佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

声の聞こえる相手でいたい 3

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 その扉は木漏れ日を受けて静かに佇んでいた。誰を受け入れるでも、誰を拒むわけでもない、ただ静かにそこに存在する扉。

「何もないなんて……、思いもしませんでした」

 何もないことを確認するために夜間瀬先生を巻き込んだわけじゃないのに、とため息をつく。

「何もないと感じるかどうかも、人それぞれの価値観かもしれないな」
「先生はまだ何かあると思ってるんですか?」

 母は嘘をつかない正直な人だ。ないならないのだろう。

「それを今から確かめる。どう何もないのか、興味がある」

 先生は扉の前へ進み出る。私もあわてて駆け寄り、ドアノブの錠に鍵をさす。古びた錠のわりにすんなりと鍵は回る。手入れが行き届いていて、なおかつよく出入りがあるのだと気付かされる。

 ドアノブをひねれば、重たそうな扉は軽くあっけなく開く。

「行こうか、佐鳥くん」

 ほんの少しだけ躊躇したのが伝わったのだろうか。わずかにドアノブから手を離した私に代わり、先生が導くように扉を大きく押し開く。

 明るい日射しが一気に射し込んでくる。思わず目を閉じた私がゆっくりとまぶたを上げた時、先生が隣でつぶやいた。

「ここは……、温室……」

 夜間瀬先生は無言でずんずんと中へ進む。そして決して大きくはない30坪ほどの温室の中央まで来ると足を止め、美しい花々が生き生きと咲き誇る内部を眺め見渡した。

 鋭く光る黒い瞳が慎重に動く。こんな厳しい表情をする先生は珍しく、それに驚くうちに彼はある一点を見定め突き進む。その先にはブルーの花が咲いている。

「先生、どうしたんですか?」

 ひときわ目立つブルーの花びらに触れようとしていた先生は、私の問いかけに反応して手を引っ込め振り返る。

「ブルーポピーだよ、佐鳥くん」
「ポピー?」
「ああ、この温室に育つ花はすべてポピーだ。非常に珍しいものがたくさんある」

 やや興奮気味に先生は両手を広げる。
 綺麗な花だとは思うけれど、先生にとってはとてつもない価値のあるものかもしれない。

「お母さんがポピーを好きだなんて聞いたことないです」
「それは好きだから育てているわけじゃないからかもしれない」
「好きでもないのに育てている理由がわかりません」
「きっとその理由は、さらにこの先にある」

 夜間瀬先生は確かな足取りで温室の奥へと進む。入ってきた時とは違う、反対側にあるガラス扉を迷いなく彼は押し開ける。

「やっぱりそうだ」

 外へと飛び出した先生の確信した声が聞こえてくる。数段ある階段を続いて降りた私は、彼の隣へと進み出る。

「ここは?」

 眼前に広がるのは、よく耕された畑。その前で仁王立ちする先生は、種まきを終えたばかりだろう畑の、柔らかな土をすくい上げて握りしめる。

「ケシだよ」
「ケシ?」
「ああ、噂は本当ではなかったが、噂の出どころは間違いなくここだ」
「噂って、未知の薬草ですか?」

 先生ははっきりとうなずいて、温室の扉の前を指差す。

「アイスランドポピーのタネが山ほど置いてある。これだけ広大な畑では安価なものを植えるしかないのかもしれないが、初夏になれば一面ポピーが咲き乱れる美しい花園になるだろう」
「なぜポピーを」
「噂のことを考えれば、初代から続いているんだろう。当時は医薬品として使われたケシを栽培していたのかもしれない。アイスランドポピーに毒性はないからね。今はただの趣味だろうが……」

 先生は私の背後へと視線を向けて、言葉を飲み込む。その視線の先を追えば、土まみれの作業着に麦わら帽子をかぶる中年の男にたどり着く。
 いつもスーツ姿の凛々しい背中を見ていたから、彼のその姿にはひどく驚いた。

「お父さんっ」
「華南、凡子さんから聞いたよ。彼が夜間瀬先生だね」

 父、清丈きよたけは、麦わら帽子を外し、先生の前へゆっくりと進み出る。

「夜間瀬大志です。薬学の講師をしています」
「聞いています。先程の話も聞いていましたよ」

 そう言って父は麦わら帽子をかぶり直すと、空をまぶしそうに見上げる。

「話が長くなります。歩きながら話しましょうか。質問は手短に」

 影一つない畑の真ん中にひとすじ通るレンガの道を、私たちを先導しながら父は歩き始める。

 なんとなく父の向かう場所がわかる気がして、私も無言で先生とともに続く。

「単刀直入にうかがいます。佐鳥尚秀がケシの栽培をしていたという推測は間違いないですか? これだけの肥沃な土地があれば、佐鳥家を繁栄させるのは容易かったでしょう」
「ええ、その通りです。当時は万能薬として使われていましたからね。しかし先生がご想像するように、手広く商売をしていたわけではありません。一人の命を救うため、尚秀様は研究していたに他なりません」
「一人とは?」
「痛みを和らげることしか出来なかったようですが、それでも共に過ごした時間はかけがえのないものだったと思います」

 父は誰とは言及せず、そう言った後は黙々とレンガの道を進んだ。先生もそれ以上しつこく尋ねることもない。

「朝日様はご病気だったの……?」
「ああ」

 私のつぶやきに、先生は短く返事をする。だから子を授かることも出来なかったのか。どんな思いで夜月様の産んだ子をその腕に抱いたのだろう。そう思ったら胸が苦しくなる。

 朝日様が夜月様を許すはずはなく、やはり佐鳥家に女しか生まれないのは彼女の呪いなのだろうと思える。

 男が生まれていたら、きっと今以上に繁栄していただろう。立派なのは屋敷だけで、佐鳥一族はつましい生活をしている。大名の名など過去のもので、滅びゆく一族に変わりはない。
 朝日様の願いは私の代で果たされるのかもしれない。

「朝日という女性はどのような方だったのですか?」

 先生が尋ねると、父は柔らかな笑みを見せる。

「それは清らかな心の持ち主で、お美しくも凛とした気丈夫な方だったと聞いています」
「佐鳥家の繁栄を呪うような気持ちを持っていたのでしょうか」

 途端に父の表情は曇る。

「……さあ、そのような話をするものもいますが、佐鳥家の歴史をひもといてまで話すことは何も。御簾路の中にもそう思う者がいるのですから、何も知らない先生のような方が短絡的にそう思うのは当然」
「お父さん、違うの。私が先生にそう言ったの、呪いだって」

 あくまでも私の気持ちを代弁して聞いてくれただけだと訴えれば、父は足を止めて意外そうに眉をあげた。

「華南? そうか、華南もどこかでそんな心ない噂話を耳にしながら育ったかもしれないね。朝日様の心の中は誰も知りようがない。だからお父さんは肯定も否定もできない」
「朝日様が尚秀様を愛していたから、そんな噂も立ったのよね?」
「そうかもしれないね」
「だったらどうして尚秀様は夜月様と同じお墓に? 朝日様は離れた場所で一人だなんて」
「お墓?」

 先生が横槍を入れる。お墓のことはまだ何も話していなかった。

「今から案内します。この先に朝日様のお墓がありますから」

 静かにうなずいた父はそう言うと、はじめから案内するつもりだったのだというように、再びレンガの道を歩き始めた。
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