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27.淡く紅を混ぜたように
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泣くのかと思った。
「!」
氷冴尾の眉を寄せた苦しげな顔に、貴冬は慌てて近くへ寄りかけた。
だが、手のひらをまっすぐに向けられ、来るなという態度にたたらを踏む。
(いらない…とか)
それをわざわざ言わなければいけないのだろうか、と胸が重苦しくなる。氷冴尾にとって、望む相手はいつもそうだ。手を伸ばしてはいけない。望んではいけない。誰からも望まれている者を、自分一人の側になどと、許される事ではない。父がそうであったように、従兄がそうであったように、誰からも望まれる相手を望む事はいけない事だ。だからこそ、母は泣いていたではないか。
「俺は」
父に手を伸ばさなかったように、従兄の手を掴まなかったように、ただ望まなければいい。
口元を手で覆い、俯く。動揺して唇が震えている気がしたのを隠した氷冴尾の耳に、その声はするりと届く。
「もし、ここに犬狼族の貴冬という方がおられると聞いて来たのだが」
声がしたのは、閉ざした木戸の向こうだった。
「あの…」
その声を発した二人の青年達は戸惑っていた。
貴冬の居場所を聞き、ようやく長屋までたどり着いたところ、何故か長屋の住民と思しき者達が一つの木戸に聞き耳を立てるように集まっていたのだ。何かあるのだろうから邪魔はしたくないが、残念ながらそこに集まっている者達以外に話を訊けそうな相手もいない。
しかたがなしに声をかければ、
『何で今?!』
と、でも言いたげな顔で睨まれてしまった。
「はいはいはい貴冬さんね。ちょおっと今立て込んどるんよね。だからまぁ出直したらええわ」
「え」
「いや我々は」
「ちくっと出直せば良かろ。何ならあての家貸しちゃるけ、待っちょれ」
追い払うように手を振られ、そこに入っとけと指され、それでも青年達は引き下がらなかった。少なくとも確実に目の前の住民が貴冬を知っているのだと確信を得たのだから当然だ。
もう一度詳しく話を聞こうと口を開きかけると、住民の向こうの木戸が開いた。
「あ!」
「貴冬さん!」
「………」
聞き耳を立てていた長屋の衆から、何故出てきたのだ、という目を向けられて、貴冬も自分で自分にそう思っていると溜息を吐く。とはいえ、氷冴尾が、呼んでいるぞ、と促したのだから仕方がない。それに、外で騒ぐのを気にしながら続ける話でもないだろう。
「貴冬さん」
「どうか里にお戻りを」
「話は聞く。とりあえずこちらに来い」
後ろ手に木戸を閉め、ようやく見つけた、と目を輝かせ尾を振る青年達を促して、今はもう自分の家でもある木柴の家へ入った。
「…ふぅ」
閉まった木戸を見つめて、氷冴尾は溜息を吐いた。胡座をかいた自分の足首を撫で、ぐっと掴む。虚しく空を掻くように手を伸ばす事だけはしたくなかった。
犬狼の里を出た日も、虎猫の里を出ると決めた日も、感じていたのは浅ましいまでの羨ましさだ。
誰かに望まれる者に自分の手を伸ばしてはいけないと解っていて、大人しくしている振りで、何処かで望まれている相手を妬んでいる。優しさで情けを向けられる事を喜びながら恨んでいる。何も持たない、誰の望みにも応えられない自分を、ただ此処ではないだけなのだと慰める。
「っ…!」
族長のたった一人の子であったのに、何故、何の役にも立たないのだろうか。そんな思いはずっと燻り続けている。
奥歯を噛み締めて、土間の地面を睨みつけた。意味はないが、力を込めなければ泣きそうな気がした。それではあまりにも虚しい。
