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ロックグラス
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落ち着いた雰囲気のバーのカウンター席に、俺は座っている。バーテンがシェイカーを振る音が静かに響き、背後の席から二人連れの喋る声が二言、三言聞こえる。ちらほらと空席はあるものの、それなりに繁盛しているように見える。
グラスを空けた俺は、カウンターに置いたスコッチのボトルに手を伸ばす。バランタイン三十年、三万ほどするボトルだ。自分と同年齢のよしみで買った。しかしこれを飲む度に、同じ三十年でも俺には三万の価値は無いだろう、と自虐する羽目になる。それはこのゴミ溜めのような世界で自分を見失わないようにするための、俺なりの手法ではあったのだが。
二杯目のグラスを手の中に収める。それを振って香りを立たせる。琥珀色が涙目のように煌めく。きっとこれは涙だ。
知らない女が、俺の後ろに立った。何の脈絡もなく、話しかけてきた。「貴方、私が何歳に見える?」
質問からして、酷く酔っているのだろう。どうか酷く酔っているのであって欲しい。声の出所を探って振り向くと、やや俺の頭上に覆いかぶさるようにして、初老の女が立っていた。一目、目に付いたのは、歌舞伎にでも出られそうな程の厚化粧だった。他に、色々な華美な装飾品を身に付けているように見えた。しかし、それは彼女の美しさを引き立たせるようなことはせず――勿論彼女に美しさというものがあればだ――、むしろ彼女を、砂鉄の様に装飾品を引き付けただけの、太った磁石の様に見せていた。
私は座って後ろを向いたまま言った。「失礼、もう一度仰って頂けますか」
女は私を見下ろすようにして言った。「私が、何歳に見える?」
何歳に見えるかより、実際に何歳であるかの方が重要だと思いますが。ほら、戸籍とか色々――。私は、そうは言わなかった。
「貴女が鏡でご自分を見る時と、同じように見えていると思いますよ」
女は皮肉を貰った自覚がある様子でもなく、「それはどういう意味かしら?」と尋ねた。
「貴女はご自分が何歳に見えているんですか?――勿論、鏡でなくても結構ですが。街を歩いていてふとショーウィンドウに映った自分の横顔とか」
他の席の方から、クスクスと静かな笑い声が生まれる。俺は横目でちらと見まわしてみる。一番左奥のテーブル席で、数人の男女が不安げな顔でこちらを見ている。この女は、あの席から来たのかも知れない。どういう経緯かは知らないが。
女は更に答えた。「そうね。ま、三十代後半ってところかしら」
彼女のその答えに乗って、年甲斐もなく酔っぱらった酒臭い吐息が俺の鼻を突いた。その瞬間、俺は無性に腹が立った。近頃、この手の無神経に俺はうんざりしていた。
「そうですか、それはそれは。随分と綺麗な鏡をお使いのようだ」
周りの静かな笑い声が、失笑に変わった。若い男も若い女も、痛快という様子で笑っていた。目の前の女も、ようやく自分が遠回しに侮辱されていることに気付いた。
彼女はカッと頬を紅潮させると、金切り声で叫んだ。「こ、この無礼者!!」
彼女は時代劇調でそう切り出し、その次に、五十音かるたが作れそうな程バラエティに富んだ罵詈雑言を並べ立てた。一息に全部言い切って、その後自分の放った暴言を脳内で確認しているようだった。そしてすぐに、目の前の男を罵倒してやったことに満足したのか、それともただ単に疲れてしまったのか、彼女はヒールで硬い足音を立てながら、店を出て行ってしまった。捨て台詞も無し。テーブル席の連れに「お会計はお願い」と目配せすることも無し。後にはただ彼女の怒りの余韻と、押しつけがましい香水の香りだけが漂っていた。
どこかの席で、ロックグラスがカラン、と鳴る。
店は平穏を取り戻し、あのテーブル席の男女はほとんど何事も無かったかのように振舞っている。たまに、苦笑いが混じっているような気もする。
バーテンが静かに、俺のチェイサーを用意しながら言った。「お客さん。お酒は口を滑らかにしますが、滑らか過ぎるのも考え物ですよ」
