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もっと大事に
しおりを挟む翌日、東吾はお店に来なかった。
日課のようになっていた東吾の買い物がない事を、午後になって母に言われたけれど、私は「さあ」としか答えられなかった。
メッセージは勿論、電話もない。ああ、私、本当に嫌われてしまったんだ……。
その夜、私はベッドの中でスマホを握り締めたまま眠った、自分から連絡する勇気はなかった。
だって。
お前の言う通りだと言われるのが怖かった。若い恋人の存在がばれたか、じゃあお前とは別れるとはっきりとは言われたくない。だったらフェードアウトの方がいい、私はこれ以上傷つかないで済むから。
*
「何、亜弥、喧嘩したの?」
翌日、喧嘩から二日目の朝だった、母に言われる。
「……違うよ」
なんか肯定できなくて、そんな返事をする。
「そうなの? 万里子さんから連絡あって、東吾くんも元気ないらしくてさ。なんかあったのって聞くと大抵は何でも話してくれるのに珍しくだんまりだから、もしかしてって連絡くれたんだけどさ。現に昨日はお店に来なかったし? 亜弥も元気ないし? あーでね、今日はお花買いに行かせるから、励ましてあげてねーなんて言われたんだけどさ、じゃあ元気付けてあげなさいよ?」
その仕事は、私の担当じゃない。
結局東吾は来なかった、お店にも、連絡すら。
*
夜、電話が鳴る。
東吾かと思って慌てて飛びつくも、見知らぬ番号──誰だろうと思いながら、通話ボタンを押していた。
『あ、亜弥ー? 元気ー?』
東吾、と一瞬思ったけど違和感……健次郎くんだ。
元気な健次郎くんに、がっかりしつつも、心が浮き足立ってしまう。だって東吾と繋がる人だ、なにか細やかな情報でも欲しい。
「……うん……元気だよ……」
『んだよ、嘘つきだな、元気ねーじゃん。俺、慰めてやるよ? どうした?』
「……なんでも……」
理由なんか、言えない。
健次郎くんはひと呼吸置いてから話し出した。
『つかさ。アニキと会ってんじゃねえんだ? さっき嬉しそうに出掛けて行ったから、邪魔してやろうと思って電話したのに』
出掛けた? 夜に? それも嬉しそうにって……今朝は元気ないって言ってたのに……。
「そ……か……」
あの子と、会ってる……? あの子に慰めてもらってる……?
『静かだな、家? 一人?』
「……うん」
やっぱり、二股だったんだ……。
『じゃあアニキは何処へ?』
あの子のとこだよ。
「……家の人には何も言わずに行ったんだ?」
『うん』
内緒の関係、なのかな……あ、でも健次郎くんの名前は出てた……。
「あの、さ、ヒカルって子、知ってる?」
会話の中で出た名前は覚えてた。
健次郎くんが、電話の向こうで笑ったような気がした。
『ヒカル? ああ、久留美ヒカルか? 知ってるよ、モデル仲間だ、まあ一緒に仕事したのはモデルじゃなくてテレビ局のひな壇でだったけど』
「……そうなんだ……」
派手な子だと思ったけどモデルさんか……健次郎くん繋がりで知り合いになって……。
『何、久留美がどうしたの?』
その声は、少し普段より明るく聞こえた。
「ううん」
否定はしたけれど、気になってしまった。
「東吾と、仲いいのかな、と思って……」
『ああ、いいんじゃねえ?』
少し笑いを含んだ声。
『時々ご飯とか食べ行ってたぜ? アニキも基本夜しか体空かねえから、未成年連れて居酒屋って訳にはいかない、ファミレスばっかだってぼやいてたから』
「そっか……」
本当に、ばかみたい……東吾には心に決めた人、いたんだ、なのに私が現れて……ちょっといいかな、くらいは思ってくれたのかな……。
『亜弥?』
なんだか優しい健次郎くんの声に心臓が跳ね上がる。
兄弟だからかな、やっぱり東吾に似てる……大好きな人の声、もう、二度と呼ばれることの無い声──。
『話聞いてやるよ? これから会う?』
「ん……」
少し……会いたい、かも……でも……。
「ごめん……今は誰かに会いたい気分じゃないかな……」
『そっか』
少し残念そうなトーン、心が揺さぶられる。
『じゃあ明日は?』
「……ん……」
そんな先の事は、判らない……。
『じゃあ、明後日、予約な。午後空けとけよ、迎えに行く』
「え?」
なんでそんな、予約なんて……。
「え、ん……判った……」
私はそう返事をしていた、何を期待してるんだろう……何か、期待してる……?
