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一章 その名は検非違使部
静かな恐れ
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入学式に満開だった校庭の桜の花が、徐々に盛りの終わりを思わせる頃。
山吹学園高等部1―Aの教室は、遠慮がちに話していた生徒たちが少しずつ打ち解けて、中等部からの知り合いも、そうでないものも和気あいあいと言葉を交わすようになっていた。
流行りの音楽や番組、かわいいと評判のカフェ、難しかった課題、なんだか気になるあの子…と、若者たちに話題は尽きない。
賑やかな空気に紛れて、急いで授業の予習を進めたり、読書に集中したり、朝の眠気に従って突っ伏している生徒もいる。
窓際の後ろから二番目の席に座る女子生徒、逢坂京香も大抵朝は寝ている一人だ。
けれども、今朝の京香は右手で前髪をかき上げて、具合悪く顔を歪ませていた。
誰が見ても何かあったに違いないと察する険しさだが、長い黒髪が前方に垂れて彼女の表情を周りから隠している。
(まただ、また見えた、また聞こえた、治らない……)
学校に至るまで知覚した出来事を何度も思い出しては、京香は歯を強く噛みしめる。
その出来事というのは、見えるはずもないものが見えたり、聞こえるはずのない声が聞こえたりすることだった。
たとえば、花を咲かせるにはまだ早い夏椿の枝がカクカクと動き、周りにそれらしい人はいないのに「こわい」「この気配はなあに」といった話し声が頭の中に流れてくるのである。「こわいのはこっちだ」とうずくまりたくなった。
また他には、「逃げよう逃げよう」と聞こえるので上空を見ると、人型の烏と言えばいいのか、黒い羽を持った鳥顔の少年が東から西へと飛び去って行った。しきりに瞬きをしたところで、見える影は消えてくれない。
これらの現象をざっくりまとめると——京香は突然、妖怪やお化けと表されるような得体の知れない何かが視界に映り込むようになってしまった。
京香自身も信じ難い。だが、そうと解釈するしかないのである。
初めは疲れが積もって幻覚・幻聴に悩まされているのだろうと思った。
しかし睡眠時間を増やしてみても一向に改善の気配はなく、もう三日目。
今となっては勝手に脳が「こわいこわい」と不気味な声を再生してくる。京香の見える化け物は、なぜか皆怖がっている。
さらに幻が消えないどころか、問題は増えていた。それは——
「あっ、雛くんおはよう」
廊下側の声がやけにはっきり聞こえて、京香はびくりと微かに肩を震わせた。
見たくないと思いながらも、髪の隙間からその方を窺ってしまう。
彼女の目線の先には、穏やかで愛想の良い表情をした男子生徒がいる。
たった今教室に入ってきて、あちこちからかけられる挨拶に「おはよう」と丁寧に応えていた。
名前は雛真緒。
クラスメイトの名をほとんど覚えていない京香でも、彼のことは知っている。
毎日誰かしらが呼んでいる声が耳に入ってくるからだ。
余裕ありげに微笑を浮かべて、輪の中心にいるわりに彼自身は騒がしくなく、むしろ上品な印象を受ける。
独特の空気に皆は惹かれるのか、つまり彼はまだ四月なのにもう、いわゆるクラスの人気者の立場にいて、人にできるだけ関わるまいと閉塞的に過ごしている京香とは対極の存在にあった。
しかし彼女が真緒が気になってしまう理由は、惹かれているのとは違う。
彼が同じ空間にいることを意識した瞬間に、手が震えて逃げ出したいと感じるのである。
理性ではなく、本能で。
(こっちも治っていない…)
京香は細めた目で真緒を捉えた。
ニコニコとしている彼に化け物らしさは微塵もない。それなのに、彼の内なるところからこちらを怖がらせる圧のようなものが放たれている。この恐怖は、街中で化け物を見た時よりもぐっと胸に迫ってくる。
真緒を怖いと思うようになったのは、幻に悩まされて二日目の昨日。
原因はさっぱり見当がつかない。恐怖を抱く前も後も、京香と彼の間には一切の交流がないのだ。
気づかぬうちに嫌われていて、彼の感情が伝わっているのだろうかとも考えたが、「最近あなたが怖いです。私が嫌いなのでしょうか」などとは尋ねられるはずがない。
幻のことも、真緒のことも、相談する相手がいなかった。
感じている本人が気味悪いのだから、他人が聞けばそんなことを話す京香自身も気持ち悪いと思うだろう。
