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君の世界は森で華やぐ 〜1〜
別れのキス
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*
ボワの前で柚原くんと別れ、来た道を戻った。いつまでもぺこりぺこりと頭を下げる彼に手を振り、前を向く。
柚原くんの恋が実る頃に、また会えるだろう。うれしい予感がする。
森の家に到着すると、さっき来た時にはなかった自転車が、アーチの横に止められていた。寛人さんは帰ってきてるみたい。
いつもそうしてるように、「おじゃましまーす」と声をかけながら、玄関をあがる。リビングに寛人さんがいないのを確認して、彼の部屋へ向かう。
障子戸は今日も開いていた。また絵を描いてるんだろうか。
「寛人さ……」
そっと部屋の中をのぞき、口をつぐむ。
てっきり机に向かってるとばかり思っていた寛人さんが、座布団をまくらにして、畳の上で大の字になって寝ている。
どこかあどけない表情で、幸せそうに眠っている。何も悩みがないみたいに見えるけど、そんなことはなくて。疲れを癒してるのかもしれない。
寛人さんの横に正座して、庭を眺める。
とても静か。寛人さんと過ごす時間は、いつも穏やかで、私に優しい。
寝返りを打つ彼を見下ろす。起きるだろうか。そう思って見つめていても、なかなか起きる気配はない。
何度見ても、きれいな顔をしてる。
中性的で、男を意識させないから、ふたりきりでいても特別なことに感じない。
明敬さんも、寛人さんと一緒にいても不機嫌になったりしない。私に恋愛感情があるなんて、思ってもないんだろう。
ほんの少し、身を屈ませた。
寛人さんにキスしたら、私たちは恋人になれるのかなって思った。お互いに異性として意識し合うきっかけになるのかなって。
でも、ダメ。寛人さんは兄を慕ってるから、私なんて受け入れないし、そうでなくても、タイプじゃないに決まってる。
近づけた顔を離そうとした時、寛人さんのまぶたが動いた。ゆっくりと開くまぶたの奥に、色素の薄いグレイの瞳が現れる。
「あっ、ち、違うのっ」
いまさら間近にある顔に驚いて、身体を離そうとした。その時、スッと彼の右手があがった。
後頭部に手のひらが乗る。そっと引き寄せられて、静かに唇が重なる。一瞬のことだったのに、やけにスローモーションだった。
ただただ重なり続ける唇が、次第に熱を帯びていく。優しく触れる。こんな穏やかなキスがあるんだって、どこか心地よくもある。
ようやくどちらからともなく離れた時、寛人さんはしっかりと目を開いて、私を見上げていた。後ずさる私の手首をつかんで、上体を起こす。
「いつ来たの?」
「え、あ、さっき……さっきよ」
あんまり普通に話しかけてくるから、拍子抜けしてしまった。
「額縁、買ってきた」
「額縁って?」
寛人さんは机の上に置かれた額縁を手に取る。ちょうどポストカードが入るサイズの額縁。中には、美味しそうなフレンチトーストの絵が納められてる。
「紺野さんにあげようと思って」
「額縁に入れてくれたの? うれしい」
「紺野さんはなんでも喜んでくれるから」
「寛人さんの絵が好きだからよ」
にこっとして、無表情な彼から額縁を受け取る。
おしゃれなラッピングがされてるわけでもない。ぬくもりのあるメッセージが添えられてるわけでもない。
だけど確かに、彼の絵画には温かみと優しさがある。
「もう会うのは最後だから、プレゼントしたかったんだ」
「え……、最後?」
彼の瞳はどこか儚く、暗かった。
「兄さんと今日、帰るよね」
「帰るなんて決めてないわ」
「そうなるよね」
「……そうならないようにすることもできるの」
奪ってくれたらいいのに。
心の中に悪い気持ちがふくらんだ。寛人さんは優しいから、略奪とは無縁に生きてるのに。汚れた世界なんて知ってほしくないって思ってるのに。それなのに、自分本意な気持ちを持ってしまった。
「兄さんといた方がいい」
寛人さんは私に背を向ける。彼の背中がやけに小さく見える。
迷いなく、彼の背中に指を触れさせた。ほおを寄せて、きゅっと袖をつかんだ。
「じゃあ、どうしてキスしたの?」
寛人さんはわずかに肩を上下させたけど、無言だった。
きっと答えてくれないと思った。彼はいつも、無関心を装って生きてる。
時が止まったかのような静けさを、エンジン音が破った。
「兄さんだ……」
消え入りそうな小さな声が、やたらと耳に残る。
寛人さんは立ち上がらなかった。責めてると思った。兄の婚約者にキスをしたなんて、許されるわけないって思ってる。
「寛人、いるか?」
玄関先から声が聞こえる。案の定、明敬さんだ。私はすぐに明敬さんのもとへ向かった。寛人さんと一緒にいるところを見られたくない。それしか、彼を守る方法はない気がした。
