この愛だけは嘘をつけない

つづき綴

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 ユーフォリアのカウンターに櫂の横顔を見つけると、安堵で肩の力が抜けた。一週間前から毎日顔を出していたのに一度も会えず、気になっていた。

 村岸櫂が離婚したらしい。

 一週間前から、社内でそのうわさは絶えなかったのだ。

「大丈夫ですか?」

 足早に駆け寄り、隣へ座ろうとすると、急に立ち上がった彼に腕をつかまれた。

「係長……?」
「だから、その呼び方はやめてくれないか」

 不服そうに櫂はそう言って、マスターに「奥の席いい?」と尋ねるなり、いいも悪いもなく私をソファー席に押し込めた。

「悪い。疲れてる」

 離婚は結婚の3倍パワーを使うと聞くけれど、実際のところは3倍どころじゃないのだろう。

 彼は無造作に座ると、まるで子どもみたいに背中を丸めて私の肩にもたれかかってきた。仕方ないから、そっと背中に腕を回すと、調子に乗って胸に頭を寄せてくる。

「係長、ちょっと……」
「泉美に会いたかったよ。どうも、泉美の顔を見るだけでうれしくなる。きっとすごく好きなんだ、君が」

 私の手を握り、胸にほおを寄せてくると、彼は目を閉じた。

「もうちょっとこうしてたい」
「……今夜だけですよ」

 すぐにでも寝息が聞こえてきそうなほど、穏やかな表情の彼の髪をそっとなでる。

 妙な気分だ。少し前まで、あこがれの人でしかなかったのに。

 マスターがおすすめのカクテルを運んでくれる。レモン色に染まるグラスと、ターコイズブルーに満たされたカクテルグラスの対比が美しい。

 補色の関係にある黄と青は、違う人生を歩む私たちのように、正反対に存在しているのに、こうして隣り合わせになると、もう離れようのない色彩美を生み出すからふしぎだ。

 櫂は私が好きだという。今夜はもう、素直になってもいいかもしれない。

「櫂、さん? 寝ちゃいました?」

 係長ではなく、名前で呼ぶと、櫂は上目遣いで見上げてきた。

 間近で見る、鮮やかに美しい男にどきりとした。照れ隠しに、思わず、顔を背けてしまうと、彼は何を勘違いしたのか、身体を起こして私の肩を抱き寄せる。

「妻とは離婚したよ。義父にこってりしぼられた。まあ、娘に非があるとわかってくれたようで、仕事に支障はない」
「そうですか。……よかった、ですね?」
「そうだな。よかったんだろう」

 安堵の笑顔を見れば、私もほっとする。

「奥さん……、千里さんは?」
「さあね。松川とどうするかまでは知らないよ。なつみは松川とは別れるって言ったらしいけどな」
「大変でしたね」
「ほんとだよ。千里と結婚したときは、こんなことになるなんて思ってもなかった」
「愛してたんですね」

 そう言うと、悲しい顔するな、と彼は私の手を握る。

「まあ、義父が決めたこととはいえ、結婚当初はそうだったんだろう。少なくとも、俺はね。彼女は違ったのかもしれないな。急に松川とビジネスを始めるって言い出したのは、やつが忘れられなかったからなんだろう。忙しい忙しいって家のことはやらなくなって、だんだん帰ってこなくなったよ。もう半年以上前から別居してた。離婚したいって何度も言ったんだけどな、義父は許さないの一点張りだった」
「それで、千里さんは別れる理由をつくるために櫂さんを?」
「ああ、はめようとした。自分は悪くないと正当化するためにね。なつみを使って、俺を悪者にして離婚したかったんだろう」
「どうしても、松川さんと結婚したかったんですね」
「あんな男でも、千里の前ではいいやつだったのかもしれないが、ばかな女だよ」

 櫂は苦々しく笑う。彼がどういう形であれ、千里さんのことを思うとき、私の胸はチリチリと嫉妬で焦げる。

「どうして私を巻き込んだんですか? 櫂さんひとりで解決できることでしたよね」
「言っただろう。泉美に誤解されたくなかった。それに……」
「それに?」
「たまたまだ」
「たまたまっ?」

 声を荒らげると、彼は愉快そうに眉をさげる。

「そう、偶然の重なりだよ。あの日、エレベーターで会ったよな。ようやく、泉美と話すチャンスが巡ってきたと浮かれたよ」

 そして、なつみが櫂に近づくためにこのバーへ来たのも、たまたまだったというのだろう。

「いつから、このバーに? 私、もう3年ぐらい通ってますけど、櫂さんには全然気づかなくて」
「俺は半年ぐらいかな。泉美はいつもカウンターにいるから、よく目立つんだ。美人でかわいい子だと思ってた。会えるだけで胸が高鳴るというのかな。いつか口説きたいと思ってた」
「それは、うそ」

 すぐさま否定するが、櫂は楽しそうに目を細める。

「うそじゃないさ。泉美はいつも一杯のんで、さっさと帰るからね。口説くひまもないんだ、あれでは」
「結婚してるのに、口説くとか……」
「泉美との不倫がバレて離婚できるなら、それでもいいと思ってたよ」
「私は不倫しませんから」
「わかってるよ。で、俺ははれて独身になったんだが、付き合ってくれる?」
「どうして急にそんな話に……」
「それは俺のセリフだ。どうして急だなんて思う? 本気ならいいか? って前から言ってる」

 今の彼の言葉には真実が詰まってるだろう。

 千里は自分の気持ちに嘘をつきながら、結婚した。その結果、彼女がどうなったのか、私たちは目の前で見てきた。

 だからこそ、私たちはこの愛にだけは嘘をつかない。

「……いいに決まってます。だって、櫂さんのこと、前から好きだったんですから」
「知ってる」

 ふと優しい目をして、櫂が顔を近づけてくる。緊張する私のほおに触れながら、そっと唇を重ねてくる。ため息が出た。すごく優しい。

「櫂……」
「今すぐ全部脱がせてめちゃくちゃにしたいんだが?」

 物足りなさそうに、指で唇に触れて、ブラウスのボタンをつまむ。

「……今すぐは無理です」
「これから俺の部屋に来る?」
「櫂さんち?」
「引っ越したばかりで片付いてないが、抱けるスペースはある」
「行ってもいいんですか?」
「めちゃくちゃにされてもいい覚悟があるなら」
「優しくされたい覚悟ならあります」
「その覚悟、忘れるな」

 櫂はにやりと笑う。

 私たちは出会う時を間違えた。もしかしたら、もっとはやくこういう関係になれていたかもしれない。それでも、今だからこそ、私たちは惹かれ合えてるのかもしれない。

 どこか、はやる気持ちを抱えた私たちは、ほんの少しの時間も惜しむようにバーを飛び出した。




【完】
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