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5.運のいい男
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「ねぇ、あれ……彼女、だよね?」
「……え、来てるの?しばらく見ないから退職かと思ってた……」
フロアの奥、営業事務のシマ、いつもの自分の席に彼女は座っていた。
いつもと同じ清潔感のあるオフィスカジュアル。長めの髪を上品な髪飾りでまとめている。
いつもと同じ髪型。ただいつもと違うのは、モニターの光に照らされた頬だけが異様に白かった。
ざわざわと波紋のように広がる視線。誰もが遠巻きに彼女を確認しながら、素早く目を逸らす。
「……久しぶりだね」
「うん……でも、なんか声かけづらくない?」
小声があちこちで弾けては沈む。
フロアの空気が、彼女を中心に一度だけ低く沈んだ。
やがてキーボードを叩く音が、ぎこちなく再開された。彼女の存在は、そこにあるのに、誰も触れてはいけない空気のように扱われていた。
「……おはようございます。」
同じシマの後輩が、恐る恐る話しかける。椅子を少しだけ彼女の方へ向けて、気遣うような表情で。
いつもなら反応するはずの彼女は、モニターを見つめたまま、一ミリも動かない。
神経質そうな横顔のまま、まるで呼びかけの声が聞こえていないかのように。
「体調もう大丈夫なんですか?……長期休暇とだけきいていたので、心配してました。」
いつも彼女の気まぐれな持論に振り回され、理不尽な仕事の押し付けにも耐えてきた後輩だ。
それでも健気に声をかける姿に、周囲の社員たちは複雑な表情を浮かべた。
「……なに、無視?」
「感じ悪……やっぱりあの人、ああなんだ」
ひそひそと漏れる辛辣な声。彼女への同情は急速に冷めていく。
事務課長が険しい顔で田中に視線を送り、自分の席に戻るよう目で合図した。田中は小さく頷き、椅子を引いて席を立つ。その足音だけが、妙に大きく響いた。
■■■
昼休みのチャイムが鳴った。フロア中に弁当の匂いが広がり、雑談の声が徐々に大きくなっていく。
だが、彼女の周囲だけは、まるで時間が止まったように静かだった。
「……ねぇ、あの人、さっきからずっと同じ動きしてない?」
給湯室でコーヒーを淹れていた女性社員が、不安げに囁いた。
「うん……私も気になってた。資料開いて、閉じて……また開いて……」
誰かが確認するように彼女の方を見る。
彼女の右手はゆっくりとマウスを動かしていた。
開く
閉じる
開く
閉じる
同じファイルを、何十回も。壊れた人形のような、規則正しすぎるリズム。
瞬き一つしない。
スプレッドシートのセルには"time"の文字が細かく増殖している。
“time” “time” “time”
画面端でカーソルが点滅し、光が彼女の無表情な横顔を不規則に照らした。
今度は資料のプリントをひとつ掴み、一文字も書かれていない箇所をじっと見つめた。
次の瞬間――
鉛筆で、そこには存在しない“何か”の輪郭を必死になぞり始めた。空中を撫でるように、ただ手だけが動いている。
「やっぱり何かおかしくない……?」
「誰か……、課長に報告した方がいいんじゃ……」
不安が、じわじわとフロア全体を侵食し始めていた。
■■■
同じ頃。
営業と営業事務、経理が固まっている4階へと、もう一人の“彼女”が階段を上がってくる。
足取りは重く、階段を上るごとに、耳の奥がジンと鳴った。
昨晩、最後の一錠を飲み干してしまった抗不安薬。今朝は手が震えて、せっかくの美味しいコーヒーもカップを持つのがやっとだった。
(……課長に写真を渡して終わらせる)
課長とあの女性の密会の証拠写真。
(これ以上関わる気にはなれないから……早く終わらせて、忘れて、全部忘れて……)
睡眠不足と薬の離脱症状、
そして昨夜の出来事――彼女の心は既に限界だった。
どこまで行っても生涯ずっと積み重なっていくであろう孤独な悩み。全てが彼女の精神を削り取っていた。
胸が痛い。心の中に溜まっているものが、どうしようもなく圧力を持っているような感覚を覚えた。
4階のドアを開けた瞬間。
ピッ――――
けたたましい電子音が鳴り響いた。
「え、何!?」
「システムエラー?」
「うそ、パソコン固まった!」
フロア中のモニターが一斉にブラックアウトし、次の瞬間、一斉に白く点滅した。社内メールシステムの画面が勝手に立ち上がり、黒地に白文字のメッセージが浮かび上がる。
"I SEE EVERYTHING YOU'VE HIDDEN."
