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アンネリザは、レンフロを筆頭とする周りの心配を他所に、通常通りの逞しさでのびのびと花の館での日々を過ごした。
その逞しさたるや、めげない令嬢達が頬を引き攣らせて言葉を失くすほどである。
「あぁ、思いがけず楽しかった日々も今日で終わりなのね」
心底から残念そうに、荷造りを終えた鞄を見つめてアンネリザが呟いた。
もはや反応しないコレトーはお茶を淹れ、マツとほぼアンネリザの素がどういうものか解ったナナリスは互いに目を見合わせて苦笑する。
「ふふ。でもまぁ、良いわ。陛下の好意で帰りの旅は色々寄り道できることになったし。楽しみねぇ」
アンネリザは全体ににこにこと笑いかけているが、マツとナナリスは王都からそれぞれ本来の主人の元へ帰るので、寄り道に付き合うのは、全く楽しみそうにはしていないコレトーだけだ。
「でも本当に―――」
指を組み合わせるように手を合わせ、うっとりと宙を見つめるアンネリザの脳裏を王城での思い出が駆け抜ける。
コレトーの隙を突いて、真夜中に黒真珠の部屋へ行った思い出。残念ながらノックをしても誰も答えてはくれなかったが、夜に歩く花の館はあちこちの暗がりに何かが潜むようで楽しかった。
(まぁ、何より怖かったのは、水仙の棟に戻って来た時に扉前でランプ片手に立っていたコレトーだったけど)
他にも、紅菊派の面々を誘って西の宮殿も見た。既に諸々一新されているのは解っていたが、なんと、惨劇当時に参加していたジンライ家の先祖の手記が残されているそうで、ミコトから信憑性の高い話を聞けたのだ。これにはアンネリザも大興奮である。とはいえ、コレトーの視線が冷たかったので、ミコトに詰め寄って質問攻めにする事はなかった。ただ、問題ない範囲で手記の写しを貰えるよう約束を取り付けたくらいだ。
(そういえば、この時も、結局戻ってきた時が一番ぞっとしたのよね)
陛下は別に参加していないのだが、戻ってきた時の他棟の令嬢達からの視線の憎々しさはなかなかの見ものであった。アンネリザの感想としてはコレトーの方が怖い、という程度ではあったが。
(もっとがんがん来るかと思ったけど、やっぱり陛下との連絡方法が不明なのがあちらとしてはキモだったのかしらね)
花の館に入ってからお茶会までは、それなりの警戒を受けていた。その後から馬場事件までは無警戒となる。そして、馬場事件以降は警戒されまくっていた。だが、令嬢達がどれほど調べようとも、アンネリザがレンフロと連絡を取っている方法は判明しない。
アンネリザが平和に過ごせたのは、そうした計り知れないレンフロとの仲、という部分も理由の一端だろう。
(まぁ、解る訳無いわよね)
レンフロは自分の人間離れした能力については侍従長にも話していないらしいのだ。レンフロの能力と同じような能力を持っていた王の記録も無いため、二人の連絡手段を推察出来る人間はいないだろう。
あとは、レンフロの好意で、曰く付きの美術品の鑑賞会も行った。場所は花の館で、特に条件も資格も必要なかったので、家の命運がかかっていても怖い話は無理、と言って不参加だったヒナギク以外は全員が参加した。もっとも、レンフロの好意で開催されたとはいえレンフロは参加しないし、出てくる品はどれもこれも血腥い曰くばかりなため、半数以上の令嬢がゲンナリとした顔で一人、また一人、と去って行き、最後にはほくほく顔の満ち足りたアンネリザと、顔を青くしながらもアンネリザが居るのならと残り続けたメリーラッツァだけになったが。
(最後までご一緒できたし、ちょっと仲良くなれるかもって思ったけど)
楽しかったですね、と声をかけたら、涙目で思い切り睨まれたのだ。
そして、
「私、あなたの事、大嫌いです!」
