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名を刻む儀式
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「……そんな、理由?」
私は呆然と安哉くんを見上げる。
笑い者になるのが嫌だから、私の気持ちを無視して結婚したいなんて言ったのかと、私の中に失望が生まれる。
彼は苦々しい表情で私を見下ろし、苦しげに息をつく。
「本音だよ……。でも、美鈴が好きな気持ちも本当だよ。傷付けたくはないけど、美鈴の気持ちが揺れてるなら、傷つけるようなこともする」
「安哉くん……?」
私は思わず身を引いた。しかし、すぐさま離さまいとして安哉くんの腕が私を拘束する。顔が近づく。あっ……と、声を上げる余裕も与えられない。抗えない腕の力と真剣な眼差しに、私の体は打ち震える。
怖い。……いやだ。
細い女の声がどこからか聞こえる。そして、その声はそのまま私の心の叫びと重なっていく。
「……いっ」
いや、と安哉くんを突き放そうとした。しかし、あまりに強い力に抵抗はできなかった。
「美鈴……」と、私の名を優しく呼び、愛おしげに顔を近づけてくる安哉くんに、私の恐怖心は伝わらない。ぎゅっと目を閉じる。
安哉くんとはいつか結婚するのだ。こういうことだって当たり前のように受け入れる日がいつかは来る。彼を拒むなんてこと、私は許されない立場にある。
絶望に似た気持ちが胸に広がり始めると、抵抗する力さえ抜けていく。
「美鈴……」
崩れ落ちそうになる体を彼がそっと抱きとめる。そのまま私の唇に生温かい息が落ちてくる。
ゆっくりと目を閉じた。目尻から涙がすーっと流れ落ちるのを感じた。
「おや、取り込み中でしたか」
不意に視聴覚室の中へと響く、静かだけれど力強い青年の声。
「いけませんねー。たとえ婚約者という間柄でも、無理強いはいけません」
安哉くんはハッとして私を解放する。バツの悪い表情で、私を後ろ手に隠すように青年に対峙する。
開いたままのドアの奥で薄く笑うのは、一真だ。
一気に現実に引き戻された私の体はほてり出す。一真に見られていた。羞恥が私を落ち着かせなくする。と、同時に安堵感が胸に広がり、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「今は何も言わずに帰られたらどうです? 過ちを反省する時間は十分にありますよ。謝罪はそれからでも遅くはありませんでしょう」
一真に諭され、私を振り返る安哉くんの目には、十分すぎるほどの反省の色が浮かぶ。
「美鈴……」
安哉くんは私の涙を拭おうと指を伸ばす。私が拒むように後ろに下がるから、首を横に振り、悲しみに満ちた目を伏せる。
「ごめん、……帰るよ」
一真が道を開くと、安哉くんは肩を落としたまま視聴覚室を出ていく。すると、すぐさま一真が廊下の方へ首をひねらせて言う。
「白夜様、何をしているのです。白夜様が今するべきことは貼り紙の交換ではありませんよ」
一真に叱咤され、彼の後ろから気分を害した様子で白夜くんは姿を見せる。そして、無言で私に近づき、綺麗に折りたたまれたハンカチを差し出す。
丁寧な折り目や柔らかそうな生地から、育ちの良さを感じるハンカチだ。こんな時でもそんなことを考える余裕が私にはあるよう。
「泣くな。好きな女に多少手荒な真似をしてでも、心を奪いたいと魔がさす時は誰にでもある」
「は……」
「よくあることだ。そう言ってるつもりだ」
無表情で白夜くんはそう言う。それでもなぐさめているつもりなのだろうか。ぽかんとしてしまう。
「……何よ。……怖かったの。怖かったのに、そんな言い方あんまりだわ」
「婚約というのはそういうものだ。婚約者に何をされても文句は言えない。嫌だったら、すぐに婚約破棄するんだな。曖昧な態度を取る美鈴にも落ち度はある」
容赦ない白夜くんに私の気持ちは沈む。
「……白夜くんに優しさはないの?」
「来週から視聴覚室には鍵をかけることになった。今日のようなことはもうここでは起こらない。後は自分で気をつけるんだな。俺にはそれしか言えない」
「わかったわ……。自分の身は自分で守らないといけないのね」
「当たり前だ。いくら俺でも、いつもすぐに守ってやれる距離にいるわけじゃない。ただ……、出来る限り守ってやる心づもりはある」
「……え」
「行くぞ、一真。今日は気分が悪い。さっさと貼り紙して、ついて来い」
白夜くんはハンカチとは別の手に持っていた貼り紙を一真に押しつけると、視聴覚室を出る。そして、戸惑ったまま動けない私を振り返る。
「美鈴も来い。一人にして帰るわけないだろう。それぐらい理解しろ」
「あっ、待って、白夜くんっ」
