目が覚めると工事現場だった

煙 亜月

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目が覚めると工事現場だった・後編

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 だが時々、あの、ええと、何だっけ、吉野家。そう、吉野家、あの牛丼が食べたくなることがある。吉野家だけじゃない。ジョリパ、ツタヤ、ファミマ、ワンルームのアパート。それらをふと思い出すと、僕はまるで揚力を得たかのような(体が浮くような)、奇妙な感覚に見舞われる。作業中に牛丼を思い出す。すると立ち眩みのように僕は、身も心もふわりと現場から離れそうになるのだ。

「馬鹿、危ない。集中しろ」

 僕はだんだん、この「危ない」の意図を理解しはじめていた。牛丼屋など、そういった店を思い出すと工事から気がそれてしまう。つまり、この世界はすべてが工事であるので、工事の否定は世界への全否定となるのだ。僕がこの世界を拒めば拒むほど、前の――ツタヤもファミレスもある――世界に近づく。労働力を一人、失うことになるので、この世界は作業員全員、一丸となって「危ない」と警句を発するのだ。
 だから、前の世界への「浮気心」を抱けば、ただ単に墜落事故などにつながるだけでなく、人力を一人分、失うことになるのだ。それをこの世界は嫌がる。
 そういった事情で、煙草を吸いながら前の世界のことを話すのは、まったくもって不可能だった。

「おい、危ないぞ、さっきから。しっかりしろ」

 僕という一個人を、この工事現場の世界がなんらかの力で引き留めている。この世界に牛丼などは存在しない。あるのは煙草とおにぎり、工事。ここでは工事関係者しか見たことがない。そしてこの世界は、僕を引き離そうとしない意図があるのだ。しかし、それは前の世界――吉野家やスパゲティのある世界を思いだすことで弱まる。その証拠に、前の世界を意図的に思い出したことがある。僕の、この工事の世界にある意識の割合が減り、前の世界が鮮やかに想起されるのだ。僕はやろうと思えば、いくらでも前の世界のことを思い出せた。だが、工事の世界から離れるのは不都合だと思った。

 それは、職責だ。
 僕は現場から、そして僕自身からも作業の責任を果たすように求められている。確かに今は、今でこそ現場があるからそれに順応しているだけなのかもしれない。とはいえ、現場への責任は必然的に発生する。責任――端的にいえば、自分が現場から離れた時の穴埋めを心配することもそうだ。前の世界(つまり、牛丼のある方)では、僕は状況が先に整わない限り自分から仕事に就けないままでいただろう。

 今は工事現場で汗を流す生活が当たり前になっているから、それを進んで受け入れている。進んで適応しようとしている。着実に、工事の世界がしごく当たり前の生活だと思うようになった。おにぎりや煙草のためだけでない、もっと大きな現場で作業したいとすら思っていた。そんな思いも前の僕に戻ったら持てないだろう。あの頃は職安通いが当たり前になり、どの求人票もつまらなく見えていた。求人の品定めだけがうまくなっていた。

「起きたか、おはよう」
 僕はでっぷりと肥えた、なまっちろい肌の若者に声をかける。おそらくニートか、ひきこもりか。「あんた、働くのか?」若者はきょろきょろ見渡しながらうなずく。「食ったらええよ」僕はビニールシートのおにぎりを指す。

 その日の仕事を終える。新人は疲れた様子だったが、素直で飲み込みも早く、体重はかなりオーバー気味なものの頭脳に秀で、期待も抱けそうだった。

 目覚めたら工事現場でありますように。そう祈りながらおにぎりをかみしめて食べた。煙草を吸っていると意識が遠のく。
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