と、叫んでメリーラッツァは去った。
もしかして仲良くなれるかも、と思っていただけに、さすがのアンネリザもこの時ばかりはちょっと落ち込んだ。令嬢には刺激が強すぎるかもと思い仕舞っておりました、という言葉と共に、説明してくれていた好々爺がもう一品曰く付きの美術品を紹介してくれなかったら、今も引きずっていたかもしれない。
「―――楽しかったわ」
「よろしかったですね、お嬢様」
「ええ。あ、帰りは テーナ姉様達へのお土産忘れずに持っていってね」
「はい。勿論です」
行きはコルテンタの家へ立ち寄ったが、帰路では立ち寄らないため、姉夫婦や姪へのお土産は全てマツに託したのだ。
「ナナリスも、押し付けてしまって申し訳ないけど」
「いえそんな事はございません。奥様にもちゃんとお伝えしておきます」
「ありがとう」
アンスバッハの王都屋敷には当初立ち寄って帰る予定だったのだが、アンスバッハ家最長老でありアリエーナの夫の高祖母にあたる人物が危篤という急報が入り、王都屋敷には今人が居ないのだ。そのため、借りていたドレスはもちろんお礼品なども全てナナリスに持ち帰ってもらう事になっている。
(紅菊派の皆様とは御挨拶状を交わす仲にもなれたし。ふふふ、アイリス様の御年始状、楽しみだわ)
残念ながら趣味を共有することはできなかったが、紅菊派の面々とは友人になった。居住地は離れているが、今後年始や折々に触れて文をやり取りすることになるだろう。
「コーフェンの古城とアンスロックの廃城を回って帰れるし。お土産を買う資金まであるし。すごいわねぇ、王城召喚って」
しばらく思い出を反芻していると、入室の許可を求める声がした。アンネリザの荷物は大した量ではないが、それなりにはある。朝一番で出発するため、前日から必要無いものは積み込んでしまうのだ。マツとナナリスにコレトーでできない事もないのだが、その辺は体面というものだ。
王城側の人間がマツ達に確認しながら荷を運び出していく。その最中、アンネリザは人目を盗むように封筒を手渡された。
(ん?)
何なのかと尋ねようにも、既に渡してきた人間は荷を運びに戻っている。
(ふむ)
封もされていないそれは、飾り気もなければ、署名もない。中もシンプルなカードが入っているだけだ。
『今夜、黒真珠の部屋で、お待ちしております』
丁寧で女性的な手跡だった。だが、アンネリザの記憶では思い当たらない。誰だろうと首を傾げつつ、こっそりとポケットに封筒を隠した。
(まぁ、今夜、黒真珠の君の部屋に行けば解るわよね)
明らかに不審なカードの指示に従うつもりのアンネリザは、
(もう一回くらい黒真珠の君の部屋を確認しておきたかったのよ。渡りに船とはこの事ね)
と、こじ付けで自分の利益を追求する事に余念がない。
その夜。
愛用のカンテラももう荷詰めしてしまったので完全に油断していたコレトーが眠ったのを確認して、アンネリザは自室を抜け出した。時折完全な闇となる暗がりの廊下を、慣れた足取りで迷いなく歩む。月光で一際明るい渡り廊下を行く時など、窓から景色を見て微笑みすら浮かべた。
(いい景色…あ、今、光が見えたような………黒真珠の君!)
視線を上に向けた黒椿の棟の一室で、一瞬光が揺らいだ。アンネリザは窓辺に立つ人影の話を思い出してテンションが上がるが、考えてみれば見えたのは人影ではなく光だ。
(…ではないか)
待ち合わせの相手が先んじて到着しているだけだろう。
(最後の最後でついに会えたかと思ったのに…そう上手くはいかないかぁ)
肩を落としつつ残りの道のりを歩むアンネリザは、だが、黒真珠の部屋の扉の前に立ちノックをした瞬間にもう一度テンションが上がった。
ノックすると、女性の声が『お待ちしておりました』と返事をしたのだ。
(もしかして、もしかして、この扉の先には黒真珠の君が!)