電話を切ってから、しばらく健次郎くんの電話番号を眺めていた。
どうしよう、東吾の弟だ、もし東吾と別れてしまって、だからって健次郎くんと、なんて、ない、よね……。
振られて辛いのに、東吾に会うかもしれないなんて……でも、東吾との繋がりはできるんだ……もし、遠くからでも見つめることができたら。
それに、健次郎くんも私の事……。
指が動いていた、その番号を登録して、名前を入れていた。
そんな私の心の乱れ察したのか。
その夜も、眠るまで待っていたけれど、やっぱり東吾からは電話もメッセージも来なかった。
*
東吾と喧嘩して三日目の夜。私は野毛の焼き鳥屋で飲んでいた。
時々、友人達と酒盛りするのはあることで、家に両親のご飯の支度はしてからのお出掛けだ。
今日は一番の親友と言っていい、美乃利を呼び出していた、どうしても飲みたい気分で。
「あーもーうざい」
目の前に座った美乃利に言われる。
私は熱燗をちびちび飲んでいた、美乃利は会った時から私の様子がおかしいと「暗い」「何があった」と聞いてくれていたけど、私は話す気になれず、ただ黙々とお酒をちびちび飲んでいたから、遂にキレられた。
「明日死にますって宣言でもされたみたいな顔を目の前に、飲みたくないんですけど?」
「じゃあ……隣に」
四人掛けの席だ、隣の席においでとポンポン叩いたら、思い切り溜息を吐かれた。
「そういう意味じゃないでしょ? ねえ、話を聞いてほしくて呼んだんじゃないの?」
そうだ。私は電話してまで「飲みたい、付き合って」と呼び出したのだ。
「……うん」
「ほれ、話せ。何があった?」
「……」
「どうせ男でしょ。免疫ないからどうしていいか判らないんでしょ?」
図星に、私は涙目になる。
「ったく、亜弥だってモテない訳じゃなかったのに、なんか頑なに逃げ回ってるから、いい歳して男の事で泣いたりするのよ。若いうちは遊んだほうが得よ? 多少傷つく練習もしといたらよかったのに……」
「あ……遊んでたから、あんな対応なんだ……!」
東吾の態度に、思い当たったりする。
「ほほう、イケメン茶道家だもんね、女なんかとっかえひっかえ……」
そんな言葉に、おちょこを持った手をテーブルに叩きつける。
「あ、ごめん、そんな事ないない」
美乃利は慌てて訂正する。
「でも、KENは浮名流しっぱなしだよ、大抵はちょっと話をしたくらいで、女が舞い上がって噂を流してるみたいだけど」
「健次郎くんの話なんか、どうでもいい!」
「ああ、そうね」
それから私は怒りに任せて、事の流れを説明した。
ピンクの髪の女が現れてあれこれ言われ、東吾の家の前で喧嘩をした。そして今日まで連絡もメッセージも無い事まで話すと、ポロリと目から涙が落ちた。
「……ずっと好きだったのに……逢えない間もずっと好きだったのに……なんで逢えた途端、こうなるの……?」
だったら思い出のままにしておきたかった。
「……私、きっと、嫌われちゃった……」
そうしたら傷つかなかったし、東吾にも嫌われなかった。
涙が止まらない、いい歳して人前でしくしく泣く女を前に、美乃利は大きな溜息を吐いた。
「あのさ、じゃあ亜弥は別れたいの? 別れたくないの?」
「別れたくないよ! やっと会えてひと月も経ってないのに! だからこんなに落ち込んでるんじゃん!」
私はまだ十分思いを伝えきれていない、これからもそばにいられると思っていたからだと思う。
「そのさあ、子供の頃からの片思いとか、何年も想い続けてたとか言う純情は置いといてさ。亜弥は純粋にイケメン家元が好きなんでしょ?」
私は何度も頷いた。
「んじゃさ、今カノとか言ってる女とタイマン張ればいいだけじゃない、イケメン家元を目の前にしてさ、どっちがいいのくらいしたら?」
「それで今カノ選ばれたらどうするの!? 私本当に撃沈だよ!」
「落ちるときはトコトン落ちりゃいいのよ。大丈夫、私も付き合ってやるから」
それは、何か、目から鱗の言葉だった。
「傷つきたくない、傷つけたくないなんて思ってたって、うまくいかないでしょ。大丈夫、『ガラスのハート』は本当のガラスじゃない、時間と友人が直してくれる」
ウインク付きで言われた。
「美乃利……」
優しい言葉に心が暖かくなった、持つべきものは友だ。
「どの道、その今カノとやらと、亜弥の言い分と、多分イケメン家元の意見も相違があんでしょ? そこはちゃんと詰めたら? 亜弥一人で辛かったら私も付き合ってやるから、一度三人で逢いましょくらい言ってやんなさい」
「え……そんな勇気……」
「プロポーズされたのは亜弥でしょ」
美乃利には既に報告済みだ、お茶室でさーなんて嬉しそうに話して、結婚式には来てね!とか言っていたのに。
「だったら若造に負けないくらいの意気込みでいきなさい」
そうは言っても。
やっぱり東吾の本心が判らなくて怖い。本当はあの子が好きで、でも若いしとかで反対されて、私とは仕方なくなのかな、とか……。
そんなんで、またウジウジしながら熱燗を飲み始めると。
「あ、ねえ」
美乃利が急にトーンを上げた。
「イケメン家元、名前なんだっけ?」
「え、東吾……」
「トーゴかあ」
なんか、どうでもいいじゃんって事を聞かれた後。
「このぼんじりって、どこの肉だっけ?」
焼き鳥をフリフリ、全然関係ない事を聞かれた!
