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第7話:サンドイッチ・チャンスと、黄色い海の旋律
しおりを挟む壮大さんの車は、驚くほど静かに、けれど底知れぬ力強さで早朝の東京を滑り出した。 重厚なドアに閉ざされた空間は、外界の喧騒を一切遮断し、そこには彼が纏うシトラスとムスクが混ざり合ったような、官能的な香りが濃密に立ち込めている。
助手席に座る私の心臓は、いっそエンジンの微かな振動に紛れてしまえばいいのにと思うほど、激しく鐘を打っていた。推しの運転する車の助手席。そんな、全ファンが卒倒し、銀河系が揺らぐようなシチュエーションに放り込まれ、私の脳内ダイヤグラムはすでに大幅な遅延をきたし、運行不能に陥りかけていた。
「はい、これ。朝早かったから、まだ食べてないでしょ」 ふいに、信号待ちの合間に彼が差し出してきたのは、小さな紙の袋だった。中を覗くと、一口サイズに丁寧にカットされた、断面の鮮やかなサンドイッチが入っている。レタスの緑、卵の黄色、ハムの桃色。そのあまりに家庭的で温かい「気遣い」に、喉の奥が熱くなる。
(・・・えっ、嘘でしょ。あのスターの壮大さんが、私のために朝食を?)
けれど、私は少しだけ言い淀んだ。実は、ある「秘密」があったから。
「・・・ありがとうございます、嬉しいです。でも、実は私、ここに来る前に東京駅が目の前に見えるカフェで、サンドイッチを食べてきちゃったんです」
本当は「推しの前でお腹が鳴るのだけは絶対に避けたい」という、乙女心という名の死活問題があったからなのだが、その事実は伏せたまま。ただ、早めに駅について新幹線や中央線の入線を眺めながら朝食を済ませていたことを話すと、壮大さんは意外そうな、それでいて心底感心したような顔で私を見た。
「八時待ち合わせなのに、その前にカフェで一本『鉄活』を済ませてきたってこと? 流石です、民鉄さん! その徹底した姿勢、プロとして尊敬するわ」 呆れられるかと思いきや、彼はいつものように私の価値観を全力で肯定してくれる。世間からは「変態的」と笑われるかもしれない私のこだわりを、彼はいつも、世界でたった一つの「正解」にしてくれるのだ。 「じゃあ、折角だし俺に食べさせてくれる役ね。ほら、俺は運転士だから。信号が赤に変わった瞬間が『サンドイッチ・チャンス』だからな!」 壮大さんは素早く私と目を合わせ、いたずらっぽく笑ってまた前を向いた。
・・・えっ、私が、壮大さんの口に運ぶの? 次に信号が赤になるのが、楽しみなような、逃げ出したいほど恥ずかしいような。
「あ、そうだ。夜は結構、友達がやってるラジオを聴いてるんだけど、朝はやってないから・・・これ、聴いてみて」 彼がコンソールを操作すると、スピーカーから流れてきたのは、聞いたことのない、けれどどこか懐かしくも洗練された洋楽だった。
「ふーん、普段は洋楽を聴いてるんですね」 「そう。俺のルーツみたいなもんかな。中坊の頃、親父の古いレコードをこっそり聴いてた時のワクワク感、今でも覚えてるんだ」 そこからの時間は、音楽とともに彼の過去を旅する時間だった。青いギターを抱えて指先を固くしていた少年時代。仲間と狭いガレージで、世界のすべてを手に入れると信じていた高校時代。家族や友人との繋がりを感じさせる曲たちが、彼の歴史を一つずつ紐解いていく。私は、また一歩深く「壮大」という人間を知っていく自分を感じていた。
「ほら、赤だ。チャンス到来」 幸せな音の余韻に浸っていると、信号が切り替わった。 私は震える指先でサンドイッチを一つ摘まみ、彼の唇へと運んだ。パクりとそれを口にした壮大さんは、わざと私の指先に唇をかすめるようにして、美味しそうにそれを飲み込んだ。 「・・・ん、美味い。民亜が選んだカフェより美味いだろ?」 その瞬間、世界で一番贅沢な給餌係になった気がして、私の顔は火照りっぱなしだった。
さらに、次の信号で止まった時。 「民亜も一個くらいは入るでしょ。お腹空いてなくても、別腹」 壮大さんは、私の腿の上に載っていた袋からひょいとサンドイッチを摘まむと、あろうことか私の口元へ運んできた。 「え・・・あ」 拒否する暇もなかった。彼の指先が、ほんの一瞬、私の唇をなぞるように触れる。甘いマヨネーズの味よりも、その指先の熱い温度だけが脳に焼き付いて離れなかった。
