弊社の副社長に口説かれています

麻生璃藤(あそう・りふじ)

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10.父との和解

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月曜日、いつもと変わらぬ出勤だが、気持ちが違う。尚登のそばにいることが誇らしくすらある、目が合えば優しく微笑む尚登がさらに自信を与えてくれた。
みなとみらい駅に到着し、いつものように長い長いエスカレーターに乗り込む。いつものように前のステップに乗る陽葵を守るように後ろに立つ尚登は、今日は背後からその腰に腕を回した。見せつけようというのではない、休日に一日中そうしていたように、単に常に触れていたいのだ。陽葵は今までだったら辞めて欲しいと思っただろう、だが今日は違う、尚登の手にそっと自身の手を重ねていた。その変化に尚登は笑顔になる。

一人、二人とエスカレーターを歩いて二人を抜いていく、頭を下げ挨拶をするのを尚登はさわやかな笑顔と声でおはようと答える。陽葵も小さく会釈をして挨拶をした。その慎ましやかな笑顔に声をかけた者も変化に気づくほどだ。
会社の正面玄関は手を繋いで入って行く、いつものように警備員が最敬礼で挨拶をし、受付嬢たちも立ち上がり会釈をする。

「おはようございます」

僅かに陽葵を睨んだ後の尚登に対する挨拶だ、尚登はいつものようにおはようと答え、陽葵も会釈をし答える。

「おはようございます」

笑顔で発した言葉は尚登の手を軽く握り直しながらの挨拶だ。尚登が自分を選んでくれたことが自信になっていた。姿を見た者が皆気づいている、尚登の隣で怯えていた少女ではなくなっていた。





水曜日。
陽葵は窓ガラスに付いた汚れが気になっていた。なんとか手を伸ばし拭おうとするが届かない、窓際には空調設備があり、それが邪魔をして椅子を寄せても絶妙に届かなそうだ、いっそことその空調設備に乗っかってしまえばいいのだろうが。

「陽葵、なにやってんの?」

背後で陽葵がゴソゴソしていることにやっと気づいた尚登が声をかける。

「あそこに汚れが。尚登くんなら届きませんか?」

大きな窓ガラスを指さし言えば、尚登が歩み寄ってくる。

「窓の外じゃねえの?」
「内側です」
「どっちにしてもそのうち清掃が入るだろ、やってくれんべ?」
「そうですけど、気になって」

小さな汚れだ、今取ってしまえばすっきりする、陽葵はなおも手を伸ばしながら訴えた。

「大体あんなところになんで汚れが付くんだよ、なんの汚れだよ」
「判りませんけど、ありますよね?」
「あるけど」

身を屈め角度を変えてそれを確認した、5ミリ程度の白い汚れが付着している。

「誰も見てねえよ。この高さだし、この部屋に客は来ないし」
「そうですけどぉ」

尚登がやらないのなら棒か何かで擦れないかとその心当たりを巡る、定規やほうきの柄のようなものでいいのだが。

「そういう真面目なとこがな」

可愛いし放っておけないという言葉は発せず、んしょと声をかけて小さな子を抱き上げるようにして陽葵を持ち上げた。

「えっ、ちょ……!」

胸より下が尚登に密着した状態だ、見下ろせば目だけの尚登が微笑む。

「これで届くか」
「え、あ……」

手を伸ばせば確かに余裕で届いた、ティッシュで拭うが思いほかこびりついている。

「えー、本当になんでしょう……ちょっと粘々していて……練り消しみたいな感じです」

それより粘度が高く、ティッシュでは取り切れないようだ。

「うん……いいです、諦めます。意外と怖いので、もう降ろしてください」

ただでさえ地上30階もあるその窓際で抱き上げられるのは、尚登と窓ガラスを信用していないわけではないが、恐怖はある。

「んー、でもこの感触はいいな」

そんなことを言って尚登は陽葵の胸に顔をこすりつける。

「え、ちょ、やめてくださいっ」

下着もジャケットもあり十分守られているその場所が感じるはずがない、と思うのに尚登相手では抑えきれないようだ。体の奥がじんと熱くなり、あらぬところがきゅんっと締まってしまう。駄目だと思うほど喉の奥から声が漏れそうになる。

「尚登、くん……」

尚登の頭を抱きしめそうになった時、社長室から戻ってきた山本が「あ」と声を上げる。

「失礼しました、何分後に戻りましょうか」
「お気遣いなく!」

陽葵は大きな声で否定し、下してくれと暴れた。様子を見て山本は微笑む。

「仲がいいのは重々承知しておりますが、社内ではやめていただきたいですねえ」
「心配しなくても社内じゃやらねえよ、俺しか知らない陽葵を他の野郎に見せるつもりねえし」

尚登は文句を言いながら陽葵を優しく床に下ろした。陽葵はほっとすると同時に頬の熱さも感じ、慌てて両手で隠し山本に背を向ける。

「はいはい、で、何をしておられたんです?」

呆れつつも山本が聞けば、尚登がガラスに付いた汚れを陽葵が気にしていると伝えた。

「本当ですね、あとで掃除に来てもらいましょう」

にこやかに言われ、陽葵はむしろ恥ずかしくなる。本当に自分が頑張ってやることではなかったのだ。

「あ、そうそう。山本さん、わりいんだけど、今日は陽葵と二人でご飯にさせてもらっていい?」

尚登が言えば、山本はその理由を尋ねることもなく了承する。

そして昼休みのための鐘が鳴り響くと尚登は陽葵を連れ出す。手を繋いだままやってきたのは、セントラルホテルの中華料理店『朱竜宝園』だ。高級中華料理店にこんな短いスパンで来るなど、一生ないだろうと陽葵は思った。