「え、お尻じゃなかったっけ?」
「そんな不確かな情報。調べてよ」
言われて私はスマホを出していた、自分で調べればいいのに、と思いながら。
「あーほら、尻尾のあたりだって」
「へえ見せて」
差し伸べられた手に私のスマホを乗せた。美乃利は更に画面をいじっている、何を調べてるのかな?
すると私が見ている前で、美乃利がそれを耳に当てた。
え、なんで?
「あ、しもしもー? 亜弥の友達の美乃利と言いますー、どーもー」
誰と話してるの?
「なんかー、もう亜弥が面倒でー。あなたと喧嘩したのすんごい後悔してるみたーい。よかったら話聞いてやってくれませーん?」
え? 喧嘩……!?
「はーい、よろー」
美乃利は笑顔で言って、私にスマホを差し出す。
「なに……っ」
声が詰まった、すると目の前のスマホから声がした。
『亜弥?』
東吾の声が響く、え、やだ、スピーカーになってる……! 美乃利ぃ!
受け取れずにいると、東吾の声は更に聞こえてきた。
『亜弥、こっちから連絡しなくてごめん、少し怖かったんだ、これ以上亜弥に嫌われたくなくて。ごめん、俺が悪かった。亜弥を不安な気持ちにさせてごめん。謝るから、もう一度だけちゃんと話をさせてくれ』
真摯な声に、心が惹かれる。
「東吾……」
『俺、お前が好きだ。やっぱりお前がいないと駄目なんだ』
その時気付いた、周りがしんとしている、店内に流れていた演歌さえボリュームが下げられていた、やたら東吾の声が大きく聞こえる。
『ずっと考えてた。なんで亜弥がそんなに俺を疑うのか。離れ離れでも忘れなかった俺たちだから大丈夫って、どっかで勝手に思ってたんだと判って……会える今だからこそ、ちゃんと伝えないといけないこともあるよな』
東吾、駄目、今は言わないで。
『亜弥が欲しがる事にはちゃんと応える、会えなかった13年分の時間を埋めたい。亜弥といたいんだ、亜弥のことしか考えられない』
そんな言葉に息を呑んだ……周りも。
『もっと亜弥の姿を見ていたい、亜弥に触れたい。駄目か?』
そんな、そんな言葉ばかり並べ立てないで。
恥ずかしくて返答出来ずにいると、とびきり大きいと感じる声が響いた。
『愛してる、亜弥』
もう、駄目……っ!
「で? 亜弥さんの答えは?」
美乃利の声に、私も、電話の向こうの東吾も「え?」と声が出る。
『あ、亜弥?』
戸惑った東吾の声に、私は答えた。
「うん……私も……私も東吾が好き、東吾のそばに居たい」
言った途端、店内に拍手と歓声が沸いた、ああ恥ずかしい、公開告白だよ。
美乃利はスマホ片手にドヤ顔だし。
「早く行ってやんな。家近いんでしょ」
「うんっ」
私は美乃利の手からスマホを奪い去って、荷物をまとめる。
「ここのお代は奢ってやろう」
「ありがと!」
「代わりに今度焼肉奢れよー、東吾クンとね」
「うん!」
「電話取るスピードは早かったわよー、世界新だわね」
「そうなんだ」
思わず笑顔になった。
「信用してやんなさいよ」
「うん!」
店を飛び出すと、お客みんなに拍手で送り出された。
『亜弥? 亜弥!?』
切れていなかった電話から声がする。
『何の騒ぎ?』
私はスマホを耳に当てて答えた。
「なんでもないっ!」
言えないよね、世紀の告白がほぼ満席の焼き鳥屋中に響いてたなんて。
不思議がる東吾をよそに、私はタクシーを拾った。
*
ちゃんと聞く、もう逃げない。
過去も未来も、現在も、東吾の全てを受け入れようって決めた。
もしその内容でいっぱい傷ついたら、美乃利に慰めてもらう、でもきっと大丈夫、全部受け入れられる──!
