1 / 1
たばこの日
しおりを挟む
立ったままその侍を見下ろす。まあ、このお侍様は駄目じゃろうな。当世具足があっても、こうもどてっ腹に鉛玉を喰らっとったらな。
出自の卑しい儂はお侍なんかにゃなれず、耕せど耕せど小作農、年貢をちょいと納めりゃ財も何も吹き飛んでゆくようなしがない農奴よ。
その儂がどうして合戦場にいるかというと、当然のことといえばいい返す言葉もないんじゃが、領主様が戦に出せるようなお武家様を多くは持っとらなんだからじゃ。
さらに儂は子も嫁も質に取られてな、お前が立派に死んで来たら子も嫁もいい生活をさせてやると、こう来たわけじゃ。
ほとんど着の身着のままの出立じゃった。懐刀しか持たぬ、何の役にも立たない雑兵。死ぬときに吸おうと、煙草葉と豆煙管だけは懐に忍ばせて向かった。こんな儂のような雑兵、死ぬだけの人の盾、もしくは賑やかしじゃ。
もうすぐ、あと半刻もせんうちに儂は死ぬ。
戦は、戦況は呆気なかった。お侍も雑兵も数の上でこちらの圧倒不利で、そこかしこで敵軍の勝鬨が聞こえるほどじゃった。大音声の足音、雄たけびに囲まれた儂は、ああ、そろそろじゃな、と懐刀を取り出した。首筋を切るか、喉を突くか。いずれにせよ痛そうじゃなあ。死にとうない、ああ、儂は死にとうない。サダ、すまん。普段は照れくさくていわんが、儂はお前が一番じゃった。子どもらも元気に育てよ。どうか、どうか儂は立派に死んだと、誰でもいい、誰かが伝えちゃくれんかのう。
「があっ、ぶっ、あ、ああ」
びっくりして尻もちをついて、そのまま後じさりする。「お、お侍様?」
まだ息があった。しかし。
立ち上がって見分するに、腹の傷が深すぎる。黒い鎧も潰れ、刀傷こそないものの、侍のへたり込んでいるこの血だまりから察するに、もう長くはない。何をどうしようが駄目じゃろうな。儂はお侍に近寄る。簡単な文字書きなら寺子屋で習うた。この旗印を読むと、敵陣のものじゃ。憎くはないが、殺す必要はあるだろう。少なくとも手柄にはなる。
懐刀を順手に持ち、血だまりに膝を突く。
「——っ、あ、こっ——た、ま——おっ」介錯を乞うておるのか? こんな深手だ、じきに痛みも感じなくなる。そうお侍に伝えると、「た——ば、こ——」
今、はっきりと「煙草」といった。一服分しかない自分の煙草葉。どうしたらいい。介錯よりも迷う。この刃にかければ、功も称えられよう。しかし敵陣の、それも瀕死の侍に小作農にとっては貴重な——死ぬときに吸おうと思っていたくらいの——煙草葉を分けてあげるのか。
だが儂もいずれ——ここで死ぬ。もう半刻か、四半刻で。
豆煙管に刻みの煙草葉を詰める。火を熾す。幸いの晴天で、煙草葉の包み紙はすぐに火がついた。少し吸い、もくもくと煙を吐きだす。兜ごとお侍の頭を支え、煙管を口に持ってゆく。弱弱しいが煙管を吸い、ため息をつくようにその紫煙を吐く。
「かた、じ——な——」といってむせこむ。吐いた血で火が消えないよう、煙管を遠ざける。また儂は煙管をお侍の口に持ってゆき、これをもう二度、繰り返したのちお侍は死んだ。最後の言葉も血にむせ返った「かたじけない」だった。
何頭もの、十頭か二十頭か、滝が打つような蹄の音。当世具足が鳴り響く音。馬のいななきの音、お侍の下馬する音。つまり、確実な死の音。
「そこもと、いずれの軍勢か! そこなもののふは貴様がやったのか!」
声を張り上げた武士が抜刀し、ざっくざっくと大股で近づく。儂は平身低頭し、
「これなるはご領主様たる倉敷中庄勝之様が兵! 身分卑しく名乗る名も御座いません! 御刀の錆と相成るとあれば、この場で自刃を——」と懐刀を喉にあてる。
「ははは、ようやった! 貴様が討ったその武士はにっくき、神辺が房江五郎ぞ。まさか神辺も雑兵にやられるとはな。愉快じゃ!」
敵軍の惣領を討伐したとみなされたらしい。里へ帰ると欲しいものをくれてやる、とご領主様——倉敷中庄勝之様は発し、儂は子と嫁の身の安全を、とお願いした。
「なんじゃ。そんなものでええんか? てっきり儂は、農地と小作人を腐るほどくれというもんじゃと思っておったが。そうなると、お前さんはもう戦には出とうないんか? 逃げ帰る敵将を討ったんじゃから、剣戟を習いたいとも申すかとばかり」
ほどなく、自作農の身分といくばくかの農地を拝領し、元の暮らしに戻った。あのお侍様——神辺様に煙草を差し上げてよかった。もしあのまま友軍の増援が来、神辺様の首を刎ねたらどんなに偉くったって煙草も吸えやしない。儂も今ごろつくづく後ろめたい気になるじゃろう。
剣を習えという誘いはしつこかったが、儂の手のマメを見たお武家様たちはそのたびにそそくさと帰っていった。
嫁も子も健勝で、縁側に出て浴びるお日様も「あんたは間違わなかった、ただそれだけを誇りになさい」といっているように思えた。
風の強い日は納屋で、おだやかな天気の日は外で、儂は煙管に刻みを詰めて火をつける。
すぅ ふぅ————。
もくもくと上がる紫煙は、神辺様というお侍様にはええお線香になるかもなあ。
