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第一章

第一話

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 駅だ。港湾部のビル街とぼくの住んでいる住宅街、その境界線をなぞるように走っている鉄道の駅。ぼくはその港湾部側の駅前広場にいた。行き交う人々でにぎわっている。駅へ入って行く人、出てくる人。すぐそばの道路には自動車も走っている。町が賑わっている。本来この辺りは人通りなどほとんどなく、鉄道も一日に数本出ているだけだ。ぼくは人の流れを目で追いながら振り返った。すると駅前で風の通り道になっていたはずの回廊を多くの人が歩いていた。エスカレータも動いている。
「ここは、いつだろう」
 ぼくからこぼれ落ちたのはそんな言葉だった。ここがどこかは知っている。よく知っている場所だ。でもよく知っている姿ではない。ここはきっと今じゃない。これはゴーグルが見せている景色、データだ。大昔の様子を再現したものだろうか。駅舎を見上げたまま少し待ってみた。こういうイマース型のゲームは、だいたい始めた直後にいろいろな説明がある。しかし待てどもなにも表示されなかった。周囲を見回してみる。世界がただ広がっていて、時間がただ流れているように見える。プレイヤーのために用意された世界ではなく、ずっと以前から存在していたところに放り込まれたみたいな感覚だった。

 なにをすりゃいいんだ? と困惑しながら視野の隅に意識を向けて「あっ」と声が出た。あるべき操作パネルの類がなにもなかった。ゲームの進行と関係なく操作できるインタフェースがない。それはヘルプを表示することも、ゲームを中断することもできないことを意味する。これはエマージェンシー以外でイマースモードを抜ける方法がないということかもしれない。

 ゴーグルのイマースモードは脳の知覚に割り込んで体験を提供するため、一時的に脳と体との接続があいまいになる。そのままだと危険だという理由で、体が痛みを感じたり、息苦しさや極度の空腹、尿意、便意などの生理的欲求を感じたら強制的にイマースモードから抜けるようになっている。一部のイマースゲーマーはゲームの中断を嫌ってエマージェンシーが動作しないように改造し、稀に命を落としたりして話題を提供する。そうやってコンテンツは連鎖的に話題を生み出し、生み出された話題もまた人々の退屈を紛らわすために消費される。

 さしあたりゲームを中断する方法はない。仕方がないのでぼくは駅前のエスカレータをのぼり、ペデストリアンデッキに上がった。そこは屋根のついた歩道で、中央には動く歩道があった。それが動いているのを見るのは初めてだ。動いていなくても動く歩道と呼ばれる。ここにも名づけの問題がありそうだ。ぼくは吸い込まれるように足を乗せてみた。エスカレータを平面にしたようなそれは一定の速さで人々を運んでいる。立ち止まって歩道に運ばれているぼくの横を歩いて追い抜いていく人々がいる。よほど退屈に耐えられないのだろう。

 デッキはそのまま巨大な建物へ接続されていた。ぼくは建物の前で立ち止まって見上げた。とてつもない高さで上の方は雲に届いてしまいそうだった。よろめいて「ふう」と息を吐いた。この巨大な箱に気が遠くなるほどの人が詰め込まれていると思うとくらくらした。

 ビルを見上げるぼくの脇を多くの人たちが通り過ぎる。立ち止まっているぼくなど存在しないみたいに。ぼくは一呼吸ついてから建物に踏み込んだ。

 エントランスにこのビルの名前が記されていた。ランドマークタワー。ぼくは呆れた。どう見ても一番目立つビルにわざわざランドマークなんて名前をつけるとは。まるで目立つこと以外なにも期待されていないみたいじゃないか。ぼくはビルに同情した。

 ポケットの中でなにかが振動して思わず身震いした。手を入れてみると覚えのないものが入っていた。端末だ。平たいカード状のもので、片面がほとんどすべてモニタになっている。そこに端末の向こう側が映っていた。手に持って動かすとモニタに映ったものも変化する。端末自体が透き通っているみたいに向こう側の映像が表示されている。端末を通して世界を覗いているみたいだった。そのまま周囲をぐるぐる見回すと、画面にビルの名前が入ったとき、その手前に文字が表示された。