そう覚悟して着いたタワーリングマンションの25階。
東吾は今日も玄関を開けて待っていてくれた。
「ごめんな」
会ってすぐに、小さな声で謝ってくれる。
「ん、私も」
ごめん、と言う前に口を塞がれる。
懐かしく感じるキスに酔いしれる、でも、まだ玄関のドアは開いたままで、もし誰か来たら見られるじゃん……って思いながら、東吾の服を掴んでいた。
ようやく離れると、すぐに東吾に腕を引かれた、私は大人しく中へ入った、入ったのは東吾の腕の中だった。
東吾は私を抱き締めながら鍵をかける。
体で壁に押し付けられた、顎に指がかかって上を向かされてまた唇が重なる、さっきより深いキスに呼吸が荒くなる。
(駄目だ、このままじゃ流される)
仲直りして終わりではない、彼女の事を、はっきりしなくては。
「東吾、待って……」
キスの合間に言う、東吾はすぐには離れてくれなかった。
「東……っ」
更に深く口内を探られた後、やっと離れてくれた。
「……ん?」
間近で、そんな笑顔で……! 負けないぞっ!
「あの子の事、聞きたい……っ」
強気に言うと、東吾は小さな溜息を吐いた。
「ちゃんと聞け」
腰を抱く腕に力を込めながら言われた、私は間近に迫る東吾の顔を見上げる形になる。
「恋人がいたのはアメリカが最後だ、アメリカからは二年前に帰ってきてる、それ以来日本では恋人はいない」
「……じゃあ、アメリカ行く前の恋人が?」
「そんなもの今更出てこられても、無効だろう?」
それはそうかも知れないけど。
「大体、若いって言ってただろ。何歳くらい?」
「……多分、まだ十代に見えた……」
若作りかも知れないけど、健次郎くんも未成年って言ってたし……。
東吾は吹きだすように笑った。
「今更出てきた恋人が、当時は何歳だった訳?」
ん……高校三年で恋人がいたとして。で、あの子が今十九歳だと仮定したら──十二歳!?
「──東吾、ロリコンだったんだ……」
東吾は呆れ顔で溜息を吐いて、私の腰を抱いたまま抱き上げた、私は足が宙に浮いた状態になって、足がぷらぷらしてしまう。
「困った子だね、この子は」
歩きながら言う、そのまま室内に入とうとするので、私は慌てて靴を脱いだ。
「二人とも同じ歳だったよ。少なくとも見た目もロリコンではなかった」
……二人は高校時代に付き合っていたんだ、そんなことも判ってちょっとムッ。
「仮に本当に十二歳の子と交際があったとして、そんな何年も経ってから彼女面されたって、無視していいだろう?」
「でも、じゃあなんで、わざわざ私のところに!?」
「健次郎と間違えられたんじゃないの? キスでもしたところを見て、勘違いされたとか」
その言葉には、さすがに視線を反らしてしまった、心当たりがあるだけに、反論は、しにくい。この間のは三渓園だもんな、みんなに見られるよね。
「──でも! 彼女はちゃんと東吾と付き合ってるって言ってたよ!? 健次郎くんと付き合えばいいじゃんって言ってたし!」
東吾は私を抱き締めたまま、リビングのソファーの背に腰掛けた、視線が同じくらいになる。
って言うか、離す気は、ないんだなと判った。
「なんでそこで健次郎が出てくるんだよ?」
「知らないよ! 彼女がそう言ってたんだもん!」
「本当に、誰なんだろ……」
「派手な女の子だったっ、髪ピンクで、ここにラインストーンまで着けてた!」
左の目じりを指さして言う。
「健次郎くんに聞いたらモデルだって……!」
「──健次郎に聞いた?」
わ、右の眉がピクリと上がった、間近で見ると、こわ……っ!
