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午後2時を過ぎた頃、俺はカフェ『菜の花』を訪れた。のんびり過ごすなら、客のいないその時間に行くといい。と、顔見知りのおじいさんが教えてくれた。
入り口に、きのうはあった『営業中』の看板がない。その代わり、休業日の看板もない。
木製の扉を開けると、チリンチリンと鳴る鈴の音が心地よい。
店内には女性がひとり。菜の花カフェのオーナー夫妻の娘で、名を冬田季沙と言う。
彼女は休業日だというのに、エプロンをつけて俺を出迎えた。肩より伸びた茶髪をゴムで束ね、果実の柄の入った三角巾をつけている。瞳はクリッと大きく、色白で可愛らしい。いかにも、看板娘という感じだ。
「何、飲みます?」
「今日はちょっと暑いから、アイスコーヒーで」
風は冷たいが、日差しが強い。乾燥もしてるのか、口の中がよく乾く。
「今日は乾燥してますよね」
季沙も俺と同じことを考えていたのか、そう言う。すぐに彼女はキッチンへと姿を消した。
はじめは大学生かと思ったが、両親不在のカフェを卒なく切り盛りしているところを見ると、社会人になって数年といったところか。トシ先生に娘がいることは知らなかった。きっと俺よりは若い。
若い女の子に年齢を聞くのも気が引けて、勝手に想像するしかできない。
しばらくすると、チーズのいい香りがしてきた。空いていたお腹が、グウと小さく鳴る。
キッチンから姿を見せた季沙は、きのうよりも親しげに微笑みかけてくる。人見知りとか無縁な女の子なんだろう。
まあ、休業日に店を開けてくれてるんだから、いまは店員と客の気分ではないのかもしれない。だとしたら、彼女が彼氏に手料理をごちそうしてるようなものか。なんだかそれもちょっと違うか。
「おまたせしました。菜の花特製ピザトーストとアイスコーヒーです。ちょっと熱いから気をつけて食べてくださいね」
特製とはいうが、どこにでもありそうなピザトースト。ただ、出来たてだから、チーズもとろとろで、しんなりしたたまねぎやピーマンがとても美味しそうだ。
「うん、美味しい」
ひとくち食べて、待っていそうだったから感想を言う。
「でしょ。唯一、私が考えたレシピなの」
「へえ。料理好きなんだね。冬田さんと結婚したら、毎日美味しいごはんが食べれるね」
あまり深く考えずにそう言うと、季沙はなんとも言えない表情をした。うれしがるような、悲しんでるような、複雑な表情。
結婚したら、なんて言ったから、俺が口説いてると思ったんだろうか。それとも、妻が毎日料理を作るのはあたりまえって思ってるように感じたとか。
「ごめん。なんか変なこと言った」
「ううん。ちょっと懐かしいなって思っただけ。懐かしむほど、昔のことじゃないんだけどね」
「どういうこと?」
尋ねると、季沙はそっと首をふった。それ以上は話さないという意思表示だろう。それなら最初から思わせぶりなことを言わなくてもいいのだが、彼女は部分的に秘密主義のようだ。
「じゃあ、ゆっくり食事してね」
季沙はぺこりと頭をさげて、キッチンへと入っていった。蛇口から水が流れる音がする。洗い物だろう。休みの日に仕事をさせて、申し訳なかったなと後悔する。季沙の好意に甘えてしまった俺を反省した。
さっさと食べて帰ろう。しかし、アツアツのピザトーストをフウフウしながら食べるのは、思ったより時間がかかる。
キッチンからこちらをのぞく季沙がちょっとだけおかしそうに笑う。猫舌を笑ってるんだろう。
どこか憎めない女の子だ。そう思っていると、彼女の視線がカフェの入り口の方へ動いた。俺もつられて、彼女の視線を追った。
チリンチリンと、カフェの扉が開く。
休業日の看板を出してないから客が入ってきてしまったんだろう。しかし、お客さまというには少々役不足な、小さな男の子が入ってきた。
「あのー、黒ねこカフェはここですか?」
びくびくと目線を泳がせながら、俺と季沙を交互に見た少年は、思ったよりもしっかりとした口調で、そう言った。
少年は、小学四年生のアキラと名乗った。四年生にしては小柄だが、よく運動ができる活発な印象を受ける。