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ようこそ。シオンズゲイトへ。ここはまだ目的のゲイトではない。きみはこれからそのゲイトを探す旅を始めることになる。特別な地「シオン」。きみがそこにふさわしいかどうかがこれから問われる。ふさわしいならばおのずから道はひらけ、きみはゲイトへと導かれるだろう。これはただのゲームではない。この旅はきみの運命を大きく変えることになる。良い方へ変わるか悪い方へ変わるか、それはわからない。それでも進むのかどうかいま一度よく考えて決めてほしい。
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 ぼくはこれがゲームだったことを思い出した。探していたことすら忘れかけていたゲームの入り口がここだったのだ。プレイヤーはこの端末を与えられ、ゲーム側からの指示はこの端末に届く。そういう仕掛けなのだろう。

 文章の下に〈すすむ〉と〈たちさる〉が表示されている。どちらか選択しろということだろうけれど、迷うはずはない。ぼくは〈すすむ〉に触れた。まばたきだけで進めるゴーグルと違ってこの操作はいちいち煩わしい。もう少しスマートにならないものか、と思っていると画面が暗転して次のメッセージが表示された。

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ほんとうにすすみますか? すすむ場合、あなただけの物語を紡ぐために、あなたの個人情報が使用されます。ここで〈すすむ〉を選択した場合、その時点であなたはこれから起こることを承諾したものとみなされます。
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 その文章の下にまた〈すすむ〉と〈たちさる〉が表示された。ぼくは表示された文章をろくに読みもせず、あまり迷うこともなく〈すすむ〉に触れた。すすまなければゲームはできないのだから最初から選択肢などないも同然なのだ。画面が大げさに展開して真っ黒になり、そこに白い文字が浮かび上がった。

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こんにちは、レイト君。
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 なるほど、さっそく個人情報が使われたわけだ。ぼくはここへゴーグルでアクセスしている。ゴーグルはほとんど自分自身を意味するほどの個人情報の塊だ。正確には個人情報はデータベースに保管されていてゴーグルはそこへつながった窓のようなものと言える。脳波接続で人とゴーグルが接続され、認証が行われる。認証が通っていればどんな情報にでもアクセスできる。イマース型のゲームはその性質上、常にあらゆる個人情報へのアクセスが可能な状態で動くことになる。ゲーム側とゴーグル側、双方の人工知能が情報のやり取りを行い、必要が認められ、支障がないと判断されればどんな情報でもゲーム側に渡されることになるのだ。ゴーグルの人工知能は本来、必要最低限しか情報を渡さないようになっている。しかしたった今ぼく自身がゲームの進行のために個人情報を提供することに同意したので、ぼくのゴーグルは危険がない限りゲームの進行を優先するような判断を行うだろう。危険があるかどうかの判断は、過去にどんな個人情報がどのように悪用されたかの膨大な事例から割り出されるはずだ。単に統計の問題にすぎない。そんなものであっても、任せておけば多くの場合問題はない。世の中のほとんどのことは統計的判断によって動いているのだから。

 端末から音は出ず、画面に文字でメッセージが表示された。

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まずはきみのちからを見せてもらおう。この旅には用意された道はない。きみはきみだけの道を進むことになる。行く手には幾多の困難が待ち受けているだろう。最初の謎を解けないようでは、きみは生き残れまい。きみにその先を目指せるだけの力があるかどうかを、わたしに見せてもらいたい。
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 わたしとは誰だろう。ぼくはこのメッセージの向こうに誰か特定の個人を感じた。その誰かが、ぼくを試すと言っている。

 メッセージは静かに消え、一拍おいてから手がかりらしきものが表示された。

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いにしえのてつろがまどをくぐる そのさきにあるくうはくのへやをたずねよ
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「なんだこれは。暗号なのか?」
 ぼくは端末に目を落としたまま呟いた。しばらくそのまま見つめていたけれど変化はもうないようだった。
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