非才の催眠術師

水城ひさぎ

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まわり始める運命の時計

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 あれから空き店舗がどうなったのか、ママからは何も聞かされなかった。

 しかしこのところ、一階の方がざわつくと部屋が揺れたり、窓の外からトラックのバックブザーや男性の掛け声が聞こえて来ることがある。想像するに、マサキ催眠クリニックは空き店舗を利用して開業することに決定したのだろう。

 カーテンを薄く開く。夕日が差し込み、眩しさでしかめ面になる目の上に手をかざして下の方を覗いた。

 今日はトラックどころか、塀の向こうに往来する人々の姿もない。

 ママの喫茶店が繁盛するのは決まって朝だ。以前は遅くまで営業していたが、私が就職する頃に夕方には店を閉めるようになった。その代わり、朝の営業時間を早めた。ママが楽をしたことなど一日たりともなかっただろう。

 私と同じように外を眺めていたミカドが、突然出窓からじゅうたんの上に飛び降りる。

「ミカド? どうしたの?」

 ミカドは気品のあるゆったりとした足取りでドアへ向かう。するとすぐにママの声が聞こえた。

「悠紀ちゃん、下へいらっしゃいよ。プレゼントがあるの」

 ママがドアの前を立ち去る気配はなく、逡巡する私を置いて、ミカドはくぐり戸を出ていく。

「あら、ミカド。悠紀ちゃんは起きてる?」

 ママの尋ねに返事をするように、ミカドが、にゃあ、と短く鳴く。そしてくぐり戸から顔を出し、もう一度早く来るようにと急かすみたいに鳴くと、すぐに顔を引っ込める。

 普段無口なミカドが私を誘うなんて珍しい。きっと行かなきゃいけない何かがあるのだ。そんな風に思えて、私は部屋を出る。

「おはよう、悠紀ちゃん。お店に来て」

 ママは安堵の表情を浮かべた後、私に手招きしながら階段を降りていく。その足取りは軽やかだ。何かいいことでもあったのかもしれない。

 私がママに続いて階段を降りても、ミカドは部屋の前に凛と座り、ついて来ようとしない。誘っておいて、私一人で行けというのか。ちょっと不満を覚えながら、私はすまし顔のミカドに背を向けた。



 喫茶店SIZUKUには客が一人いた。

 カウンター席の一番奥で、ひっそりと身をかがめてコーヒーを飲んでいる。薄手のベージュのトレンチコートに黒のニット帽、黒のサングラスをした男性だ。人目をひく派手さはないが、無精髭の生えたあごの輪郭には妙な清潔感がある。40代だろうか、オシャレな人だ。だがどことなく憂愁を感じる。

「空き店舗にね、クリニックが入ることになったのよ。とても条件のいい契約が出来たの。だから今日はお祝い」

 声をかけられて、ママに目を戻す。満ち満ちた笑顔を浮かべるママを見るのは久しぶりだ。私の就職先が内定した時以来かもしれない。

「良かったね、ママ」

 無関心な声が出た。一緒に喜んであげたい気持ちはあるのに、前向きになろうとすると無気力になる。

「悠紀ちゃんには、これ。開けてみて」

 一瞬だけ切なそうな表情を見せたママは、気を取り直した笑顔で、ラッピングされた箱が置かれたカウンター席に私を座らせる。

「カレンダー……?」

 ラッピングされた箱よりも、その隣にある小さな卓上カレンダーの方に目が張り付く。

 仕事を辞めた日、カレンダーは捨てた。幸せな計画が書き込まれた未来を失ったカレンダーは、私にとって不要なものでしかなかった。

 あの日から、私の人生は変わってしまった。
 未来を書いても叶わないなら、未来を書く必要などどこにもない。

「そうよ、そろそろ時間を進めてもいいんじゃないかしら。今日は11月5日、悠紀ちゃんの25歳の誕生日よ」
「ママ……」
「誕生日おめでとう。はい、プレゼント」

 ママは私の手のひらを上に向かせると、ラッピングされた箱を乗せる。少し重ための、赤のリボンがかけられたシックな黒い箱だ。

「開けてみて」

 カウンターに肘をつき、手にあごを乗せたママはうっとりとした目で急かす。

 リボンをほどいて、ふたを開ける。ゴールドの縁取りが見えるが、何であるか想像もつかないまま箱から引き抜く。取り出してわかる。それはアンティーク調の置き時計だった。

「わあ、可愛い。悠紀ちゃんのお部屋にぴったりね」

 ラインストーンがあしらわれたゴールドの縁取りにバラの花が咲くエレガントな時計は、16時40分へ向かい、時を刻んでいる。

 カレンダーと時計がこれほどまでにまざまざと私に月日と時刻を的確に伝えてくるものとは思わず、喜びよりも先に動揺やためらいが私を襲った。

「今の悠紀ちゃんに一番必要なものね。受け取ってくれる?」

 ぼんやりと時計を眺める。
 秒針が一つずつ時を刻む。戻らないで、と願う私が生まれる。秒針は進み続ける。戻ったって未来は変わらないの。そう叫ぶ私がいる。

「悠紀ちゃん……」

 顔が青ざめていくのがわかる。体が揺れて、カウンターをとっさにつかんだ。めまいがする。

 秒針から目が離せない。歪む視界に映る秒針はなおも無情に時を刻んでいく。

 私は何も変わっちゃいない。未来なんていらない。私はあの日に戻りたいだけ……。

 秒針が、戻る。

 そう思った瞬間、椅子を引く大きな音が私を現実に呼び戻した。

 私は時計から目を離し、ハッと顔を上げた。いつの間にか額に浮かんでいた汗以外、先ほどと何も変わらない光景が広がる中、カウンターの一番奥にいた男性客が立ち上がっていた。

「また、来る」

 そう言って立ち去る彼の姿を目で追った。
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