鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

18. 常勤講師への疑惑とストーカー現る②

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 ホワイトグレーのソファの端に座りミルクティーを飲んでいた鳴成の耳に玄関ドアの開錠音が聞こえたのは、電話を切ってから20分後のことだった。
 爆速で来たらしい。

「先生!」

 足音を響かせてリビングへと入ってきた月落は、立ち上がった鳴成を見るなり強い力で抱き締めた。

「無事ですか、先生?!怪我とかしてないですか?」
「ええ、無事です。心配をありがとうございます」

 身体を離した月落に、横を向かされたり腕を上げさせられたりその場で一周回らされたりする。
 上から下から側面から斜めから、あらゆる角度から鳴成を検分した月落は、眉間に刻んでいた皺を緩ませてもう一度抱き締めた。
 そのあたたかい体温で、鳴成の強張っていた身体の力が抜ける。

「無事で良かった。心細かったですね。僕がいるから、もう大丈夫です」
「きみがいれば何もかも大丈夫になると、私もそう思います」

 広くて筋肉の発達した背中に腕を回す。
 肩に頬を乗せると、うなじの辺りを大きな手の平に何度も撫でられる。
 あやすようなその仕草に、40も過ぎたおじさんなのになと思いながら、ひどく安堵する。

「それで、その写真なんですけど」

 しばらく抱き合っていたが本題に入らなければ、と鳴成が身体を離す。
 裏返しにしていた写真の山ふたつをそれぞれ、月落の左右の手に乗せた。
 横並びでソファに座る。

「これが先生だけが映ってる写真ですね」
「ええ、服装的に夏頃からですね」
「大学内が多いかな……マンションとかジムでも撮られるのか……これ、あそこのスーパーですね」

 猛スピードで写真を捲っていた月落は全てを見終えると、左側に座る恋人の顔を下から覗き込んだ。
 青褪めてはいないけれど、翳る瞳、表情は暗い。
 自分の預かり知らぬところで誰かに付きまとわれたのだから当然だ。
 不安を感じない人間なんていない。
 そこに性別や年齢なんてまったく関係ない。
 
 恐怖心は、誰の上にも平等だ。

「僕に寄りかかってください。秋史さんはこんなもの見なくていいので、ちょっとだけ目を閉じててください」
「いえ、大丈夫です。独りで見た時の、恐怖と気持ち悪さがない交ぜになった感覚を身の内に閉じ込めておきたくないので、出来ればきみと一緒に見たいです。そうすることで、少しでも浄化したいです」
「分かりました。じゃあ、こうしましょう」

 月落は座っている鳴成の膝裏に右手を差し込むと、その両脚を90度回転させて横向きに自分の太腿の上へと乗せた。
 立ち上がれば即座に横抱きできる格好だ。

 相変わらずの筋力の強さに、鳴成は驚きで言葉を失くす。
 けれど密着度の増した体勢は、触れ合う場所から安心感を生むのも確かで。
 鳴成は、力を抜いた。
 額を、月落の首筋に寄せて凭れ掛かる。

「それで、こっちが僕たちのですか?」

 月落はもうひとつの山を手に取った。
 先ほど見ていた鳴成個人の写真よりも日数的には多くないが、引きやアップで何枚も何枚も現像されていて、送ってきた人物の過度な執着もコーティングされているようだ。

「秋頃からかな、と思います」
「そうですね。11月の初め頃からですね。これは映画を観に行ったときの、これは美術館、これはクリスマスマーケット……」

 言葉とともに、該当する日の写真を月落は選んで、鳴成へと渡す。

「でも、黄葉を見に行った立川の公園の写真はないですね。僕が迎えにきたところは映ってるのに。電車移動の日はある……ということは、車を持ってなさそうですね、これの送り主。つまり、学生の可能性が高いのかな?」
「……きみはこういう時でも冷静に状況を分析できるんですね」
「そうすることで、燃え盛る怒りの炎をどうにか小さくしようと必死なんです。アンガーマネジメントです」
「怒り?勝手に写真を撮られたからですか?」

 鳴成は首を傾げた。
 正体不明の何者かから一方的に投げつけられた悪意に対する反応は、恐怖や怯えが普通ではないのか。
 怒りが先立つ経験をしたことのない鳴成は、もしかしたら自分がひ弱なのだろうか、と考え込んでしまいそうになる。

「猛烈なる怒りしかありません。秋史さんの穏やかな生活を脅かす不届き者は許しません」
「あ、怒りのベクトルはその向きなんですね」
「はい、もちろん。しかも、秋史さんと僕は、二人で静かに幸せに、大切な日々の物語を綴ってきたのに。それを、キャラクター紹介にも載らないような脇役に邪魔されるのは、憤怒極まりないです」
「珍しい表現ですが、きみが大いに怒っていることは伝わってきました。その点に関しては私も憤怒極まりないです」
「自宅や周辺で盗撮されたのは不安ですよね。大丈夫です、僕がいますから」

 月落は持っていた写真を放り投げると、鳴成を抱き締めた。
 腰や背中を包むように腕を回すと、首元に巻きついてくる鳴成の腕。
 しばらくそのまま、体温を交換し合う。

「あのメッセージも気になりますね」

 修正液で書かれた、『大学を辞めろ』の文字。
 過去に鳴成の授業を受けた学生か、それとも関わった教職員か。
 いずれにせよ職場に犯人がいる可能性が高いというのは、そこを日々の中心地として生きている人間にとっては残酷な事実以外の何物でもないだろう。