「あ、き、昨日、電話くれて……! 健次郎くんと付き合えばいいじゃんって言われたから、健次郎君もその子のことは知ってるのかなと思って聞いたの!」
きちんと話す!
「そ、そしたら! 二人は仲いいかもって、言ってたよ!?」
「ケンが?」
「うん!」
「──心当たりはあるって? 名前聞いた?」
「クルミヒカルって言ってた!」
「クルミヒカル?」
繰り返して、少し思案してから東吾は笑い出した。
「ああ、あの子か」
そんな言葉に、
「なによっ、やっぱり知ってる子なんじゃん!!!」
思わず東吾から離れようと、手を両肩にかけて押したけれど、東吾は笑顔だった。
「亜弥は芸能ニュースとか興味ないんだ?」
「ないわけじゃないけど、特別見たり聞いたりはしないかな」
そんなにゆっくりテレビも見ていない、ネットで見る時は気になるニュースだけだ。
「その子は健次郎と付き合ってるって噂になった子だよ、そうそうモデルさんだ。夏前だったかな、その頃は髪は緑にしてたな、毛先の方だけだろ?」
言われて私はうんうんと頷く。
「随分テレビでも盛り上げてくれてたけど、亜弥は見なかったのか。まあそれ自体は健次郎本人はご飯食べに行っただけとか言うし、うちの祖父はおかんむりで、ヒカルの事務所も勘弁してくださいって申し入れてきて、尻切れトンボで終わったけど」
「え、そうなんだ……」
全然知らなかった……多分聞いても、それが東吾の弟だなんて思わなかったからだ。
「だからやっぱり亜弥の聞き間違えだって。俺と別れろじゃなくて、ケンとだったんじゃないの?」
「だって……結婚が、って言われた……」
そうだよ、結婚迫ったのが私になってた。少なくとも健次郎くんとは結婚のケの字も出ていないのに。
「そうだな? でも思い切りやきもち妬かれただけじゃないの?」
「でも! 初恋の人が現れて嬉しくなってエッチしちゃったって!」
「それは本当。現に襲い掛かっちゃった」
「あ……」
そうだ、私、手錠で繋がれたまま、押し倒されてた。
「あ、結婚しなきゃならなくなった、どうしようって言ってたとも」
「尻込みしてる亜弥を懐柔したのは俺でしょ」
そ、そうだよね!
「浮気だから別れようとしたけど、ヒカルがいいって泣きついたって……」
段々、自分の声に勢いがなくなるのが判る。
「うーん、俺もケンも交際はしてないから誰の事だか……でも嘘をつくにしても、健次郎となら売名もありうるけど、俺とじゃ、ああそう、で終わるだけだしな?」
いや、ああそう、では終わらないからね! モデルのKENのお兄さんで、茶道の家元の嫡男だよ!? 芸能誌、食いつくでしょ!? 兄弟を手玉に取り、くらいの見出しつけるわよ!
「まあさ」
東吾は蕩けそうな笑顔で言う。
「誤解は解けた?」
「……ん」
なんだっけ。
東吾と別れろと言ってきた人は、東吾の恋人ではなく健次郎くんと付き合っていた人で、だから東吾は、本当は私を面倒とか思ってない……んだよね?
「私……東吾のそばにいてもいい?」
「もちろん。俺も亜弥のそばにいたい」
「子供の頃の思い出、引きずってるの、変じゃない……?」
「俺も引きずりまくり」
「……でも、今が大事って、言ってたよ……?」
私の不安気な声が判ったのか、東吾は私の腰を抱く腕に力を込めた。
「亜弥、もう一度恋をしよう」
私を見上げて、東吾は真剣な目で言う。
「恋を……?」
「公園で出逢ったあの時、俺は亜弥に一目惚れしたと言っていい。でも子供だった亜弥を愛したいんじゃない、変化し続ける亜弥を愛したんだ。逢えなかった間は時間が止まってた、その時間は戻らない、だから、今からもう一度亜弥に恋をする。あの日再会して思い出が一気に戻って来たけど、それにしがみつかずに、これからの亜弥を愛したいんだ」
そんな言葉に心が温まったけれど、すぐに不安になる。
「……それって、結婚は延期、って事……?」
結婚にこだわりがあった訳ではないけれど、喜ぶ母ががっかりする姿は見たくないなと思った。
東吾はにこっと笑った。
「結婚してても恋はできるよ」
そうかな?
「って言うか、また離したら今度こそどっかにいなくなりそうだ、俺と言う檻に閉じ込めておきたい」
くぅー!!! どうしてそういう事を真顔で言えるかな!!!