「……何これ……」
「英語? 何て書いてあるの?」
「『隠したものすべて、見えている』……って……」
次の瞬間、日本語のメッセージが画面を埋め尽くした。
『すべて知っている』
『すべて知っている』
『すべて知っている』
無限にスクロールされ続ける、不気味な反復。
「なんなのこれ!?」
「誰かいたずらしてるの!?」
「システム部呼んで!!」
パニックが広がる中、階段を登りきった彼女は硬直していた。
(何が起こっているの……?)
彼女も震える手で社用携帯を取り出し、みんなが騒いでいる異変が起きていることを確認する。
画面には、同じ反復メッセージが踊っていた。
しかし、次の瞬間――自分の名前が、一瞬だけ浮かび上がった。
携帯を持つ手がビクッと震えた。
「え、今……名前出なかった?」
「誰の?」
「あそこにいる……」
視線が、一斉に彼女に突き刺さる。
(なに?やだ……やだ……)
息ができない。胸が痛い。周りの視線から隠れるように目を伏せた。
周囲が彼女の名前にざわつく。その波が最高潮に達したその時、
営業事務の席に座っていた“もう一人の彼女”が――肩を、わずかに揺らした。
蛍光灯がチカチカと明滅し、画面ではカーソルが高速点滅する。
「やだ……!何?!」
空気が震えた。
カーソルの点滅が速くなる。画面が白く跳ね、フロア全体の照明が瞬く。
そして――彼女は、席からすっと立ち上がった。
ゆらりと姿勢を変えたかと思えば、そのままシマの合間を滑るように進んでいく。
歩くというより、床の上を静かに滑走している。足が床に触れているか分からない。移動スピードも人間のそれではなかった。
「――――ッ!!」
誰かが息を呑む音。
いつも身につけていたブランド物の上品なイヤリングが、まるで水中にいるかのようにゆらゆらと揺れている。
やがて営業課長の机の前で――ぴたりと止まった。
いつもの神経質そうな横顔のまま、彼女はただ前だけを見つめている。
誰もが凍りついたように動けない。
(……なんで、ここにいるの?)
めまいをこらえながら彼女は階段の手すりによりかかる。
目の前で起きている出来事に心臓が、爆発しそうなほど激しく鳴る。
自分は知っている。今このフロアの全員の注目を集めるあの女性と営業課長が不倫関係にあったこと。
密会を重ね、そして――それが原因で、追い詰められて行方不明になったのかもしれない。
行方不明とはつまり。
昨夜、薄暗い部屋で見た“動かなくなった友達”のシルエット。
あの冷たさが、一瞬で現実とつながる。
胸の中で、何かがゆっくり確信へと変わっていく。
(……もしこのまま喋られたら……)
彼女の中で何かが弾けた。薬のない身体、ボロボロの精神、積み重なった絶望。全てが一気に崩壊していく。
(みんなにバレる……秘密が、全部……!)