たばこの日——了
出自の卑しい儂はお侍なんかにゃなれず、耕せど耕せど小作農、年貢をちょいと納めりゃ財も何も吹き飛んでゆくようなしがない農奴よ。
その儂がどうして合戦場にいるかというと、当然のことといえばいい返す言葉もないんじゃが、領主様が戦に出せるようなお武家様を多くは持っとらなんだからじゃ。
さらに儂は子も嫁も質に取られてな、お前が立派に死んで来たら子も嫁もいい生活をさせてやると、こう来たわけじゃ。
ほとんど着の身着のままの出立じゃった。懐刀しか持たぬ、何の役にも立たない雑兵。死ぬときに吸おうと、煙草葉と豆煙管だけは懐に忍ばせて向かった。こんな儂のような雑兵、死ぬだけの人の盾、もしくは賑やかしじゃ。
もうすぐ、あと半刻もせんうちに儂は死ぬ。
戦は、戦況は呆気なかった。お侍も雑兵も数の上でこちらの圧倒不利で、そこかしこで敵軍の勝鬨が聞こえるほどじゃった。大音声の足音、雄たけびに囲まれた儂は、ああ、そろそろじゃな、と懐刀を取り出した。首筋を切るか、喉を突くか。いずれにせよ痛そうじゃなあ。死にとうない、ああ、儂は死にとうない。サダ、すまん。普段は照れくさくていわんが、儂はお前が一番じゃった。子どもらも元気に育てよ。どうか、どうか儂は立派に死んだと、誰でもいい、誰かが伝えちゃくれんかのう。
「があっ、ぶっ、あ、ああ」
びっくりして尻もちをついて、そのまま後じさりする。「お、お侍様?」
まだ息があった。しかし。
立ち上がって見分するに、腹の傷が深すぎる。黒い鎧も潰れ、刀傷こそないものの、侍のへたり込んでいるこの血だまりから察するに、もう長くはない。何をどうしようが駄目じゃろうな。儂はお侍に近寄る。簡単な文字書きなら寺子屋で習うた。この旗印を読むと、敵陣のものじゃ。憎くはないが、殺す必要はあるだろう。少なくとも手柄にはなる。
懐刀を順手に持ち、血だまりに膝を突く。
「——っ、あ、こっ——た、ま——おっ」介錯を乞うておるのか? こんな深手だ、じきに痛みも感じなくなる。そうお侍に伝えると、「た——ば、こ——」
今、はっきりと「煙草」といった。一服分しかない自分の煙草葉。どうしたらいい。介錯よりも迷う。この刃にかければ、功も称えられよう。しかし敵陣の、それも瀕死の侍に小作農にとっては貴重な——死ぬときに吸おうと思っていたくらいの——煙草葉を分けてあげるのか。
だが儂もいずれ——ここで死ぬ。もう半刻か、四半刻で。
豆煙管に刻みの煙草葉を詰める。火を熾す。幸いの晴天で、煙草葉の包み紙はすぐに火がついた。少し吸い、もくもくと煙を吐きだす。兜ごとお侍の頭を支え、煙管を口に持ってゆく。弱弱しいが煙管を吸い、ため息をつくようにその紫煙を吐く。
「かた、じ——な——」といってむせこむ。吐いた血で火が消えないよう、煙管を遠ざける。また儂は煙管をお侍の口に持ってゆき、これをもう二度、繰り返したのちお侍は死んだ。最後の言葉も血にむせ返った「かたじけない」だった。
何頭もの、十頭か二十頭か、滝が打つような蹄の音。当世具足が鳴り響く音。馬のいななきの音、お侍の下馬する音。つまり、確実な死の音。
「そこもと、いずれの軍勢か! そこなもののふは貴様がやったのか!」
声を張り上げた武士が抜刀し、ざっくざっくと大股で近づく。儂は平身低頭し、
「これなるはご領主様たる倉敷中庄勝之様が兵! 身分卑しく名乗る名も御座いません! 御刀の錆と相成るとあれば、この場で自刃を——」と懐刀を喉にあてる。
「ははは、ようやった! 貴様が討ったその武士はにっくき、神辺が房江五郎ぞ。まさか神辺も雑兵にやられるとはな。愉快じゃ!」
敵軍の惣領を討伐したとみなされたらしい。里へ帰ると欲しいものをくれてやる、とご領主様——倉敷中庄勝之様は発し、儂は子と嫁の身の安全を、とお願いした。
「なんじゃ。そんなものでええんか? てっきり儂は、農地と小作人を腐るほどくれというもんじゃと思っておったが。そうなると、お前さんはもう戦には出とうないんか? 逃げ帰る敵将を討ったんじゃから、剣戟を習いたいとも申すかとばかり」
ほどなく、自作農の身分といくばくかの農地を拝領し、元の暮らしに戻った。あのお侍様——神辺様に煙草を差し上げてよかった。もしあのまま友軍の増援が来、神辺様の首を刎ねたらどんなに偉くったって煙草も吸えやしない。儂も今ごろつくづく後ろめたい気になるじゃろう。
剣を習えという誘いはしつこかったが、儂の手のマメを見たお武家様たちはそのたびにそそくさと帰っていった。
嫁も子も健勝で、縁側に出て浴びるお日様も「あんたは間違わなかった、ただそれだけを誇りになさい」といっているように思えた。
風の強い日は納屋で、おだやかな天気の日は外で、儂は煙管に刻みを詰めて火をつける。
すぅ ふぅ————。
もくもくと上がる紫煙は、神辺様というお侍様にはええお線香になるかもなあ。
たばこの日——了
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる