(株)よつめやくのいち

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第二章:彼女達の事情

三話:猫の尻尾(中)

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 きっと十代だと信じていたオズが、思わず凝視してしまったカナコの歳は、今年二十四になった。
 幼馴染で許嫁だった、造り酒屋の若旦那であるキクジと結婚したのは、もう五年前の事だ。
 そんなカナコが、尼寺へやってきたのは、二ヶ月前。
 親の決めた許嫁とはいえ、幼い頃から相手として思い合ってきたキクジの事を、嫌っている等という事はない。だが、どうした訳だか夫とのセックスではイケないのだ。始めの頃は、単純に行為に慣れていないため、と思っていたが、半年経っても、一年経っても、イク事が出来なかった。
 やがて、徐々に二人の間が噛み合わなくなり、すれ違うようになり、三年余りに及ぶ没交渉期間を生んでしまう。
 決して夫を嫌ってはいない。
 むしろ本当にたった一人慕っている相手なのだ。
 だが、どれほど手を尽くしてもらっても、イク事が出来なかった。
 そして、尼寺へやってきて、一人でイクための修業をしながら気付いたのだ。
(…あたし、もしかして、おかしいの?)
 きっかけは、体の調子を知るためのマッサージだった。少し温めの蒸し風呂で、体を撫で、感覚を磨くのだが。その時に臀部に触れると、妙な感じがしたのだ。大した違いではないが、丁寧に自分の体の感覚を掴もうとしていたため、解った。他の部分に触れている時よりも、心地良いと感じる。
(あたしがおかしいんだわ…なのに、キクジは悪くなかったのに)
 互いに気まずくなって、距離が空き、寂しくなった。謝り合う声よりも、周りから投げかけられる言葉の方が耳に大きくて、悲しくて苦しくて、カナコは、ついキクジを責め立ててしまう。彼は、反論せずに全ての言葉を受け入れ、小さく頷いた。
 尼寺での生活を決めたのはその時だ。もうそれ以上傷付けたくなかった。
 別れる事や、失う事は、考えられない。産まれた時から許嫁で、物心付いた時には、そういうものだと思って側に居る事が当たり前の相手であったのだ。どんなに関係が拗れても、それだけは考えられなかった。
 そして、一時的に離れて、それでもまだ思い募る相手だ。
(別れたくない。謝りたい。もし、許されるなら。ううん、許されるまで、謝り続けたい。キクジのとこに戻りたい)
 心を決めたカナコは、キクジとの関係をどう見直して行けば良いのか、必死に考え続けた。そんな風に過ごしていた時に目に留まったのだ。明るく晴れたシナの表情が。
 未婚の十代の娘達ならば、楽しく身の上をお喋りして過ごす事もある。だが、そうでない人間も、この尼寺には何人も居た。
 カナコの目には、シナも自分と同じように、婚家から離れて尼寺にやって来ているように感じていたのだ。実際にはシナは未婚なのだが、そうした個人の事情は深く立ち入らないので、解らなかった。しかしながら、悩みを抱えているという事ははっきり伝わっている。だから、カナコは、一方的にではあるが、シナに親近感を抱いていた。
 そのシナが、晴れやかな表情をし、尼寺を出る算段を始めている。
(稀人様に会ったから…?)
 少し前に稀人と呼ばれる不思議な人間がやって来た事は知っていた。遠目にしか見た事は無いが、黒い髪と黒い目をしていて、まるで御柱様のようだ、と思ったのを覚えている。とはいえ、会いに行こうとか、話をしようと考えた事はなかった。
 だが、そんな稀人が、シナの心を晴らしたのだろうか。もしそうなら、何があったのか、知りたいと思うのは、いけない事だろうか。
 カナコは、洗濯を終えて前を歩くシナの背に、思わず声をかけた。
「あの…」
「はい」
 カナコは、尼寺に来て初めて、自分から誰かに声をかけた。
 声をかけられたシナも、初めてだ。
「少しだけで良いのですけど…お時間ありますか?」
「構いませんよ」
 きっと同じではない。だが、同じように悩みを抱えている。それは、互いに解っていた。だから、二人は、そっと遠回しに、それでも有益な話をした。
 そして、カナコはオズの元へやって来たのだ。
(稀人様は御柱様の御意思を体現される方。きっと、あたしにも道を示して下さる!)
 信じて飛び込めば、少し怯んでしまって時間はかかったが、オズは確かにカナコの視界を広げてくれた。
(きっと、これで…キクジとまた)
 その後、オズやウメノと話し合いつつ、準備を整え、カナコは、一ヶ月後に家へ帰る事に決まる。奇遇にも、話しかけて以来話をする事になったシナも同じ頃に出て行く事に決まったらしく、細かい事は知らないが、互いに目配せを交わして微笑み合ったりして別れた。
(大丈夫。大丈夫)
 カナコの出身地であり、帰る場所である七桑郷、美しい湧水の街は、全体がその水を活かした職を営んでいる者が多い。カナコの実家も、嫁いだキクジの家も、造り酒屋だ。もっとも、キクジは杜氏ではないが。
(きっと大丈夫よ)
 久しぶりに見たキクジは、ほのかに痩せてしまったように見えた。それでも、微笑んで、迎えてくれる。
「おかえり」
「ただいま」
 キクジの腕の中で、三毛猫のコマが小さく鳴き声を上げた。
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