(やだ……やだやだやだ……)
「――あ、ああぁぁぁッ!!」
彼女は叫びながら、女性の方へと駆け出した。
周囲の制止も聞こえない。ただ、止めなければ、隠さなければ、という衝動だけが彼女を動かしていた。
「やめて! やめてやめてやめて!!」
涙を流しながら、彼女は叫ぶ。しかし駆け出してすぐに視界の端がふっと白く欠けた。
頭の内側で「ビリ」と電気が走った。脳の一部がじんわり痺れ、ぼんやりと“1枚膜が貼ったような”感覚が広がっていく。
心臓が、どくん、と強く脈打つ。背中に冷たい汗が伝う。
(……え? なに、これ)
頭の奥で、誰かの声がした。
――「査定さ、上がらなかったのよ」
――「あの人、不倫してるって」
――「あの子、家で介護疲れでさ」
聞いた覚えのある“秘密の断片”が、まるで壊れた録音テープみたいに混ざり合って、勝手に流れ始めた。
声の主が誰なのかわからない。
(やめて……今じゃない……)
口を押さえようとしたのに、指先が震えて、力が入らなかった
声はさらに増えていく。
――「言っちゃいなよ」
――「黙ってたら、また潰れるよ」
胸の奥が熱くなった。熱いものが喉元までこみ上げてきて、抑えられなかった。
「忘れなきゃ、忘れたい、忘れて――!」
口を押さえようとした。何度も、何度も。
でも、歯を食いしばるだけでは、もう止められない。
体中の細胞が、すべてを吐き出すように、悲鳴を上げている。
フロアの中央へ飛び出す。
「あ、あ、あっ……っ」
息が詰まる。声を出そうとしているのか、抑えようとしているのかもう自分で判断できない。
フロア全体の視線が痛いほど突き刺さる。
「青木さんは――」
声が出た。
自分の声なのに、誰かが無理やり引き出したような感覚。
「出張のたびに経費を水増し請求してる!」
その瞬間、彼女は自分の口を握りしめようとした。でも指は動かない。
(やめて……やめて……!)
心臓が悲鳴を上げる。秘密をこぼす度に、自分という存在が崩壊していくような感覚。
フロアがぽかんと静まった。
聞き間違いかと互いの顔を見合わせる者、椅子をわずかに引いて距離を取る者――
誰もが彼女の突然の告発に戸惑い、引きつった笑みだけがいくつも浮かんだ。
「たっ……タクシー代を二倍に、飲食費を三倍に!……聞かないで、お願い、言いたくないのに――!」
その言葉が落ちた瞬間、フロアの空気がガラリと変わった。
さっきまでの“戸惑い”が一気に“恐怖”へと姿を変える。誰かが小さく息を呑み、別の誰かは椅子の脚を引きずりながら後退りした。
沈黙が重く沈み、様々な想いをはらんだ視線が彼女に集中する。
「柿本さんは取引先の娘さんと不適切な関係で……!
あの子、まだインターンだったのに……!だめ、秘密なの、これは……ぅああ!やめて!!!」
彼女の瞳からは涙がこぼれる。秘密をこぼすことで、自分も一緒に壊れていく。
周囲がざわめく。
聞いている社員たちの口元がひくついた。
誰もが反射的に目を逸らすが、耳だけは、次の言葉を恐ろしいほど敏感に待っていた。
「山門部長は総務の既婚女性と社内不倫を――! 夜遅く、会議室で、――!」
彼女の声はもはや泣き声とも嗚咽ともつかない。
一瞬だけ、声が途切れた。喉がぐっと締まり、なにかに耐えるように下を向く。
しかし制御できずまた口がひらき、秘密をこぼしていく。
「人事の篠田さんは昇進の判断に私情を挟んで――親戚の息子を優遇して――やめて……もうやめて!!」
