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愛は忍耐編-2
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その日の昼過ぎ、藍沢がやってきた。
アポなしだった。
「クッキー焼いんですけど、どうですか?」
客間のテーブルに皿にもりつけたクッキーを置いた。星形や菱形、チューリップやハート形などいろいろの形の型抜きクッキーだ。
温かい紅茶の匂いが微かに広がり、刑事と一緒にいるこの状況を一瞬忘れてしまいそうになった。あまりにも平和で間が抜けている雰囲気で。
無表情の藍沢も一瞬頬を緩めていた。もっともその目は鋭く、相変わらず友好的とは言えなかったが。
「ごめんなさいね、旦那は、今仕事がどうしても抜け出せないようなのよ」
夫はもしかしたら小説が書けるかもしれないと離れにこもってしまった。ここ数日の事だがこの状況で文花が声をかけるのも嫌がっている。いくら警察が来たからと言って離れから出すつもりは無い。
「いえ、旦那さんはいいんですけどねけぇ。奥さんに話があるんですよ」
「私?」
どうせろくでもない話だと予想する。近所でも自分の評判は最悪だろう。文花がミイを殺したという近所の憶測まみれの噂は刑事の耳にも当然届いている筈だ。
「クッキー食べちゃって下さいよ。毒なんて入ってませんよ。夫も今朝食べてましたから」
藍沢はゆっくりと星形のクッキーをつまみ、口に入れて咀嚼した。全く表情は変わらない。夫が食べたと言って口にしたという事は、少しは毒入りクッキーだと疑っていたという事だろうか。
「まあ、美味しいですね」
全く表情を変えずにいうので、本心なのかお世辞なのか判断に困る。ただ鋭い目の中年男性が星形のクッキーを咀嚼している姿は、ミスマッチで笑いを誘う。笑いを堪える為に奥歯を噛み締めた。今日は何の用なのかと改めて聞いた。
「奥さんに送っていた脅迫状の犯人がわかりましたよ」
「そう。どうせ浅山ミイの仕業でしょ」
今度は文花が全く表情を変えずに落ち着き払って言った。ここでようやく藍沢は眉をぴくりと動かして、文花の目を見つめた。嘘をついていないか見極めているのだろうと文花は考えた。ただこれは嘘ではなく、脅迫状の犯人など見当がついていたからだ。
「常盤さんにも話てたんですけどね。実際出版社に脅迫状が送られて来てるわけですから」
「そう。彼からは何も聞いて無いわ」
常盤は何故その事を黙っていたのだろう。彼の性格を考えると真っ先に報告して来そうなものだが。
「ミイの自宅から日記と青酸カリが見つかりましてね。あなたを殺そうとしていた見たいです」
藍沢はカバンから日記らしきノートを取り出して見せた。
常盤がその事を言わない理由がわかった。怖がらせたくなかったにだろう。だが、実際文花はさほど怖いとは感じなかった。事前にミイが秋子にした嫌がらせも知っていたし、彼女の性格からして予想の範囲だ。ミイについて調べなければ無闇に怖がったかもしれないが、調べてしまえば余裕も持てた。
「ぜいぶんと落ち着いてますね。まるでこうなる事を知っていたみたいだ」
「ミイの過去の人間関係をネットを使って調べてみたんです。あの女、昔も似たような事やってたみたい。このノート読んでもいいですか?」
「あまり気分の良いものじゃないですけどね」
少しためらう藍沢からノートを受け取りパラパラとめくる。文花のその様子を藍沢は観察するかの様にじっと見ていた。
いかに自分が不幸な結婚をしたか、仕事の事情で離婚もできないという愚痴がポエム調に綴られていた。そこだけ読めばミイが可哀想な被害者かのようである。しかし次第に現在の不倫相手の妻、文花について見当違いの怒りを滲ませてくる。
仕事も似たようなカウンセラーが大勢いて競争は激しく、炎上でもしないと目立てない。何故か上手くいかない仕事についても文花のような専業主婦のせいだと一方的に書かれていた。
はっきり言って被害妄想だが、ミイの頭の中ではそうなのだろう。確かにあまり気分の良いものではない。逆恨みは次第に強くなっていきはっきりと殺意まで書かれている。
ミイは記憶障害かもしれないと文花は思った。地元では自殺に追い込むまでいじめをし、アパレルメーカーに勤めた時は不倫中では奥さんに嫌がらせをし、婚活カウンセラーになった時には自分が加害者だった事をすっかり忘れて棚にあげ、見当違いに怒りを募らせているなんて。過去の行いを考えれば、自分は幸せになれない原因などすぐにわかりそうなのに。