それまではいつも通りに楽しく会話もしていたが、セントラルホテルに入る頃には尚登の言葉少なくなっていた。だが特に気にもせず手を繋いだままエレベーターに乗り込み、降りる時はさすがに恥ずかしいと離したが、尚登はすかさず陽葵の肩を抱いてしまう。店の出入口はすぐそこだ、ボーイに見つかり微笑まれ、陽葵は恥ずかしさが増す。見覚えがあるボーイだ、先日尚登を叩いたことはどこまで知られているのだろうか。皆、忘れてくれていたらいいのだが。

案内されたのは先日とは違う個室でやや狭い。その部屋にある四角いテーブルの下座の席に並んで座ると尚登はお茶を頼む、食事は頼まなかった、ランチをコース料理で頼んでいるのだろうと陽葵は静かにその時を待つ。
特に会話もないことを不思議に思いながらも待っているとドアがノックされた、ドアをボーイが開き、案内されて入ってきた人物の姿を見た瞬間、陽葵は凍り付く。

「……お父、さん……」

スーツ姿の中年男性の姿を見て出た声は、息にしかならなかった。父、京助けいすけと会うのは何年ぶりだろうか──白髪と皴が増えて老けた印象だ。京助は陽葵の記憶にある優しい笑みで挨拶をする。

「尚登さんですね、初めまして、連絡をくれてありがとう」

出入り口まで京助を迎えに出た尚登も挨拶をし握手をすると、中へいざなった。尚登が父と連絡を取っていたのだと初めて知った──いつの間に。

「陽葵」

尚登に呼ばれ陽葵も慌てて立ち上がる。そばに立った京助はなんとなく小さく感じた、確かに数年会っていないが、お互いそんなに身長は変わっていないだろうに。

「会えて嬉しいよ、最後に会ったのは何年前かな。きれいになったね、うん、お母さんによく似てきた」

そんな言葉に陽葵は唇を噛む。似てきた相手は亡くなった実母、陽葵の記憶には遠くにいるその人物だ。

「尚登さんから連絡をもらって、お付き合いさせてもらっていますなんて言われた時は驚いたけれど、嬉しくもあって、なかなか複雑なものだね」

嬉しそうな声もややしわがれているのが、離れていた年月を感じた。

「いやいや、好青年で安心したよ」
「ありがとうございます、本日はご足労いただき申し訳ありませんでした」

尚登が言えば、京助も答える。

「とんでもない、陽葵に会えるのが楽しみでした」

尚登は着席する前に名刺を取り出す、京助も名刺を取り出し交換した。

「改めまして、高見沢尚登と申します」

自己紹介もすれば、笑顔で名刺を見た京助の顔がはっとする。

「……取締役とは……」

末吉商事自体は一般市民の生活に密着した企業ではない、だが大がつくほどの企業だ、年齢を重ねた者ならばその名を知らぬものは少ない。そのような企業の役名に京助は素直に驚く、どうみても若い尚登がそれほどの役職にあるとは──。

「しょせん家族経営の肩書きです、あまり気にしないでいただけるとありがたいです」

尚登は恥ずかし気に言う。そんな言葉で辞めると公言するのは本気なのだろうと陽葵は感じた。
名刺をテーブルに置いた京助はふと首を傾げた。

「……陽葵とは、同じ会社で知り合ったと伺いましたが……」
「はい、間違いありません、陽葵さんは新卒で当社に採用されております」
「……末吉商事は、プラントなど、箱モノだけを手掛けておられますよね……?」

何にショックを受けているのか、陽葵も尚登も判らなかった。尚登が気付き座るよう勧めて互いに腰かける、京助の椅子を引いていたボーイが部屋を出て行き、京助が口火を切る。

「すみません──私は、陽葵は生命保険の会社に入社したと聞いていました」

この時まで、その会社で知り合ったものだと思っていた。

「──どなたからです?」

陽葵の疑問を尚登が聞く。

「妻から……新奈にいなからです」

陽葵は必死に首を左右に振った、継母が陽葵の就職先など知るはずがない、なんの連絡も取っていなかったのだ。しかも生命保険会社などと嘘をつくとは──反論は激しい呼吸にしかならなかった、ああ、またかと焦る心を尚登が手を握ってくれたことで鎮めることができた。その手に自身の手を重ね、ゆっくり息を吐く。