居る訳がない。
「お一人でいらしたのですね」
そう言って、精緻なガラスランプの灯りの中佇んでいたのは、アヤメだった。
「…ええ、まぁ、はい」
アンネリザは上手く表情を作る事も気の利いた挨拶をする事もできない。アヤメの方もそんな事は望んでいないだろうが、何やら暗い表情のアンネリザに微笑んでみせる。
「こんなところに突然お呼び出ししてごめんなさいね。どうしても、貴方にお話ししておきたい事があって」
「いえ、どうぞ、お気遣いなく。何でしょうか」
「貴方は不思議な事がお好きなのでしょう?」
「え? ええ。そうですね。不思議も好きですが」
何故笑顔のアヤメがそんな事を言ってくるのか、意図が解らず、アンネリザは首を傾げ警戒を強めた。
「黒真珠様が何処に消えたのか、教えて差し上げますわ」
「え?!」
一応の警戒は、その言葉であっと言う間に消滅する。フランドール家には、黒椿の棟の設計図の写が所有されているらしい。
「まぁ!」
アヤメに促されるまま寝室の一角へついて行き、隠し扉が開かれるのを目を輝かせて見つめた。
こんな物があるなんて、こんな事を教えてくれるなんて、なんて素敵な方なのかしら。アンネリザは傍らで微笑むアヤメに尊敬の眼差しを向けた。だが、その視界が傾いでいく。
「え?」
「好きなだけ堪能なさい!」
隠し扉の中に向けて突き飛ばされたのだと気付いた時には、アヤメの叫び声と共に扉が閉まった。
「ずっと、そこにいれば良いのよ」
しっかりと扉を閉ざして、アヤメはランプを片手に寝室から抜け出す。
「私と陛下の仲を邪魔するから」
アヤメは憎々しそうにそう呟いて自分の部屋へ向かって足早に歩き出した。
アンネリザが聞いていれば、
「仲ってなんですか? 陛下は別に誰ともご結婚の意志は持っておりませんでしょう。確かに、私はこの花の館の意義に沿った行動はとっておりませんが、この騒動の終わりを望んだのは陛下ですよ?」
と、言いそうなものだが、アンネリザにアヤメの言葉は届かない。
そして、もしアンネリザからの返答をアヤメが聞いたとしても、信じなかっただろう。アヤメは、自分の父に陛下から望まれて花の館に入る事になったと聞かされていたのだから。
見合いの場で談笑した時。母と同じ瞳だ、とレンフロが呟いた声が今でも胸に残っている。あの声を胸に返答を待ちわびていた。そして、舞踏会へ赴いたのに、気付けば陛下と踊る事はないままに閉会となる。事態が飲み込めず呆然としていたが、父が言ったのだ。あの舞踏会は誰か一人が嫉妬の目を向けられる事を避けるためだったと。
「お前は他の令嬢達とは違う。これからは花の館に入るのだよ。そこで陛下に、お前が如何に素晴らしい令嬢であるかを知ってもらうのだ」
その言葉に、レンフロの横顔を思い浮かべながら頷いた。
実際に花の館へ入ると、既に何人かの令嬢が居たが、全員家柄で自分をねじ込んで来たのだと教えられている。この中で本当に陛下の心に留まり、陛下に気遣われたのは自分だけだ、とアヤメは信じていた。
花の館に入って一ヶ月が過ぎ、アヤメはレンフロが一度も訪れない事に不安が募っていた。誰よりも先んじて入城したシトロベルとメリーラッツァが諍いを起こしているせいかとも考えた。だが、違った。全ては花の館に入る人員が揃っていなかったからだった。レンフロの侍従長が喚んだという、アケチ家の末姫。
舞踏会でも良いように使われた彼女は、また花の館でも侍従長に使われているのだろう。アヤメは、そう思った。実際、入城した様子も、お茶会の場での様子も、アンネリザは哀れなほど田舎者の小娘だった。
そう、アヤメはアンネリザに同情していた。花の館での彼女の存在は、自分という将来の王后に対する妬心を逸らすための生贄のようなものだ。
だが、違った。
(あれはこの花の館での私と陛下の時間を邪魔するために送られてきたのよ!)
侍従長はレンフロの結婚に否定的だという話は聞いていた。でもレンフロが望んでいる令嬢との仲を壊そうとするとまでは考えていなかった。それが甘かったのだ。侍従長は、アンネリザという令嬢を使って、この花の館での意義をぶち壊した。
(許せない! 許せない! 許せない!)
