根岸アリアはお茶がしたい

原野伊瀬

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捜査編

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午後9時48分


 箕輪家の小さな台所にリズミカルな音が響く。
 繊維方向に沿って玉ねぎを薄くスライスし、続いてボウルに割り入れた卵の白身を菜箸で切るようにかき混ぜる。
 材料の準備が整ったら、その間に火にかけておいた油の温度を確かめる。パン粉を落とし、沈まずに浮き上がってきたら頃合いだ。
 豚ロースはあらかじめ卵と小麦粉を水で溶き、塩コショウで味付けしたバッター液に漬け込んである。それにパン粉をまぶし、鍋に入れると突然の夕立のような激しい音が生まれた。
 一分ほどで表面に薄く色が付き始め、そこで一旦油から引き上げる。衣の中の水分が激しく爆ぜる振動を感じながら三分ほど予熱でじっくりと中の肉に熱を通す。その後、もう一度油の中に戻し、今度は先程よりも高温でサっと揚げる。
 こうして二度揚げすることで外はサクっと、中の肉はジューシーに仕上げることができるのだ。

「兄さん、警察署から帰ってくるなり一体何を作ってるの?」

 創介が遅めの夕飯を作っていると、義妹の彩夢あやめが怪訝そうな表情で二階から下りてきた。
 今年で中学二年生になった箕輪家の一人娘は学校指定のジャージというラフな格好で、同じ柄のハーフパンツからは日に焼けた素足を惜しげもなく出している。
 血が繋がっていないにもかかわらず創介と同じように背が高く、見た目だけなら十分高校生や大学生と言っても通用しそうだ。

「ゴメン、うるさかった? 今日は昼から何も食べてないから、ヘンな時間にお腹が空いちゃって……」

 会話をしながらも創介の手はよどみ無く動き続けていた。
 こんがりきつね色に揚がった豚カツの余分な油をキッチンペーパーに吸わせている間に別のフライパンにみりんや醤油、かつお出汁で作った割下と玉ねぎを入れ、軽く煮立たせる。

「それにしたって他に献立はなかったの?」

 箕輪家では主に食べるのが専門の彩夢も義兄が何を作っているのか、すぐに見当がついた。
 しんなりとしはじめた玉ねぎが醤油ベースの割下を吸って実に香ばしい。

「何か今日はんだ。不思議だろ?」
「わたしは兄さんのその謎の図太さの方が不思議だよ」

 だが、この血の繋がらない兄の大らかな性格は今に始まったことではない。箕輪家で暮らすようになった時も創介は変にかしこまったりせず、かといって必要以上に家族に溶け込もうともせずマイペースのままもう四年が経とうとしていた。
 両親が死んだ後だというのに自然体でいられる創介を彩夢は初めのうちは気味悪く感じ、距離を取っていたこともある。

「ところで彩夢ちゃんの分もあるけど、よかったら食べる?」
「えっ!? アタシはさっき自分でレトルトカレー作って食べたから……」

 おもわず彩夢はジャージの上からお腹を押さえた。いくら育ち盛りとは言え、年頃の女の子にとってカロリー収支と体重量の計算は連立方程式よりも難儀な問題だ。
 そんな乙女の葛藤をあざ笑うかのように創介はフライパンに先程のカツと溶き卵を半分ほど加える。
 ジューッと小気味良い音と共にトロトロの卵がフライパンの上で艶かしく踊り、カツと卵が十分に絡み合ったところで残りの卵を加え、程なくして火を止める。すると半熟卵が白と黄色の鮮やかなマーブル模様を描いた。

〈――はっ!? いけない、ヨダレが……〉

 彩夢はおもわず口元を袖で押さえたが、ふわふわの卵に包まれた豚カツが熱々のご飯の上に乗った瞬間、呆気なく陥落した。

「……まったく、兄さんの飯テロには敵わないなぁ」

 ダイニングテーブルにしずしずと腰を下ろす彩夢。

「ははっ、今はテロリストじゃなくて殺人事件の容疑者だけどね」

 向かい側に座った創介は苦笑いを浮かべながら両手を合わせた。

「そのジョーク、全然笑えないから、兄さん」

 彩夢は手を合わせたままジトリと義兄を一瞥し、創介が作った手料理を2人で食べる。
 箕輪家ではもうすっかり見慣れた食事風景だ。
 彩夢の母親は創介が養子になるよりもずっと前に他界しており、父親は父親で事件の捜査で帰りが遅かったり、時には何日も帰って来ない時もある。そうなると必然的に年長者である創介が炊事洗濯といった家事全般を引き受けることになり、今ではすっかり主夫が板についていた。

「まったく、お腹が減ったなら大学生らしくコンビニ弁当かカップ麺でも買ってくればいいものを……なに? この衣のサクサク具合は!? トロトロの半熟卵との魅惑のシンフォニー! ……って、定食屋でも始める気なの!?」