「──お電話でも話しましたが、陽葵さんはご家族から虐待を受けていたことがトラウマになっています、ですから今日もお父様だけとお会いしたいとお願いしました」

できるならもう少しゆっくりと話をしたい、時間を気にせず夜か休日にでも──だがそれでは新奈にバレてしまうとこの時間にしたのだ、それならば仕事だと誤魔化せる。

「もう何年も家に帰ることも、連絡すら取っていないと聞いています。なのに何故、奥様は陽葵の動向をご存じなんでしょう」

尚登の言葉に京助は俯いた、恥ずかしながら陽葵の動向は新奈を介してしか聞いていない。陽葵はどうしてるだろうと聞けば新奈はするすると答えてくれたものだ。

「陽葵が九州まで行ったのは、陽葵が言い出したことになっているらしい」

尚登は陽葵を覗き込むようにして言った、陽葵はじかれたように顔を上げる。

「私、そんなこと言ってな……!」
「──本当だよ」

陽葵がかすれた声で訴えれば、京助は静かな声で肯定した。

「私からすればまだ幼い陽葵がそんな遠くに行ってしまうのが残念だった、でもお義母さんが──新奈が子どもの意見は尊重すべきだ、難関大学への進学率も高くて自慢できる学校だから、行けばきっと本人のためになると言うから」

京助の言葉に陽葵は首を左右に振ることしかできなかった。先日の史絵瑠シエルの言葉も脳内を回り出す、継母も史絵瑠も陽葵が嫌いだから九州へやったのだと──それこそが真実だ。年末年始の帰省も誰一人、京助だって歓迎してはくれなかったのに。

「大学も、聖ミシェルだと聞いてますね」

尚登が聞けば、京助はすぐさま答える。

「ええ。だから史絵瑠も追いかけて入学したと言われ、仲が良い姉妹でよかったと思ったものです。陽葵が関東に帰ってきても実家に戻らないことは残念だと思いましたが、それだけに姉妹で交流があればそれもいいと」

違うと言いたい声は、涙にしかならなかった。

「陽葵は東大出身です、その証明書も入社時に提出されています」
「……そんな……」

京助は初めて聞く事実にショックは大きい。

「聖ミシェルの学費やらなにやらをずいぶん払っていたが……陽葵が都内で住まいを構えるからとその生活費も」
「──もらってない……!」

陽葵は声を絞り出した、なぜそんなことになっているのか、自分の苦労はいったい──。 

「──余計なことをお聞きしますが、そのお金はどこへ消えたんでしょう」

京助は頭を抱えるようにして大きなため息を吐いた。

「判らない──妻の……新奈の言われるがままに渡していた……」

陽葵が連絡を取らないことをいいことに、新奈は嘘をつき続けた。陽葵が戻ってきても、京助と連絡を取ることがあっても、のらりくらりとかわす自信があってのことだ、そんな新奈の本性を京助はまったく気づかずにいた。
学費も直接京助の口座から引き落とせばいいものを、専用の口座を作ったと嘘をついた。学部にもよるが私学の聖ミシェルの学費は陽葵が通った国立大学よりもはるかに高額だ、そのお金はどこに消えたというのか──疑うこともなく払い続けていた自分を呪った。

「済まなかった、陽葵。お義母さんは頑張って君のお母さんになろうとしてくれていると思っていた。君のことをよく褒めていたし、自慢の娘だと言っていたし、すっかり仲良くやっているものだと任せきりだった」

仲良くなどありえない──叫びたい言葉が出ない、父からはそんな風に見えていたのかと思う衝撃の方が強かった。継母の嘘を疑うこともなく信じたとは、やはり自分より継母の方が大事ということなのか──。

「よく陽葵の近況も知らせてくれたよ、なにかあれば知らせている様子に、本当の母子おやこのようだとほっとしていたんだ」
「……きんきょう……?」
「ああ、学生時代は行事や友人の話だった、親元から遠く離れても楽しくやっているようだと嬉しそうに話してくれた。最近では仕事の悩みだね、新規の契約を取りに行くのが大変だとこぼしているから、うちで新規に契約をしてあげよう、なんて」

完璧な作り話だ、陽葵は大きなため息とともに涙が零れ落ちる。

「──全部、嘘だったのか──」

事実を知った京助もまた、大きなため息を吐いた。女性同士、仲良くやっているのだと信じて疑っていなかった、やはり再婚をしてよかったと勝手に安心していた──今度は大きく息を吸い陽葵を見つめる、その瞳には決意が宿っていた。

陽葵ひまり。尚登さんから聞いた、私は天地神明に誓って、史絵瑠シエルに乱暴などしていない」

言葉を聞き終わる前に陽葵は息を呑み尚登を見た、なぜ直接本人に──もちろん尚登も事実無根の確証があってのことだ。小さく肩をすくめてから涙を拭うためのハンカチを手渡し尚登は陽葵の非難に応える。

「電話での話しぶりからでも、陽葵や史絵瑠から聞いた様子とは明らかに印象が違うと感じた。史絵瑠には直接問い質さないでくれと頼んで、聞いた」

おそらく史絵瑠も陽葵についたその場限りの嘘で、周囲に言いふらすようなことはしていないだろうと踏んでのことだ。だが陽葵はなおも疑心暗鬼である、大罪を簡単に自供するだろうか。

「やっていないという証拠を出すのは難しい」

陽葵の疑念を感じ取った京助が重い声で語る、それは『悪魔の証明』と呼ばれるものだ。

「だがやったという証拠も一切ない、信じてほしい」

まっすぐな京助の瞳に、陽葵は小さくうなずく。

「虐待についても、実の娘の陽葵と義理の娘の史絵瑠を平等に扱わなくては思う中、陽葵には厳しく当たっていた覚えがある、そして史絵瑠には甘かった。そんなことで陽葵が嫌な思いをしていて九州に行きたいなどと言い出したものだと思っていたんだ」
「……九州は……お義母さんが受験しろって言ったの……お父さんも了承してる、って……」