文花や旦那のせいにして悲劇のヒロインを気取っているだけで、自分の態度や過去は全く顧みていない。
「気持ち悪いですねぇ。このノート」
文花はゴキブリでも見るかのような顔でノートを藍沢に突っ返した。
なぜか藍沢は口の端を上げて笑っていた。そしてハート型のクッキーを一枚つまみ口に放り投げると、ボリボリと咀嚼した。
「なかなか酷い女ですねぇ。殺されて当然って思いました?」
「ええ。自業自得ね。ミイを恨んでる人は多いでしょうね。私のあの女が死んで嬉しかったわぁ」
しかしその喜びは一瞬。長くは続かなかった。愛人が死んだところで、夫の気持ちが文花に戻ってくる事はないのだ。ほんの少しだけ夫の時間が得られただけで、大きなリターンはない。自分だったらこんな僅かなリターンだけでは殺さない。突発的なのかもしれない。犯人の心情や動機がわからなかった。
「ぜいぶんと悲しい顔されてましたねぇ」
文花にその自覚は全くなかった。しかし藍沢の目はやけに鋭い。
「そうですか? しかし勝手な女ね。結婚したら幸せになる事なんて権利じゃないのよ。義務なのよ?相手の為に」
「私は結婚した事ないからわかりません」
「結婚して不幸になるなら、結婚なんてしなければいいのよ」
「そういう奥さんは幸せなんですかねぇ?」
藍沢はクッキーには手をつけず、紅茶を一口飲んだ。さすがに甘いクッキーをつまんで口の中が甘ったるくなっているのだろう。
「ええ。幸せよ。私はあの人と結婚して一度も不幸に思った事は無いわ」
それは強がりではなく本心だった。何度も不倫されても、芸の肥やしだと理解不能の事を言われても、不思議と自分が不幸だとは思っていない。夫を選んで結婚し、今まで意地でも離婚をしないのも文花の自分で決めた意思だった。執着なのか愛なのかわからなくても、愛だと信じたかった。
「理解できません」
「そうですか? もう私は夫が生きていてくれてだけで良いのかも」
「はは、愛は忍耐ですな。確か聖書にもそんな言葉が書いてあったと思います」
藍沢は再び笑って、ハート形のクッキーを口に放り込んだ。
「うまいですよ。クッキーは」
表情を変えずに言う。結局それはお世辞か本心かわからない。
アポなしだった。
「クッキー焼いんですけど、どうですか?」
客間のテーブルに皿にもりつけたクッキーを置いた。星形や菱形、チューリップやハート形などいろいろの形の型抜きクッキーだ。
温かい紅茶の匂いが微かに広がり、刑事と一緒にいるこの状況を一瞬忘れてしまいそうになった。あまりにも平和で間が抜けている雰囲気で。
無表情の藍沢も一瞬頬を緩めていた。もっともその目は鋭く、相変わらず友好的とは言えなかったが。
「ごめんなさいね、旦那は、今仕事がどうしても抜け出せないようなのよ」
夫はもしかしたら小説が書けるかもしれないと離れにこもってしまった。ここ数日の事だがこの状況で文花が声をかけるのも嫌がっている。いくら警察が来たからと言って離れから出すつもりは無い。
「いえ、旦那さんはいいんですけどねけぇ。奥さんに話があるんですよ」
「私?」
どうせろくでもない話だと予想する。近所でも自分の評判は最悪だろう。文花がミイを殺したという近所の憶測まみれの噂は刑事の耳にも当然届いている筈だ。
「クッキー食べちゃって下さいよ。毒なんて入ってませんよ。夫も今朝食べてましたから」
藍沢はゆっくりと星形のクッキーをつまみ、口に入れて咀嚼した。全く表情は変わらない。夫が食べたと言って口にしたという事は、少しは毒入りクッキーだと疑っていたという事だろうか。
「まあ、美味しいですね」
全く表情を変えずにいうので、本心なのかお世辞なのか判断に困る。ただ鋭い目の中年男性が星形のクッキーを咀嚼している姿は、ミスマッチで笑いを誘う。笑いを堪える為に奥歯を噛み締めた。今日は何の用なのかと改めて聞いた。
「奥さんに送っていた脅迫状の犯人がわかりましたよ」
「そう。どうせ浅山ミイの仕業でしょ」
今度は文花が全く表情を変えずに落ち着き払って言った。ここでようやく藍沢は眉をぴくりと動かして、文花の目を見つめた。嘘をついていないか見極めているのだろうと文花は考えた。ただこれは嘘ではなく、脅迫状の犯人など見当がついていたからだ。