アヤメは自室に戻ってランプを消す。寝台に倒れ込むように寝そべって、苛立つ思いを枕を抱きしめる事で晴らそうとした。
「全部あの子が悪いのよ」
アヤメの眼裏に心底喜んでいたアンネリザの笑顔が浮かぶ。そして黒く塗りつぶされた。
全てはアヤメの勘違いだったが、彼女は元来感情的な質ではない。勘違いさせ、暴走させたのは、周りの人々であった。もっとも、既にアンネリザに危害を加えてしまったアヤメが、無実とは言えないだろうが。
その逞しさたるや、めげない令嬢達が頬を引き攣らせて言葉を失くすほどである。
「あぁ、思いがけず楽しかった日々も今日で終わりなのね」
心底から残念そうに、荷造りを終えた鞄を見つめてアンネリザが呟いた。
もはや反応しないコレトーはお茶を淹れ、マツとほぼアンネリザの素がどういうものか解ったナナリスは互いに目を見合わせて苦笑する。
「ふふ。でもまぁ、良いわ。陛下の好意で帰りの旅は色々寄り道できることになったし。楽しみねぇ」
アンネリザは全体ににこにこと笑いかけているが、マツとナナリスは王都からそれぞれ本来の主人の元へ帰るので、寄り道に付き合うのは、全く楽しみそうにはしていないコレトーだけだ。
「でも本当に―――」
指を組み合わせるように手を合わせ、うっとりと宙を見つめるアンネリザの脳裏を王城での思い出が駆け抜ける。
コレトーの隙を突いて、真夜中に黒真珠の部屋へ行った思い出。残念ながらノックをしても誰も答えてはくれなかったが、夜に歩く花の館はあちこちの暗がりに何かが潜むようで楽しかった。
(まぁ、何より怖かったのは、水仙の棟に戻って来た時に扉前でランプ片手に立っていたコレトーだったけど)
他にも、紅菊派の面々を誘って西の宮殿も見た。既に諸々一新されているのは解っていたが、なんと、惨劇当時に参加していたジンライ家の先祖の手記が残されているそうで、ミコトから信憑性の高い話を聞けたのだ。これにはアンネリザも大興奮である。とはいえ、コレトーの視線が冷たかったので、ミコトに詰め寄って質問攻めにする事はなかった。ただ、問題ない範囲で手記の写しを貰えるよう約束を取り付けたくらいだ。
(そういえば、この時も、結局戻ってきた時が一番ぞっとしたのよね)
陛下は別に参加していないのだが、戻ってきた時の他棟の令嬢達からの視線の憎々しさはなかなかの見ものであった。アンネリザの感想としてはコレトーの方が怖い、という程度ではあったが。
(もっとがんがん来るかと思ったけど、やっぱり陛下との連絡方法が不明なのがあちらとしてはキモだったのかしらね)
花の館に入ってからお茶会までは、それなりの警戒を受けていた。その後から馬場事件までは無警戒となる。そして、馬場事件以降は警戒されまくっていた。だが、令嬢達がどれほど調べようとも、アンネリザがレンフロと連絡を取っている方法は判明しない。
アンネリザが平和に過ごせたのは、そうした計り知れないレンフロとの仲、という部分も理由の一端だろう。
(まぁ、解る訳無いわよね)
レンフロは自分の人間離れした能力については侍従長にも話していないらしいのだ。レンフロの能力と同じような能力を持っていた王の記録も無いため、二人の連絡手段を推察出来る人間はいないだろう。
あとは、レンフロの好意で、曰く付きの美術品の鑑賞会も行った。場所は花の館で、特に条件も資格も必要なかったので、家の命運がかかっていても怖い話は無理、と言って不参加だったヒナギク以外は全員が参加した。もっとも、レンフロの好意で開催されたとはいえレンフロは参加しないし、出てくる品はどれもこれも血腥い曰くばかりなため、半数以上の令嬢がゲンナリとした顔で一人、また一人、と去って行き、最後にはほくほく顔の満ち足りたアンネリザと、顔を青くしながらもアンネリザが居るのならと残り続けたメリーラッツァだけになったが。
(最後までご一緒できたし、ちょっと仲良くなれるかもって思ったけど)
