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陶芸の青年と閉ざされた過去
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「おばあちゃん、デパートに行ってくるね。お夕飯、何か買ってくるから作らなくて大丈夫だよ」
「おや、今日はあっちへ行かないのかい?」
キッチンに立つ祖母に声をかけると、ソファーで新聞を広げていた祖父がふしぎそうに顔をあげてそう言った。当然だろう。この1ヶ月あまり、ひまさえあれば、ろまん亭に入り浸っていたのだから。
「うん、ずっと欲しかったコート、思い切って買おうと思って」
「それはいい。じきに寒くなるから、買っておいで」
「夕方までに帰るね。じゃあ、行ってきます」
祖父母に見送られて玄関を出ると、駅まで歩いた。電車を乗り継いでデパートに行く休日は、ほんの少し前までは普通の日常だった。
デパートに到着すると、混み合うエスカレーターに乗って、お気に入りのショップへ向かった。最近は山あいにあるろまん亭で過ごしていたからか、今までは日常的だった都会の喧騒も、やけにうるさく感じた。
この1ヶ月で、思うより濃密な時間をろまん亭で過ごしてきたのかもしれない。弦さんのさんぽも、つづみさんの書道を眺めるのも、陽仁さんと一緒にランチを作るのも、ありふれたその時間が、とても貴重な時間だったのではないかと思うのだ。
雑誌で見たおめあてのコートを探していると、マネキンの奥からこちらの様子をうかがっているひとりの女性に気づいた。すぐに彼女が誰だかわかった。
「果歩さん」
「やっぱり、望さん?」
驚いていると、半信半疑だった彼女も確信を得て、笑顔で近づいてきた。
「まさかこんなところで会うと思ってなかったわ。近いの? ご自宅」
「まあ。果歩さんもお買い物ですか?」
「私もって、望さんはお買い物なの? てっきり陽仁に会いに来たのかと思ったわ」
陽仁さんに? どういう意味だろう。
面食らっていると、果歩さんはふしぎそうに首をかしげた。
「知らないの? たきざわ夕市展、ここの特別展示場であるのよ。彼、準備で来てるの。先週もこっちに来てたみたい。会いに行ったらこっちにいるって聞いたものだから、出直し。あなたも知らなかった?」
「はい、……全然」
先週は村井さんのお宅におじゃましたきりで、ろまん亭へは行ってない。陽仁さんからも連絡はなく、まだ彼と話す心がまえができてなくて、ちょうどいいぐらいに思っていた。彼も忙しくて、私をかまっていられなかったのだろう。
「陽仁って、肝心な話は全然してくれないの」
「そうですか」
そう言いながら、そうかもしれないなんて思っていると、果歩さんは気弱なため息をつく。
「陽仁、会ってくれないかもしれない」
「そんなことないと思いますけど」
安易に否定したからか、何を根拠に、って果歩さんはあきれ顔をする。
「私をさけてるの、彼。仕方ないことなんだけど」
「さけられるような理由って、なんですか?」
踏み込みたくないと思いながらも、尋ねていた。
ふたりが付き合っていたのは、もう何年も前のことだ。別れてからも、たびたび会っていた。今さらさけるなんて、最近何かあったとしか思えない。
「陽仁、父の話を嫌うの」
「どういう?」
ますます戸惑ってしまう。なぜ、お父さんの話が出てくるのだろう。
「私と陽仁が別れたのは、父のせいなの。私はなんにも知らなくて、腹が立って……」
以前も、そう言っていた。腹が立って、陽仁さんを怒ってしまったと。
ふたりの間に……ううん、三人の間に何があったのだろう。何年経っても、歩み寄れない何かを陽仁さんは抱えているのだろうか。
「陽仁さんは何かをあきらめたことがあるんですか?」
気づいたら、そう聞いていた。
なぜそんな簡単なことに気づかなかったのか。ろまん亭は夢敗れた者が集う場所と言われてるゆえんが、陽仁さんにあってもふしぎじゃない。いわゆる、彼が一番古い常連客だからだ。高校時代、陶芸をやっていた彼が、今はまったくやらなくなってしまった。村井さんも言っていたじゃないか。彼はあきらめていると。