小さな声で言えば、京助は目を見開いた。

「私は君が遠くへ行くことには反対だったよ。淋しいじゃないか、中学生などまだ親の庇護にいるべきだ。でもお義母さんに説き伏せられて」

どうしてそれをその時直接言ってはくれなかったのか──陽葵の叫びは喉の奥で渦巻いた。

「お父さんは、お義母さんと一緒になって、私を叩いたり怒鳴ったりしたじゃない……!」

声は涙に潰れる。

「いつもお義母さんが正しいって……! 食事を取り上げられても、私が部屋に閉じ込めれてても、なにも言ってくれなかった……!」
「そんなこと、あったかな」

京助の言葉に、力が入ったのは陽葵の手を握る尚登の手だった。

「手を上げた覚えはないんだが……きつくお小言は言った覚えはあるんだ、それで君を傷つけてしまったなら謝る。食事の事は覚えているよ、ダイエットだとお義母さんは教えてくれた。何日も一緒に食事を摂らないから心配したが、部屋から出ないことも含めて、そういう年頃だ、女の子にはよくあることだから気にするなと。さすが女の子のことは女性に任せた方がいいと思ってしまっていたんだが」

全て、継母新奈の手の内にあったのだ──溢れ出る涙を陽葵は握ったハンカチで押さえた。

「済まなかった、陽葵。お義母さんに辛く当たられていたのか、それで九州に逃げ……」
「それはお義母さんに送り込まれたようです」

尚登が代弁する、しっかりと陽葵を抱きしめての言葉だ。

「ああ、そうか、そうだった」

京助は明るい声で肯定した。
父と陽葵の記憶の食い違い。継母によって歪められたにしても違い過ぎるのは、当事者とそうでない者との差だろうか。陽葵の記憶では継母と結婚した京助は、継母と同じくらい怖い存在だった──。

「気づいてやれなくて、ごめんよ、陽葵」

京助はテーブルに額をこすりつけるようにして頭を下げた。

「助けてやれなくて済まなかった。それで陽葵が家を……お父さんを避けていたなら、本当に申し訳ない。でも私にとって陽葵は誰よりもかわいい娘だ、今も昔も、これからも」

陽葵が父の謝罪に答えられずにいると、尚登は優しく陽葵の髪を撫でた。それだけで今はこの人がいると安心できる、絶対許さないと思っていたわけではない、この世にたった一人しかいない肉親だ。

「うん……もう、いい……」
「でも、これからも他人のままでいさせてくれませんか」

尚登は陽葵の声を遮り言った。

「他人、ですか……」

京助のしゅんと落ち込む。

「お義父さんとは仲良くやっていきたいのですが。お義母さんと史絵瑠さんについては、お義父さんは愛した人かもしれませんが、私は好きになれません」

はっきりと言ってくれ陽葵は安心した。そのとおりだ、記憶の齟齬があっても父は父、本当には嫌いになれない、しかし継母とは──無理だ。

「私にとっては赤の他人です、陽葵も継母ままははに対する思いは同じようなものでしょう。申し訳ありませんが少し距離を保ちたいです。お義父さんを騙し、乱暴されているなどと虚言を弄するような人たちは信用できません」

それは確かにと納得する京助の声がした。

「しかし……史絵瑠はなぜ、そんなとんでもない嘘をついたのか」
「単に陽葵に嫌がらせをしたかっただけのようです。万が一その嘘が公になっても傷つくのはお義父さんで、史絵瑠さんは皆の同情を買うだけ、なにも困らないんですから」

そうかとため息交じりに京助は呟いた。

「それと親元から離れたい希望があったようですね、ですから陽葵を傷つけた上でその家に転がり込む魂胆で」
「ああ……確かに、何度か家を出たいという相談は受けていたが……」

だが早々に手が離れてしまった陽葵に続いて史絵瑠までいなくなってしまうのが寂しかった。なによりまだ学生の身では京助が負う出費も増えるのは正直きつい、面倒ならいくらでもかけてくれと思うがそれとは違う。出て行くなら嫁になる時と漠然と思っていたのだ。

「……なぜ、そんな嘘を……」

京助は呟く、新奈にしても史絵瑠にしてもだ、バレない嘘はないのに。
小さく揺れる陽葵の背を、尚登は優しく撫でる。

「悪かったな。電話でお義父さんと話した様子から、直接会ってみたほうがいいと思って」

いきなり確信をついた話をしたわけではないが、陽葵の話から感じる印象とはあまりに違う反応に違和感を感じた。陽葵のことは大切に思っているようだった、思い切って史絵瑠のことに聞けば、驚きしらばっくれる風でもない。会いましょうかと言えば即答で是非と応えた、そんな嬉々とした様子からも虐待などなかったのではないかと確信を得たのだ。真実は尚登には判らない、だが陽葵は傷つき、京助はそれに加担していないというのは現実なのだろう。これですべての遺恨がなくなるのか、それすら判らないが──陽葵を抱きしめ、あやすように背中を叩く。