書類が彼女の足元に散らばり、花瓶が倒れ、水が床を広がる。
止まらない。
「経理の加藤さんは取引先との癒着で――リベぇとを……いやぁ!……ぁ、受け取って――」
げほっ、げほっ、と彼女がえずく。
机に手をついて前かがみになり、喉の奥から苦しげな音を立てる。
「おい、誰か止めろ!」
「警備員呼んで!!」
「営業二課の佐々木さんは顧客情報を――いやだぁ! 聞かないで!! お願い、もう――!」
彼女は机に倒れ込み、ペン立てを倒し、書類を床に撒き散らしながら叫び続ける。
「総務の高橋さんは備品を横流し――ノートパソコンを三台――」
「企画部の西村さんは競合他社に情報を――お金をもらって――聞かないで! 私、言いたくないの!!」
「広報の田辺さんは記者との不適切な関係で便宜を――」
「製造部の石井さんは品質データを改ざん――検査記録に嘘を――」
「法務の中村さんは弁護士資格を持ってないのに持ってるふりを――」
涙と鼻水と唾液にまみれながら、彼女は吐き出し続ける。
「人事部長は社長の親族だから誰も逆らえなくて――パワハラを――」
げほっ、げほっ。また激しくえずき、床に膝をつく。
「いやだ……もう、やめて……お願い……」
警備員が二人、駆けつけた。彼女の両腕を掴もうとするが、彼女は机にしがみついて抵抗する。
「研修費の架空請求――!……ぁあ、嫌だぁ、 交通費の不正……受給っ! 」
「取引先への過剰接待――! 聞かないでぇぇぇ!!!」
フロアが恐怖に染まる。
「落ち着いてください!」
「誰か救急車!」
複数の警備員が彼女を取り押さえようとする。
「副社長は株のインサイダー取引を――だめ、これ以上は――! 社外秘を漏らして――お願い、もう――!」
彼女の声は次第にかすれていく。
それでも口は止まらない。まるで何かに操られているかのように、次々と秘密が溢れ出す。
「営業三課は架空契約で数字を水増し――! 監査をごまかすために――!」
もう声はかすれているのに、空気が無理やり言葉を押し出しているようだった。
「だめ……秘密なのに……!」
そして――
“もう一人の彼女”の輪郭が、ゆらり、と揺れる。
イヤリングが光り、笑みが浮かび、
すうっと――消えた。
「――え……?」
さっきまでそこに“確かにいた”形跡が、ゆっくりと現実味を帯びて胸に沈んでいく。
誰かがごくりと喉を鳴らし、
理解が追いついた瞬間、空気が凍った。
「うわああああああッ!!」
「幽霊だ! 幽霊だったんだ!!」
悲鳴。
混乱。逃げ出す足音。
誰かが泣き崩れる音。
混乱の中、警備員が彼女を完全に取り押さえる。
床に押さえつけられながら、彼女はうわ言のように呟き続けていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
――視界は暗く狭まって行く。
■■■
その夜
出張先の地方都市。
男は出張先のホテルラウンジで、グラスを傾けていた。
自社に起きた真っ昼間の大事件は衝撃的だった。
フロアでの騒ぎの詳細は同僚から聞いて、だいたい把握している。
一瞬ヒヤリとしたが、彼に火の粉は降りかかっていない。 なぜか、騒ぎの当事者の女性は彼がお願いしたことや肝心なことは口にしなかったようだ。
(彼女、亡くなってたのか……)
胸にチクリとトゲが刺さるような感覚が、一瞬だけ走った。
――次の瞬間。
テーブルの上で、スマホが震える。
画面では娘からのMINEスタンプが揺れていた。
――お誕生日おめでとう!
