君の世界は森で華やぐ

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君の世界は森で華やぐ 〜1〜

幸せって……

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 フレンチトーストを食べ終えると、明敬さんはすぐに帰ってしまった。

 忙しい人だ。息のつく間もない。彼と結婚したら、一緒に過ごせる時間なんてほんのわずかしかないだろう。
 覚悟がいる。彼の背中を見て過ごす時間に喜びを感じながら、彼の疲れを癒す存在になる。簡単そうで簡単ではないことを、不器用な私ができるとは到底思えない。

「でも……」

 きっと私が悩んでることはそんなことじゃない。尊敬してても、愛してる人ではない男性との結婚で幸せになれるか、不安でたまらないのだ。

「でも、どうしたの?」
「え?」
「ちょっと、どいてほしいな」

 すっかりフレンチトーストを食べ終え、空っぽのお皿を持った寛人さんが、無表情で私の背後に立っている。廊下の真ん中に立ち塞がる私が邪魔で、リビングに入れないでいる。

「ごめんなさい。ちょっと考えごとしてて」
「いつもしてるね」
「そう。いつもなの。考えても考えても、答えなんて見つからないの、きっと」

 寛人さんは私を横目でちらっと見て、キッチンへ入っていく。すぐに私たちの使ったお皿も洗ってしまう。そのまま無言で部屋へ戻ろうとするから、とっさに彼の袖をつかんでしまう。

 彼は足を止め、私を見下ろす。何の感情も浮かばない表情で見つめてくるけど、優しい彼のことだから、きっと心配してくれてる。

「話を、聞いて欲しいの」

 いいよ、というように、寛人さんは歩き出す。私は彼の袖をつかんだまま離せなかった。離したら、二度と会えない人になりそうだった。

 寛人さんの部屋には、あいかわらず画用紙が散らかっていた。

 彼は座布団を差し出した後、机の上に真新しい画用紙を置く。私は座布団へ正座し、画用紙に向かう彼の横顔を見つめる。

 素朴だけど、きれいに整った顔。明敬さんのようなたくましさや華やかさはないけど、女の子たちが放っておかない、繊細な美しさがある。
 私なんてがさつで、色気がない。多少、美人だとは思ってるけど、そう思うぐらいには気が強い。その自覚はある。

「今日ね、海に行ったの」

 そう切り出すと、寛人さんは私に視線を移す。

「寒くなかった?」
「少し。フレンチトーストが美味しくって、コーヒーであたたまったわ。ありがとう」
「それならよかった」
「ほんとに美味しいの。また食べたいわ」
「フランスパンをもらったら、また作るよ。涙ぐむほど美味しいなら」

 寛人さんはおかしそうに笑って、でもまんざらでもない様子で、うれしそうに口角をあげる。

 彼の無垢な笑顔を見ていると、すんなり言葉が出る。

「海でね、考えごとしてたら、羽山さんに会ったの」
「パトロールしてるのかな」
「そうみたい。私が自殺しかねない顔してたから、心配してたみたい」
「そんな顔してたの?」
「死にたいなんて思ってないの。でも、同じようなこと考えてたのかも」
「なんて?」

 寛人さんは少しだけ私の方へ身体を向ける。いつも無関心なのに、あいづちを打ってくれるなんて、すごく心配してくれてるみたい。彼の前でなら、弱さを見せられる。だからいくらでも素直な言葉を吐ける。

「私の幸せってどこにあるんだろうって。何のために生きてるんだろうって、考えるの」

 寛人さんは眉一つ動かさず、沈黙した。

 目を伏せる。彼の言葉がほしい。そう思ったことさえ、罪のような気がしてくる。彼に甘えてばかりだ。都合のいい言葉をほしがってる。かまってちゃんだ、私は。だからきっと、仕事を辞めたくなった。ただのわがまま。ちょっと仕事に疲れて、ちょっと自由になりたかった。それが真実じゃないのかと、思えてくる。