しばらくそうしてから、氷冴尾は頭を振って立ち上がる。貴冬がいつ戻るのか解らないが、そう簡単に話し合いが終わるものでもないだろう。もう寝てしまおうと考えたのだ。
だが、鴨居をくぐる前に耳に声が届く。
「すまん待たせた!」
予想よりもはるかに早く貴冬は戻って来た。
「まったく待ってない…話は終わったのか?」
体の力が抜けた。氷冴尾は、柱にもたれるように立って話始めた。
「氷冴尾との話の方が重要だ。騒がず待つよう言い聞かせたから気にするな」
「里に、戻って欲しいという話だろう。俺の事よりも先に…」
「次期族長の嬬に横惚れした挙句里を出奔した者がおめおめ戻れる訳がないだろう。あれらは無駄骨を折りに来たんだ。誰の指図か知らんが…」
氷冴尾は数度瞬いて、小首を傾げた。
「里に、戻らないのか?」
「戻れる道理が無い」
貴冬は氷冴尾の言葉に首を横に振る。そして、少し口ごもってから続けた。
「海春との仲を取り持つことも、俺に与えられた役目の一つだった。だが、俺は…それを果たせていない」
駄目だと解っていながら堪えきれなくなって、貴冬は氷冴尾の目を覗き込むように顔を合わせた。僅かに目を見開いた呆れたような顔をしている。
「呆れるのも、もっともな事だと思う。俺は、お前が里を出て行った事で、もう我慢せずとも良いのだと、喜んだ…あげく丹野まで、追って来て、独りよがりな真似をしているのだと解っている。迷惑ならばいつでも離れるつもりだ」
「離れて、どうするんだ…里に戻らないなら」
「まぁ、今は何とも言えないが。なんとかなるだろう。日寬にでも行けば食う事くらいはできるだろうし」
貴冬の言葉に、確かになんとでもするのだろうと思った氷冴尾だったが、そう口に出す事はできず、言葉を捜すように口を開いて、また閉じた。
頭の中で、貴冬の言葉が回っている。
「お前…本当に俺を嬬に欲しいと思ってたのか…」
ぽつりと氷冴尾が呟いた言葉に、今度は貴冬が目を見開いた。
「!」
氷冴尾の眉を寄せた苦しげな顔に、貴冬は慌てて近くへ寄りかけた。
だが、手のひらをまっすぐに向けられ、来るなという態度にたたらを踏む。
(いらない…とか)
それをわざわざ言わなければいけないのだろうか、と胸が重苦しくなる。氷冴尾にとって、望む相手はいつもそうだ。手を伸ばしてはいけない。望んではいけない。誰からも望まれている者を、自分一人の側になどと、許される事ではない。父がそうであったように、従兄がそうであったように、誰からも望まれる相手を望む事はいけない事だ。だからこそ、母は泣いていたではないか。
「俺は」
父に手を伸ばさなかったように、従兄の手を掴まなかったように、ただ望まなければいい。
口元を手で覆い、俯く。動揺して唇が震えている気がしたのを隠した氷冴尾の耳に、その声はするりと届く。
「もし、ここに犬狼族の貴冬という方がおられると聞いて来たのだが」
声がしたのは、閉ざした木戸の向こうだった。
「あの…」
その声を発した二人の青年達は戸惑っていた。
貴冬の居場所を聞き、ようやく長屋までたどり着いたところ、何故か長屋の住民と思しき者達が一つの木戸に聞き耳を立てるように集まっていたのだ。何かあるのだろうから邪魔はしたくないが、残念ながらそこに集まっている者達以外に話を訊けそうな相手もいない。
しかたがなしに声をかければ、
『何で今?!』
と、でも言いたげな顔で睨まれてしまった。
「はいはいはい貴冬さんね。ちょおっと今立て込んどるんよね。だからまぁ出直したらええわ」
「え」
「いや我々は」
「ちくっと出直せば良かろ。何ならあての家貸しちゃるけ、待っちょれ」
追い払うように手を振られ、そこに入っとけと指され、それでも青年達は引き下がらなかった。少なくとも確実に目の前の住民が貴冬を知っているのだと確信を得たのだから当然だ。