「亜弥」
東吾は優しい笑顔のまま呼んだ。
「これからも傍にいよう。一緒に年老いて、死が二人を引き裂いても、永遠に愛し続けたい」
これは子供の頃に見た映画の結婚式のシーンの台詞だ……!
公園やお互いの家で飽きずにやっていた遊びを思い出す、手を握り合って指輪の交換のシーンを繰り返した、その後に続く誓いのキスのシーンはお互い笑って誤魔化してたの……!
「返事は?」
笑顔で促された、あの頃、何度も予行演習のように繰り返した台詞を。
「……私も、あなたを永遠に愛します……っ」
東吾はにこりと嬉しそうに微笑んだ、そして抱き締め、私の胸に顔を埋める。
「俺の方が不安になる。子供の頃も可愛かったけど、大人になった亜弥はとても綺麗で、本当に蛹が蝶になったみたいだ。花から花へ、飛んでいってしまうんじゃないかと思う」
「そんな事!」
そんなに尻軽ではないっ。
「判ってるけどさ。どんどん自分が嫌な奴になっていくのが判る。亜弥を束縛したくて仕方ない、誰の目にも触れさせたくないくらいに」
「東吾……」
そうして、いいよ……!
「殆ど無理矢理、結婚しようなんて切り出してさ。ちょっと亜弥の気持ち無視してたかなと反省もしたし、その所為で亜弥が怒ったかなとかも思ったし、これ以上嫌われたくないとか思って連絡もできなくて」
「ううん……私こそごめん……東吾、話聞けって言ってたのに……」
「──悪いと思ってる?」
「……うん」
信用、すればよかった。
「じゃあ、お詫びに、キスして」
東吾は顔を上げて、自分の唇をトントンと叩いた。
「ええっ?」
東吾は、ぐいっと私の体を更に密着させる、逃げられない。
「ごめんなさいのキス、ほら」
「うう」
「早く」
東吾は面白がってる、笑ってるもん。
でも、しないと許してはくれなそうな気配は感じる、このまま抱き合ってても……。
「わ、判った」
決心して、東吾の肩に手を掛けて顔を近づけた。
大分近付いたと思うのに、東吾は目を開けたままだ……。
「あの……目……閉じて」
「ん」
東吾は素直に目を閉じてくれた。
よしっ。
勢いに任せて、軽く、本当に軽く、唇にキスをした。
離れた途端、東吾は目を開ける。
「なにそれ、そんなんで許すと思ってるの?」
──本当に、時々、東吾はすごく意地悪だと思う。
私は顔中赤いであろうことを意識しながらも答える。
「だって……キスの仕方なんか、知らないもん……」
東吾も健次郎くんもすんなり人の口の中に舌入れるけどさ、できないよ、そんな事!
「まあ知らなくてもいいけど」
東吾は笑いながら言う。
「たまには亜弥からしてくれたら嬉しいな」
そう言って、後頭部に右手がかかって引き寄せられた、合わさった唇にすぐに舌が侵入してくる、私は素直にそれに答えていた、やっぱりしてもらう方が気持ちいい……。
キスに溶かされ油断していると、私の舌が東吾の口に吸い取られた。
「ん……!」
抵抗の声を上げたけれど、東吾は手に力を込めて離してくれない。
東吾の口の中で絡め合う、でも、本当に……どうしていいか判らないよ……!
東吾の方から力を緩めてくれて、私は唇を離した、息が……呼吸を忘れていた。
「──へたくそ」
優しい笑顔で言われた。
「だって……!」
言い訳を探すけど、見当たらない。
「ほら、もう一回……」
再度東吾の手に力が入って、腰と後頭部を引き寄せられた、私はしなくてもいいだろうに、再度東吾と唇を合わせていた。
そっと東吾の頬を両手で包み込む、舌を差し入れた、東吾はすぐに絡めてくる。
「……ん……いいよ……」
東吾は私の舌を甘噛みしながら言う。
キスをしてるんだか、されてるんだか判らない──ただ、東吾はソファの背に座っていて私より低い位置に頭があって、少し上向きな感じになって……私は少し覆いかぶさる感じになってるから、なんだか私が東吾に迫っているような感覚になって──全身がぞわぞわする。
東吾は優しく私の髪を掴んでくれていて、そんな拘束がまた嬉しい。
少し離して息継ぎして、角度を変えて再び重ねた、その時はすんなり東吾の中に舌を入れる事ができた。
「……は……」
吐息が漏れた、気持ちがいい……。
無我夢中で東吾とのキスに没頭していた、やがて東吾の方から私の頬を撫でて離れる。
「やればできるじゃん」
「……でも、殆ど東吾が……」
東吾が導いてくれたからできたような気がする。
「でもいい。下手に慣れてるより、気持ちいい」
今までの人で、慣れてる人がいたって事だよね……?