「飯、食えるか?」

聞かれ陽葵は抱きしめ返して小さく「うん」と答えた、そんな睦まじく見える姿に京助の表情が緩む。

「幸せそうでなによりだ」

京助の笑みは花嫁の父のものだろうか、立ち上がると深々と頭を下げた。

「尚登さん、陽葵をよろしくお願いします」

尚登も立ち上がりそれに倣う。

「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします。陽葵さんを大切にします」

まるでプロポーズのような言葉に、陽葵も慌てて立ち上がり京助に向かって礼をする。

それが合図だったかのように部屋のドアがノックされ、料理が運ばれてきた。

「尚登さま」

ウェイターが声をかける。

「冷やしたおしぼりをお持ちしますか?」

陽葵は「ん?」と声を上げそうになった、今日はひっぱたいていないのだが──。

「お願いします」

笑顔で答えた尚登が陽葵と目を合わせて自分の目元を指さした、その仕草で自分の涙のためのおしぼりだと判る、本当になんでも見えているのだ。

食事が終わり、乗り込んだエレベーターで尚登が切り出す。

「今日のことは、奥様と史絵瑠さんには内密にお願いします」

これは念押しだ、電話で既にその話はしておりそのために平日の昼間に会う約束をしたのだ。京助は重々しくうなずいた、その意味をようやく理解できた。

「うちの両親にはお義父さんにお会いしたことを伝えます。今後のことも相談のうえ近日ご連絡させていただきますので、よろしくお願いいたします」

頭まで下げて言う尚登の言葉に陽葵の頬に朱が上る、今後のこととは結婚の話だろうか、本当に尚登と結ばれるのだ。

「奥様にはうちの両親も同席の時にご挨拶できればと思います、それまでは内緒にしていただけると助かります」

他人ではいられない相手だ、せめて観衆が多い席でならばと尚登は画策する、京助もうんうんと頷き了承した。

エレベーターは1階へ着いた、尚登がタクシーで帰ってもらおうするが京助は遠慮する、だが車寄せに停まるタクシーに声をかけるとタクシーチケットを渡してしまう。

「尚登さん、今日はありがとうございました」

乗り込む前に京助は深々と頭を垂れて礼を述べる、陽葵との仲を仲介してくれた礼も、食事代もこちらが誘いましたからと尚登が支払っているものを含めてだ。

「陽葵」

陽葵を優しく抱きしめた。

「本当に今日まで悪かった、許してくれというのは傲慢だろう。それでも陽葵が許してくれるなら今後は失った時間を取り戻したい」

京助の言葉に陽葵は頷き、抱きしめ返していた。

「ああ、でもこれからは尚登さんがいるんだね、その隙間に入れてもらえたら嬉しいな。いいご縁で安心した、尚登さんと幸せになるんだよ」

優しい声に陽葵は小さな声ではいと答えていた。こんな風に言葉を交わすのは何年ぶりだろうか──離れた京助は再度尚登によろしくお願いいたしますと会釈し、タクシーに乗り込んだ。そのタクシーを見送ってから、二人は手をつなぎ社に向かい歩き出す。

「怒ってる?」

尚登はいたずらめいた目で陽葵を見る、陽葵は小さく首を左右に振った。

「怒るというよりびっくりしたけど……もう大丈夫です」

びっくりとも違う、父にはやはり苦手意識があり、恐怖を感じたのが最初か。

「ごめんな。理由はどうあれ、内緒で陽葵と付き合ってるのはやっぱり良心が咎めるから一言くらいと思って電話して、ああそうですかくらいで終わりかと思ったら、なんつうか思っていた感じと違って陽葵のことは心配してる風だったし」

全ての連絡が新奈を通してだったからだ。実の母子であったならそんなものかと諦めてもいたが淋しかったのは事実で、初めて新奈以外の人物から聞く陽葵の話に声は弾んでいた。

「なら会いましょうって言えば、即答で是非是非、楽しみだっていうからセッティングさせてもらった。陽葵は嫌がるだろうと思って内緒しといて、ごめんな」

言って優しく肩を抱きしめる、それだけですべてを許せてしまう。

「せっかく親子なんだし、思うところがあれば吐き出したほうがいいかなとか思ったし。それでも陽葵がどうしても許せないって言うならもう会わなければいいんだし。まあ、荒療治を押し付けて悪かったな」
「ううん……ありがとうございます」

陽葵は尚登の腰に腕を回し答える。

「尚登くんの、言うとおりだと思う……」

どちらかが関係を断ちたいというならともかく、自分も永遠に無視し続けていたいかというとそうではなかったようだ。再会を素直に喜べた、父は自分が幼少期に知っていた人そのものだった、優しく慈悲深い人、少なくともその記憶に間違いはなかったのだ。

