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第2章 影太くん前世を知る

ソウルリンク

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 ぼんやりと意識が戻ってきた。眠るみたいに《世界》が遠のく時間が増えたから、もうすぐなんだと思う。誰かに手を握られていた。その手は震えていて、きっと強く握りたいのに我慢している。嬉しくて胸の中で笑った。その優しさや大きさは愛しいスゥの手だ。握り返してあげたいのに、力がまったく入らなかった。最近は一日中泣きながら俺の手を握っている。食事も取ってないと聞くし、心配だよ……
「しんぱいなら、ボクをおいてかないでよアチェ……ッ!」
 泣かないで……。無理を言わないでよスゥ……
 果物を唇に挟んでスゥの口へ運んでやりたい。舌で押し入れて食べさせてあげるのに。そんな当たり前にしてきた簡単なことがもうできない。でもその思い出はしばらくスゥの中に残るでしょう? 俺の思い出は置いていけるよ。それが消えた時はもう、悲しみを乗り越えた時だし……ね?
「さわれないキオクなんてイヤ! ボク、アチェについてく! うぐぅ……」
 わんわん泣いているスゥに胸の中で溜め息をつく。こうやって頭での会話ができるのは幸いだ。お別れの前だっていうのにね……

 結局俺は自分の命の短さについて、今日までスゥを納得させることができなかった。こうならないようにと思っていたはずなのに、こうなる方向に導いたのかもしれない。スゥが俺を手放そうとしない今を作り出してしまった。俺の我が儘な愛情がスゥを不健康に束縛している。マレは気付いているのに何も言わなかった。スゥのすべてを俺に任せてくれたんだ……
 まだまだ《時間》のあるスゥを一緒に連れて逝くなんてできない。たぶんその辺はマレがどうにかするはず。相変わらずマレはスゥに甘くて俺には手厳しいし。最期の最後まで俺に任せてくれるんだからさ……

 俺の《時間》は残りわずかで、《時間》が終われば《器》も《魂》も分解されて俺という存在は《世界》から消える。《俺》というこの人格も《器》に残った記憶とともに分解されてしまうらしい。忌々いまいましい悪夢を見せるこの大嫌いな《星》から解放されると思うと正直ホッとするよ。
 スゥは俺と一緒に分解されたがっているけど、スゥの長い人生にほんの一瞬すれ違っただけの男娼相手にそこまで捧げないでほしい。今ではそう思う。そこまで想ってもらえることが嬉しいからなおさらだ。
 スゥにこんな愛し方をさせて、スゥに愛されている自分に陶酔して、これでいいのかな……。俺がスゥの中に育んだ愛の結果がこれなのか……。スゥと離れるのは嫌だけど、それを諭して優しく解放してくれるような強いものに育ってほしかったな。たっぷり愛し合って育んだ愛なのに、お互いの執着を強くしただけなんて……こんな後味の悪さに今さら気付いてしまったのが悔しい。俺とスゥが育んだものが歪んでいるなんて……

 もしも俺に新しい人生が用意されているのなら、もう一度スゥの中に愛を育てたい。もっと健康的なものを……
 死の間際だというのに、スゥの中に作った愛に疑問を覚えてしまった。このままで俺はいいのかなって……。後悔というやつだ。
 今よりもっとマシな《星》だったらよかったな。きれいな体でいられるような平穏で豊かな場所に生まれていたら……。もっと地味な見た目がよかったよ。誰にもけがされずに、無垢のままスゥを愛したかった。忌まわしい記憶がなければ……肉欲のないきれいな愛し方ができたなら……スゥを汚さずにいられたなら……
 そんな人生だったら、健やかな愛をスゥに与えられたのに……

『えーた?』

 何だろう……。さっきからちょいちょい頭の中に見覚えのない風景が浮かぶ。四角い建物が密集した場所や、種族の違う人々……。さっきの声、可愛かったな。スゥの声に近いから、子供のころのスゥなのかも。ならあの風景は、スゥの故郷? でもあの声は俺を呼んでるみたいだった。

『えーた♡』
『スゥ、◇◇◇ ◇◇◇◇』

 また知らない声だ……。でも、このかわいい声はやっぱりスゥなんだ。それにこの軟弱そうな男の声、何か感じるものがあるよ。あ、これ……俺なのかも。俺の声はもっと可愛いけど、スゥの名前をあんな風に甘い声で呼ぶ男が俺以外にいるわけがないし。いてたまるかと思うし。じゃあこれって俺の未来だったりして……スゥが子供なのに? そんなわけないか。