「大学関係者かもしれないと疑うのは嫌ですね」
「うちで調査するので、これらは僕が預かります」

 そう言って指さすのは、大方が裏返しになった写真。
 過去の自分たちではあるが醜悪の滲む物体には何ら未練はないとばかりに、月落は荒い手つきでソファの隅へと追いやった。

「グループの力を借りるんですか?何だか申し訳ないです」
「どうやら僕たちのファンが調査部門にいるようなので、皆、迅速に対応してくれる気がします」
「ファン……?」

 月落の首筋に埋めていた顔を上げた鳴成は、気になった部分を訊き返した。
 それに、うんうんと黒い瞳が返事をする。

「応援されてるみたいです、僕たち」
「何を応援されているのか分かるような分からないような気持ちですが、好意的に捉えてくださっているのであれば有難いです」
「大丈夫です。好意の一段上、らしいので」
「何それ」

 ふふふ、と表情を綻ばせた鳴成に、月落は安心する。
 会った時からずっと顔の強張っていた年上の恋人に、笑う余裕が生まれたのが嬉しい。
 それだけで、先ほどまで心に巣食っていた煮えたぎるような業火も幾ばかりかは鎮まっていく。

 月落自身にも周りを気にする余裕が生まれて、小さな提案をする。

「犯人の正体が判明するまでは不安だと思いますが、僕が必ずそばにいますから安心してください。今日はここに泊まっても良いですか?」
「……そうしてもらえると助かります」
「いつもなら会えない水曜の夜に一緒にいられるなんて、不謹慎ですが嬉しいです。すみません。でも、嬉しいです」
「思わぬ形でしたが、私もきみに会えて嬉しいです」

 生成りの頬を人差し指の背で撫でる。
 ジム帰りだったと予想される鳴成と、部屋着のまま飛び出した月落の格好は図らずも似たようなもので、とりあえず着替えが最優先だと思い至る。
 テーブルの上に置かれていた鳴成のスマホを取ると、月落はあるお願いをした。

「先生、あのお風呂のアプリ開いてください」
「お風呂のアプリ……?これですか?」
「ありがとうございます。えーっと……これかな?」

 表示された画面のなか、月落は『風呂自動』の文字をタップした。
 先日、給湯器を買い替えた鳴成に、スマホの遠隔操作で風呂が沸く設定にしたと教えられていたのだ。
 便利すぎて、外出先からのみならず、家の中にいる時も使っていると話していたのを憶えていた。

「あ、お風呂に入りますか?」
「はい。先生、ジムから帰ってそのままですよね?」
「そうです」
「寒いですし、嫌な気持ちを流すっていう意味でもお風呂に入りましょう?俺と」
「はい?……一緒に入るんですか?」
「はい、寒いですから」
「それは遠慮します。ゆったりリラックスするためには、手足を伸ばしてゆっくり入った方が快適ですから。先に入るなら、きみからどうぞ」
「先生と一緒に入った方が俺はリラックスできるので、協力してください。寒いですから、一緒にあったまりましょう?ね?」
「駄目です、渉くん。離して……離しなさい。この体勢は私に不利なので、一度フェアな体勢になってから……離しなさい」

 わたわたと動いて抜け出そうとする鳴成の身体をぎゅっと抱き寄せて待ちながら、お湯はり完了のメロディと共にそのまま持ち上げて風呂場へと直行する月落だった。




―――――――――――――




 翌日、木曜日。
 2限終わりの中教室では、基礎英語の授業を終えた80名の大学1年生たちが足音を響かせながら退出しているところだった。
沢山の喋り声が徐々に少なくなって行き、質問対応のためにその場にぽつんと残っていた教員が最後に部屋を出る。

 上半身を揺らさずに歩くその教員の癖からか、はたまたその存在感の皆無さ故か、廊下に残っている学生から声を掛けられることは一切ない。
 エスカレーターに乗ると、前には先ほどのクラスで教えていた学生の集団がいた。

「中垣、相変わらず陰気だよな」
「な。英語の発音とかはネイティブの先生と同レベルだけど、俺あの雰囲気苦手。もっと親しみやすい感じでいてくれたら勉強も捗ったんだけどなぁ」
「私、鳴成准教授が良かった!あんな美形と毎週会えるなら、勉強死ぬほど頑張るのに!」
「いや、それはね、誰もが思ってるの。必修英語の担当教員で大当たりの鳴成先生引いた子たちはまじで大優勝。意外と優しいバカデカ拡声器は優勝。中垣先生のうちらは初戦敗退」
「うわぁ、出た出た。女子の鳴成推し。ま、でも分かりやすいって評判良いもんな。6組の奴に自慢されたもん、この前。別紙で作ってくれる参考資料が神レベルだって。授業、めちゃ楽しいって」
「いーなー!てか、鳴成准教授の受け持ちだけ異様にテスト結果良いって聞くよね。何か、既にめちゃくちゃ喋れるようになってる子もいるって。1回トレードしてくんないかな」
「むーりーむーりー。中垣に教わりたい奴なんかいなくね?」
「俺、決めた。2年は鳴成さんの選択授業、絶対申しこむ」
「いや、それはね、誰しもがそう思ってるって。黄金に輝くプレミアムチケットだかんね」

 学生らしい明るさで軽はずみな悪口をまき散らしながら、集団は下りて行く。
 その背中を、狂気に塗れた分度器の目で睨みながら、階に降り立っても動かない影がひとつ。
 皺の目立つシャツから出た拳を、青白い血管が膨れ上がるほどに握り締めていた。
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