ボワの前で柚原くんと別れ、来た道を戻った。いつまでもぺこりぺこりと頭を下げる彼に手を振り、前を向く。
柚原くんの恋が実る頃に、また会えるだろう。うれしい予感がする。
森の家に到着すると、さっき来た時にはなかった自転車が、アーチの横に止められていた。寛人さんは帰ってきてるみたい。
いつもそうしてるように、「おじゃましまーす」と声をかけながら、玄関をあがる。リビングに寛人さんがいないのを確認して、彼の部屋へ向かう。
障子戸は今日も開いていた。また絵を描いてるんだろうか。
「寛人さ……」
そっと部屋の中をのぞき、口をつぐむ。
てっきり机に向かってるとばかり思っていた寛人さんが、座布団をまくらにして、畳の上で大の字になって寝ている。
どこかあどけない表情で、幸せそうに眠っている。何も悩みがないみたいに見えるけど、そんなことはなくて。疲れを癒してるのかもしれない。
寛人さんの横に正座して、庭を眺める。
とても静か。寛人さんと過ごす時間は、いつも穏やかで、私に優しい。
寝返りを打つ彼を見下ろす。起きるだろうか。そう思って見つめていても、なかなか起きる気配はない。
何度見ても、きれいな顔をしてる。
中性的で、男を意識させないから、ふたりきりでいても特別なことに感じない。
明敬さんも、寛人さんと一緒にいても不機嫌になったりしない。私に恋愛感情があるなんて、思ってもないんだろう。
ほんの少し、身を屈ませた。
寛人さんにキスしたら、私たちは恋人になれるのかなって思った。お互いに異性として意識し合うきっかけになるのかなって。
でも、ダメ。寛人さんは兄を慕ってるから、私なんて受け入れないし、そうでなくても、タイプじゃないに決まってる。
近づけた顔を離そうとした時、寛人さんのまぶたが動いた。ゆっくりと開くまぶたの奥に、色素の薄いグレイの瞳が現れる。
「あっ、ち、違うのっ」
いまさら間近にある顔に驚いて、身体を離そうとした。その時、スッと彼の右手があがった。
後頭部に手のひらが乗る。そっと引き寄せられて、静かに唇が重なる。一瞬のことだったのに、やけにスローモーションだった。
ただただ重なり続ける唇が、次第に熱を帯びていく。優しく触れる。こんな穏やかなキスがあるんだって、どこか心地よくもある。
ようやくどちらからともなく離れた時、寛人さんはしっかりと目を開いて、私を見上げていた。後ずさる私の手首をつかんで、上体を起こす。
「いつ来たの?」
「え、あ、さっき……さっきよ」
あんまり普通に話しかけてくるから、拍子抜けしてしまった。
「額縁、買ってきた」
「額縁って?」
寛人さんは机の上に置かれた額縁を手に取る。ちょうどポストカードが入るサイズの額縁。中には、美味しそうなフレンチトーストの絵が納められてる。
「紺野さんにあげようと思って」
「額縁に入れてくれたの? うれしい」
「紺野さんはなんでも喜んでくれるから」
「寛人さんの絵が好きだからよ」
にこっとして、無表情な彼から額縁を受け取る。
おしゃれなラッピングがされてるわけでもない。ぬくもりのあるメッセージが添えられてるわけでもない。
だけど確かに、彼の絵画には温かみと優しさがある。
「もう会うのは最後だから、プレゼントしたかったんだ」
「え……、最後?」
彼の瞳はどこか儚く、暗かった。
「兄さんと今日、帰るよね」
「帰るなんて決めてないわ」
「そうなるよね」
「……そうならないようにすることもできるの」
奪ってくれたらいいのに。
心の中に悪い気持ちがふくらんだ。寛人さんは優しいから、略奪とは無縁に生きてるのに。汚れた世界なんて知ってほしくないって思ってるのに。それなのに、自分本意な気持ちを持ってしまった。
「兄さんといた方がいい」
寛人さんは私に背を向ける。彼の背中がやけに小さく見える。
迷いなく、彼の背中に指を触れさせた。ほおを寄せて、きゅっと袖をつかんだ。
「じゃあ、どうしてキスしたの?」
寛人さんはわずかに肩を上下させたけど、無言だった。
きっと答えてくれないと思った。彼はいつも、無関心を装って生きてる。
時が止まったかのような静けさを、エンジン音が破った。
「兄さんだ……」
消え入りそうな小さな声が、やたらと耳に残る。
寛人さんは立ち上がらなかった。責めてると思った。兄の婚約者にキスをしたなんて、許されるわけないって思ってる。
「寛人、いるか?」
玄関先から声が聞こえる。案の定、明敬さんだ。私はすぐに明敬さんのもとへ向かった。寛人さんと一緒にいるところを見られたくない。それしか、彼を守る方法はない気がした。
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