彼はあきらめた、何かを。それは、恋か、陶芸か。それとも、両方か。その理由を、果歩さんは知っているのだ。
「あなたなら、陽仁を理解してあげられるのかしら」
「え……」
「なんとなくそう思うの。あなたが永朔さんに似てるからかしら。いるわよね。ただ話を聞いてくれるだけなのに、安心できる人って」
果歩さんは、店を出ましょうと言って、私を連れて近くのカフェに入った。拒むこともできたけど、私は黙ってついていった。
陽仁さんを知りたい。
その思いが心のどこかにあるからかもしれなかった。
「私ね、高校時代から彼が好きだったの。そのことに彼は気づいてたと思う。彼も私が好きだった。そういう気持ちって、わかったりするでしょう? でも、私が真乃屋和雄の娘だったから遠慮してた。今でもそう思うことがあるの」
果歩さんはそう、過去の恋を切り出した。
高校卒業後、果歩さんは芸術大学へ進学し、陽仁さんは経済学を学ぶため、彼女とは違う大学へ進学した。工芸高校に通っていた彼が総合大学へ進学したのは、芸術から離れるためだったという。その後、ふたりはお付き合いを始めた。
「大学生になって、遠慮がなくなったってことですよね」
芸術大学へ進まなかったから、真乃屋和雄の影響を受けないと感じたのだろうか。もし、芸術の道を進んでいても、真乃屋和雄の影響はいい方向へ働くような気はするのに。なにより、彼自身が有名画家たきざわ夕市の息子だ。むしろ、果歩さんとの交際は誰にも遠慮するものではない気がする。
なぜ、果歩さんとの交際を遠慮する必要があったのだろう。
「陽仁は画家を目指していたの。でも、私が陶芸をすすめたから……」
「陽仁さんは陶芸家を目指すように?」
果歩さんは小さく首を縦にふった。それはとても弱々しいうなずきだった。
「一枚の絵を描いたの、彼。とても素晴らしい絵画だったわ。大木にからまる蔦が太陽に向かって伸びる様は生命の息吹を感じて、その躍動感に心が踊った。だから、私が言ったの。立体にしたらもっとすごいものができるんじゃないかって」
「その絵画を陶芸作品に昇華しようとしたんですね」
どんな絵画だったのだろう。陽仁さんには無限ともいえる才能があるのだろうか。私がいくら欲しても手に入れられないほどの才能が。見てみたいと思うけれど、それはもうかなわないのかもしれない。
「陽仁は本格的に陶芸をやったことがなくて、私が父を紹介したの。父も、あの頃は今ほど有名ではなかったけれど、高い評価を受けていたから。自慢の父だった。陽仁も父の作品を見て、父を尊敬してくれた。私の知らないところでいろいろと相談していたみたい。陶芸にのめり込んでいったように、私には見えたわ」
「尊敬する人のお嬢さんとお付き合いするなんてできないって、陽仁さんは遠慮したんでしょうか」
「そうだと思ってるわ。だから、陶芸をやめたときに私と付き合えたの。……ううん、恨んでたからかしら。私を傷つけるために付き合ったのかもしれないわ」
「傷つけるって、そんなこと……」
何を言い出すのだろうと眉をひそめる。陽仁さんが恨みを持って誰かと付き合うなんて思えない。彼は誰にでも優しくて、人といさかいを起こすようなタイプには見えない。
「真乃屋和雄は最低な男なの」
果歩さんはきつめの口調できっぱりとそう言った。父ではなく、真乃屋和雄と名指ししたのはなぜだろう。
「真乃屋さんと陽仁さんの間に何かあったんですか?」
「あの人は盗んだの、陽仁の作品を。陽仁が一生懸命考えたデザインを、自分の作品として先に世に送り出してしまったの」
「え……」
ひやりと背中に冷たいものが流れた気がして、身をすくめた。果歩さんはじっとテーブルをにらむように見つめたまま、言う。
「陽仁はなんにも知らなかった。私も、知らなかったの。あの作品ができあがって、たきざわ夕市さんもすごく気に入って、美術館に飾ろうって提案してくださったの。でも、美術館に飾られたのはたった一日だったわ」
「一日?」
「そう。飾ったその日に、美術館へ問い合わせがあったらしいの。真乃屋和雄の作品とそっくりなものがあるけど、どういうことですかって」
「それって……」
脳裏にあの作品がちらついた。
「真乃屋和雄を知ってる望さんならご存知かしら。あの人を一躍有名にした、太陽の受け皿。あれは陽仁の作品よ」