「……また余計な事聞くけど。東吾、何人と関係持ったの……?」
「本当に知りたい?」
どうだろ、知ったところで意味がない情報だけど……。
「五人だよ」
東吾は私が答える前に言った。
「五人……」
聞いといて、憮然と呟いてしまった。
だって。なんか微妙な数……これでもっと多かったら怒れたし、少なかったら安心……何の安心か知らないけど、できたのに……。
「高校の時に二人、大学で三人。大学の時は一人は日本人だったけど、後はアメリカ人とイタリア人」
余計な情報もくれた、眉間に皴が寄るわ。
「それが?」
案の定聞かれる。
「──別に」
「やきもち?」
「──ん、多分、そんな感じ……」
「どの子も亜弥にはかなわないよ」
言いながら引き寄せられて、頬にキスされた。
「亜弥が一番いい」
そんな言葉に、簡単に私の機嫌は直る。
「──キスして」
また東吾に言われて、私は素直に従う。
東吾を抱き寄せてそっと唇を合わせて。東吾は既に唇を開けて待っていてくれたから、恐々と舌を差し入れる、でも東吾の舌が絡みついてきて、私は成す術がない。
舌を弄ばれながら、更にジーンズも脱がされる、太腿の途中までずり下ろされ、東吾の手が秘部に吸い込まれ──。
「ん……っ」
右手で秘部を、左手で胸をいじられて、体の熱はどんどん上がってくる。
唇を離すと大きな溜息が漏れた。
「も……無理……」
「ん、ベッド行こう」
言いながら東吾は私の長袖Tシャツを脱がす、あ、よかった、今日も可愛い方の下着だった。
「その前に、シャワー……」
私が言う中、東吾は私のジーンズを膝下まで下ろす。
「後ででいい」
「後って……」
意味ないじゃん、と思ったけど、既に腰砕けの体を東吾に横抱きにされて抵抗をやめた。
寝室に入る前に、ジーンズは床に落ちた。
***
「亜弥」
呼ばれて目を覚ました、ん?なんで東吾に起こされるの?
「起きな、亜弥。ご飯出来るよ」
ご飯? 何ご飯???
ぱちっと目を覚ました、東吾はベッドに腰掛けて私に笑いかけてる。
「おはよ」
「おは……え……私、泊まっちゃったの……!?」
「ああ」
東吾は明るい声で言う。
「やだ……! 家に断りもなく……!」
「メールはしといたよ」
東吾は私の目の前にスマホをぶら下げるように差し出した、私のスマホだ。
え……ロックが解除してある!?
「返信は、『ごゆっくりー』って」
東吾の手からスマホを取り返して確認した、確かに母宛にメールが送信されていた、文頭に「東吾です」と書かれていた。
「どうして……!」
健次郎くんだって解けなかったパスコード!
「昨夜、おかしくなった亜弥に聞いたら、あっさり口を割った」
東吾は悪気も無く言う。
「おかしくって……」
確かに昨夜は途中からほぼ記憶がない。はっきりと時計を見たの記憶は10時くらいが最後、もう帰らなきゃと言ったのにそれからも東吾に責め続けられて、蕩け切った頭でなんとか時間を聞いた時はもう日付が変わっていたのは覚えてる、何時間も東吾は私の中に入りっぱなしで、どうしようって思いながらも、もうどうでもいいやとも思ってた……その時に……!?
東吾がにやりと笑った。
「俺の誕生日」
う……確認しなくても、解除できたんなら言わないでよ。
恥ずかしくて枕に顔を埋めた。
「起きられる? もうすぐご飯できるから食べに行こう」
「食べに……って?」
「両親の部屋」
ひぃぃぃぃっ!
「私がいるって言ったの!?」
「そりゃ言うよ、黙って泊まらせて帰らせるわけいかないでしょ?」
「そ、そんな……」
それって、なんと言うか、なにをしたのか、公言、してません???