楽しかったですね、と声をかけたら、涙目で思い切り睨まれたのだ。
そして、
「私、あなたの事、大嫌いです!」
と、叫んでメリーラッツァは去った。
もしかして仲良くなれるかも、と思っていただけに、さすがのアンネリザもこの時ばかりはちょっと落ち込んだ。令嬢には刺激が強すぎるかもと思い仕舞っておりました、という言葉と共に、説明してくれていた好々爺がもう一品曰く付きの美術品を紹介してくれなかったら、今も引きずっていたかもしれない。
「―――楽しかったわ」
「よろしかったですね、お嬢様」
「ええ。あ、帰りは テーナ姉様達へのお土産忘れずに持っていってね」
「はい。勿論です」
行きはコルテンタの家へ立ち寄ったが、帰路では立ち寄らないため、姉夫婦や姪へのお土産は全てマツに託したのだ。
「ナナリスも、押し付けてしまって申し訳ないけど」
「いえそんな事はございません。奥様にもちゃんとお伝えしておきます」
「ありがとう」
アンスバッハの王都屋敷には当初立ち寄って帰る予定だったのだが、アンスバッハ家最長老でありアリエーナの夫の高祖母にあたる人物が危篤という急報が入り、王都屋敷には今人が居ないのだ。そのため、借りていたドレスはもちろんお礼品なども全てナナリスに持ち帰ってもらう事になっている。
(紅菊派の皆様とは御挨拶状を交わす仲にもなれたし。ふふふ、アイリス様の御年始状、楽しみだわ)
残念ながら趣味を共有することはできなかったが、紅菊派の面々とは友人になった。居住地は離れているが、今後年始や折々に触れて文をやり取りすることになるだろう。
「コーフェンの古城とアンスロックの廃城を回って帰れるし。お土産を買う資金まであるし。すごいわねぇ、王城召喚って」
しばらく思い出を反芻していると、入室の許可を求める声がした。アンネリザの荷物は大した量ではないが、それなりにはある。朝一番で出発するため、前日から必要無いものは積み込んでしまうのだ。マツとナナリスにコレトーでできない事もないのだが、その辺は体面というものだ。
王城側の人間がマツ達に確認しながら荷を運び出していく。その最中、アンネリザは人目を盗むように封筒を手渡された。
(ん?)
何なのかと尋ねようにも、既に渡してきた人間は荷を運びに戻っている。
(ふむ)
封もされていないそれは、飾り気もなければ、署名もない。中もシンプルなカードが入っているだけだ。
『今夜、黒真珠の部屋で、お待ちしております』
丁寧で女性的な手跡だった。だが、アンネリザの記憶では思い当たらない。誰だろうと首を傾げつつ、こっそりとポケットに封筒を隠した。
(まぁ、今夜、黒真珠の君の部屋に行けば解るわよね)
明らかに不審なカードの指示に従うつもりのアンネリザは、
(もう一回くらい黒真珠の君の部屋を確認しておきたかったのよ。渡りに船とはこの事ね)
と、こじ付けで自分の利益を追求する事に余念がない。
その夜。
愛用のカンテラももう荷詰めしてしまったので完全に油断していたコレトーが眠ったのを確認して、アンネリザは自室を抜け出した。時折完全な闇となる暗がりの廊下を、慣れた足取りで迷いなく歩む。月光で一際明るい渡り廊下を行く時など、窓から景色を見て微笑みすら浮かべた。
(いい景色…あ、今、光が見えたような………黒真珠の君!)
視線を上に向けた黒椿の棟の一室で、一瞬光が揺らいだ。アンネリザは窓辺に立つ人影の話を思い出してテンションが上がるが、考えてみれば見えたのは人影ではなく光だ。
(…ではないか)
待ち合わせの相手が先んじて到着しているだけだろう。
(最後の最後でついに会えたかと思ったのに…そう上手くはいかないかぁ)
肩を落としつつ残りの道のりを歩むアンネリザは、だが、黒真珠の部屋の扉の前に立ちノックをした瞬間にもう一度テンションが上がった。
ノックすると、女性の声が『お待ちしておりました』と返事をしたのだ。
(もしかして、もしかして、この扉の先には黒真珠の君が!)