身につけるジーンズもセーターも、量販店で購入したものに見えるが、センスがいいからおしゃれに見える。いわゆる、普通の子と称される子だ。
「なぁ、アキラくん。黒ねこカフェって?」
キッチンの奥で作業する季沙を横目に、俺は向かいの席に座らされたアキラに尋ねた。
ここは確か、『菜の花』という名のカフェではなかったか。黒ねこの置き物があるわけでもないし、食器だってシンプルで、ねこを連想させるものすらない。まあ、菜の花もないが。
アキラは季沙の方を気にしながら、俺に小声で言う。
「内緒だよ。黒ねこって暗号だから」
「暗号? 興味深い話だね」
子どもらしい反応に、ちょっとおかしくなってしまう。
確かに、季沙はこのカフェを黒ねこカフェだとは認めなかった。アキラを笑顔で迎え入れ、「ホットミルク飲む?」と席に案内しただけだった。
「うん。みんながそう言ってる。きっと黒ねこカフェはここだって。でも、それを証明できる友だちはいないんだ」
「へえ、みんながね。でもさ、どうしてみんなはここが黒ねこカフェだって言うんだい?」
アキラは椅子の上に両ひざをつくと、窓の方へほっぺを寄せて、道端を指差す。俺もそちらをのぞく素振りをする。
「あそこに黒ねこの置き物があるんだ」
「そんなのあったっけ?」
「うん、あるよ。大人は気づかない場所」
「へえー」
もう少し身を乗り出してみる。アキラがどこを指差してるのかもわからないが、そっちの方に黒ねこの置き物があるんだろう。
「それで、ここが黒ねこカフェ?」
「たぶんね。神社からさ、黒ねこの置き物を追いかけてきたら、ここに着いたから」
「追いかけるって、たどってきたってこと?」
「うん、そう。何個も同じ黒ねこがいる」
つまり、道しるべか。子どもが喜びそうなしかけだ。
「夢のないようなこと言うとさ、商店街にあるカフェはここ一つだよね。探さなくても、ここしかないんじゃないか」
「バカだなぁ。黒ねこカフェって名前はカムフラージュで、お店じゃないかもしれないじゃん」
「なるほどね。隠れ蓑かもしれないわけだ。いろいろ考えるんだね」
「だって、願いを叶えてくれるカフェだからね。願いが叶ったら、黒ねこカフェのことは絶対秘密にしなくちゃいけないんだ。そうじゃないとバチがあたるんだって」
大真面目にアキラは力説する。
大人がバカにするようなことも、彼らにとっては人生を賭けた戦いかもしれない。そんな気持ちはわからないこともなかった。
「じゃあ、アキラくんは何か願いごとがあるんだね」
「お、おう」
「それも内緒なのかな?」
「そんなことないよ。だって、誰が願いを叶えてくれるのか知らないからさ。もしかしたら、この人が願いを叶えてくれるかもしれない」
この人、とアキラは俺を指差す。
「満生だよ、満生」
「じゃあ、みちおさん、俺に勉強教えれる?」
「なんだい、それ」
「教えれないなら、関係ないよ」
あくまでも、アキラは願いを叶えてくれる場所と人を探してるのだろう。違うとわかれば、興味はすぐに去っていく。
「教えれるよ」
「ほんとう?」
パッとアキラの表情が明るくなる。
「わからない問題があれば、持っておいで」
「すごいや。もう願いが叶った」
「勉強教えてくれる人を探すのが願いごとだった?」
「ううん。べんきょうができるようになりたいってお願いしたんだ」
アキラは胸を張る。
「じゃあまだ叶ってないね。叶うかどうかはアキラくんのやる気次第だけど、お手伝いはしてあげれるよ」
「うん、それでいい。塾、やめさせられちゃったから、困ってたんだ」
「でも条件付きだよ。一週間。俺が教えれるのは、一週間だけだから」
それでもアキラは力強い目をして、かまわないと言った。
どこかで見たような眼差しだと思った。失望の中から、新たな希望を見つけたような。それでいてどこか、すがる目。
「なんだか楽しそうに話してるね。お姉さんにも教えて」
季沙がホットミルクを運んでくる。
アキラはひそひそ話してたつもりかもしれないが、彼女には何もかも聞こえていただろう。俺と目が合うと、ありがとう、と彼女の唇が動いた気がした。
