佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

あなたの声が聞こえない 9

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 薬学自主研究ゼミナールの研究室は、西館の二階にある。

 東側にある講義棟から西側の各研究室に続く渡り廊下を歩く。しゃれたアーチ状の屋根がついた渡り廊下に、まだ冷たい四月の風が吹き抜ける。

 腰まで伸びた長い髪がふわりと浮かんで、そっと手で押さえた時、静かな空間に響く足音が背後から迫ってくる。

「華南っ、今からゼミ?」
「ええ」

 振り向いてうなずく間に、声をかけてきた青年は私にたどり着く。

「急に深春がゼミに申し込んで来いって言うからさー。小間使いじゃねぇよって言い合いしてたら、華南の入るゼミだって言うし……とにかく慌てたよ」

 ここへ来た理由を、そう一気に告白したのは七五三田柚樹くんだ。

 細面で切れ長の瞳、細い眉毛は多少つり上がっている。ナチュラルウルフの明るめの茶髪から、やんちゃそうで怖そうな人という第一印象だったが、話してみるとどこにでもいるような普通の男子学生だった。

 深春の友人だから話もするが、そうでなければ見落としてしまいそうなほど際立った印象はない、単なる同期生だ。

「慌てることなんて一つもないじゃない」

 背の高い柚樹くんをいぶかしげに上目遣いで見上げると、彼は落ち着きなく髪に手を当てたりして、やたらと動揺を見せる。

「あ、いや……、まあ、確かに勝手に慌てたのは俺だけなんだけどさ。とにかく、入れるといいな。華南といると勉強もはかどるっていうか」
「私がいるからなんて理由で決めない方がいいわ」
「ああー、それはさんざん深春から聞いた。解決したことだから、もういいんだ」

 何が解決してるのだろう。私が受けるからという理由だけで、二人が興味のないゼミを受講したがっている事実は変わりがないというのに。

「まあ、行こうぜ」

 細かいことにこだわるなよとばかりに話を打ち切る柚樹くんに促されて、腑に落ちないまま歩き出す。

 渡り廊下を越えて西館の静かな廊下を歩く。響くのは私たちの足音だけだ。

 いくつかの研究室の前を通り過ぎる。薬学自主研究ゼミナールのプレートがつけられた研究室は廊下の一番奥、つき当たりにあった。

 私は迷わずにドアをノックする。少し間があって、「はい」と落ち着いた男性の声がする。

「教授?」

 目配せしてきた柚樹くんが、口パクでそう伝えてくる。

 教授の声にしては若い。そう思ったのだろう。声の主が誰であるかなんて知るよしもなく、私は無言でドアを押し開く。

「失礼します」

 研究室に入室する。部屋の中はがらんどうだ。

 唯一あるのは、窓際に置かれた二人がけのソファー。そこに腰掛け、窓枠に切り取られた澄み切った青空を見上げる青年が一人いる。

 白衣を身につけた彼は講師だろう。足を組み、ソファーのひじ掛けに頬杖をついている。ずいぶんと怠惰なかっこうでソファーに身を沈めているものだ。

「三年の佐鳥華南です」

 空を見上げたままの彼の背に向かって名乗ると、ようやく彼は重い腰を上げて振り返る。

 窓から差し込む光を背にした彼の顔は、かげって見にくい。その表情は私に近づくにつれ、くっきりと浮かび上がる。

 私は知らず息を飲む。

 鮮明に浮かび上がる過去の記憶。もう二年以上前のことだというのに、あの日のことはたったの一度も忘れたことがなかった。まるで昨日のことのように、戦慄に思い出される。

「あ……」

 なんと言ったらいいだろう。

 私を覚えていますか。毎日同じ電車に乗っていたこと。卒業式のあの日、あなたは気分が悪そうで、私はとても心配したのだと。

「君は?」

 何も言い出せない私から目をそらし、隣に立つ柚樹くんへと、彼は視線をずらす。

 まるで私に興味がない。覚えていないどころか、彼の瞳に映る私は認識されていない。

 それはあの時と同じだった。彼の漆黒の瞳は何かを見ているようで何も見ていない空虚なもの。

 しかし、あの時と違うことが一つだけある。

 彼から感じるものは何もない。どれだけ彼を見つめても、あの時のように心の声が聞こえてくることはなかった。

「あ、薬学部三年、七五三田柚樹です。先生のゼミをぜひ受講したいと思い伺いました。突然お訪ねして申し訳ありません」

 柚樹くんは返事をじっと待つ青年に緊張しながら答える。彼の持つ、気だるげで独特な雰囲気に気圧されているようだ。

 無表情の青年は、柚樹くんが「えっと……」と、何を言えばいいのかわからなくて戸惑うほどの沈黙を与えた後、スッと私の方へ視線を向けた。

「君たち二人か」
「ゼミの存在を知らない学生の方が多いと思います」

 揶揄したわけでもなく、素直な気持ちでそう答える。

 私が気づいたのだって、偶然のようなものだ。

 あれは噂話。たまたまあの日、私はテラスで一人ランチタイムを過ごしていた。テーブルを一つ挟んだ先で、女子学生が新任の講師が来たと騒いでいた。なんとはなしにその話に耳を傾けたのがきっかけ。

 その会話のほとんどは講師の風貌に関するものだった。繊細で美しく、それでいて頼りがいのある落ち着きを持ったミステリアスな青年。彼女らはそう言ったことを口々に話しては盛り上がっていた。

 そして、彼に会うのは困難だと憂いていた。

 授業は受け持っていないから研究室でないと会えない。まだ研究室は準備されておらず、なかなか会うことができないのだと。

 私はすぐにゼミに興味がわいた。薬学部の他のゼミに魅力を感じるものがなかったからだ。

 懇意にする教授にすぐに尋ね、ゼミの存在が間違いでないことを確かめた。

 そして今日、講師が研究室に来る日と教授から聞かされた。挨拶に行くようにと促され、やってきた。

 正直以外だった。少なくとも講師の噂話をしていた生徒は、ゼミを希望するものだとばかり思っていた。

「気づく者は気づく。三人は集まるかと思っていたんだが、まあいい」

 青年は一人納得したように言う。

 新設のゼミとは言え、広く生徒に知ってもらおうという意思はないようだ。むしろ、三人程度の少人数を希望しているのかもしれない。

「希望者はもう一人いるんです。彼女、体調が悪くて今日は休んでまして。日を改めて挨拶に伺わせます」
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