隠逸花

山本ハイジ

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隠逸花(1)

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 遺伝の妙というものか、双子の兄弟である晶(あきら)と慧(けい)は美しかった。男前という訳でなく、女のような色香を有していた。

 当然というべきか、双子の母は美しい。不健康に映るほど肌は白く、体は華奢で、顔立ちは恐ろしく整っていた。そして常に優しく、上品な笑みを湛えていて、双子はそんな母が大好きだった。
 しかし、父はよくわからない。双子が幼少の時には戦争に行っていて、そのまま白木の箱となったからだ。遺体の代わりに箱の中に転がっていた石ころ。双子には父の印象はそれしかない。写真が嫌いな人だったのか、姿を残しているものは殆どなかった。
 ただ、箱を抱えて泣き崩れる母を見て、双子は悲しくなった。初めて見る、母の涙だった。

 双子が経験した戦争の苦しみはそれと、疎開してきた子供たちに兄の方がいじめられたことくらいだ。
 大人になった今ではあの子供たちを思い出すと双子は同情の念も覚えられるが、当時は厄介で、醜い悪童共がやってきたものだとしか思えなかった。否、同情しか残っていないのは慧で、晶はふとしたときに回想すると苦いものが込み上げてくる。
 最初は学校から水連村へ戻る長い帰路の途中、双子は一緒に襲われた。背後からいきなり殴られた晶は倒れ、慧は振り向いて怒鳴った。
 幼稚な発想から、襲撃者三人は顔に布の切れ端を巻いていたがすぐに疎開児の誰かだとわかる。汚れていて、痩せていて、みすぼらしい。双子はあまり疎開児と関わったことはなかったが、家が富んでいて身なりの綺麗な双子の美童は目立ちすぎていた。
 白飯が食える平和な田舎で育ってきた幸福な子供に、不幸な子供が躍りかかる。慧は少女のような容姿に反して喧嘩が強く、俊敏に立ち廻り、見事疎開児たちを追い払った。その間、晶は地面に坐ったまま怯えているしかない。最中、疎開児の顔から布が取れていた。
 これだけの出来事なら、晶の腹に苦いものは残らない。慧はこの事件を告げ口しなかった。晶も慧のそんな性質に従った。それがいけなかった。疎開児は普段、白飯を食える連中からは差別されており、いじめるのではなく、いじめられる側だ。特徴でも伝えれば、事件の犯人は――犯人でなくとも――先生や生徒から凄まじい制裁を受け、双子で鬱憤を晴らそうという疎開児の最後の気力は圧し折られていたであろう。
 以後、外見通り温和(おとな)しく繊細な性質の晶に疎開児は悪戯をするようになった。傍に弟がいない時を見計らって、三人の疎開児は晶を捕まえて学校の裏手にある藪へ放り、押さえつけて衣服を奪った。草木が晶の肌に傷をつけていることに気がつくと悪童は扱いを優しくしつつも、下着も脚から引き抜く。
「おおっ、本当女みたいだ。いいか、このことは誰にも言うなよ。殺すぞ」
 空襲で焼ける家を家族を、機銃掃射で穴を穿たれた校舎を級友を見てきた疎開児たちの目で凄まれ、恐ろしすぎて晶はただ頷くことだけしかできなかった。母譲りの日に焼けない体質に守られた白い肌を浅黒い手が撫で廻す。
 強い弟に頼りたかったが、告げ口をする勇気が湧かなかった。傷や痣をつけられる訳ではなかったから、察してももらえない。それに繊細な性質が災いして、晶は告げ口するのが怖いだけでなく、恥ずかしいという気持ちがあった。
 幼心ながら、悪童に体中を撫でられて自分のなにかが穢されたような気がしたのだ。そして誰にも言えず、抵抗もできず、晶はより辱められていった。
 藪の中。幼茎を掴まれてからかわれた。尻の穴まで見られた。蚰蜒(げじげじ)を肌に這わされた。悪童の垢の溜まった幼茎を嘗めさせられた。小便をかけられた。大きな声を出したら脅かされるために声を押し殺し、どれも乙女のように、華奢な体を震わせ、肌を朱に染め、啜り泣いて耐えた。
 疎開児たちの憂さ晴らしの相手を、晶はラジオから終戦を告げる玉音放送が流れるまで務めたのだった。