午後2時を過ぎた頃、俺はカフェ『菜の花』を訪れた。のんびり過ごすなら、客のいないその時間に行くといい。と、顔見知りのおじいさんが教えてくれた。
入り口に、きのうはあった『営業中』の看板がない。その代わり、休業日の看板もない。
木製の扉を開けると、チリンチリンと鳴る鈴の音が心地よい。
店内には女性がひとり。菜の花カフェのオーナー夫妻の娘で、名を冬田季沙と言う。
彼女は休業日だというのに、エプロンをつけて俺を出迎えた。肩より伸びた茶髪をゴムで束ね、果実の柄の入った三角巾をつけている。瞳はクリッと大きく、色白で可愛らしい。いかにも、看板娘という感じだ。
「何、飲みます?」
「今日はちょっと暑いから、アイスコーヒーで」
風は冷たいが、日差しが強い。乾燥もしてるのか、口の中がよく乾く。
「今日は乾燥してますよね」
季沙も俺と同じことを考えていたのか、そう言う。すぐに彼女はキッチンへと姿を消した。
はじめは大学生かと思ったが、両親不在のカフェを卒なく切り盛りしているところを見ると、社会人になって数年といったところか。トシ先生に娘がいることは知らなかった。きっと俺よりは若い。
若い女の子に年齢を聞くのも気が引けて、勝手に想像するしかできない。
しばらくすると、チーズのいい香りがしてきた。空いていたお腹が、グウと小さく鳴る。
キッチンから姿を見せた季沙は、きのうよりも親しげに微笑みかけてくる。人見知りとか無縁な女の子なんだろう。
まあ、休業日に店を開けてくれてるんだから、いまは店員と客の気分ではないのかもしれない。だとしたら、彼女が彼氏に手料理をごちそうしてるようなものか。なんだかそれもちょっと違うか。
「おまたせしました。菜の花特製ピザトーストとアイスコーヒーです。ちょっと熱いから気をつけて食べてくださいね」
特製とはいうが、どこにでもありそうなピザトースト。ただ、出来たてだから、チーズもとろとろで、しんなりしたたまねぎやピーマンがとても美味しそうだ。
「うん、美味しい」
ひとくち食べて、待っていそうだったから感想を言う。
「でしょ。唯一、私が考えたレシピなの」
「へえ。料理好きなんだね。冬田さんと結婚したら、毎日美味しいごはんが食べれるね」
あまり深く考えずにそう言うと、季沙はなんとも言えない表情をした。うれしがるような、悲しんでるような、複雑な表情。
結婚したら、なんて言ったから、俺が口説いてると思ったんだろうか。それとも、妻が毎日料理を作るのはあたりまえって思ってるように感じたとか。
「ごめん。なんか変なこと言った」
「ううん。ちょっと懐かしいなって思っただけ。懐かしむほど、昔のことじゃないんだけどね」
「どういうこと?」
尋ねると、季沙はそっと首をふった。それ以上は話さないという意思表示だろう。それなら最初から思わせぶりなことを言わなくてもいいのだが、彼女は部分的に秘密主義のようだ。
「じゃあ、ゆっくり食事してね」
季沙はぺこりと頭をさげて、キッチンへと入っていった。蛇口から水が流れる音がする。洗い物だろう。休みの日に仕事をさせて、申し訳なかったなと後悔する。季沙の好意に甘えてしまった俺を反省した。
さっさと食べて帰ろう。しかし、アツアツのピザトーストをフウフウしながら食べるのは、思ったより時間がかかる。
キッチンからこちらをのぞく季沙がちょっとだけおかしそうに笑う。猫舌を笑ってるんだろう。
どこか憎めない女の子だ。そう思っていると、彼女の視線がカフェの入り口の方へ動いた。俺もつられて、彼女の視線を追った。
チリンチリンと、カフェの扉が開く。
休業日の看板を出してないから客が入ってきてしまったんだろう。しかし、お客さまというには少々役不足な、小さな男の子が入ってきた。
「あのー、黒ねこカフェはここですか?」
びくびくと目線を泳がせながら、俺と季沙を交互に見た少年は、思ったよりもしっかりとした口調で、そう言った。
少年は、小学四年生のアキラと名乗った。四年生にしては小柄だが、よく運動ができる活発な印象を受ける。
身につけるジーンズもセーターも、量販店で購入したものに見えるが、センスがいいからおしゃれに見える。いわゆる、普通の子と称される子だ。