「・・・次に聴いてもらいたいのが、今日の自信作」 スピーカーから流れてきたのは、歌声のない、不思議な、けれど強烈に耳を引く旋律だった。一定の重厚なリズム、低く響くモーター音のような重低音、そして風を切るような鋭い音。 「これ・・・鉄道の、走行音?」 「正解。でもただの録音じゃない。俺のギターを幾層にも重ねてる。走行音とギターのコラボレーション、今日のドライブ専用のトラック」 「・・・オタク!」 思わず、素の声が漏れてしまった。そんなの、狂気的な愛がなきゃ作れない。 「え? お互い様だろ!」 壮大さんは悔しそうに言い返したが、私は確信していた。彼は私と同じ種類の「熱」を持っている。
やがて車は房総の山あいを抜け、一面の黄色い世界へと辿り着いた。 いすみ鉄道、国吉駅付近。視界を埋め尽くす菜の花の絨毯。 「・・・着いたよ。ほら、もうすぐ『本命』が来る時間だ」
壮大さんがエンジンを切り、ドアを開ける。
私はカメラを手に車を降り、菜の花の香りが一気に鼻腔を満たした。
風が軽く吹き、黄色い波がさざめく音が耳に心地いい。 壮大さんは運転席から降りてきて、私の隣に立つ。
スマホを取り出すこともなく、ただ静かに私を見つめていた。
その視線が、いつもより少し重くて、温かくて。 遠くから聞こえてくる、キハの重厚な警笛。
ファインダー越しに、黄色い海を泳ぐようにして古い気動車が姿を現す。
私はシャッターを切る。
集中して、周りの音が消えていく。
菜の花の揺れも、風の音も、全部が列車の走行音に溶けていく。 最高の瞬間を逃したくない――
いつもの鉄活と同じ本能で、指が動く。 列車が一番近くを通り過ぎる。
黄色と黄色が重なり、コントラストが鮮やかになる瞬間。
連写の音が連続して鳴り響く。 そして、列車が遠ざかり、黄色い波が再び静かに揺れ始めた。 「……民亜」 低く、柔らかい声。 カメラを下ろして振り返ると、壮大さんはもう私のすぐ横に立っていた。
菜の花の黄色が彼の瞳に映り込んで、普段のステージで見る鋭さとは違う、穏やかで熱を帯びた光を宿している。 「今、撮ってた顔……すごく綺麗だった」 彼の指が、私の頬にそっと触れる。
親指が、ゆっくりと下唇の輪郭をなぞるように動く。
菜の花の甘い香りと、彼のシトラスとムスクの匂いが混ざり合って、頭が少しふわふわする。 「列車より……お前の方が、俺の目には鮮やかだ」 言葉が、心の奥に染み込んでくる。
私はカメラを胸に抱えたまま、震える指で彼のシャツの裾を軽く掴んだ。 「……壮大さん」 名前を呼ぶだけで、声が少し上擦る。 彼は小さく笑って、私の腰にそっと手を回した。
菜の花畑の真ん中で、誰もいない道の脇。
風が菜の花を揺らす音だけが、周りを包んでいる。
「ここ、誰も来ないよ」 そう囁きながら、彼は私の額に自分の額をくっつけた。
息が混じり合う距離。
互いの体温が、服越しにじんわり伝わってくる。 「民亜の匂い……菜の花よりいい」 低い声で囁かれ、耳たぶに軽く唇が触れる。
ぞくりと背筋が震えるけど、逃げたくない。 彼の指が、私の髪を優しくかき上げる。
耳の後ろの敏感な部分を、爪の先でそっと撫でる。
甘い痺れが首筋を伝って、胸の奥まで届く。 「緊張してる?」 「……少し……です」 正直に答えると、彼はふっと息を吐いて笑った。 「俺も、実は」 意外な言葉に、目を見開く。 「いつもステージの上から民亜を見てたのに。
今は、こんなところで、こんな近くにいる。
……お前の瞳が、俺のことだけ映してるのを見ると、ドキドキする」 彼の右手が、私の背中をゆっくり撫でる。
服の上からなのに、掌の熱が素肌に直接染み込んでくるみたい。
腰のくぼみに指が沈み、軽く引き寄せられる。 身体が密着する。
胸の鼓動が、互いに伝わってくる。 彼の唇が、ゆっくりと私の唇に近づく。
触れるか触れないかの距離で止まって、
息が混じり合う。 「いい?」 小さな問いかけ。 私は目を閉じて、こくりと頷く。 柔らかく、優しく、唇が重なる。
菜の花の香りが、キスに混じって溶けていく。
舌は絡まず、ただ唇の感触を確かめるように、何度も角度を変えて触れ合う。 長く、ゆっくりとしたキス。
息が少し苦しくなる頃、彼はようやく唇を離した。 額を合わせたまま、
彼は小さく笑う。 「まだ、列車の帰りもあるよ。
でも……今、この瞬間が一番の『本命』かもな」 風が菜の花を揺らし、
遠くからまた気動車の警笛が聞こえてくる。 その音が、
私たちの頬の熱と混ざって、
いつまでも、消えずに残っていた。
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