「そんな……」
ゾッとするような感覚が全身を突き抜けていった。今はレプリカとして、美術館の片隅に飾られてる太陽の受け皿が、陽仁さんの作品だなんて。
「父はあの頃、スランプに陥ってたみたい。陽仁の才能に嫉妬して、盗んだの。そんなこと全然知らなかった。急に陽仁が美術館の運営に尽力したいから陶芸も絵もやめるって言い出して、大学受験の勉強に専念するようになって……私も、それほど気にとめてなかったの。たきざわ夕市さんを支える仕事もすばらしいものだと思ってたから」
「だから、恨みで付き合ったなんて思ってるんですか?」
「陽仁とは3年付き合ったの。その間に父のしたことを話す機会はたくさんあった。でも言ってくれなかった。父はたくさんの作品を発表してたから、私も全部は知らなくて、たまたまあの作品がテレビで紹介されてるのを見たの。太陽の受け皿を見たとき、すぐに気づいたわ。陽仁の作品だってことも、陽仁が急に陶芸をやめるって言い出した理由も」
「それで、別れ話に?」
「付き合っていられないじゃない。陽仁はだんまりで、私の怒りも悲しみも、全部受け止めてくれなかった。別れるしかなかったの」
だんだんと、彼女の口調は厳しくなっていく。
「あの作品、まだ美術館に置いてるのよ。レプリカだなんてプレートまでつけて。父を今でも憎んでるのよ。だから、嫌味ったらしく飾ってるの。でも、自業自得よね。私はずっと彼を苦しめてるなんて知らなかった。父はあの作品で陶芸家としての地位を確立したんだもの。何年経っても許せるわけないわよね」
「私にはわからないです」
そう言うしかなかった。途方にくれる私に気づいた果歩さんは、落ち着きを取り戻すようにハッと短く息を吐いて、表情をゆるめた。
「陽仁って、無愛想なところがあるでしょう?」
無愛想だろうか。そんな風に思ったことはないけれど。
「あ、でもっ」
思わず、そう口に出てしまった。
はじめてろまん亭で陽仁さんと会ったとき、やりとりが淡白で、多くを語らない素っ気ない人なんだろうと感じた。あの違和感を今さらながらに思い出す。
「心あたりがあるのね、望さんも。陽仁はね、心を閉ざしてるの。あたりまえよね。彼が大切にしていたものを、私と父は奪ったんだもの」
絵画に、陶芸。果歩さんへの恋心。そして、陶芸家真乃屋和雄への尊敬の念さえも、陽仁さんは失ってしまったのだ。
すべてを失って、すべてをあきらめてしまった彼は、ずっと心を閉ざしてしまってるんだろうか。あんなにいつも、優しくほほえんでるのに。
「今さら、私のお願いなんて聞いてくれないわよね」
「どんなお願いなんですか?」
「父のこと」
彼女は絶望感にあふれるため息をつく。彼女の父親はいま、大変な状況にある。
「真乃屋さんの具合、あんまり良くないんですか?」
「そうね。変わらないといったらいいのかしら。ずっと眠ってるみたい。最期まで私たちを苦しめる気かしら、父は」
「はやく良くなるといいですね」
私にはそれしか言えなかった。
「ほんとにそう。目覚めて、真実を話してくれないと困ったことになりそうなの。私ね、父は自殺だと思ってるの。でも、遺書はないし、警察は自殺する理由がないって捜査してる。陽仁がいいって言ってくれるなら、父の盗作の件を公表するつもりよ。父は盗作を苦に自殺をはかった。世間にそう言うの」
陽仁さんへのお願いは、盗作された事実を世間に公表することだったのだ。そんなことをしたらどうなるのだろう。真乃屋和雄だけでなく、果歩さんや陽仁さんだって……。穏やかな生活は壊されて、大きな混乱を招くのは想像にかたくない。
「ほんとうに、自殺をはかったんですか?」
「誰かに突き落とされたって言うの?」
「そういうつもりじゃなくて……」
気を害してしまった。果歩さんは気丈そうだけど、当然のように動揺してるのだろう。いくら父親にわだかまりを持っていても、やはり父親だから。私には持てない感情を理解するのは難しいけれど、その心境は複雑だろう。
肩をすぼめると、彼女は両手で目もとを覆い、後悔するように大きな息をついた。
「父は太陽の受け皿を発表して以降、よく体調を崩すようになったの。忙しいからだと思ってたけど、きっとずっと気に病んでたのよ。もう、あのことを隠して生きるのは限界だったの……」