「私、多分淋しかったんです、父を取られてしまったって。父は私なんか嫌いになってしまったんだって──でもそうじゃなかった」

新奈に何を吹き込まれても、もっと京助にまとわりつくように話しかけていれば違う未来があったかもしれない。

「それが判ってほっとしました。ありがとうございます、忙しいのにこんな時間を設けてくれて」
「そう言ってもらえてよかった」

尚登は足を止め、人目もはばからず陽葵をしっかりと抱きしめた。昼時のみなとみらいはランチを摂るための人の往来は激しい。

「陽葵が寂しそうな顔をしているのは、俺も辛いからな」

耳元でする優しい尚登の声に、陽葵も尚登を抱きしめる。
これで家族としての時間が、再び動き出すだろうか。





タクシーは事務所まで送ってもらった。夕方、仕事を終え南武線、平間駅近くの自宅へ帰る。

「お帰りなさい」

ただいまと声をかければ、妻の新奈が出迎える。年の割には若作りだが、それも若々しさだろうと京助は好意的に受け入れていた。

「先にお風呂をもらおうかな」

ネクタイを緩めながら言えば、新奈はもう沸かしてあるからごゆっくりと京助を労う。いつもと変わらぬ夫婦の様子だ、だからこそ、京助はふと思ったことが口に出てしまう。

「なあ……陽葵は、元気にしてるかな」

聞けば、新奈はにこりと微笑み答える。

「まあ、急になあに? そういえば最近連絡はないわね、忙しいのかしら? あとでメッセージ入れておくわね」

新奈はよどみなく答えた。

陽葵が九州に行った頃には当然通信機器は持っていなかった。寮へ電話すれば話すことは可能だが、京助にはできないと伝え自分が窓口になるよう仕向けた。二人きりで話し込めば自分の罪がバレるからだ。
高校を卒業したはずでも本人からの連絡はまったくない、完全に姿をくらませたがそんなことは京助には伝えず、よき母を演じ続けていた。

その全てが噓だったと今さらながら判る──判っても京助は糾弾することはしなかった。そんなことをしたところで、新奈が陽葵を受け入れることはないだろう。
小さなため息を吐きありがとうと答え、ジャケットとネクタイをハンガーにかけ寝室の鴨居にかけると風呂場へ向かった。

(──陽葵のことを聞くなんて)

背を見送りながら新奈は思う。今までにもなかったわけではないが、なにか胸騒ぎがしたのは犯罪者の勘か。一度は食事の支度をしようとキッチンへ向かいかけたが、すぐに寝室に取って返す。

まずはジャケットのポケットを探った。スマートフォンを見つけホームボタンを押したがそこまでだ、パスコードまでは判らない──本当なら聞きたいが、そうなれば自分のものを知らせないといけないのかと思えばできずにいた。スマートフォンは最大の情報源だが探ることはできない、とりあえずロック画面には何も表示は残ってはいなかった。他にはハンカチや名刺入れが入ってる、そして紙の手帳を見つけ、これだと早速開いた。

メモ欄には特に記載はない、スケジュールを見れば会社名と時刻が並び、忙しくしている様子が判った。
本日の日付には『セントラルホテル、12時』とある。まさに陽葵と会っていた場所と時間だが、その書き込みだけでは判らなかった。

(……これを見る限りじゃ、特に陽葵と連絡を取っている感じじゃないわね……)

他に情報源はないか、京助の鞄を開いた。あまり乱暴にして漁った痕跡は残したくはない。中身をわずかに引き出し確認するが、ファイルやクリアフォルダーなど、概ね仕事関連だと感じる。

他にめぼしいものはない、最後に財布を手に取った。中を改めれば札を入れるポケットに一枚だけ名刺が入っているのが見えた、なぜこんなところに──陽葵の名を期待して手に取ったが、それは尚登のものだった。

「……末吉商事……代表取締役……?」

世界に進出する設計会社だと専業主婦の新奈にも判る社名だ。京助の仕事相手だろうか、それほどの大企業を相手にしているとは、勝手に鼻が高くなる。

(でも、代表取締役って)

京助の仕事は知っている、関わるなら経理関係だ。いくら大企業でも名刺のやり取りならばその関係の者ではないのか、監査などならまだ理解できるが。

(代表取締役って社長でしょ。こんな大企業の社長と直々に経理の話?)

それはそれで自慢になるが、どこか腑に落ちなかった。財布に入れておくほどの大事な名刺ならば京助からなにか報告があるような気がした。
その名刺は自分のスマートフォンで撮影し記録した。そして元通りに入れ財布を戻し、受け取った名刺入れるフォルダを取り出し見てみるが、その中には末吉商事のものはなく、陽葵の名もなかった。

(……やっぱりちょっと思い付きで陽葵が気になっただけかしら……)

気になりつつもほっとし、食事の準備を始めた。

改めて尚登のことを調べたのは食後だ。スマートフォンで会社名を検索すれば簡単に引っかかる、社名と住所を確認すれば間違いなかった。そして役員一覧という項目が目に留まり早速開く。ご丁寧に写真付きの役員紹介である、その時初めて『代表取締役』と『代表取締役社長』が違うのだと知った。

「え、嘘──」

思わず声に出た、隣に座りテレビを観ていた京助が首を傾げて新奈を見る。新奈は慌てて笑顔を作り誤魔化した。

(え、高見沢尚登……!? 待って、かっこいいじゃない……!)