「あの……、いいの」

 ひどくみじめな気分になって、そう言った。寛人さんの目に映る私は、滑稽だろう。

「生きてるだけで、幸せだよ」
「え……?」
「生きてるだけで、いいと思うよ、俺は。紺野さんは満足しないかもしれないけど」
「寛人さん……」

 寛人さんは画用紙に目を戻し、えんぴつを握る。

「フレンチトーストとショートケーキ、どっちがいいかな」
「何、急に?」
「両方もいいね」

 そう言うと、彼は画用紙にえんぴつを滑らせる。どうやら、ショートケーキを描いてるみたい。

「ビル以外も描くのね」
「これはただのお絵描き」
「息抜きみたいなもの?」
「紺野さんが元気になったらいいと思って」

 ショートケーキの隣に、今度はフレンチトーストを描き始める。私の好きなものを一生懸命描いてくれてるみたい。

「寛人さんはすごいのね。画家としてだけじゃなくて、みんなが欲しがるものを提供できるの」
「大げさなこと、したことないよ」
「そんなことない。明敬さんから聞いたの。彼がデザインしたって言われてる建造物は全部、寛人さんの作品だって。それってすごいことよ。寛人さんの才能、明敬さんは大事に守ってるのね」

 下書きを終えたのか、今度は色えんぴつを手に取る寛人さんは、画用紙に向き合ったまま、息をつく。

「俺は思いついた絵を描くだけだよ。紺野さんがすごいって褒める建造物は、兄さんが形にしたものだよ。俺にはできないことで、兄さんがすごいのは何も変わらない。俺に才能なんてないよ」
「そんな風に言わないで。私は寛人さんの描く絵が大好きよ」

 一瞬止まった手は、ふたたびショートケーキのストロベリーを描き出す。赤くて、みずみずしくて、とても美味しそうなストロベリー。彼が描くものは、本物よりも本物らしい。観察力や洞察力に優れてるから描き出せるもの。

「俺はね、昔から何をやってもうまくいかない。でも何をやってもうまくいく人もいるよね」
「寛人さんと明敬さんのことを言ってるの?」

 比べる必要もないのにって思うけど、いつのまにか苦しそうにしてる彼の横顔は見ていられない。

「努力が足りないって言われるかもしれないけど、努力はしたし、努力が無駄だったなんて思ってるわけでもないよ。ただちょっと、秀でるには運が必要だったと思ってるんだ」
「秀でたかった?」

 そう問うと、寛人さんはぱたっと手を止めた。そして、ゆっくりと私を見る。

「紺野さんは違った?」

 私たちは見つめ合った。心を通わせたい。私は強くそう願った。彼もそう思ってくれてるといいのに、とも。

「違わない。誰よりも、優秀な秘書になりたかったの。社長にも、専務にも認めてもらいたかった」
「兄さんは認めてたんじゃないのかな」
「そんなことない。私の才能に限界が見えたから、プロポーズしたのよ。秘書としての紺野ゆかりはいらない。そう言われた気がしたわ」
「紺野さんは運がいいね」

 寛人さんはふたたび、色えんぴつを握る。今度は黄土色。フレンチトーストを描き始める。

「俺は運がないよ。コンテストもあと一歩のところでいつも落選。就職だって決まらない。好きな人だって……幸せにできる気がしない」

 別れた彼女?
 まだ好きなの?

 胸がチクリと痛む。私なんかより、寛人さんはずっとずっと傷ついてる。いつもみたいにすました顔して、バカにするように笑ってほしい。傷ついて、疲れて、さみしい顔なんて見せないでほしい。

「紺野さんは運がいいから、努力もできて才能ある兄さんと結婚したら幸せだよ。幸せの定義が何かなんて俺にはわからないけど、少なくとも、俺は誰も幸せにできないんだ……」

 パキンッと音がした。黄土色の色えんぴつが折れて、真っ白になるはずのお皿に染みを落とす。

「……また描き直すよ」

 描き直す必要なんてない。
 そう言おうと思ったけど、彼のプライドを傷つける気がして言えなかった。だから代わりに、私は言った。

「あとで、ショートケーキ、ふたりで食べない? ショートケーキも美味しいって思うと思うけど、好きだったのは昔の話。今は寛人さんが作ってくれたフレンチトーストの方が好きだから、今度はフレンチトーストだけのイラストを描いてほしいの」
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