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名を刻む儀式

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「お姉ちゃん、気がついた?」
「……霧子?」

 水の入ったグラスをお盆に乗せた霧子が、部屋の中へ入ってくる。ホワイトのニット、ブラウンのプリーツスカートに身を包む霧子の姿は、普段通りの部屋着だ。

 すぐに置かれた状況が飲み込めず、辺りを見回す。ベッドサイドの目覚まし時計も、勉強机の上の参考書も、毎日使う私のものだ。
 私はどうやら、私の部屋にいるらしい。しかし、夕日の差し込む窓辺にあるハンガーに制服はかけられていない。

 毛布から出した腕を眺めれば、私はまだ制服を着たままだと気づく。
 どうしたのだろう、私は。思い出そうとすると、頭がずきりと痛む。思わず、こめかみに手を当てると、霧子が慌ててベッドへ駆け寄ってきて、体を起こそうとする私の肩を押さえた。

「お姉ちゃん、横になってないと。学校で急に具合が悪くなったんでしょう?」
「え……、学校?」
「それも覚えてないの? ちょっと変わった人と帰ってきたからびっくりしたんだから」
「変わった人って……?」
「男の人なのに長髪で、やけに丁寧な人。高級車から二人で降りてきた時はびっくりしたよ」

 そう聞いてすぐに思い浮かぶのは、一真のことだ。私はどうやら一真と、一目で高級とわかる車に乗って一緒に帰ってきたらしい。

「そう……、全然覚えてないの」
「もうろうとしてたから仕方ないかもしれないけど……。安哉くんに心配かけるようなことしたら駄目だよ」

 霧子は私を気遣いながらも、わずかに責める目をする。安哉くんの婚約者の自覚がないと言われているようだ。

「……安哉くんは休みだったの。だから……」

 両手に顔をうずめて息をつく。次第に記憶が戻ってくる。
 今日、安哉くんは学校を休んだ。彩斗美も帰ってしまったから、学級委員の仕事は一人でこなした。やっと帰れると思ったら、白夜くんに家に来るように誘われた。

 白夜くんの部屋で一人、彼が来るのを待つ間は奇妙な気持ちだった。『白夜』という名を持つ彼と関わることに不安もあった。だけど、彼と過ごす時間を思い浮かべて、どこか浮かれる自分がいた。

 彼は部屋に入ってくるなり、紅茶を淹れてくれると言った。私は素直に好奇心と幸福感に包まれ、彼の淹れてくれる紅茶を楽しみにしていたはずなのに、その後の記憶はない。
 ここまで一真が送ってくれたようだけど、車から見えた光景、玄関から飛び出してきた霧子……、断片的にしか記憶は戻らない。
 一真と何か話をしたような気もする。だけど、はっきりとは思い出せない。彼のことだ。きっと白夜くんが私を家まで送らないことを謝罪していたような……、そんな程度のことだっただろう。

 上体を起こし、霧子の差し出すグラスを受け取る。水を口に含むと、安堵で肩から力が抜ける。私の落ち着いていく様子を目にした霧子が尋ねてくる。

「あの人とどういう関係なの?」

 猜疑心をはらんだ目をするのは、やはり安哉くんの婚約者である私の軽率さを心配するためだろう。白夜くんの家にアルバイトに行くと話した時、霧子は呆れてものも言えないようだった。

「彼は夜桜一真さんって言うの。アルバイトでは彼と話をしてるの。アルバイト代を頂けるようなことなんて何もしてないんだけど」
「そんなあやしいアルバイトやめたら? お姉ちゃんのことだから、安哉くんにはああいう人とお付き合いしてるなんて言ってないんでしょう?」
「アルバイトのことは話してないわ。話してないのは、あちらにも事情があるからで。それに同級生だから、安哉くんの知らない人ってわけでもないの」
「知ってる人でもやめた方がいいよ。もっと安哉くんのこと考えてあげなきゃ」
「考えてるわ……」
「うそ。考えてたら、安哉くん以外の男の人と過ごすなんて出来ないと思う。それともお姉ちゃんは、その夜桜一真って人が好きなの?」

 安哉くんのことは考えている。話し合うことが出来ないだけだ。私と安哉くんの目指す未来が違うから。それと白夜くんのことは別だと思ってる。それでも霧子の目にはそう映らないのだろう。

「……そういうのではないの。彼も困ってるから力になれるならって思うだけで。安哉くんとの結婚とは違う話だわ」
「あの人の困り事はお姉ちゃんしか解決できないの? 安哉くんにはお姉ちゃんしかいないのに。私、知ってる。安哉くんがどれだけお姉ちゃんのこと好きか。そんなの昔から見てるから、わかってる」

 いつも落ち着いている霧子にしては珍しく、声を荒らげるように話す。それだけ私と安哉くんの心配をしてくれているのだろう。だけど、霧子にはわからないのだとも思う。定められた結婚相手に好意を寄せなければならないという思い。その思いが、私の負担になってるなんて、考えもしないのだろう。

「霧子が言うほど、お互いを大切に思ってるわけじゃないと思うの。婚約者だから一緒にいなきゃいけないって思ってることはあると思うし。安哉くんの幸せは私と結婚することだけじゃないと思うわ」
「安哉くんがそう言ったの?」
「言わないわ。結婚したいって、そればっかり。まるで周りが見えてないみたい」
「……それはお姉ちゃんも同じじゃない。結婚したくないって、安哉くんを困らせてるだけ」

 霧子は悲しげに眉を寄せる。どうしてわからないの?と、顔に書いてあるみたいだ。

「結婚したくないなんて言ってないわ。結婚するタイミングは今じゃないって言ってるの」
「安哉くんは……、不安だと思う。お姉ちゃんがいつか別の人に恋して、離れていくんじゃないかって心配してると思う。お姉ちゃんは逆のことが起きても安哉くんが幸せを見つけたんだって平気かもしれないけど、安哉くんが同じ気持ちになるとは限らないでしょう?」
「結婚は一番幸せになれる相手とするの。私はまだその相手が安哉くんなのかどうか悩んでる……」

 どうしたら納得する答えが出るのかもわからない。

「あんなに優しい人、他にいないよ」
「……そうね。きっとそう……」
「でも、お姉ちゃんは違うって思ってるんだね。心のどこかで、この人じゃないって思ってるんだね。きっと安哉くんはそれに気づいて苦しんでるよ。私だったら安哉くんを不安にさせないのに……」
「霧子……」
「最近のお姉ちゃん、本当にどうかしてる。安哉くんとの婚約は解消なんて出来ないんだから、余計なこと考えない方がいいよ」

 霧子は苦しげに息をつくと、逃げ出すように部屋を出ていった。
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