それに、これまで意識的に他者を避けて一人で過ごしていた彼女を、わざわざ気に留める勇敢な生徒はいない。
山吹学園高等部1―Aの教室は、遠慮がちに話していた生徒たちが少しずつ打ち解けて、中等部からの知り合いも、そうでないものも和気あいあいと言葉を交わすようになっていた。
流行りの音楽や番組、かわいいと評判のカフェ、難しかった課題、なんだか気になるあの子…と、若者たちに話題は尽きない。
賑やかな空気に紛れて、急いで授業の予習を進めたり、読書に集中したり、朝の眠気に従って突っ伏している生徒もいる。
窓際の後ろから二番目の席に座る女子生徒、逢坂京香も大抵朝は寝ている一人だ。
けれども、今朝の京香は右手で前髪をかき上げて、具合悪く顔を歪ませていた。
誰が見ても何かあったに違いないと察する険しさだが、長い黒髪が前方に垂れて彼女の表情を周りから隠している。
(まただ、また見えた、また聞こえた、治らない……)
学校に至るまで知覚した出来事を何度も思い出しては、京香は歯を強く噛みしめる。
その出来事というのは、見えるはずもないものが見えたり、聞こえるはずのない声が聞こえたりすることだった。
たとえば、花を咲かせるにはまだ早い夏椿の枝がカクカクと動き、周りにそれらしい人はいないのに「こわい」「この気配はなあに」といった話し声が頭の中に流れてくるのである。「こわいのはこっちだ」とうずくまりたくなった。
また他には、「逃げよう逃げよう」と聞こえるので上空を見ると、人型の烏と言えばいいのか、黒い羽を持った鳥顔の少年が東から西へと飛び去って行った。しきりに瞬きをしたところで、見える影は消えてくれない。
これらの現象をざっくりまとめると——京香は突然、妖怪やお化けと表されるような得体の知れない何かが視界に映り込むようになってしまった。
京香自身も信じ難い。だが、そうと解釈するしかないのである。
初めは疲れが積もって幻覚・幻聴に悩まされているのだろうと思った。
しかし睡眠時間を増やしてみても一向に改善の気配はなく、もう三日目。
今となっては勝手に脳が「こわいこわい」と不気味な声を再生してくる。京香の見える化け物は、なぜか皆怖がっている。
さらに幻が消えないどころか、問題は増えていた。それは——
「あっ、雛くんおはよう」
廊下側の声がやけにはっきり聞こえて、京香はびくりと微かに肩を震わせた。
見たくないと思いながらも、髪の隙間からその方を窺ってしまう。
彼女の目線の先には、穏やかで愛想の良い表情をした男子生徒がいる。
たった今教室に入ってきて、あちこちからかけられる挨拶に「おはよう」と丁寧に応えていた。
名前は雛真緒。
クラスメイトの名をほとんど覚えていない京香でも、彼のことは知っている。
毎日誰かしらが呼んでいる声が耳に入ってくるからだ。
余裕ありげに微笑を浮かべて、輪の中心にいるわりに彼自身は騒がしくなく、むしろ上品な印象を受ける。
独特の空気に皆は惹かれるのか、つまり彼はまだ四月なのにもう、いわゆるクラスの人気者の立場にいて、人にできるだけ関わるまいと閉塞的に過ごしている京香とは対極の存在にあった。
しかし彼女が真緒が気になってしまう理由は、惹かれているのとは違う。
彼が同じ空間にいることを意識した瞬間に、手が震えて逃げ出したいと感じるのである。
理性ではなく、本能で。
(こっちも治っていない…)
京香は細めた目で真緒を捉えた。
ニコニコとしている彼に化け物らしさは微塵もない。それなのに、彼の内なるところからこちらを怖がらせる圧のようなものが放たれている。この恐怖は、街中で化け物を見た時よりもぐっと胸に迫ってくる。
真緒を怖いと思うようになったのは、幻に悩まされて二日目の昨日。
原因はさっぱり見当がつかない。恐怖を抱く前も後も、京香と彼の間には一切の交流がないのだ。
気づかぬうちに嫌われていて、彼の感情が伝わっているのだろうかとも考えたが、「最近あなたが怖いです。私が嫌いなのでしょうか」などとは尋ねられるはずがない。
幻のことも、真緒のことも、相談する相手がいなかった。
感じている本人が気味悪いのだから、他人が聞けばそんなことを話す京香自身も気持ち悪いと思うだろう。
それに、これまで意識的に他者を避けて一人で過ごしていた彼女を、わざわざ気に留める勇敢な生徒はいない。
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