部活帰りの制服姿で、笑顔の自撮り写真。ケーキの前でピースしている。
「はは、可愛いな……俺の誕生日なのにケーキ食うのかよ」
(こういう普通の幸せがあれば、それで十分だ)
課長は小さく笑い、画面を親指でなぞった。
家庭だって“普通に”回っている。人生、まあまあ上手くいっている。
そう思えるだけの安心が、ここにはある。
「なんか、今回も助かっちゃったな。……俺って、ほんとツイてるよな」
昔から運は良いほうだった。
口元が緩む。
世の中の喧騒はいつも通り。自分は無傷。いつも通り。
「あの……すみません」
声は小さく、どこか、遅れて届くような響きだった。
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。20代後半くらいだろうか。少し疲れた顔で、微笑んでいる。
「もしかして、○△商事の方ですか?」
課長は営業スマイルで応じる。
「ええ、そうですが……」
「実は私、御社と取引のある会社の者でして……少しお話、よろしいですか?」
女性の笑顔は、変わらない。
だが、その目の奥に――氷のような光が揺れた。
END
「……え、来てるの?しばらく見ないから退職かと思ってた……」
フロアの奥、営業事務のシマ、いつもの自分の席に彼女は座っていた。
いつもと同じ清潔感のあるオフィスカジュアル。長めの髪を上品な髪飾りでまとめている。
いつもと同じ髪型。ただいつもと違うのは、モニターの光に照らされた頬だけが異様に白かった。
ざわざわと波紋のように広がる視線。誰もが遠巻きに彼女を確認しながら、素早く目を逸らす。
「……久しぶりだね」
「うん……でも、なんか声かけづらくない?」
小声があちこちで弾けては沈む。
フロアの空気が、彼女を中心に一度だけ低く沈んだ。
やがてキーボードを叩く音が、ぎこちなく再開された。彼女の存在は、そこにあるのに、誰も触れてはいけない空気のように扱われていた。
「……おはようございます。」
同じシマの後輩が、恐る恐る話しかける。椅子を少しだけ彼女の方へ向けて、気遣うような表情で。
いつもなら反応するはずの彼女は、モニターを見つめたまま、一ミリも動かない。
神経質そうな横顔のまま、まるで呼びかけの声が聞こえていないかのように。
「体調もう大丈夫なんですか?……長期休暇とだけきいていたので、心配してました。」
いつも彼女の気まぐれな持論に振り回され、理不尽な仕事の押し付けにも耐えてきた後輩だ。
それでも健気に声をかける姿に、周囲の社員たちは複雑な表情を浮かべた。
「……なに、無視?」
「感じ悪……やっぱりあの人、ああなんだ」
ひそひそと漏れる辛辣な声。彼女への同情は急速に冷めていく。
事務課長が険しい顔で田中に視線を送り、自分の席に戻るよう目で合図した。田中は小さく頷き、椅子を引いて席を立つ。その足音だけが、妙に大きく響いた。
■■■
昼休みのチャイムが鳴った。フロア中に弁当の匂いが広がり、雑談の声が徐々に大きくなっていく。
だが、彼女の周囲だけは、まるで時間が止まったように静かだった。
「……ねぇ、あの人、さっきからずっと同じ動きしてない?」
給湯室でコーヒーを淹れていた女性社員が、不安げに囁いた。
「うん……私も気になってた。資料開いて、閉じて……また開いて……」
誰かが確認するように彼女の方を見る。
彼女の右手はゆっくりとマウスを動かしていた。
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同じファイルを、何十回も。壊れた人形のような、規則正しすぎるリズム。
瞬き一つしない。
スプレッドシートのセルには"time"の文字が細かく増殖している。
“time” “time” “time”
画面端でカーソルが点滅し、光が彼女の無表情な横顔を不規則に照らした。
今度は資料のプリントをひとつ掴み、一文字も書かれていない箇所をじっと見つめた。
次の瞬間――
鉛筆で、そこには存在しない“何か”の輪郭を必死になぞり始めた。空中を撫でるように、ただ手だけが動いている。
「やっぱり何かおかしくない……?」
「誰か……、課長に報告した方がいいんじゃ……」
不安が、じわじわとフロア全体を侵食し始めていた。
■■■
同じ頃。
営業と営業事務、経理が固まっている4階へと、もう一人の“彼女”が階段を上がってくる。
足取りは重く、階段を上るごとに、耳の奥がジンと鳴った。
昨晩、最後の一錠を飲み干してしまった抗不安薬。今朝は手が震えて、せっかくの美味しいコーヒーもカップを持つのがやっとだった。
(……課長に写真を渡して終わらせる)
課長とあの女性の密会の証拠写真。
(これ以上関わる気にはなれないから……早く終わらせて、忘れて、全部忘れて……)
睡眠不足と薬の離脱症状、
そして昨夜の出来事――彼女の心は既に限界だった。
どこまで行っても生涯ずっと積み重なっていくであろう孤独な悩み。全てが彼女の精神を削り取っていた。
胸が痛い。心の中に溜まっているものが、どうしようもなく圧力を持っているような感覚を覚えた。
4階のドアを開けた瞬間。
ピッ――――
けたたましい電子音が鳴り響いた。
「え、何!?」
「システムエラー?」
「うそ、パソコン固まった!」
フロア中のモニターが一斉にブラックアウトし、次の瞬間、一斉に白く点滅した。社内メールシステムの画面が勝手に立ち上がり、黒地に白文字のメッセージが浮かび上がる。
"I SEE EVERYTHING YOU'VE HIDDEN."