簡単に見つかったその写真自体は就任時に撮ったもので今より2歳若いが、新奈には関係ない。しかも一番最初に紹介されているのは代表取締役会長・CEOと書かれた『高見沢則安たかみざわ・のりやす』、次にいるのが代表取締役社長・COOの『高見沢仁志たかみざわ・ひとし』だ。同じ姓でそのすぐ下にある『高見沢尚登たかみざわ・なおと』が、会長と社長の血族だと簡単に推理できる。

(え、待って待って待って。このイケメンは末吉の跡継ぎってことじゃない? ええ、やだー、いいじゃない、年齢的にも見た目的にも史絵瑠に釣り合うわ。 やっだー、結婚とかなれば義理とはいえこのイケメンの母親か、悪くないわー)

知らぬうちに舌なめずりをしていた、勝手に鼻唄も流れてしまう。

史絵瑠は自慢の娘だ。世界中の誰よりもかわいい愛娘は、自分の分身のように感じた。スカウトでもされないかと史絵瑠をモデルにアパレルブランドを立ち上げ専門店まで開いたが、生憎スカウトの目に留まることはなく店も短期間に閉店を余儀なくされている。

事故死した前夫の遺産で立ち上げた店で、パタンナーや裁縫師なども雇って鳴り物入りで開店したが、6人の従業人に給料を払うのも苦労するほど売れることもなかった。デザインは史絵瑠のために新奈自ら行った、だが時代が付いてこなかったと思っている。
世の中は金だ、金さえあればなんでもできる。自分で稼ぐより金持ちの男と結婚したほうが楽だと思い、多くのマッチングアプリで出会いを求め、結婚相談所にも通い京助と巡り会ったのだ。

史絵瑠もそうすればいい、どこの誰よりもかわいい娘がこんな男と交際、結婚となれば更なる自慢だ、自分にもおこぼれがあるに違いない。

そう、陽葵など、可愛げもなく女としての価値などない。

京助との結婚前に何度か会った時には、おとなしく、よく躾の行き届いたいい子だと思った。だがいざ一緒に住み始めれば、なぜかそれが可愛げないと鼻につくようになった。

一番は近所の評判だ、元々藤田一家が住む家に一緒に住むことになり、近所の挨拶に回った時。
新しく家族になりましたと言えば、最初こそ史絵瑠を見て「可愛らしいお嬢さんね」と褒められ優越感を得たが、すぐに話題は陽葵に移る。いい子よ、きっと迷惑はかけないわと言われ、それを聞く陽葵も特に鼻にかけた様子もなく微笑む姿に早くもいら立ちがあった。

朝から服装選びに忙しく、髪もかわいく結んでとうるさい史絵瑠と違い、陽葵はきちっと自分で身支度を整え、食事を終えると食器まで洗い終わり、校門が開く時間にきちんと家を出る毎日だ。

礼儀正しく継母を気遣う陽葵が疎ましく感じた。

いら立ちのままに怒鳴りつけても、陽葵は自分が悪いと非を認め謝罪した。そんな態度にまた腹が立ち、日に日に暴行がエスカレートしている自覚はあった。まるで試し行動だ、陽葵がどこまで自分を許すか、いつになったらふざけるなど暴れ出すか──そんなことが楽しみなっていたが、陽葵は多少の口答えはあっても、涙をこぼしじっと耐えるばかりである。

いつまでも思い通りにならない陽葵が目障りだと追い出しにかかった。九州の中高一貫校の受験だ。
合格すれば6年間は顔を見なくて済む、失敗すればあざ笑ってやればいい。惨めに鬱々と過ごす陽葵を想像しワクワクしていたが、陽葵は見事に合格してしまった。
春からは陽葵は遠くの学校へ行くと近所の者に言えば、学校名を聞いた誰も彼もが「すごい!」と褒めたたえた。偏差値70を超える学校だ、確かにすごいが新奈はむしろ面白くない、また話題の中心は陽葵になってしまったからだ。

陽葵が行けたなら史絵瑠もやれると、難関校と呼ばれる学校を受験させようとしたが史絵瑠には無理だった。それがさらなる陽葵への憎しみに変わる──どこまでいっても気に食わない娘だと勝手に恨んだ。
だからこそ嘘をつき続け、遠ざけ続けた。どこかで泣きついてくればまだ可愛げもあるのに──しかも高校卒業後はどうするのだろうと学校へ確認を取れば、最高学府に合格したんですよと教えてくれた。どうぞ褒めてあげてくださいと言われたが、むしろ自慢げな連絡すらしてこない陽葵がどこまでも小賢しいと腹が立った。

都内に通うならば家に戻ってくるのか、そう心配したのに結局何の連絡もない、完全に行方をくらませた陽葵がありがたかった。自分が勝ったくらいのつもりでいた。だが京助の対処はどうするか──しかし心配はするが、連絡を取っていることにすればそれ以上の詮索はなく、なんとも簡単な男だと鼻で笑ったものだ。

散々意地悪をした、もう何年も連絡すらしてこないのならば、一生他人でいられるだろうと安心している。次に連絡あるとすれば死亡の知らせがいい。京助を奪い、生まれ育った家を奪ってやった、ざあまみろという気持ちが勝っていた。