「あるわよ、アチェの未来」
「変なノイズがさっきから出てるわね。貴方、何か見えているの?」
 マレの声だ。目頭が熱くなった。……何? どういう意味? マレが俺の未来を用意してくれたの?
「ええ。アチェがスゥのために望むのなら、その《魂》を残してみるわ。新しい《器》で新しい《星》に生まれ変わる。それでいい?」
「循環次第で何百年か何千年かだいぶん先になっちゃうけど、そこでもう一度最初からスゥを愛してあげて」
「ただ、記憶を残さない場合は《アチェ》という人格も消えちゃうけど、いいの?」
 あぁ……もちろん! それでいいよ。その方がちゃんとできそう。嬉しい……
「なにいってるの?! アチェをけさないで!! アチェがきえるならボクもいっしょにきえるもん!」
 スゥ……
「もちろん記憶を取り出して新しい《器》に引き継ぐこともできるわ。でも、アチェには酷じゃないかしら。二度目の人生も苦しみ続けるのよ?」
「スゥがそうやって手を握ってあげるのは、アチェが時々苦しんでいるからじゃないの? 死の間際まで悪夢を見続けてる彼を解放してあげたいと私は思うわよ」
「やだもん……やだやだ!! ボクがスキなのはアチェだけだもん……ッ!」
 スゥが今の俺しか受け入れないのなら、生まれ変わる意味がない。俺は愛し方をやり直したいと思っているのに。それには記憶が邪魔なのに。それに、俺の記憶を背負ってまた一から生きるのは難しいと思う。スゥへの想いだけで俺は自分を保てる自信がない……

 マレの言うように、スゥと出会うより以前の記憶、特に幼少期の記憶に晩年苦しみ続けている。時間が経つことで、幸せになることで、古いその記憶が毒をもって自分を蝕むようになった。どんなに深く愛されても癒えなかった。毎晩夢に見てうなされる。その度にスゥが慰めてくれた。頭を覗いたスゥだって嫌がるおぞましい記憶ばかりなのに。あんな記憶、捨てられるなら捨て去りたいのに……それが叶わないなら残らず消えた方がマシだと思った。もうスゥにはあんなものを見せたくない。次の人生を与えられたとして、この猛毒のような忌々しい記憶に耐えていけるのか不安だ。
 意識が飛び飛びのこんな最期に難しい選択だった。意味のある未来なら掴みたい。スゥの中に育んだ愛に俺は納得できてないから。けれども次の俺は今の俺の記憶に耐えて、それでスゥを健やかに愛せるの? ……無理だよ。同じになっちゃう……

「マレ、私たちを《記憶》として残せないかしら」
「私たちは摂理に従う。でも《記憶》だけ残せるなら、アチェの代わりにならないかしら」
 オルクとイーラの声だ。二人は大きな街の裕福な家に嫁いだ。今は俺の最期を看取りに来てくれている。頭の良い娘たちだ。マレから難しい知識を学んで今では立派な薬師になった。
 二人の存在がなければ俺はスゥと出会う前に死んでいたと思うよ。一心不乱に二人を育てていたから、つらい時期にも踏ん張って来れたんだ。俺の命をつないでくれた大切な存在……

 どうして俺のちっぽけな後悔にマレも娘たちも付き合おうとするんだろう。生まれ変わりの話だって俺には贅沢だよ。スゥを納得させるだけなら、マレは次の俺に《記憶》を引き継がせればいいのに。都合よくやり直したいなんて、そんな俺の我が儘を通すなんておかしいよね。オルクとイーラまでよくわからない提案をはじめるし……

 俺が悩んでいるとマレが二つの口で笑った。
「今更なに?《家族》だからみんなで考えているんでしょう?」
「アチェもオルクもイーラもみんな私の大切な《家族》だわ。私がずっとほしかったものよ」
「それに貴方は私の大切なスゥの夫でしょう?」
「私ってとっても過保護なのよね。貴方が一番それをよく知ってるんじゃない?」
 マレが求めているのが《家族》だっていうのはわかっていたよ。でも俺は、ちゃんとマレの《家族》をしてたかな……。娘たちとスゥのことしか考えて来なかったのに……
「覚えてる? 貴方は約束を破ってないわ。今だってとても真剣に取り組んでくれてる」
「私はそんな貴方を手放したくないのよ。交渉はまだ続いているでしょう?」
 あぁ……
「アチェのいない《世界》なんかいらないもん! アチェがきえたらボク……ボク……うぅ……ひぐぅ……」
 スゥがわっと泣き出してしまった。あぁスゥ……どうして俺はこんな風にしてしまったんだろう……スゥを苦しめたくなんてなかったのに……