「常盤さんにも話てたんですけどね。実際出版社に脅迫状が送られて来てるわけですから」
「そう。彼からは何も聞いて無いわ」
常盤は何故その事を黙っていたのだろう。彼の性格を考えると真っ先に報告して来そうなものだが。
「ミイの自宅から日記と青酸カリが見つかりましてね。あなたを殺そうとしていた見たいです」
藍沢はカバンから日記らしきノートを取り出して見せた。
常盤がその事を言わない理由がわかった。怖がらせたくなかったにだろう。だが、実際文花はさほど怖いとは感じなかった。事前にミイが秋子にした嫌がらせも知っていたし、彼女の性格からして予想の範囲だ。ミイについて調べなければ無闇に怖がったかもしれないが、調べてしまえば余裕も持てた。
「ぜいぶんと落ち着いてますね。まるでこうなる事を知っていたみたいだ」
「ミイの過去の人間関係をネットを使って調べてみたんです。あの女、昔も似たような事やってたみたい。このノート読んでもいいですか?」
「あまり気分の良いものじゃないですけどね」
少しためらう藍沢からノートを受け取りパラパラとめくる。文花のその様子を藍沢は観察するかの様にじっと見ていた。
いかに自分が不幸な結婚をしたか、仕事の事情で離婚もできないという愚痴がポエム調に綴られていた。そこだけ読めばミイが可哀想な被害者かのようである。しかし次第に現在の不倫相手の妻、文花について見当違いの怒りを滲ませてくる。
仕事も似たようなカウンセラーが大勢いて競争は激しく、炎上でもしないと目立てない。何故か上手くいかない仕事についても文花のような専業主婦のせいだと一方的に書かれていた。
はっきり言って被害妄想だが、ミイの頭の中ではそうなのだろう。確かにあまり気分の良いものではない。逆恨みは次第に強くなっていきはっきりと殺意まで書かれている。
ミイは記憶障害かもしれないと文花は思った。地元では自殺に追い込むまでいじめをし、アパレルメーカーに勤めた時は不倫中では奥さんに嫌がらせをし、婚活カウンセラーになった時には自分が加害者だった事をすっかり忘れて棚にあげ、見当違いに怒りを募らせているなんて。過去の行いを考えれば、自分は幸せになれない原因などすぐにわかりそうなのに。
文花や旦那のせいにして悲劇のヒロインを気取っているだけで、自分の態度や過去は全く顧みていない。
「気持ち悪いですねぇ。このノート」
文花はゴキブリでも見るかのような顔でノートを藍沢に突っ返した。
なぜか藍沢は口の端を上げて笑っていた。そしてハート型のクッキーを一枚つまみ口に放り投げると、ボリボリと咀嚼した。
「なかなか酷い女ですねぇ。殺されて当然って思いました?」
「ええ。自業自得ね。ミイを恨んでる人は多いでしょうね。私のあの女が死んで嬉しかったわぁ」
しかしその喜びは一瞬。長くは続かなかった。愛人が死んだところで、夫の気持ちが文花に戻ってくる事はないのだ。ほんの少しだけ夫の時間が得られただけで、大きなリターンはない。自分だったらこんな僅かなリターンだけでは殺さない。突発的なのかもしれない。犯人の心情や動機がわからなかった。
「ぜいぶんと悲しい顔されてましたねぇ」
文花にその自覚は全くなかった。しかし藍沢の目はやけに鋭い。
「そうですか? しかし勝手な女ね。結婚したら幸せになる事なんて権利じゃないのよ。義務なのよ?相手の為に」
「私は結婚した事ないからわかりません」
「結婚して不幸になるなら、結婚なんてしなければいいのよ」
「そういう奥さんは幸せなんですかねぇ?」
藍沢はクッキーには手をつけず、紅茶を一口飲んだ。さすがに甘いクッキーをつまんで口の中が甘ったるくなっているのだろう。
「ええ。幸せよ。私はあの人と結婚して一度も不幸に思った事は無いわ」
それは強がりではなく本心だった。何度も不倫されても、芸の肥やしだと理解不能の事を言われても、不思議と自分が不幸だとは思っていない。夫を選んで結婚し、今まで意地でも離婚をしないのも文花の自分で決めた意思だった。執着なのか愛なのかわからなくても、愛だと信じたかった。
「理解できません」
「そうですか? もう私は夫が生きていてくれてだけで良いのかも」
「はは、愛は忍耐ですな。確か聖書にもそんな言葉が書いてあったと思います」
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