もう一度詳しく話を聞こうと口を開きかけると、住民の向こうの木戸が開いた。
「あ!」
「貴冬さん!」
「………」
聞き耳を立てていた長屋の衆から、何故出てきたのだ、という目を向けられて、貴冬も自分で自分にそう思っていると溜息を吐く。とはいえ、氷冴尾が、呼んでいるぞ、と促したのだから仕方がない。それに、外で騒ぐのを気にしながら続ける話でもないだろう。
「貴冬さん」
「どうか里にお戻りを」
「話は聞く。とりあえずこちらに来い」
後ろ手に木戸を閉め、ようやく見つけた、と目を輝かせ尾を振る青年達を促して、今はもう自分の家でもある木柴の家へ入った。
「…ふぅ」
閉まった木戸を見つめて、氷冴尾は溜息を吐いた。胡座をかいた自分の足首を撫で、ぐっと掴む。虚しく空を掻くように手を伸ばす事だけはしたくなかった。
犬狼の里を出た日も、虎猫の里を出ると決めた日も、感じていたのは浅ましいまでの羨ましさだ。
誰かに望まれる者に自分の手を伸ばしてはいけないと解っていて、大人しくしている振りで、何処かで望まれている相手を妬んでいる。優しさで情けを向けられる事を喜びながら恨んでいる。何も持たない、誰の望みにも応えられない自分を、ただ此処ではないだけなのだと慰める。
「っ…!」
族長のたった一人の子であったのに、何故、何の役にも立たないのだろうか。そんな思いはずっと燻り続けている。
奥歯を噛み締めて、土間の地面を睨みつけた。意味はないが、力を込めなければ泣きそうな気がした。それではあまりにも虚しい。
しばらくそうしてから、氷冴尾は頭を振って立ち上がる。貴冬がいつ戻るのか解らないが、そう簡単に話し合いが終わるものでもないだろう。もう寝てしまおうと考えたのだ。
だが、鴨居をくぐる前に耳に声が届く。
「すまん待たせた!」
予想よりもはるかに早く貴冬は戻って来た。
「まったく待ってない…話は終わったのか?」
体の力が抜けた。氷冴尾は、柱にもたれるように立って話始めた。
「氷冴尾との話の方が重要だ。騒がず待つよう言い聞かせたから気にするな」
「里に、戻って欲しいという話だろう。俺の事よりも先に…」
「次期族長の嬬に横惚れした挙句里を出奔した者がおめおめ戻れる訳がないだろう。あれらは無駄骨を折りに来たんだ。誰の指図か知らんが…」
氷冴尾は数度瞬いて、小首を傾げた。
「里に、戻らないのか?」
「戻れる道理が無い」
貴冬は氷冴尾の言葉に首を横に振る。そして、少し口ごもってから続けた。
「海春との仲を取り持つことも、俺に与えられた役目の一つだった。だが、俺は…それを果たせていない」
駄目だと解っていながら堪えきれなくなって、貴冬は氷冴尾の目を覗き込むように顔を合わせた。僅かに目を見開いた呆れたような顔をしている。
「呆れるのも、もっともな事だと思う。俺は、お前が里を出て行った事で、もう我慢せずとも良いのだと、喜んだ…あげく丹野まで、追って来て、独りよがりな真似をしているのだと解っている。迷惑ならばいつでも離れるつもりだ」
「離れて、どうするんだ…里に戻らないなら」
「まぁ、今は何とも言えないが。なんとかなるだろう。日寬にでも行けば食う事くらいはできるだろうし」
貴冬の言葉に、確かになんとでもするのだろうと思った氷冴尾だったが、そう口に出す事はできず、言葉を捜すように口を開いて、また閉じた。
頭の中で、貴冬の言葉が回っている。
「お前…本当に俺を嬬に欲しいと思ってたのか…」
ぽつりと氷冴尾が呟いた言葉に、今度は貴冬が目を見開いた。
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