俺にも少し言い過ぎたという自覚はあった。「すみません。騒ぎにするつもりは無かったんです」
俺は確かに間違っていたのだろう。なんたって女は歌舞伎に出られないのだから。
グラスを空けた俺は、カウンターに置いたスコッチのボトルに手を伸ばす。バランタイン三十年、三万ほどするボトルだ。自分と同年齢のよしみで買った。しかしこれを飲む度に、同じ三十年でも俺には三万の価値は無いだろう、と自虐する羽目になる。それはこのゴミ溜めのような世界で自分を見失わないようにするための、俺なりの手法ではあったのだが。
二杯目のグラスを手の中に収める。それを振って香りを立たせる。琥珀色が涙目のように煌めく。きっとこれは涙だ。
知らない女が、俺の後ろに立った。何の脈絡もなく、話しかけてきた。「貴方、私が何歳に見える?」
質問からして、酷く酔っているのだろう。どうか酷く酔っているのであって欲しい。声の出所を探って振り向くと、やや俺の頭上に覆いかぶさるようにして、初老の女が立っていた。一目、目に付いたのは、歌舞伎にでも出られそうな程の厚化粧だった。他に、色々な華美な装飾品を身に付けているように見えた。しかし、それは彼女の美しさを引き立たせるようなことはせず――勿論彼女に美しさというものがあればだ――、むしろ彼女を、砂鉄の様に装飾品を引き付けただけの、太った磁石の様に見せていた。
私は座って後ろを向いたまま言った。「失礼、もう一度仰って頂けますか」
女は私を見下ろすようにして言った。「私が、何歳に見える?」
何歳に見えるかより、実際に何歳であるかの方が重要だと思いますが。ほら、戸籍とか色々――。私は、そうは言わなかった。
「貴女が鏡でご自分を見る時と、同じように見えていると思いますよ」
女は皮肉を貰った自覚がある様子でもなく、「それはどういう意味かしら?」と尋ねた。
「貴女はご自分が何歳に見えているんですか?――勿論、鏡でなくても結構ですが。街を歩いていてふとショーウィンドウに映った自分の横顔とか」
他の席の方から、クスクスと静かな笑い声が生まれる。俺は横目でちらと見まわしてみる。一番左奥のテーブル席で、数人の男女が不安げな顔でこちらを見ている。この女は、あの席から来たのかも知れない。どういう経緯かは知らないが。
女は更に答えた。「そうね。ま、三十代後半ってところかしら」
彼女のその答えに乗って、年甲斐もなく酔っぱらった酒臭い吐息が俺の鼻を突いた。その瞬間、俺は無性に腹が立った。近頃、この手の無神経に俺はうんざりしていた。
「そうですか、それはそれは。随分と綺麗な鏡をお使いのようだ」
周りの静かな笑い声が、失笑に変わった。若い男も若い女も、痛快という様子で笑っていた。目の前の女も、ようやく自分が遠回しに侮辱されていることに気付いた。
彼女はカッと頬を紅潮させると、金切り声で叫んだ。「こ、この無礼者!!」
彼女は時代劇調でそう切り出し、その次に、五十音かるたが作れそうな程バラエティに富んだ罵詈雑言を並べ立てた。一息に全部言い切って、その後自分の放った暴言を脳内で確認しているようだった。そしてすぐに、目の前の男を罵倒してやったことに満足したのか、それともただ単に疲れてしまったのか、彼女はヒールで硬い足音を立てながら、店を出て行ってしまった。捨て台詞も無し。テーブル席の連れに「お会計はお願い」と目配せすることも無し。後にはただ彼女の怒りの余韻と、押しつけがましい香水の香りだけが漂っていた。
どこかの席で、ロックグラスがカラン、と鳴る。
店は平穏を取り戻し、あのテーブル席の男女はほとんど何事も無かったかのように振舞っている。たまに、苦笑いが混じっているような気もする。
バーテンが静かに、俺のチェイサーを用意しながら言った。「お客さん。お酒は口を滑らかにしますが、滑らか過ぎるのも考え物ですよ」
俺にも少し言い過ぎたという自覚はあった。「すみません。騒ぎにするつもりは無かったんです」
俺は確かに間違っていたのだろう。なんたって女は歌舞伎に出られないのだから。
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