『アチェ…………で…………から…………だ…………スゥに……』


 頭の奥でまた何か聞こえる。俺の名前を呼んで、今度は何かを伝えてるみたいだ。言葉がごちゃごちゃしてて聞き取りにくいよ。何度とそれが繰り返されて、砂のような雑音が邪魔をしていた。
『えーた、◇◇◇◇♡』
 またあのかわいいスゥの声だ。この声が来世と言うのなら、次の俺もスゥに愛されているようで安心する。でも何で声が幼いんだろう。
『……聞いてアチェ…………れる。…………けど…………みんな…………伝え……』
 この声……知ってる。誰の声だったっけ。一体何を伝えたいのさ。ずっと頭に訴えて……そんなに大事なことなの? もう俺にはほとんど力が出せないのに、無茶なことをさせないでほしいよ。はぁ……集中しなきゃ……
『………幸せだった記憶だけが引き継がれるんだ。だから……スゥに……』
 え、ちょっ……これ、とっても大事なことじゃない……?! しゅ……集中しなきゃ……!


『アチェ、来世の俺はちゃんと前世の君を受け入れる。《アチェ》は確かに消えたけど、今そこにいるみんなのおかげで幸せだった記憶だけが引き継がれるんだ。だからそれをスゥに伝えて!』

 それは俺の声だった。どういうことなの……?



「スゥ……」
 最後の力を振り絞って声を出す。俺の手を握っている指がピクリと震えた。
「スゥ……俺は消えるけど……」
 幸せな記憶だけが来世で引き継がれるそうだから……
「大丈夫だよ……」
「アチェ……! だいじょーぶなの? ほんと?!」
 うん……きっと大丈夫。ちゃんと届いたから……
「来世の俺が、スゥに伝えてくれって……」
 最期にスゥに「愛している」と言葉で伝えたかった。そのために残していた声なのに、台無しじゃないか……
「確かにもう一つの《器》に繋がってるわ」
「でもどうやって? アチェ、方法はわかる?」

 ホッとしてそのまま深く眠ってしまった。遠くにみんなの声が聞こえる。ごめんね、眠くてもう無理だ。また会おうねスゥ……

 今度の俺はきっと、健やかな愛を君にあげる……












 ◇◆◇◆◇◆◇◆



「えーた! えーた?!」
「エイタ、起きる!」
「ぅ……もがっ?!」

 明るく眩しい視界を薄目で確認して、意識が戻ったことを知る。眼鏡のレンズ越しに笑顔のスゥが俺を覗き込んでいた。コロモの笑顔がにゅっと割り込んで、スゥがムッとしている。あ……ここってスゥの膝の上かも。スベスベしてて、弾力のある太腿……あぁ……いい匂い。目が覚めたら膝枕という天国でした。はぁ……♡ でもちょっと首が痛い。
 スゥを抱き寄せるみたいに体を起こして、そのままギュッとする。愛しさがいっぱいにこみ上げた。俺のスゥちゃん……!
「えーた……『愛してる♡』ってゆう?」
「ん? うん……あとでね」
 コロモがめちゃくちゃ見てるし。ここ、マレさんの家のテラスですよね。戻って来たのか、それとも最初からずっと《器》はここに置いたままだったのかな……
 俺が寝ていたのはテラスに置かれたソファーの上だった。慌てて頭の上に手をやったけど、猫耳は消えていた。肌の色も黄色人種的な肌色だった。アチェ(仮)と融合した時に前世上映会で見聞きしたこと以上の情報が頭に流れて来たけど、今現在俺がアチェになったという感じはしない。アチェの幸せだった過去を知った臼井影太がここに完成した、というだけみたいです。

「お疲れ様、影ちゃん♡」
「ご飯にする? お風呂にする? それとも、かわいいスゥとのエッチ?」
 二つの声がウフフ♡ と笑う。ガラスの丸テーブルでお茶を飲んでいる二人の姿を見て、胸の奥が締めつけられる。視界が揺れて、熱い涙があふれ出ていた。
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