 その後、双子と母は戦功を挙げていた父の恩給を貰いつつ、村の外では飢え死にする者も多い世間で仕合せに暮らした。慧は煙草を吸い、酒を飲み、偶に喧嘩沙汰を起こす放蕩児に育っていたが弁えはあり、大好きな母を泣かせるようなことはしなかった。晶は勤勉な若者になっていた。そして大人の男に近づいても、双子は女形の如きなよやかな美貌を保っている。
 しかし、双子が成人する二三(にさん)年前に母は肺を病んだ。
 亡国病、結核(テーベ)。肺炎と伝えられたが、床(とこ)から起きあがることも、一匙のスウプを飲むこともできなくなった頃から医者と家族の嘘を母は見破っていたであろう。そのまま為す術もなく、亡くなってしまった。
 葬儀中、慧はずっと泣いていた。晶は色々な悲愴の場面――母のたおやかな美が窶れ衰弱していく様(さま)、すッと静かに息を引き取る様――で涙を滲ませてはきたが、葬儀ではぼうっとしていた。ただ、棺桶の中で白菊と同化してしまいそうな母の屍体を綺麗だと思った。いつか画集で見たオフィーリアと重ね、見蕩れる。
 火葬してしまうのが惜しく、出棺の時に晶はようやく視界が潤むのを感じた。火葬場の煙突から不快なにおいの濃煙が空へ昇っていく様に、慧はさらに慟哭する。悲しみを通り越して麻痺したようになっている晶は、慧の情感をありのまま表現できるところを羨ましく思いながら、その震える肩を抱いた。

 羨望と憧憬。晶は子供の頃から弟が眩しかった。
 村の役場に勤めている晶に対して、ぶらぶら遊民をしていた慧は母が死んでから酒を飲み、遊び歩くのを控えていたが、暫くすると復活した。憤慨するところであろうが、晶は安堵した。元気が出てきたのだなという思いと、弟には勤勉などになってもらいたくないという思い。晶は自分が真面目な訳ではなく、勉学と勤め以外することがないだけだと自嘲している。
 慧は自分の中性的魅力をわかっていて、それを引き立てるように髪を肩まで伸ばしていた。だから眩しい弟に倣って晶も男にしてはやや長めな程度に髪を整えている。煙草は弟が愛飲しているゴールデンバット。酒は苦手で飲めない。
 ――俺はインテリぶった、ただの玉なし。

 玄関から騒がしい声と物音が聞こえてきて、晶は文庫本をパタンと閉じた。収録されている夢野久作の瓶詰地獄を丁度読み返しおえたところだった。話の筋に幾つか矛盾があるような気がして小首を傾げていた小説だったが、弟に解釈を訊いてまた読んでみたら想像の余地が広がり、この物語の恐怖を新たに覚え、ゾクゾクする感じを楽しめた。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。
 元々は読書も弟の愛好していることだった。もぉ、しっかりしてよ、と笑いのまじった女の声がするほうへ、はやく助けに行こうと晶は腰かけていた籐椅子から立ちあがり、洋間を出て向かう。沓脱ぎで、村ではまだ和服を着ている娘が多いなか、浴衣の地をワンピースに仕立てたものを着ている娘の肩を泥酔した慧が借りていた。
「繭子ちゃんはあ?」
 慧は呂律の廻らぬ調子で、近所から通ってくれているお手伝いさんのことを訊く。
「とっくに帰ってるよ。ああ、君、ありがとうね」
 ぐったりとしている慧を受け取り、夜闇へ去る娘に礼を述べてから、晶はしなだれかかる慧を非力な体で支え、苦労しつつ寝間に連れていった。楽しそうに笑っていたが、あの娘に申し訳ない気持ちが湧く。
 慧を畳に坐らせ、蒲団を敷いている最中、腰に勢いよく抱きつかれて晶は小さく、あ、と悲鳴をあげた。慧の手が白い蛇のように這い、晶の股ぐらをズボン越しに撫で廻す。
「ここ、まだ機能しないか?」
「もう、離れろっ、酔っぱらい」
 振り向いて、晶は慧のエロチックさに胸がどきんとした。火照った赤い頬を兄の腰に押しつけて、あどけない笑みを中性的な顔貌いっぱいに浮かべている。着流している和服が乱れて、髪の絡むうなじと薄い肩を露わにしている。酔った男など下品なだけのはずが、慧は可愛らしく、婀娜(あだ)っぽいのであった。
 もしも酒が飲めても俺はこうなれないだろう。きっと酔ったら日々の愚痴でも延々と垂れる陰気臭い性質。おかしい、同じ顔をしているはずなのに。
「女と附き合えば治るよ。繭子ちゃん、絶対お前のこと好きだよ。悪い気はしないんだろう?」
 晶の陰気な思いは慧の言葉で中断された。するりと慧は晶から離れると、まだ整っていない蒲団の中へ潜り込み、猫のように体を丸める。
「まぁ、デキたら親戚が五月蠅いだろうけど、そんなこと気にするのはナンセンスだ」
 そのまま少しすると、慧の寝息が響きはじめる。晶は障子を開けて、ズボンのポケットからバットを取り出すと燐寸(マッチ)で火を点けて、煙を吸い込みざわつく胸を落ち着かせた。中庭で月明かりに照らされている紫陽花が見える。
 不良で、デカダンで、女道楽者。で、あるのに揉め事を起こさないのだから慧は不思議だ。もしも機能しても俺はそうはいかないだろう。女の相手など器用に務められそうにない。