「……何これ……」
「英語? 何て書いてあるの?」
「『隠したものすべて、見えている』……って……」
次の瞬間、日本語のメッセージが画面を埋め尽くした。
『すべて知っている』
『すべて知っている』
『すべて知っている』
無限にスクロールされ続ける、不気味な反復。
「なんなのこれ!?」
「誰かいたずらしてるの!?」
「システム部呼んで!!」
パニックが広がる中、階段を登りきった彼女は硬直していた。
(何が起こっているの……?)
彼女も震える手で社用携帯を取り出し、みんなが騒いでいる異変が起きていることを確認する。
画面には、同じ反復メッセージが踊っていた。
しかし、次の瞬間――自分の名前が、一瞬だけ浮かび上がった。
携帯を持つ手がビクッと震えた。
「え、今……名前出なかった?」
「誰の?」
「あそこにいる……」
視線が、一斉に彼女に突き刺さる。
(なに?やだ……やだ……)
息ができない。胸が痛い。周りの視線から隠れるように目を伏せた。
周囲が彼女の名前にざわつく。その波が最高潮に達したその時、
営業事務の席に座っていた“もう一人の彼女”が――肩を、わずかに揺らした。
蛍光灯がチカチカと明滅し、画面ではカーソルが高速点滅する。
「やだ……!何?!」
空気が震えた。
カーソルの点滅が速くなる。画面が白く跳ね、フロア全体の照明が瞬く。
そして――彼女は、席からすっと立ち上がった。
ゆらりと姿勢を変えたかと思えば、そのままシマの合間を滑るように進んでいく。
歩くというより、床の上を静かに滑走している。足が床に触れているか分からない。移動スピードも人間のそれではなかった。
「――――ッ!!」
誰かが息を呑む音。
いつも身につけていたブランド物の上品なイヤリングが、まるで水中にいるかのようにゆらゆらと揺れている。
やがて営業課長の机の前で――ぴたりと止まった。
いつもの神経質そうな横顔のまま、彼女はただ前だけを見つめている。
誰もが凍りついたように動けない。
(……なんで、ここにいるの?)
めまいをこらえながら彼女は階段の手すりによりかかる。
目の前で起きている出来事に心臓が、爆発しそうなほど激しく鳴る。
自分は知っている。今このフロアの全員の注目を集めるあの女性と営業課長が不倫関係にあったこと。
密会を重ね、そして――それが原因で、追い詰められて行方不明になったのかもしれない。
行方不明とはつまり。
昨夜、薄暗い部屋で見た“動かなくなった友達”のシルエット。
あの冷たさが、一瞬で現実とつながる。
胸の中で、何かがゆっくり確信へと変わっていく。
(……もしこのまま喋られたら……)
彼女の中で何かが弾けた。薬のない身体、ボロボロの精神、積み重なった絶望。全てが一気に崩壊していく。
(みんなにバレる……秘密が、全部……!)