「シャワー浴びてきな。ご飯食べたらすぐに家に送るけど、とりあえず俺の服着る? だから前に、うちに少し服置いておけばって言ったのに」
東吾は笑いながら、部屋から通じるウォークインクローゼットに入っていく。
そう、前にお茶室で下着を汚してしまった時に言われていたのだが……。
*
体、だるい、ぼーっとした頭でシャワーを浴びていた。
本当にもう……昨夜は何時間付き合わされたのよ、いくらなんでも体がもたない……と、ふと、思い出したくない言葉を思い出した。
ヒカルさんの言葉──『彼って絶倫だからさ』──それって、誰の事……?
*
朝日が挿し込むダイニング、白い大きなテーブルに白い椅子、なんつうセレブ感……だって、白いフリフリのエプロンをつけたメイドさんがポットから紅茶を注いでいたんだもの。
テーブルには和服姿の万里子さんと、東吾のお父さんの充輝さんがいた、子供の頃にも逢った記憶はなく、多分、初めて逢うんだけど……こんな時に逢うなんて恥ずかし過ぎる!
細面のナイスミドルだ、うん、東吾と健次郎くんのお父さんだなって思う。
健次郎くんは、これまた和服とは落差ありすぎなパジャマ姿だった、充輝さんの隣で私の顔を見て驚いていた。
「あ、亜弥ちゃん!」
万里子さんの嬉しそうな声、恥ずかしいよお。
「ごめんなさいね、私と主人は出かけるからお先に頂いちゃったわ」
「いえ……済みません、なんか、私……」
「もう! 気にしないで! このままうちの子になっちゃう!?」
う、うちの子って……。
「亜弥さん」
充輝さんが声を掛けてくれる、その間の東吾に万里子さん寄りの椅子を引いて座るよう案内された。
「彼シャツですね、似合いますよ」
ひえぇぇぇ! だぼだぼの東吾のシャツとジーンズだ、バレないはずが無い!
「いえ、その……初めまして……」
こんな姿で、こんな挨拶とは、情けない。
でも充輝さんはにこっと微笑んでくれた、あ、東吾に似てる。
「そうでした、初めまして。東吾や万里子から散々聞かされていたので、初めてだと言う事を忘れていました」
「……そうなの?」
隣の東吾に聞いてみた、東吾はうん?とても言いたげに眉を少し上げただけで、サラダを頬張ってしまう。
「ふふ、言われてみれば、写真の亜弥さんしか見たことがなかったですね。ふむふむ、こうして逢うと、あの小さな亜弥さんが急に大人の女性となって現れて、正しく蝶の羽化を見ているようです」
わ、表現が東吾と同じだ!
「なんで亜弥がいんだよ」
健次郎くんが苛立たし気に言う。
「健次郎、お姉さんって呼びなさい、もうお友達じゃないのよ?」
万里子さんが諫める、健次郎くんはふん、と鼻を鳴らした。
「昨夜、泊めたからだよ」
東吾が当然だろと言いたげに答えた。
「んだよ、喧嘩別れしたんじゃねえの?」
「喧嘩はしたけど、別れてはいない」
「もう、より、戻したのかよ」
会話を聞いて、うん?と思う、なにか、違和感……。
「だから元々別れてないって。よりを戻すもなにも、誤解が解けただけ」
それからもしばらく、二人はテーブルを挟んで言い合いを続けていた。
ん……健次郎くんは私が東吾と喧嘩した事を知ってて電話くれたの……? でも東吾が嬉しそうに出掛けたって……私が東吾といないのかとも言ってたよ……?
万里子さんと充輝さんはまもなく「お先に」と出かけてしまった、忙しいんだな……だからお手伝いさんがいるんだ。
私もそうゆっくりはしていられない、早く家に帰ろう。
「行く?」
食事が終わったタイミングで東吾が声を掛けてくれた。
「うん」
「別に今日も泊まってもいいけど?」
笑顔で言われた!
「か、帰りますっ!」
「そう? あ、今度服持ってきなよ?」
うう、余計な事を……!
立ち上がって、いつもの習慣で食器を下げようとしたら、お手伝いさんに止められた。うむ、慣れないといけないのか、そういう生活に?
「亜弥」
健次郎くんに呼ばれた、食事が終わってもテーブルから離れず、私達の様子を見ていたのだ。
「今日逢う約束はどうする?」
──あ。
「約束?」
不穏な声を出したのは東吾だ。
「何の話だ?」
私を覗き込んで聞いてくる、ええっと……。
「ヒカルさんの、事を聞いた時……」
「もう用無しならいいよ」
私の言葉を素早く封じて、健次郎くんはその件に関心が無くなったようにスマホを取り出していた。
うん……あの時、少しでも逢いたいと思ってしまった気持ちを、急いで掻き消した。
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