花交わし

nionea

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21.巡る月

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「じゃあ月巡りか」
 女将に言われて、なるほどな、と氷冴尾は思った。月巡りというのは、月に一度訪れる身篭り易い日が来る事だ。その体調の変化を知らせるように、体から匂いが出るというのは聞いているが、当の本人には解らないものなのだという。
「…そんなに匂うか?」
「それぞれだって聞くねぇ。少なくともあたしにはほんの少し匂う程度だけど…」
 女将は袂を掴んで匂いを嗅ぐ氷冴尾の様子をじっと見つめる。
 普通ならば、七夜参りで体が作り変わった後は、伴侶となる相手と番う事で伴侶にだけ解る匂いを放つようになるものだ。だが、先ほど木芝は『良い匂い』がすると言った。今女将の鼻にも、微かとはいえ、好感を持つ匂いが感じられる。つまり、匂いが特定の相手に向かっていないという事だ。
 大体にして、目の前の年若い青年は、この丹野に独りで流れて来ていると聞いている。
 話すのは今日で三度目のごく浅い仲だが、付き合いが浅いからこそ解る事も多い。特に女将は、丹野ではただの穀物屋として小商いをしているが、日寬ではそれなりの大商いをしていた。自惚れではなく見る目はある。
「まぁ事情ってもんは誰しもあるもんだけどさ。白さん、ちょいとおぼこいってか、箱入りっぽいってか」
「…初めて言われたぞ」
 怪訝そうな氷冴尾の顔に、そういうとこだよ、と女将は思ったが口には出さずに頭を掻いた。
「白さんさ、七夜参りの事、ちゃんと解ってんのかい?」
 女将の言葉に、氷冴尾は瞬いて小首を傾げた。
「はぁ…」
 ちょっと米を買うだけのつもりだったのに、女将にしばらく説教をされて、氷冴尾は疲れ顔で帰路を歩いていた。
 まだ仕事終わりには早い刻限なので道はあちらこちらが賑々しい。今は、そんな喧騒から逃げるように脇道に入って、小道や道ならぬ道を縫うように長屋へ向かっている。
(箱入りだの言われる日がくるとは)
 もっとも、女将の話そのものはタメになるものだった。
 そもそも氷冴尾は女将に指摘された通り、七夜参りの事をよく解っていない。
 虎猫の里には、ちょうど七夜参りを行ったものがいなかったので、氷冴尾が持つ知識は全て伝聞だ。伝えた者も、里に昔からあった本の中身を伝えただけである。そのため、どういう変化を体にもたらすものなのか、という事は解っているが、実際に八朔の身となった者がどう生活するものか、などという具体的な知恵がある訳ではない。まして、伴侶の有無による匂いの指向性だのは初耳だった。
(役に立ちそうな話をしてくれたんだけどな)
 髪よりも色の濃い眉をぎゅっと寄せ、女将はくどくどと、小さな子供に言い聞かせるように同じ事を言葉を変えて繰り返していた。
「匂いに強く反応する輩だっていないとは限らんのやから気ぃ付けんといかんよ。月巡りの日はふらふら出歩いてないで大人しく。あと、知らない奴と二人きりで密室に居る状況も避けんといかんよ。ええね?」
 何があったら見知らぬ奴と密室に二人きりになるんだ、という疑問は胸の内に留めて、大人しく女将の説教に頷いた。その、氷冴尾としては聞いているつもりではあるが、女将からすれば真剣味の足りない態度がよけいに説教を長引かせたが。
(藍太…へそ曲げてんだろうな)
 中天を越した陽は、西から差し込み、道に落ちる影の長さもそれなりになっている。
「ん?」
