シオンズゲイト -zion's gate-

涼雨 零音(すずさめ れいん)

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第二章

第八話

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 目を開くとアリアが見ていた。
「すっごくおいしそうに飲むね」
 アリアは跳ねるように笑いながら言った。
「コーヒーがこんなにおいしいものだって今初めて知ったよ」
 ぼくは思ったことを正直に言った。正直な言葉を並べたらかえって嘘みたいになった。アリアは笑っていた。笑っているアリアを見ていると、この人のことは好きかもしれないと思った。

 アリアは満足そうに頷くと椅子に腰を下ろした。コーヒーのグラスを持ち上げてストローに口をつける。再びグラスを机に置いたときには中のコーヒーは半分以下になっていた。
「で。これからどうしようって話よ」
 アリアはまた机の上で手を組んで言った。
「あたしは選ばれしなんとかとかシオンがどうだとかそういうことにはあまりこだわりはないのよね。でも今の状態は困る。このゲームは今ここでやめるってわけにいかないよね、きっと。ゲームに一切触れていなくても日常はおかしなことになっちゃってるし。どうすればもとに戻るのかなって考えると、やっぱりシオンだかゲイトだかにたどり着くしかないような気がするの」
 ぼくは頷きながら聞いていた。
「でもこれ以上イマースはしたくない。あたしが思うに、今あたしもレイトもイマースしてなくて、ここにこれがあるから現実だと思ってるわよね」
 そう言ってアリアは机の上のゴーグルに触れた。
「でもあたしはすでにこれも現実じゃないと思う。レイトは地下鉄でワープしてきたんだもの。ここはイマース空間なのよ多分。今ここでゴーグルをつけてイマースするともう一段深いところへイマースするんだと思う。夢の中で眠ってまた夢を見てるような感じ。そしてあたしが怖いなって思うのは、ここが何回ぐらい夢を繰り返した世界なのかすでにわからないということ」
「ぼくは」
 と言ってぼくは時間をかけて言葉を探した。
「アリアと出会うまでそういうことは考えたことがなかった。だけど今日アリアと話してて、いろんなことが疑問に思えてきたよ。たとえばイマースした世界にはプレイヤー以外の人もたくさんいた。あの人たちはいったいなんなんだろう。ゲームが用意したデータ? それはありそうな話だよね。だけど彼ら自身はどう感じてる? 自分がゲームのキャラクターだって思ってるだろうか。それともあの世界を現実だと思って生きているだろうか。もしかしたらぼくらみたいに自分がプレイヤーだと思ってるかもしれない。じゃぼくらは? ぼくはプレイヤーとしてシオンズゲイトをプレイしてると思ってる。だけどぼくがそう思うようにプログラムされたノン・プレイヤーだとしたら? そういう可能性はゼロとは言えない。プログラムはあくまでプログラムだからどうにでも用意できる。初期値としてきみはこうだよという情報を与えてやれば、そのパーソナリティで起動するってことなんだ。前日までの記憶を引き継いで起動すれば、昨日と今日でまったく別のインスタンスだったとしても外部からはわからない」
「それはつまり、さっき目覚めたあたしと、記憶の中で眠りについたときのあたしは別人かもしれないということ?」
「別人というか、意識っていうのがプログラムみたいなものだとしたら、記憶を引き継いだ別のものになっていても同じ人ってことになるんじゃないかと思うんだ。さっきアリアは自分の世界は自分の記憶でできてるって言ってたでしょ。ということは記憶さえ引き継がれていたら同じ世界を持った同じ人っていうことになるような気がするんだよ」
 アリアは少し目線を上げて何もない空中を見ながらぼくの言葉をほぐしているようだった。
「他の人とあたしは明らかに別人だけれど、昨日のあたしと今日のあたしで比べると同じとか違うっていう言葉が何を指しているのかっていうことが意味を持ってくるんだね。その言葉がなにを意味しているのかっていうことが、とても重要になってくる」
 アリアはぼくの方は見ずに自分に向かって話すように言葉を紡ぎ出していた。
「現実、実在、存在、あなた、わたし、世界、生きる、死ぬ、眠る、起きる、あたしたちは普段そういう言葉の定義はみんな共通のものだっていう前提で会話をしてる。そういう前提にしないとなにも話せないもの。だけど相手の言葉の定義が自分と同じかどうかはわからない。ものすごく大きな曖昧さを含んだまま、そんな曖昧さなんかないという前提で物事は進んでるのよ」
「そうなんだよ。厳密にしてしまうと意思の疎通なんかできっこないからね。レモンが黄色いとして、そのレモンをどんな色として知覚しているかは共有できないんだ。同じレモンを見てもぼくとアリアでは知覚してる色はきっと同じじゃない。だけど黄色なら黄色ってことで合意できるならそれでいいことにするんだ」
「そこに付け込まれて今この状況があるのよね、きっと」
「ね、ぼくらは試されているのかな?」
「たぶん」
 誰に、と言おうとしてぼくは突然思い出した。
「そうだ、わたしだ」
「わたし?」
「そう。最初のミッションのときにね、始まったばかりの頃だよ。たしかわたしのところへ来るのを待っているとか、そういうメッセージが流れたんだ。わたしっていうのが特定の誰かを感じさせるな、って違和感があったのを覚えてるよ。そのわたしがきっとぼくらを試してるんだ」
「そういえばそうだったかも。ということはシオンのゲイトにたどり着いたらそのわたしに会えるのかな?」
「おそらくね。だからやっぱり、行くしかない」
 ぼくは自分の内側に強い意志が生まれるのを感じた。アリアを見るとアリアもぼくを見ていた。ぼくはアリアの瞳を覗き込んだ。アリアの中にある意志がぼくにも力をくれているような気がした。
「ね、イマースしなくても行けるかな?」
 アリアが珍しく少し不安げな声で言った。
「行けるよきっと」
 たいした根拠はないはずなのにぼくには自信があった。
「おなかすいたね」
 アリアが唐突に言った。
「そういえば」
 ぼくは同意しながら、前に食事をしたのはいつだったろうかと思い返してみた。思い出すことはできなかった。窓の外はすっかり日が落ちて暗くなり始めていた。