(やだ……やだやだやだ……)
「――あ、ああぁぁぁッ!!」
彼女は叫びながら、女性の方へと駆け出した。
周囲の制止も聞こえない。ただ、止めなければ、隠さなければ、という衝動だけが彼女を動かしていた。
「やめて! やめてやめてやめて!!」
涙を流しながら、彼女は叫ぶ。しかし駆け出してすぐに視界の端がふっと白く欠けた。
頭の内側で「ビリ」と電気が走った。脳の一部がじんわり痺れ、ぼんやりと“1枚膜が貼ったような”感覚が広がっていく。
心臓が、どくん、と強く脈打つ。背中に冷たい汗が伝う。
(……え? なに、これ)
頭の奥で、誰かの声がした。
――「査定さ、上がらなかったのよ」
――「あの人、不倫してるって」
――「あの子、家で介護疲れでさ」
聞いた覚えのある“秘密の断片”が、まるで壊れた録音テープみたいに混ざり合って、勝手に流れ始めた。
声の主が誰なのかわからない。
(やめて……今じゃない……)
口を押さえようとしたのに、指先が震えて、力が入らなかった
声はさらに増えていく。
――「言っちゃいなよ」
――「黙ってたら、また潰れるよ」
胸の奥が熱くなった。熱いものが喉元までこみ上げてきて、抑えられなかった。
「忘れなきゃ、忘れたい、忘れて――!」
口を押さえようとした。何度も、何度も。
でも、歯を食いしばるだけでは、もう止められない。
体中の細胞が、すべてを吐き出すように、悲鳴を上げている。
フロアの中央へ飛び出す。
「あ、あ、あっ……っ」
息が詰まる。声を出そうとしているのか、抑えようとしているのかもう自分で判断できない。
フロア全体の視線が痛いほど突き刺さる。
「青木さんは――」
声が出た。
自分の声なのに、誰かが無理やり引き出したような感覚。
「出張のたびに経費を水増し請求してる!」
その瞬間、彼女は自分の口を握りしめようとした。でも指は動かない。
(やめて……やめて……!)
心臓が悲鳴を上げる。秘密をこぼす度に、自分という存在が崩壊していくような感覚。
フロアがぽかんと静まった。
聞き間違いかと互いの顔を見合わせる者、椅子をわずかに引いて距離を取る者――
誰もが彼女の突然の告発に戸惑い、引きつった笑みだけがいくつも浮かんだ。
「たっ……タクシー代を二倍に、飲食費を三倍に!……聞かないで、お願い、言いたくないのに――!」
その言葉が落ちた瞬間、フロアの空気がガラリと変わった。
さっきまでの“戸惑い”が一気に“恐怖”へと姿を変える。誰かが小さく息を呑み、別の誰かは椅子の脚を引きずりながら後退りした。
沈黙が重く沈み、様々な想いをはらんだ視線が彼女に集中する。
「柿本さんは取引先の娘さんと不適切な関係で……!
あの子、まだインターンだったのに……!だめ、秘密なの、これは……ぅああ!やめて!!!」
彼女の瞳からは涙がこぼれる。秘密をこぼすことで、自分も一緒に壊れていく。
周囲がざわめく。
聞いている社員たちの口元がひくついた。
誰もが反射的に目を逸らすが、耳だけは、次の言葉を恐ろしいほど敏感に待っていた。
「山門部長は総務の既婚女性と社内不倫を――! 夜遅く、会議室で、――!」
彼女の声はもはや泣き声とも嗚咽ともつかない。
一瞬だけ、声が途切れた。喉がぐっと締まり、なにかに耐えるように下を向く。
しかし制御できずまた口がひらき、秘密をこぼしていく。
「人事の篠田さんは昇進の判断に私情を挟んで――親戚の息子を優遇して――やめて……もうやめて!!」
書類が彼女の足元に散らばり、花瓶が倒れ、水が床を広がる。
止まらない。
「経理の加藤さんは取引先との癒着で――リベぇとを……いやぁ!……ぁ、受け取って――」
げほっ、げほっ、と彼女がえずく。
机に手をついて前かがみになり、喉の奥から苦しげな音を立てる。
「おい、誰か止めろ!」
「警備員呼んで!!」
「営業二課の佐々木さんは顧客情報を――いやだぁ! 聞かないで!! お願い、もう――!」
彼女は机に倒れ込み、ペン立てを倒し、書類を床に撒き散らしながら叫び続ける。
「総務の高橋さんは備品を横流し――ノートパソコンを三台――」
