佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

あなたの声が聞こえない 7

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 ベランダに続く窓を開けると、目の前には細い川が流れている。奥にはこんもりとした森。

 父親が選んだマンションに暮らし始めて約二年、毎日眺める光景だ。

 繁華街にある大学へ通学するには電車を利用しなければならないが、都会の喧騒から離れたのどかな土地は、生活するのにちょうどいい。

 築年数が古いとはいえ、部屋も2DKと学生が暮らすには少しばかり贅沢な造り。これで大学近くの1Kのアパートよりも家賃が安いのだから驚きだ。

 もとより、父親が家賃の金額を気にしてこのマンションを選んだのにはもう一つ理由がある。

「華南ー、おはよー」

 頭上から声が降ってくる。ベランダに出て洗濯物を干す私に向かって、彼女は気まぐれに上の階から声をかけてくる。

 彼女の名前は石灰深春。高校時代のクラスメイトで、卒業間際に仲良くなった友人だ。

 深春は新生活をスタートさせることを不安に思っていて、ひとり暮らしを始めると知った私に同じマンションで暮らさないかと提案してきた。

 私はどちらでも良かった。関心がない、というのがそう思う一番の理由だったが、父親に深春の思いを伝え、なんとかならないかと相談はした。

 父親は私の頼みを断らない。佐鳥家を背負って立つ大らかで利発な母親とは違い、ひたすら温厚で私に甘い。

 条件のいいマンションを探すのは父親にとって難あることではなかったようだが、深春はすぐにマンションを気に入ってくれ、スムーズに入居が決まった。これがこのマンションを父親が選んだもう一つの理由。

 引っ越してからずっと、私たちはこうやってベランダでおしゃべりをする。

「華南、今日は午後から講義でしょ? 一緒に行こー」

 頭上の深春を見上げて小さくうなずく。

 私の部屋は三階の角部屋。深春はその真上の四階だ。

 この距離感もちょうどいい。彼女は私がベランダにいなければ話しかけて来ないし、部屋に押しかけても来ない。だが、困ったことがある時には助け合えるちょうどいい距離感。

「じゃあまた」

 洗濯物を干し終えて、私は素っ気なく声をかける。

「うん、一時にエントランスねー」

 深春は笑顔で手を振ると、ベランダから出していた顔を引っ込める。

 静寂が戻ってくる。私はそのまま部屋に入り、コーヒーを用意するとソファーに腰を下ろして小説を開く。

 朝のこのひとときが好きだ。時間を忘れてしまえる唯一の穏やかな刻。規則正しい私の一日はこうして始まる。
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