 晶は生まれてから一度も勃起したことがなかった。十代半ばの頃、慧がふざけて猥談をしてきたことで雄はそういう反応をするものなのだと知った。そして子供の作り方も知ったが反応のないまま大人になり、笑い事でなくなった。成人してから親戚は慧には諦めて、晶に結婚しろと騒ぐ。見合いの話を持ちかけられても、うまいこと言って渋ってきた。
 燻っていた劣等感が確実なものになる。自分の生きる価値のなさを医者にも相談する気にはなれない。ただ、猥談の件で晶の不能を知ってしまった慧があれこれと気遣った。しかし裸の女が縛られていたり、垂れる蝋に悶えていたりするカストリ雑誌の写真を見せられても、下劣さに晶は眉を顰(ひそ)めるだけであった。
 幼い頃、疎開児たちから受けたいじめで自分のなにかが穢されたような気がしたのは間違いではなかったとも知ってしまった。あの疎開児たちは垢の溜まった幼茎を硬くしていただろうか?
 猥褻な写真を見ても不快感しか示せない晶のそんな胸中は露知らず、ならばと慧は――
「おはようございます、晶さま」
 母が存命の頃から通ってくれているお手伝いさん、繭子と懇ろになることを勧めるのだった。和服の上からエプロンをして、配給で貰ってきた食料品を入れた籠を提げて玄関に立つ彼女を、晶はなんとなくじッと見つめる。
 可愛らしい顔立ちをしているし、好意もある。けれども母の方が、弟の方が綺麗だと思ってしまう。それはつまり自分の方が綺麗だと思っているようなものだなと気づき、苦笑したくなった。
 見つめてくる視線がなんなのかわからず、繭子は照れ臭そうに俯く。はっとして、晶は挨拶を返した。
「ああ、おはよう。俺はまたスウプだけでいいから」
 はい、と頷く繭子を家に通す。弟曰く、挙動を見たら繭子が俺に恋をしているのであろうことは明白らしい。弟が言うのだから自惚れではないと安心していいだろう。しかし、なぜ俺なんかに惚れているのだろう? この女も陰気な性質であるに違いない。
 故に、繭子と一緒にいるとほっと安息する感じはあった。晶が居間で食卓の前に坐し、ぼんやりと考え事をしていると、慧が長髪を掻きあげながらやって来る。
「おはよう。迎え酒がしたい」
「ダメだ。あの療法は信用できない」
 台所から繭子が朝食を運びはじめる。焼いた川魚、茹で卵、お握りが坐した慧の前に並べられた。宿酔していても慧はしっかり食事をとる。朝は食欲のない晶にはグリンピイスのポタージュだけが出された。繭子が再び台所に引っ込むと、慧は焼き魚を箸でほぐしながら晶と目を合わせ、悪戯っぽく笑い、意味もなく呟く。
「ナンセンス、ナンセンス」
 女道楽者であるのに繭子には手を出さず、親しんでいる好きな女と附き合えれば自然と晶の不能なんて治ると慧は無心に信じている。もしも初夜を晶がうまくこなせなくても、繭子なら知ってしまった事実を言い触らすようなことはせず、見限らないで親身に支えてくれるはずだとも。お手伝いさんと結婚だなんて親戚が許す訳がないが、そんなことはナンセンス。
 一方、焼き魚を解体していく慧の箸捌きを眺めながら、晶は高貴らしい家の血筋を濃く受け継いでいるのは慧だと思った。魚は味が苦手だというのもあるが、どうしてもぐしゃぐしゃにしてしまい、こんなに綺麗に食べられない。俯いて、スウプを掬ったスプウンを口に運ぶ。

 家に兄弟とお手伝いさんが一人。ずっとこのままではいられないが、母が欠けてからの日常は変わらず二三年つづいている。変わったことといえば村の周りに工場が増えたことくらいだ。
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