居る訳がない。
「お一人でいらしたのですね」
そう言って、精緻なガラスランプの灯りの中佇んでいたのは、アヤメだった。
「…ええ、まぁ、はい」
アンネリザは上手く表情を作る事も気の利いた挨拶をする事もできない。アヤメの方もそんな事は望んでいないだろうが、何やら暗い表情のアンネリザに微笑んでみせる。
「こんなところに突然お呼び出ししてごめんなさいね。どうしても、貴方にお話ししておきたい事があって」
「いえ、どうぞ、お気遣いなく。何でしょうか」
「貴方は不思議な事がお好きなのでしょう?」
「え? ええ。そうですね。不思議も好きですが」
何故笑顔のアヤメがそんな事を言ってくるのか、意図が解らず、アンネリザは首を傾げ警戒を強めた。
「黒真珠様が何処に消えたのか、教えて差し上げますわ」
「え?!」
一応の警戒は、その言葉であっと言う間に消滅する。フランドール家には、黒椿の棟の設計図の写が所有されているらしい。
「まぁ!」
アヤメに促されるまま寝室の一角へついて行き、隠し扉が開かれるのを目を輝かせて見つめた。
こんな物があるなんて、こんな事を教えてくれるなんて、なんて素敵な方なのかしら。アンネリザは傍らで微笑むアヤメに尊敬の眼差しを向けた。だが、その視界が傾いでいく。
「え?」
「好きなだけ堪能なさい!」
隠し扉の中に向けて突き飛ばされたのだと気付いた時には、アヤメの叫び声と共に扉が閉まった。
「ずっと、そこにいれば良いのよ」
しっかりと扉を閉ざして、アヤメはランプを片手に寝室から抜け出す。
「私と陛下の仲を邪魔するから」
アヤメは憎々しそうにそう呟いて自分の部屋へ向かって足早に歩き出した。
アンネリザが聞いていれば、
「仲ってなんですか? 陛下は別に誰ともご結婚の意志は持っておりませんでしょう。確かに、私はこの花の館の意義に沿った行動はとっておりませんが、この騒動の終わりを望んだのは陛下ですよ?」
と、言いそうなものだが、アンネリザにアヤメの言葉は届かない。
そして、もしアンネリザからの返答をアヤメが聞いたとしても、信じなかっただろう。アヤメは、自分の父に陛下から望まれて花の館に入る事になったと聞かされていたのだから。
見合いの場で談笑した時。母と同じ瞳だ、とレンフロが呟いた声が今でも胸に残っている。あの声を胸に返答を待ちわびていた。そして、舞踏会へ赴いたのに、気付けば陛下と踊る事はないままに閉会となる。事態が飲み込めず呆然としていたが、父が言ったのだ。あの舞踏会は誰か一人が嫉妬の目を向けられる事を避けるためだったと。
「お前は他の令嬢達とは違う。これからは花の館に入るのだよ。そこで陛下に、お前が如何に素晴らしい令嬢であるかを知ってもらうのだ」
その言葉に、レンフロの横顔を思い浮かべながら頷いた。
実際に花の館へ入ると、既に何人かの令嬢が居たが、全員家柄で自分をねじ込んで来たのだと教えられている。この中で本当に陛下の心に留まり、陛下に気遣われたのは自分だけだ、とアヤメは信じていた。
花の館に入って一ヶ月が過ぎ、アヤメはレンフロが一度も訪れない事に不安が募っていた。誰よりも先んじて入城したシトロベルとメリーラッツァが諍いを起こしているせいかとも考えた。だが、違った。全ては花の館に入る人員が揃っていなかったからだった。レンフロの侍従長が喚んだという、アケチ家の末姫。
舞踏会でも良いように使われた彼女は、また花の館でも侍従長に使われているのだろう。アヤメは、そう思った。実際、入城した様子も、お茶会の場での様子も、アンネリザは哀れなほど田舎者の小娘だった。
そう、アヤメはアンネリザに同情していた。花の館での彼女の存在は、自分という将来の王后に対する妬心を逸らすための生贄のようなものだ。
だが、違った。
(あれはこの花の館での私と陛下の時間を邪魔するために送られてきたのよ!)
侍従長はレンフロの結婚に否定的だという話は聞いていた。でもレンフロが望んでいる令嬢との仲を壊そうとするとまでは考えていなかった。それが甘かったのだ。侍従長は、アンネリザという令嬢を使って、この花の館での意義をぶち壊した。
(許せない! 許せない! 許せない!)
アヤメは自室に戻ってランプを消す。寝台に倒れ込むように寝そべって、苛立つ思いを枕を抱きしめる事で晴らそうとした。
「全部あの子が悪いのよ」
アヤメの眼裏に心底喜んでいたアンネリザの笑顔が浮かぶ。そして黒く塗りつぶされた。
全てはアヤメの勘違いだったが、彼女は元来感情的な質ではない。勘違いさせ、暴走させたのは、周りの人々であった。もっとも、既にアンネリザに危害を加えてしまったアヤメが、無実とは言えないだろうが。
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