「おばあちゃん、デパートに行ってくるね。お夕飯、何か買ってくるから作らなくて大丈夫だよ」
「おや、今日はあっちへ行かないのかい?」
キッチンに立つ祖母に声をかけると、ソファーで新聞を広げていた祖父がふしぎそうに顔をあげてそう言った。当然だろう。この1ヶ月あまり、ひまさえあれば、ろまん亭に入り浸っていたのだから。
「うん、ずっと欲しかったコート、思い切って買おうと思って」
「それはいい。じきに寒くなるから、買っておいで」
「夕方までに帰るね。じゃあ、行ってきます」
祖父母に見送られて玄関を出ると、駅まで歩いた。電車を乗り継いでデパートに行く休日は、ほんの少し前までは普通の日常だった。
デパートに到着すると、混み合うエスカレーターに乗って、お気に入りのショップへ向かった。最近は山あいにあるろまん亭で過ごしていたからか、今までは日常的だった都会の喧騒も、やけにうるさく感じた。
この1ヶ月で、思うより濃密な時間をろまん亭で過ごしてきたのかもしれない。弦さんのさんぽも、つづみさんの書道を眺めるのも、陽仁さんと一緒にランチを作るのも、ありふれたその時間が、とても貴重な時間だったのではないかと思うのだ。
雑誌で見たおめあてのコートを探していると、マネキンの奥からこちらの様子をうかがっているひとりの女性に気づいた。すぐに彼女が誰だかわかった。
「果歩さん」
「やっぱり、望さん?」
驚いていると、半信半疑だった彼女も確信を得て、笑顔で近づいてきた。
「まさかこんなところで会うと思ってなかったわ。近いの? ご自宅」
「まあ。果歩さんもお買い物ですか?」
「私もって、望さんはお買い物なの? てっきり陽仁に会いに来たのかと思ったわ」
陽仁さんに? どういう意味だろう。
面食らっていると、果歩さんはふしぎそうに首をかしげた。
「知らないの? たきざわ夕市展、ここの特別展示場であるのよ。彼、準備で来てるの。先週もこっちに来てたみたい。会いに行ったらこっちにいるって聞いたものだから、出直し。あなたも知らなかった?」
「はい、……全然」
先週は村井さんのお宅におじゃましたきりで、ろまん亭へは行ってない。陽仁さんからも連絡はなく、まだ彼と話す心がまえができてなくて、ちょうどいいぐらいに思っていた。彼も忙しくて、私をかまっていられなかったのだろう。
「陽仁って、肝心な話は全然してくれないの」
「そうですか」
そう言いながら、そうかもしれないなんて思っていると、果歩さんは気弱なため息をつく。
「陽仁、会ってくれないかもしれない」
「そんなことないと思いますけど」
安易に否定したからか、何を根拠に、って果歩さんはあきれ顔をする。
「私をさけてるの、彼。仕方ないことなんだけど」
「さけられるような理由って、なんですか?」
踏み込みたくないと思いながらも、尋ねていた。
ふたりが付き合っていたのは、もう何年も前のことだ。別れてからも、たびたび会っていた。今さらさけるなんて、最近何かあったとしか思えない。
「陽仁、父の話を嫌うの」
「どういう?」
ますます戸惑ってしまう。なぜ、お父さんの話が出てくるのだろう。
「私と陽仁が別れたのは、父のせいなの。私はなんにも知らなくて、腹が立って……」
以前も、そう言っていた。腹が立って、陽仁さんを怒ってしまったと。
ふたりの間に……ううん、三人の間に何があったのだろう。何年経っても、歩み寄れない何かを陽仁さんは抱えているのだろうか。
「陽仁さんは何かをあきらめたことがあるんですか?」
気づいたら、そう聞いていた。
なぜそんな簡単なことに気づかなかったのか。ろまん亭は夢敗れた者が集う場所と言われてるゆえんが、陽仁さんにあってもふしぎじゃない。いわゆる、彼が一番古い常連客だからだ。高校時代、陶芸をやっていた彼が、今はまったくやらなくなってしまった。村井さんも言っていたじゃないか。彼はあきらめていると。
彼はあきらめた、何かを。それは、恋か、陶芸か。それとも、両方か。その理由を、果歩さんは知っているのだ。
「あなたなら、陽仁を理解してあげられるのかしら」
「え……」