 さすがにそこまでではないはずなのだが、氷冴尾の体感的に、丹野は日に日に大きくなっていっている。家や店などの建物が増え、建物に付随して人々も増え、その生活を賄うために物も増えていく。そしてその成長に比例して、何処の誰ともしれないがろくでなしだろうという事は見るからに判り易い胡乱な連中も、確実に増えている。
「おう、坊主…何の用だ」
 ほんの二日前には小さな通り道だったはずの長屋と商店の裏の小道は、蹴れば割れそうな板で塞がれ、その板の前に三人の男が屯していた。
「別にあんたらに用はないな」
 声をかけてきたのとは違う、明らかに酒に酔っている赤ら顔の男が氷冴尾の物言いが癇に障ったのだろう。
「んだこらっ!」
 特に意味はない事を怒鳴りながら立ち上がり、氷冴尾の腕を掴もうと手を伸ばして来た。
 氷冴尾は軽く半歩後ろに下がってその手を避け、壁を蹴って長屋側の屋根に跳ね上がる。そのまま長屋の表へ向かって屋根の上を歩き、賑々しい表通りを大人しく歩く事にした。
(なるほど…)
 二人でも密室でもなかったが、見知らぬ輩あるいは危機に遭遇する事態は容易に起こりうる事が証明された。
(里じゃあそもそも見知らぬ奴なんか居ないもんな)
 丹野の生活は賑やかで、新しい。だから面白いのだし、楽しんでいる訳だが。危険もすぐ身近に潜んでいる。
 女将が自分を、箱入り、と表現した理由が腑に落ちて、氷冴尾は思わず笑った。
(君子たれか)
 幼い頃の数少ない父親の記憶を思い出したのだ。
『何かあったらとりあえず逃げろ。君子とはそもそも危うきに近寄らぬものだが、もしもに際し逃げるにしく良策はない。君子たれ』
 今思い返せば、白く生まれついた息子を心配しての言葉だったのだろう。父が心配していたよりはずっと、氷冴尾は丈夫に育ったが、逃げが上策だというのは間違いなく刻まれている。
 ほどなくして長屋に帰り着いた氷冴尾を、家の前で藍太が盥を背負って待ち構えていた。
「兄ちゃん遅い!」
「悪い」
「おいらばあちゃんの手伝いで出なきゃいけないから…明日、仕事終わったら続き読んでくれる?」
「ああ」
 藍太の祖母は産婆の仕事をしている。丹野には出産経験者はいても、産婆、と言い切れるほどの者はいなかったらしく。まだ丹野に来て数日だというのにあちらこちらから声が掛かって、既に二人取り上げている。つまり、これから三人目を取り上げに向かうのだ。
「おい、急いでくれよ! 産まれっちまうよ!」
「たわけた事をお言いでないよ。そう簡単に産まれるなら産婆なんていらないさ」
 産婦の夫らしい鼠猿(そえん)族の男が長屋の端から追い立てるよう叫ぶのに、やれやれといった態度で荷物を背負って出てきた藍太の祖母は呟いた。氷冴尾に気付くと、皺の多い顔をさらにくしゃっとさせて笑う。
「ちょいといってきますよ」
「気をつけて」
「あいな」
 孫に手を引かれて歩き出したとはいえ歩みがよたついているわけでもなかったのだが、気が急いて待ちきれないのだろう、鼠猿の男は産婆を背に担いで走り出した。わわわ、と叫ぶ藍太の手もガッと掴んで引っ張っている。
(あいつ…通り向こうの長屋だよな?)
 正直距離は目と鼻の先といった近さなのだが、その急く気持ちも解らなくはない。
 氷冴尾は、自分の部屋に米の袋を置いて、赤みのさし始めた空を見ようと、屋根へ登った。
 一階しかない長屋の屋根は、それほど高いものではないが、周囲も同じような高さである事もあってそれなりに見通せる。暑さが過ぎる夕涼みにはまだ早いが、風は心地よい。
「見つけたぞ」
 眩しい西日を避け、瑠璃色をのぞかせ始めた東の空を見ていた氷冴尾の影を、覆うように黒い影が伸びた。
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