 ぼくの視線を追ってアリアも窓の外を見た。
「もう暗いね。ね、レイト今夜は泊っていくでしょ?」
「え?」
 ぼくは鼓動が一気に三倍速ぐらいになるのを感じた。体の中心から体温が上がっていくようだった。アリアは涼しい顔をしていた。
「これからきっとうちのお父さんとかお母さんが帰ってきて、あたしもレイトも一緒に夕食を食べるの。それでレイトはここに泊ってあしたの朝目覚める。そのときあたしもレイトも、お母さんたちが帰ってきたところから朝目覚めるまでの記憶が無くなってるはず」
「あ、でも。目覚めたらぼくは自分の家へ戻ってるかもしれないよ。前にさっぽろへ行ったとき、どうやって帰ってきたかぜんぜん覚えてないのに家で目覚めたんだ」
 ぼくは言いながらひんやりとした恐怖が背中に広がっていくのを感じた。目覚めたときにすべての記憶が残っていないということの怖さ。明日目覚めたとき、自分の部屋で、今ここでこうしてアリアと話していることもまるで覚えていなかったとしたら、昨日の晩寝たところの次が明日の朝目覚めたところになっていたとしたら、今日という日がまるごとなかったことになるのではないか。そうなったらアリアとは出会わなかったことになるんじゃないか。明日の朝今の続きとして目覚められる保証はどこにもないのではないか。そう考えると眠るのがたまらなく怖かった。
「ね、アリア。ぼくは今日アリアと会った記憶をなくしたくないよ。眠ってしまったら次に目覚めたとき覚えていないかもしれない。寝られないよ」
「でも眠らないと人は生きていけないよ。ゲイトを目指す旅があとどのぐらい続くかもわからないもの。その間ずっと眠らないってわけにはいかないよ」
「そうなんだけどさ。アリアは怖くない?」
「怖くないって言いきってしまうと違うかもしれないけどね。あたしが一番怖いのは、あたしがあたしじゃなくなってしまうこと。でも両親がいなくなってしまってわかったんだけどね、あたしを作ってるのは記憶で、昨日のあたしと今日のあたしが同じあたしであるためには昨日までの記憶を今日受け継いでいる必要があるでしょ。でもその記憶っていうのは細部まで全部漏れなく残っている必要はないのよ。細かいことは実際忘れちゃってるけどあたしがあたしじゃなくなったりはしない。両親がいなくなってもあたしはあたしじゃなくなったりしてないの。あたしはその、あたしでいるための部分がなくならなければ大丈夫って思えるんだ」
「強いんだな、アリアは」
「強くなったのかも。このゲームはもしかしたらあたしをあたしじゃないものにしたのかもしれない。だから今あたしはあたしじゃなくなることを恐れてるけど、別のあたしになってしまえばそれはそれで平気なのかもしれない」
 アリアの言葉を聞いてぼくはそれをプログラムみたいだと感じた。起動するたびに新たに生まれるプログラム。以前のデータを受け継いで起動する。人工知能はまさにその受け継ぐデータで人格らしきものを感じさせている。アップグレードされればそれは新しい自分だ。前の自分とは違うものなのに同じ記憶を受け継いでいる。人工知能が進化して人に近づいているのではなく、人はもともと人工知能のようなものだったのかもしれない。
「大丈夫だよ」
 ぼくが視線を落としているとアリアが声をかけた。
「レイトは前に会ったプレイヤーのことを覚えてるでしょ。その後会ってないかもしれないけど覚えてる。あたしも出会ったプレイヤーを覚えてる。覚えていればもう一度会ったときにちゃんとわかるよ。だからレイトがもし明日自分の部屋で目覚めてもきっとあたしを覚えてるよ。覚えていればまた会ったときにちゃんとわかる」
「また会える保証もないよ。前に会った彼にだってもう会えないかもしれない」
「ゲイトにたどり着けなければね。あたしたちはみんな、ゲイトを目指してる。選ばれしものしかたどり着けないって話だけど、でも目的地は同じってこと。たどり着けたらまた会えるってことだよ」
 ぼくはアリアの目を見つめた。会えないかもしれない、たどり着けないかもしれないと不安を膨らませるぼくに対して、アリアはたどり着ければ会えると言っている。それは自分がたどり着き、相手もたどり着くということ、それを信じるということ。思えばアクセルはおれかおまえかどちらかがたどり着くと言っていた。あの時もぼくは、二人ともたどり着かないかもしれないと思ったのだった。

 でも、とぼくは思う。アクセル以外のプレイヤーにも会ったかもしれないのだ。記憶なんてなくなってしまったら持っていたものをなくしたのか初めから持っていなかったのかもわからない。他のプレイヤーにも出会っていて覚えていないのかもしれない。もちろんそんなことはないのかもしれない。そんなことを言いだしたらなにも信じられない。たしかだと思っている今このときでさえ、明日記憶からすっかりなくなってしまえば初めからなかったことになるだろう。そんなことがぼくの中に渦巻いた。
「それにさ。まだ明日の朝はなればなれになるって決まったわけでもないよ。あっさり一緒に目覚めて並んで朝食を食べるかもしれないよ」
 アリアは前にも見せたあのいたずらっぽい目で笑った。ぼくもその笑顔に誘われて笑った。少なくとも今目の前にあるものをしっかり見ておこうと思った。
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