21時を回った頃、史絵瑠が帰宅する。

「ただいまー」
「おかえり」

先に声をかけたのは京助だった。

「遅かったね、心配したよ」

それは本心であり、曇った心がなければ素直に受け取るであろうが、史絵瑠は小さく舌打ちをする。

「そういうのいいから。私だってもう成人してんのよ、日付またいで帰宅するくらいさせて欲しいわ」

怒る史絵瑠を新奈は上機嫌になだめた。

「あなたが可愛いから心配なのよ、ママだってあなたの顔を見ないと眠れないわ」

新奈の言葉はさすがに受け入れたが、返事は「あっそ」とそっけないものだった。

「ねえねえ、ちょっと話があるの」

そんなことを言って二階を示す、史絵瑠の自室へ行こうというのだ。そんな二人を京助はため息交じりに見送った、史絵瑠に冷たい態度を取られるようになったのはいつの頃からか、それも新奈にはそんな年頃だからほうっておけばいいと諭さすのだが。
史絵瑠の部屋に入ると、新奈は浮かれた様子でドアを閉める。

「もうパパ、マジうざいんだけど。本当にほっといてほしい」
「そう言わないの。金づるだと思えばいいって言ってるでしょ、あなたがいつもとってる客と同じよ」

史絵瑠はうんと答えた、京助は母にとってパパ活同様、ATMでしかないのだ。

「ねえ、それよりさ。あなた今恋人いないでしょ」
「いるわけないじゃん、おじさんたちに会うだけで精いっぱい」

肩をすくめて言う史絵瑠に、新奈はにやりと笑いかける。

「ねえ、この人口説いてみない? お金持ちだしイケメンだし、史絵瑠にお似合いだと思うんだけどなあ」

新奈が見せるスマートフォンの画面を覗き込んだ瞬間、大きな舌打ちが出る。

「あーその男、無理。お姉ちゃんの恋人だし」

言われて新奈は素っ頓狂は声が出た。

「陽葵の恋人? この人が?」

まじまじと写真を見た、陽葵に釣り合う男ではないと勝手に思う。だが同時に合点がいった、きっと交際の挨拶でもあって名刺交換をしたのだ、だから名刺フォルダではなく大事に財布にしまっていた。陽葵はおそらく一緒ではなかったと推察した、そうでなければ鎌かけのように陽葵の安否を聞いてこないだろう。

「そう! お姉ちゃんのどこがいいんだか知らないけど、べた惚れみたいよ! まあ、本人も性格悪いし、その点じゃお似合いかも!」
「見た目がよければ、多少性格に難があってもいいんじゃない?」

持論というわけではないが、性格の悪さは見た目でカバーできると思っている。

「そんなレベルじゃないわよ、お姉ちゃんが私にいじめられたとか言い出したら、怒って私に水ぶっかけたのよ! 満席の喫茶店で! 思いっきり恥かかされたんだから!」

嘘を交えて訴えた、どうせバレることがないと高をくくっている。

「ああ、この間、濡れて帰ってきた時の?」

怒り心頭で自室にこもってしまい、何があったかも聞けず、史絵瑠からも報告はなかったが。

「って、陽葵と会ったの?」
「あー……うん」

史絵瑠は言い濁しつつも語る。

「お姉ちゃんもかっこいいカレシを紹介したかったんじゃないの? 会いたいっていうから会ってあげたんだけど、もう、マジ、ムカつく」

新奈はふうん、と呟いた。別に義理の親子になれるなら、陽葵でもよいかと算段を始める──一瞬にして手の平を返した。

「陽葵と連絡取り合ってたんだ、いつの間に?」

新奈に聞かれ、史絵瑠はやや居心地が悪い。家を出て行くのを反対しているのは新奈もだ、陽葵の家に転がり込もうとしていた話もしていない。

「うん、ちょっと前にばったり会って、連絡先を」
「私にも教えて」
「え、なんで……」

様々な嘘がバレる可能性がある、背筋が冷えた。

「これでも母親よ、話くらい聞きたいわ。交際なり結婚なりするなら他人じゃないじゃない」

笑顔でいう新奈を言い含めることを諦めた、不承不承ながら通信アプリを開き友達紹介で新奈に教える。

「私はあの男と結婚するのは反対だわ」

史絵瑠は訴えるが、新奈は明るい笑顔で応える。

「金持ちのイケメンを取られて悔しい? いいじゃない、義理でも兄になるのは嬉しいでしょ」
「そうじゃなくて」

ため息交じりに答えたがそれ以上は言わなかった。これまでついてきた嘘やはったりが親に筒抜けになる可能性がある──なにより急に母が陽葵寄りの発言をすることに恐怖を覚えた、結局この人は金と外見だけなのだ。
子どもの頃から可愛い、可愛い、史絵瑠は世界一だと育てられた。率先して着飾ること教えてくれ、一時だがモデルとして母がデザインした服を着て多くの賞賛を浴びていたことが懐かしい。実父が残してくれた遺産が底を尽きると、母は金持ちとの結婚を求めて手を尽くしていたのも知っている。
それが全て──それしかない。

「私があと10歳若かったらなあ、直接アタックしてやるのに、悔しい」

10歳でも母と子ほど年齢差はあるだろうと思ったが、史絵瑠はあえては言わなかった。
新奈は鼻歌交じりのまま、陽葵のアカウントを友達登録し、早速メッセージ送る。まずは接触を試みよう、優等生の陽葵ならば、過去のことは全て棚に上げすんなり『母子』に戻るだろう。拒絶されてしまうなら元気だったかと涙でも見せればいい。恥もプライドもない、尚登のような好青年と金が手に入るなら──にやりと笑みがこぼれた。
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