「なんとなくそう思うの。あなたが永朔さんに似てるからかしら。いるわよね。ただ話を聞いてくれるだけなのに、安心できる人って」
果歩さんは、店を出ましょうと言って、私を連れて近くのカフェに入った。拒むこともできたけど、私は黙ってついていった。
陽仁さんを知りたい。
その思いが心のどこかにあるからかもしれなかった。
「私ね、高校時代から彼が好きだったの。そのことに彼は気づいてたと思う。彼も私が好きだった。そういう気持ちって、わかったりするでしょう? でも、私が真乃屋和雄の娘だったから遠慮してた。今でもそう思うことがあるの」
果歩さんはそう、過去の恋を切り出した。
高校卒業後、果歩さんは芸術大学へ進学し、陽仁さんは経済学を学ぶため、彼女とは違う大学へ進学した。工芸高校に通っていた彼が総合大学へ進学したのは、芸術から離れるためだったという。その後、ふたりはお付き合いを始めた。
「大学生になって、遠慮がなくなったってことですよね」
芸術大学へ進まなかったから、真乃屋和雄の影響を受けないと感じたのだろうか。もし、芸術の道を進んでいても、真乃屋和雄の影響はいい方向へ働くような気はするのに。なにより、彼自身が有名画家たきざわ夕市の息子だ。むしろ、果歩さんとの交際は誰にも遠慮するものではない気がする。
なぜ、果歩さんとの交際を遠慮する必要があったのだろう。
「陽仁は画家を目指していたの。でも、私が陶芸をすすめたから……」
「陽仁さんは陶芸家を目指すように?」
果歩さんは小さく首を縦にふった。それはとても弱々しいうなずきだった。
「一枚の絵を描いたの、彼。とても素晴らしい絵画だったわ。大木にからまる蔦が太陽に向かって伸びる様は生命の息吹を感じて、その躍動感に心が踊った。だから、私が言ったの。立体にしたらもっとすごいものができるんじゃないかって」
「その絵画を陶芸作品に昇華しようとしたんですね」
どんな絵画だったのだろう。陽仁さんには無限ともいえる才能があるのだろうか。私がいくら欲しても手に入れられないほどの才能が。見てみたいと思うけれど、それはもうかなわないのかもしれない。
「陽仁は本格的に陶芸をやったことがなくて、私が父を紹介したの。父も、あの頃は今ほど有名ではなかったけれど、高い評価を受けていたから。自慢の父だった。陽仁も父の作品を見て、父を尊敬してくれた。私の知らないところでいろいろと相談していたみたい。陶芸にのめり込んでいったように、私には見えたわ」
「尊敬する人のお嬢さんとお付き合いするなんてできないって、陽仁さんは遠慮したんでしょうか」
「そうだと思ってるわ。だから、陶芸をやめたときに私と付き合えたの。……ううん、恨んでたからかしら。私を傷つけるために付き合ったのかもしれないわ」
「傷つけるって、そんなこと……」
何を言い出すのだろうと眉をひそめる。陽仁さんが恨みを持って誰かと付き合うなんて思えない。彼は誰にでも優しくて、人といさかいを起こすようなタイプには見えない。
「真乃屋和雄は最低な男なの」
果歩さんはきつめの口調できっぱりとそう言った。父ではなく、真乃屋和雄と名指ししたのはなぜだろう。
「真乃屋さんと陽仁さんの間に何かあったんですか?」
「あの人は盗んだの、陽仁の作品を。陽仁が一生懸命考えたデザインを、自分の作品として先に世に送り出してしまったの」
「え……」
ひやりと背中に冷たいものが流れた気がして、身をすくめた。果歩さんはじっとテーブルをにらむように見つめたまま、言う。
「陽仁はなんにも知らなかった。私も、知らなかったの。あの作品ができあがって、たきざわ夕市さんもすごく気に入って、美術館に飾ろうって提案してくださったの。でも、美術館に飾られたのはたった一日だったわ」
「一日?」
「そう。飾ったその日に、美術館へ問い合わせがあったらしいの。真乃屋和雄の作品とそっくりなものがあるけど、どういうことですかって」
「それって……」
脳裏にあの作品がちらついた。
「真乃屋和雄を知ってる望さんならご存知かしら。あの人を一躍有名にした、太陽の受け皿。あれは陽仁の作品よ」
「そんな……」
ゾッとするような感覚が全身を突き抜けていった。今はレプリカとして、美術館の片隅に飾られてる太陽の受け皿が、陽仁さんの作品だなんて。
