映し出されたいた画面が変わる。
 そこには、『ハラスメント匿名アンケート実施のお知らせ』という文字が光っている。

「全学生そして全教職員を対象に行うアンケートです。無記名制ですので、ハラスメント被害に遭われた方はありのままを記載してください。身の憶えのない方は非参加で結構です。また、先生方と間近で関わるTAの皆さんには、日を改めて面談を行います。断じてないとは思いますが、圧力をかけたり脅したり等の行為はお止めください。パワハラの罪が重くなるだけですので」




 緊急会議のあと、3日をかけて面談方式によるTAへの調査会が行われた。
 月落には、木曜日の夕方に第一校舎内の小教室で実施、という知らせが届いた。
 当日、階段を上がってたどり着いた先には、廊下に並べられたパイプ椅子に座る一人の男性の姿。

「直井さん、お疲れ様です」
「月落さん、お疲れ様です」

 TAは基本的に担当教員主体の仕事であるため、自主的に行動することは少ない。
 秘書を兼任している者においてはその限りではないが、担当教員に従って教室と研究室を往復するのが主な行動範囲だ。
 なので、TA同士で交流のある場合は少ない。
 移動中にすれ違ったり食堂で出くわせば挨拶程度は交わすが、それ以上はあまりない。
 けれど、この直井という人物に関しては、月落は会えば些少の情報交換を交わす仲だった。

「直井さんは何時からですか?」
「15時45分からです」
「押してますね」
「全然押してます」

 時計を確認すると16時10分。
 月落が15分からの予定なので、これからあと何分過ぎれば自分のターンが回ってくるのか。

「僕の前が関根せきねさんなんですけど、前々から担当教授の権田ごんださんにパワハラ疑惑が持ち上がってたんです。それで詳しく尋ねられてるんだと思います」
「そんなに分かりやすくパワハラするような教授なんですか?」
「いえ、実はめちゃくちゃ優しいんですけど、バカデカ拡声器ってあだ名がつくほど声量が凄いんです。しかも、デフォルトの言葉遣いがちょっとぶっきらぼうなんで、初手で怖いって印象を抱かれちゃう教授なんです。で、それプラスで、TAの関根さんが大人しくて声量が極細なので、二人で一緒にいると知らない人は怒鳴られてると勘違いしちゃうらしくて」

会ったことのない二人組を、月落は想像の翼で脳内描写する。

「関根さんによって権田教授の迫力が際立っちゃってるような?」
「まさしく。それでたぶん、今回の匿名調査で書かれちゃったんじゃないかって、さっきうちの教授とも電話で喋ってたんです」
「あ、確か直井さん、これから5限の学部間共通講座でしたよね?」
「そうなんですけど、どう考えても間に合わないので、とりあえず教授に連絡しました。僕の荷物も持って行ってくれるらしくて、重いって文句言われましたけど」
「あはは、相変わらず仲良しですね」

 直井と担当の女性教授が長年の付き合いだと聞いたのは、月落がTAになってそれほど日数が経っていない頃だった。
 鳴成のために紅茶を用意しようと向かったセントラルキッチンに先客として来ていたのが直井で、茶葉から紅茶を淹れていたのを目撃した月落が思わず声を掛けた。
 担当教授が和紅茶好きで、時間がある時はこうして作りに来るんだという話をされてから、時々キッチンで会っては紅茶やそれ以外の情報交換をするようになった。

「うちの教授、チャキチャキしてますけど年齢的にはもうおばあちゃんのステージに半身入ってるのでちょっと心配なんです。パワハラなんて一切ないので、面談なんてやるだけ無駄なんですけどね。鳴成准教授もそうですよね?」
「はい。僕の先生もパワハラとは真反対というか、そんな行為の概念さえない世界に住んでる方なので、調査は全く必要ないです」
「鳴成准教授は学生や大学関係者からの人気の度合いが行き過ぎてて、逆ハラスメントっぽくなってる感じありますよね。月落さんが来てからだいぶマシになりましたけど……でも、退職されるんですもんね?」
「はい、今期で。なので、出来る限りの対策は講じるつもりです」
「え?対策?」

 そう直井が聞き直したと同時に、小教室のドアが開いた。
 中からげっそりとした表情の女性が出てくる。
 眼鏡の奥の目が窪んでいるように見えるが、相当な疲労だったのだろう。
 ふらふらと覚束ない足取りでエレベーターのある方へと歩いて行く。

「あちゃー、だいぶな感じですね。じゃ、僕行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 その後、ほんの数分で退室した直井と入れ替わりで委員会のメンバー三名と相対した月落だが、「担当教員からのセクハラはありませんか」の問いに対して微塵も揺るがず否定したため、彼の面談もものの数分で終了となった。




―――――――――――――――




 食堂を出て研究室へと帰る道すがらで面談の様子を説明する月落。
 それに相槌を打つ鳴成の歩調は速い。
 寒いのだ。
 本格的な冬空の下、三つ揃えだけでは通り抜ける風を防ぎ切ることは出来ない。
 隣を歩くTAは厚手のタートルネックだけなのに寒そうな素振りはなく、個体差をひしひしと実感させられる。

「では、きみの面談はほんの数ラリーで終わったということですか?」
「はい。本当にパワハラはありませんか?としつこく訊かれたので、先生がどんなに素晴らしいかを切々と語ったら、早々に解放されました。話足りなくて、逆に居座ろうかと思いました」
「……きみはたまに見境というものを自ら放り投げますよね?」
「先生の魅力について語るとなると、語彙力が地の底から漲ってしまうので仕方ありません。徹夜で一週間でも足りないくらいです」
「それを本人を目の前にして真顔で言ってしまえるのは羞恥心を封印しすぎなので、蓋を開けて取り戻しましょうね」
「先生、それは……無理難題かもしれません」

 研究棟にたどり着くと、入口の手前で強烈なビル風に吹かれる。
 鋭く切り裂く氷の刃のようなそれに、両者は身を竦ませた。
 自動ドアが開く僅かな時間、月落は鳴成の背後に立ってその冷たさから守る。

「先生、戻ったらあったかい紅茶をすぐに淹れますから」
「今日は私が自分で淹れましょう。きみはスクワットをしなければいけませんから。パンを沢山食べたので、10回3セットにしましょうか」
「あ、パワハラ准教授がいる」


 この後、暖かい室内で少々息を切らす月落の姿が、見られたり見られなかったりしたとかしなかったとか。
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