「企画部の西村さんは競合他社に情報を――お金をもらって――聞かないで! 私、言いたくないの!!」
「広報の田辺さんは記者との不適切な関係で便宜を――」
「製造部の石井さんは品質データを改ざん――検査記録に嘘を――」
「法務の中村さんは弁護士資格を持ってないのに持ってるふりを――」
涙と鼻水と唾液にまみれながら、彼女は吐き出し続ける。
「人事部長は社長の親族だから誰も逆らえなくて――パワハラを――」
げほっ、げほっ。また激しくえずき、床に膝をつく。
「いやだ……もう、やめて……お願い……」
警備員が二人、駆けつけた。彼女の両腕を掴もうとするが、彼女は机にしがみついて抵抗する。
「研修費の架空請求――!……ぁあ、嫌だぁ、 交通費の不正……受給っ! 」
「取引先への過剰接待――! 聞かないでぇぇぇ!!!」
フロアが恐怖に染まる。
「落ち着いてください!」
「誰か救急車!」
複数の警備員が彼女を取り押さえようとする。
「副社長は株のインサイダー取引を――だめ、これ以上は――! 社外秘を漏らして――お願い、もう――!」
彼女の声は次第にかすれていく。
それでも口は止まらない。まるで何かに操られているかのように、次々と秘密が溢れ出す。
「営業三課は架空契約で数字を水増し――! 監査をごまかすために――!」
もう声はかすれているのに、空気が無理やり言葉を押し出しているようだった。
「だめ……秘密なのに……!」
そして――
“もう一人の彼女”の輪郭が、ゆらり、と揺れる。
イヤリングが光り、笑みが浮かび、
すうっと――消えた。
「――え……?」
さっきまでそこに“確かにいた”形跡が、ゆっくりと現実味を帯びて胸に沈んでいく。
誰かがごくりと喉を鳴らし、
理解が追いついた瞬間、空気が凍った。
「うわああああああッ!!」
「幽霊だ! 幽霊だったんだ!!」
悲鳴。
混乱。逃げ出す足音。
誰かが泣き崩れる音。
混乱の中、警備員が彼女を完全に取り押さえる。
床に押さえつけられながら、彼女はうわ言のように呟き続けていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
――視界は暗く狭まって行く。
■■■
その夜
出張先の地方都市。
男は出張先のホテルラウンジで、グラスを傾けていた。
自社に起きた真っ昼間の大事件は衝撃的だった。
フロアでの騒ぎの詳細は同僚から聞いて、だいたい把握している。
一瞬ヒヤリとしたが、彼に火の粉は降りかかっていない。 なぜか、騒ぎの当事者の女性は彼がお願いしたことや肝心なことは口にしなかったようだ。
(彼女、亡くなってたのか……)
胸にチクリとトゲが刺さるような感覚が、一瞬だけ走った。
――次の瞬間。
テーブルの上で、スマホが震える。
画面では娘からのMINEスタンプが揺れていた。
――お誕生日おめでとう!
部活帰りの制服姿で、笑顔の自撮り写真。ケーキの前でピースしている。
「はは、可愛いな……俺の誕生日なのにケーキ食うのかよ」
(こういう普通の幸せがあれば、それで十分だ)
課長は小さく笑い、画面を親指でなぞった。
家庭だって“普通に”回っている。人生、まあまあ上手くいっている。
そう思えるだけの安心が、ここにはある。
「なんか、今回も助かっちゃったな。……俺って、ほんとツイてるよな」
昔から運は良いほうだった。
口元が緩む。
世の中の喧騒はいつも通り。自分は無傷。いつも通り。
「あの……すみません」
声は小さく、どこか、遅れて届くような響きだった。
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。20代後半くらいだろうか。少し疲れた顔で、微笑んでいる。
「もしかして、○△商事の方ですか?」
課長は営業スマイルで応じる。
「ええ、そうですが……」
「実は私、御社と取引のある会社の者でして……少しお話、よろしいですか?」
女性の笑顔は、変わらない。
だが、その目の奥に――氷のような光が揺れた。
END
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