「父はあの頃、スランプに陥ってたみたい。陽仁の才能に嫉妬して、盗んだの。そんなこと全然知らなかった。急に陽仁が美術館の運営に尽力したいから陶芸も絵もやめるって言い出して、大学受験の勉強に専念するようになって……私も、それほど気にとめてなかったの。たきざわ夕市さんを支える仕事もすばらしいものだと思ってたから」
「だから、恨みで付き合ったなんて思ってるんですか?」
「陽仁とは3年付き合ったの。その間に父のしたことを話す機会はたくさんあった。でも言ってくれなかった。父はたくさんの作品を発表してたから、私も全部は知らなくて、たまたまあの作品がテレビで紹介されてるのを見たの。太陽の受け皿を見たとき、すぐに気づいたわ。陽仁の作品だってことも、陽仁が急に陶芸をやめるって言い出した理由も」
「それで、別れ話に?」
「付き合っていられないじゃない。陽仁はだんまりで、私の怒りも悲しみも、全部受け止めてくれなかった。別れるしかなかったの」
だんだんと、彼女の口調は厳しくなっていく。
「あの作品、まだ美術館に置いてるのよ。レプリカだなんてプレートまでつけて。父を今でも憎んでるのよ。だから、嫌味ったらしく飾ってるの。でも、自業自得よね。私はずっと彼を苦しめてるなんて知らなかった。父はあの作品で陶芸家としての地位を確立したんだもの。何年経っても許せるわけないわよね」
「私にはわからないです」
そう言うしかなかった。途方にくれる私に気づいた果歩さんは、落ち着きを取り戻すようにハッと短く息を吐いて、表情をゆるめた。
「陽仁って、無愛想なところがあるでしょう?」
無愛想だろうか。そんな風に思ったことはないけれど。
「あ、でもっ」
思わず、そう口に出てしまった。
はじめてろまん亭で陽仁さんと会ったとき、やりとりが淡白で、多くを語らない素っ気ない人なんだろうと感じた。あの違和感を今さらながらに思い出す。
「心あたりがあるのね、望さんも。陽仁はね、心を閉ざしてるの。あたりまえよね。彼が大切にしていたものを、私と父は奪ったんだもの」
絵画に、陶芸。果歩さんへの恋心。そして、陶芸家真乃屋和雄への尊敬の念さえも、陽仁さんは失ってしまったのだ。
すべてを失って、すべてをあきらめてしまった彼は、ずっと心を閉ざしてしまってるんだろうか。あんなにいつも、優しくほほえんでるのに。
「今さら、私のお願いなんて聞いてくれないわよね」
「どんなお願いなんですか?」
「父のこと」
彼女は絶望感にあふれるため息をつく。彼女の父親はいま、大変な状況にある。
「真乃屋さんの具合、あんまり良くないんですか?」
「そうね。変わらないといったらいいのかしら。ずっと眠ってるみたい。最期まで私たちを苦しめる気かしら、父は」
「はやく良くなるといいですね」
私にはそれしか言えなかった。
「ほんとにそう。目覚めて、真実を話してくれないと困ったことになりそうなの。私ね、父は自殺だと思ってるの。でも、遺書はないし、警察は自殺する理由がないって捜査してる。陽仁がいいって言ってくれるなら、父の盗作の件を公表するつもりよ。父は盗作を苦に自殺をはかった。世間にそう言うの」
陽仁さんへのお願いは、盗作された事実を世間に公表することだったのだ。そんなことをしたらどうなるのだろう。真乃屋和雄だけでなく、果歩さんや陽仁さんだって……。穏やかな生活は壊されて、大きな混乱を招くのは想像にかたくない。
「ほんとうに、自殺をはかったんですか?」
「誰かに突き落とされたって言うの?」
「そういうつもりじゃなくて……」
気を害してしまった。果歩さんは気丈そうだけど、当然のように動揺してるのだろう。いくら父親にわだかまりを持っていても、やはり父親だから。私には持てない感情を理解するのは難しいけれど、その心境は複雑だろう。
肩をすぼめると、彼女は両手で目もとを覆い、後悔するように大きな息をついた。
「父は太陽の受け皿を発表して以降、よく体調を崩すようになったの。忙しいからだと思ってたけど、きっとずっと気に病んでたのよ。もう、あのことを隠して生きるのは限界だったの……」
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