「なぁ、アキラくん。黒ねこカフェって?」
キッチンの奥で作業する季沙を横目に、俺は向かいの席に座らされたアキラに尋ねた。
ここは確か、『菜の花』という名のカフェではなかったか。黒ねこの置き物があるわけでもないし、食器だってシンプルで、ねこを連想させるものすらない。まあ、菜の花もないが。
アキラは季沙の方を気にしながら、俺に小声で言う。
「内緒だよ。黒ねこって暗号だから」
「暗号? 興味深い話だね」
子どもらしい反応に、ちょっとおかしくなってしまう。
確かに、季沙はこのカフェを黒ねこカフェだとは認めなかった。アキラを笑顔で迎え入れ、「ホットミルク飲む?」と席に案内しただけだった。
「うん。みんながそう言ってる。きっと黒ねこカフェはここだって。でも、それを証明できる友だちはいないんだ」
「へえ、みんながね。でもさ、どうしてみんなはここが黒ねこカフェだって言うんだい?」
アキラは椅子の上に両ひざをつくと、窓の方へほっぺを寄せて、道端を指差す。俺もそちらをのぞく素振りをする。
「あそこに黒ねこの置き物があるんだ」
「そんなのあったっけ?」
「うん、あるよ。大人は気づかない場所」
「へえー」
もう少し身を乗り出してみる。アキラがどこを指差してるのかもわからないが、そっちの方に黒ねこの置き物があるんだろう。
「それで、ここが黒ねこカフェ?」
「たぶんね。神社からさ、黒ねこの置き物を追いかけてきたら、ここに着いたから」
「追いかけるって、たどってきたってこと?」
「うん、そう。何個も同じ黒ねこがいる」
つまり、道しるべか。子どもが喜びそうなしかけだ。
「夢のないようなこと言うとさ、商店街にあるカフェはここ一つだよね。探さなくても、ここしかないんじゃないか」
「バカだなぁ。黒ねこカフェって名前はカムフラージュで、お店じゃないかもしれないじゃん」
「なるほどね。隠れ蓑かもしれないわけだ。いろいろ考えるんだね」
「だって、願いを叶えてくれるカフェだからね。願いが叶ったら、黒ねこカフェのことは絶対秘密にしなくちゃいけないんだ。そうじゃないとバチがあたるんだって」
大真面目にアキラは力説する。
大人がバカにするようなことも、彼らにとっては人生を賭けた戦いかもしれない。そんな気持ちはわからないこともなかった。
「じゃあ、アキラくんは何か願いごとがあるんだね」
「お、おう」
「それも内緒なのかな?」
「そんなことないよ。だって、誰が願いを叶えてくれるのか知らないからさ。もしかしたら、この人が願いを叶えてくれるかもしれない」
この人、とアキラは俺を指差す。
「満生だよ、満生」
「じゃあ、みちおさん、俺に勉強教えれる?」
「なんだい、それ」
「教えれないなら、関係ないよ」
あくまでも、アキラは願いを叶えてくれる場所と人を探してるのだろう。違うとわかれば、興味はすぐに去っていく。
「教えれるよ」
「ほんとう?」
パッとアキラの表情が明るくなる。
「わからない問題があれば、持っておいで」
「すごいや。もう願いが叶った」
「勉強教えてくれる人を探すのが願いごとだった?」
「ううん。べんきょうができるようになりたいってお願いしたんだ」
アキラは胸を張る。
「じゃあまだ叶ってないね。叶うかどうかはアキラくんのやる気次第だけど、お手伝いはしてあげれるよ」
「うん、それでいい。塾、やめさせられちゃったから、困ってたんだ」
「でも条件付きだよ。一週間。俺が教えれるのは、一週間だけだから」
それでもアキラは力強い目をして、かまわないと言った。
どこかで見たような眼差しだと思った。失望の中から、新たな希望を見つけたような。それでいてどこか、すがる目。
「なんだか楽しそうに話してるね。お姉さんにも教えて」
季沙がホットミルクを運んでくる。
アキラはひそひそ話してたつもりかもしれないが、彼女には何もかも聞こえていただろう。俺と目が合うと、ありがとう、と彼女の唇が動いた気がした。
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