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人の闇
しおりを挟む夫のマンションへ行き、鍵のかかっていた部屋を開けてみた。
化粧品と香水のにおいが漂い、クローゼットには女物の服がぎっしり詰まっている。あの女がここに住んでいたのは間違いなかった。
何とも言いようのない嫌な空気が染みついているのを感じて、ここに住むのは無理だと思った。今晩だけ我慢して明日から部屋を探そう、と来客用の布団をリビングに敷いて横になった瞬間、私は眠りに落ちていた。
翌朝、スマホの着信で目が覚める。
辞めた会社からの電話だった。
仕事の引継ぎはきちんとしたつもりだが、急に辞めたことを申し訳なく思っていた。十年以上勤めた会社には思い入れがあったし、何より高校を卒業したばかりの私に仕事を教えてくれた職場だったから。
慌てて出ると、元上司のかすれた声が聞こえた。
「いやもう、どうにもならなくて。短期間でも来てもらえたら……」
聞けば、私が引継ぎをした人が突然辞めてしまい、仕事が回らなくなったらしい。
「明日で良かったら、行けます」
「本当⁉ ありがたい! できれば次の人が育つまで……っていうかできれば復職してほしいけど、そんなの無理だよね……」
元上司の言葉は、今の私にとっては願ってもないことだった。
「復職、したいです」
思わず口に出すと、元上司が前のめりになる気配が伝わってくる。
「え、いいの⁉ 旦那さんは何て? 旦那さんの都合で辞めたって聞いてるけど」
「夫は死にました」
「ええっ!」
元上司は驚いたり同情してくれたり、ひとしきり大騒ぎしていた。
そしてその日の夕方、前に住んでいたアパートを再び借りる契約をしていたら、「退職を取り消して休職扱いにしましょう」という連絡が入ったのだ。
こうして私の生活は元に戻っていった。
◇〇△
あれからもう半年くらいたっただろうか。
休日の昼下がり、柔らかな日差しの中でゆっくりと紅茶を淹れる。赤みを帯びたお茶はまろやかな香りでキッチンを満たしていく。
立ち昇る湯気を目で追いつつ、私はテーブルの上の封筒を開けた。
探偵事務所からのものだった。
『姑と夫の遺体および死亡の状況に、不審な点はなかった』
警察からそう連絡を受けた私は、すぐに遺体を直葬した。夫の親戚から何か言われるかもしれないと待ち構えていたのだが、意外にも葬式については何も言われなかった。
そのかわり遺産の相続になると夫の親戚が次々と湧いてきて、田舎のお屋敷は渡せないだの何だのとしつこかった。弁護士に相談して遺産を整理してもらい、結局私は夫名義のものだけを受け取ることになった。
ある日、夫のマンションを売り払うために片付けをしていたら、突然姑の兄が訪ねてきた。彼は手にも顔にも引っかかれたような傷があり、やつれているように見えた。
「……娘の物を、引き取りたいのですが」
「わかりました。いま忙しいので、着払いで送ります」
もう関わり合いになりたくなくて、とっさに不愛想な返事をしてしまった。でもその時の彼の虚ろな目が少し気になっていたのだ。
後日、探偵に頼んで調べてもらったところ、あの女は警察署で別れてから一週間もたたないうちに精神を病んで入院していた。幻覚を訴えているそうだ。
小さな赤ちゃんが追いかけてくる――と。
それが見えると手当たり次第に物を投げつけて叫び回り、髪を振り乱して大暴れするのだという。罪の意識がそうさせるのか、本当に見えているのかはわからない。
昨日、その女が死んだ。
報告書にはそう書いてあった。
かわいそうだとは思わない。前妻の死の理由を知っていて、それでも自分は悪くないと言い放ったのだから、当然の報いだと思う。
他人を陥れながら愛し合った夫と一緒に、地獄へ行って添い遂げるといい。
紅茶のカップを置いた瞬間、玄関のチャイム音が鳴った。
「少しお話をお聞きしたいのですが……」
モニターにはスーツを着た男性が二人映っている。年配の人と若い人。彼らはあの田舎の村がある県の警察だと名乗った。
「どういったご用件でしょうか?」
あの村にいい思い出はない。冤罪でも吹っ掛けてきたらその場で弁護士を呼ぶつもりだった。私の剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、二人は顔を見合わせて首を傾げていた。
「実は、あなたが一時期あの村のお屋敷に住んでいたという話を、近所の方から聞きまして」
「ええ、舅の介護のためですけど」
余計なことを言う人間がいるものだ。何のために私の話を出したのだろう。
「そのお屋敷の、隣の家について何かご存知ですか」
「……隣?」
思いがけない言葉を聞いて、私の頭は一瞬真っ白になった。
……ああ、そうだ。
夫に平手打ちされたあの晩、声をかけてくれた女性がいた。一年前に隣の家へ嫁いで来たのだと。
「あまり詳しくはありませんが、お隣は分家だと聞いたことがあります」
「そうですか……」
若い男性が口をつぐむと、もうひとりの年配の男性が口を開いた。
「その隣の家の住民が、先日、白骨死体で発見されまして」
「……え?」
「親族の方によると、一年くらい連絡がついていない状態だったそうです。町からはとても遠いですし、なかなか見に行くこともできなかったと……それで、滞在中に何か物音などを聞かれたことはないですか?」
「……ええ?」
私が村にいたのは半年と少し前。たった半年で白骨になるのだろうか。あの茶髪の女性は、あの時確かに生きていたはずだ。
「あの、でもその家の人たちは、舅のお通夜に出ていたって……」
茶髪の女性の言葉を思い出しながら答えると、年配の男性は首をひねる。
「そんなはずはないんですが」
そんなはずはない、とは。
あのお通夜の時には、すでに隣の家の人は死んでいた――と警察は考えている?
「……あ、あの」
こんなことを聞いていいものかどうか。私は迷いながら年配の男性と目を合わせた。
「その亡くなった方って、隣の家の誰……なんですか?」
年配の男性はさりげなく視線を窓に向けた。
「長男の嫁以外の、四人全員です。その長男の嫁は、現在行方不明になっています」
長男の嫁。
茶髪の女性は跡取り息子の嫁だと言っていた。彼女だけが行方不明で、残りの者が全員死んでいるということか。
では、警察は彼女が犯人だと考えているに違いない。
少し肌寒いくらいの気温だったのに、額の汗がじわりと流れるのを感じた。
「何か、犯罪に巻き込まれたのでしょうか。女性ひとりでそんな、何人も殺すなんて、無理なのでは……」
「まあ、それは調査中ですから」
年配の男性はぎこちない笑顔を浮かべて体の向きを変える。
「この件はもうじき報道される予定です。何か思い出したことがありましたら、ご連絡ください」
「……わかりました」
警察の二人が出て行くのを見送って、私は膝から崩れ落ちた。
『おねーさんも頑張ってよ』
耳に残っている彼女の言葉。
もしかしたらあの女性は、あの時にはすでに逃げ出す準備を終えていたのかもしれない。
『あたしも頑張るから』
私は彼女の瞳の奥の、ほの暗い炎を思い出していた。
終わり。
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怖い怖い。ゾゾゾとしました。
チリ様
読んでいただいてありがとうございます!
暖かくしてお過ごしください('ω')ノ