私はすぐにハンカチで涙をぬぐうと、ツンっと顔を背ける彼の背中を慌てて追いかけた。
私は呆然と安哉くんを見上げる。
笑い者になるのが嫌だから、私の気持ちを無視して結婚したいなんて言ったのかと、私の中に失望が生まれる。
彼は苦々しい表情で私を見下ろし、苦しげに息をつく。
「本音だよ……。でも、美鈴が好きな気持ちも本当だよ。傷付けたくはないけど、美鈴の気持ちが揺れてるなら、傷つけるようなこともする」
「安哉くん……?」
私は思わず身を引いた。しかし、すぐさま離さまいとして安哉くんの腕が私を拘束する。顔が近づく。あっ……と、声を上げる余裕も与えられない。抗えない腕の力と真剣な眼差しに、私の体は打ち震える。
怖い。……いやだ。
細い女の声がどこからか聞こえる。そして、その声はそのまま私の心の叫びと重なっていく。
「……いっ」
いや、と安哉くんを突き放そうとした。しかし、あまりに強い力に抵抗はできなかった。
「美鈴……」と、私の名を優しく呼び、愛おしげに顔を近づけてくる安哉くんに、私の恐怖心は伝わらない。ぎゅっと目を閉じる。
安哉くんとはいつか結婚するのだ。こういうことだって当たり前のように受け入れる日がいつかは来る。彼を拒むなんてこと、私は許されない立場にある。
絶望に似た気持ちが胸に広がり始めると、抵抗する力さえ抜けていく。
「美鈴……」
崩れ落ちそうになる体を彼がそっと抱きとめる。そのまま私の唇に生温かい息が落ちてくる。
ゆっくりと目を閉じた。目尻から涙がすーっと流れ落ちるのを感じた。
「おや、取り込み中でしたか」
不意に視聴覚室の中へと響く、静かだけれど力強い青年の声。
「いけませんねー。たとえ婚約者という間柄でも、無理強いはいけません」
安哉くんはハッとして私を解放する。バツの悪い表情で、私を後ろ手に隠すように青年に対峙する。
開いたままのドアの奥で薄く笑うのは、一真だ。
一気に現実に引き戻された私の体はほてり出す。一真に見られていた。羞恥が私を落ち着かせなくする。と、同時に安堵感が胸に広がり、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「今は何も言わずに帰られたらどうです? 過ちを反省する時間は十分にありますよ。謝罪はそれからでも遅くはありませんでしょう」
一真に諭され、私を振り返る安哉くんの目には、十分すぎるほどの反省の色が浮かぶ。
「美鈴……」
安哉くんは私の涙を拭おうと指を伸ばす。私が拒むように後ろに下がるから、首を横に振り、悲しみに満ちた目を伏せる。
「ごめん、……帰るよ」
一真が道を開くと、安哉くんは肩を落としたまま視聴覚室を出ていく。すると、すぐさま一真が廊下の方へ首をひねらせて言う。
「白夜様、何をしているのです。白夜様が今するべきことは貼り紙の交換ではありませんよ」
一真に叱咤され、彼の後ろから気分を害した様子で白夜くんは姿を見せる。そして、無言で私に近づき、綺麗に折りたたまれたハンカチを差し出す。
丁寧な折り目や柔らかそうな生地から、育ちの良さを感じるハンカチだ。こんな時でもそんなことを考える余裕が私にはあるよう。
「泣くな。好きな女に多少手荒な真似をしてでも、心を奪いたいと魔がさす時は誰にでもある」
「は……」
「よくあることだ。そう言ってるつもりだ」
無表情で白夜くんはそう言う。それでもなぐさめているつもりなのだろうか。ぽかんとしてしまう。
「……何よ。……怖かったの。怖かったのに、そんな言い方あんまりだわ」
「婚約というのはそういうものだ。婚約者に何をされても文句は言えない。嫌だったら、すぐに婚約破棄するんだな。曖昧な態度を取る美鈴にも落ち度はある」
容赦ない白夜くんに私の気持ちは沈む。
「……白夜くんに優しさはないの?」
「来週から視聴覚室には鍵をかけることになった。今日のようなことはもうここでは起こらない。後は自分で気をつけるんだな。俺にはそれしか言えない」
「わかったわ……。自分の身は自分で守らないといけないのね」
「当たり前だ。いくら俺でも、いつもすぐに守ってやれる距離にいるわけじゃない。ただ……、出来る限り守ってやる心づもりはある」
「……え」
「行くぞ、一真。今日は気分が悪い。さっさと貼り紙して、ついて来い」
白夜くんはハンカチとは別の手に持っていた貼り紙を一真に押しつけると、視聴覚室を出る。そして、戸惑ったまま動けない私を振り返る。
「美鈴も来い。一人にして帰るわけないだろう。それぐらい理解しろ」
「あっ、待って、白夜くんっ」
私はすぐにハンカチで涙をぬぐうと、ツンっと顔を背ける彼の背中を慌てて追いかけた。
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