 彩夢はカツ丼を食べるごとに口元を綻ばせたり、眉間にシワを寄せたり、唸ったり、溜め息をついたり、忙しい。
 そんな冬眠前のリスのようにほっぺたを膨らませた彩夢を微笑ましく思いながら創介も自分の分のカツ丼を口に運んだ。

〈……うん、ちゃんと中まで火が通ってるな〉

「大丈夫、豚肉はちゃんと国産のおつとめ品を買ってきたよ。スジ切りした後、瓶の底とかで叩いてやると柔らかくなるんだ」
「だーかーらー、そういう所帯染みた事はやめてってば! ご近所さんからアタシが何も出来ない駄妹《だまい》に見られるでしょ?」
「いや、でも最近は彩夢ちゃんも洗濯とか手伝ってくれるから助かってるよ」

 創介が微笑みかけると彩夢は喉にご飯を詰まらせたように急に慌てた。

「そ、それは家族なんだから家事の分担は当然だし……」

 もう子供ではないという自覚はもちろんあったが、兄妹とは言え男の人に自分の下着を洗濯されるのに抵抗があるという年頃の事情もある。

〈まぁ、兄さんなら平気な顔でおしゃれ着用洗剤使って手洗いしてくれそうだケド……〉

 それはそれでまた違った事情で頭を悩ませることになるので、彩夢は無理やり話題を変えた。

「そんな事より兄さん、ホントに大丈夫なの?」

 急に真面目なトーンで尋ねる妹に対して、流石の創介も「うん、悪くはないけど、割下にウスターソースを混ぜても美味しいかもしれない」と惚けてみせるほど、能天気ではない。
 彩夢が心配しているのは今日起きた殺人事件のことだ。今もって創介は第一容疑者であり、真犯人や〝立体ラテアート〟の中に毒入りカプセルを入れた方法はようとして知れない。

「辰彦さんにも言ったけど、やってないよ」

 静かに、けれど真摯な想いを込めて大切な家族の目を正面から見据える。
 すると彩夢は形の良い眉を片方だけ上げて、なんとも言えない表情を浮かべた。

「なに当たり前のこと言ってるの、兄さん? そんな事、ハナから疑ってないし」

 きっぱりと言い切った彩夢のまっすぐな瞳は父親そっくりで、創介はこの二人と家族になれた事を改めて感謝した。

「心配なのは、父さんね」

 主の居ない上座に向かって箸を向ける彩夢。

「そうかな? 現場からの叩き上げで警部になるって相当優秀じゃないとできないと思うよ?」
「確かに人の心理を見抜く眼は鋭いし、聞き込みとか地味でコツコツした作業は得意そうだケド……こう、犯人の動機がイッちゃってたり、こんがらがった謎を解いたりっていうのには向いてないような気がするんだよねぇ……」

 箸先を口に添えたまま刑事としての父を評する娘の姿に創介はおもわず面食らった。中学生とはいえ、刑事の娘として人を見る目は確からしい。
 彩夢の言う通り、箕輪警部は良くも悪くも常識人だ。
 もっとも、警察官としてはそれで正しい。現実の事件ではアリバイ工作や奇術めいたトリックなど滅多に使われないのだから、地道な聞き込みと証拠固めが犯人逮捕への近道となる。しかし今回の事件に限っては、被害者が殺される動機も未だ見えず、真犯人によって創介だけが毒入りカプセルを入れられる状況が作り出されていた。
 勤勉で常識的な警察官の手には余る……なんとなく、創介もそんな予感がしていた。

「こんな時、都合よく〝名探偵〟が現れてくれればいいのにね」

 創介が力無く肩をすくめると、彩夢はガッカリしたように深い溜め息をついた。 

「ハァ~、何で兄さんはそこで『自分の容疑は自分自身で晴らしてやるっ、彩夢ちゃんの名にかけて!』って言えないんデスカネー」
「いや、そんな恥ずかしいセリフ、誰だって言えないから」

 創介はあんぐりと口を開けたまま、そういえば義妹はよく刑事モノの二時間ドラマを観ているのを思い出した。

「彩夢ちゃん、昔から刑事ドラマとか『何とか24時』とか好きだよね。やっぱり血は争えないのかな?」
「ン~~別に父さんは刑事ドラマ好きじゃないと思うけど……でも、わたしは昔から探偵小説とか好きかな。エドモンド・ヒルディックでしょ、コナン・ドイルに横溝正史、それから城平京!」

 好きな推理作家の名前を指折り数える妹を感心しながら見ていると、彩夢はジトリと湿った目で創介を見つめ返した。

「兄さんも『医大生』なんて手頃な属性が付いてるんだから、みたいにシュババーっと事件を解決しちゃってよ」
「そんな無茶苦茶な……」

 医者と言うならどちらかというと、自分はワトソンタイプだと思っている。情報を整理して客観的に状況を分析するのは得意だが、謎を解いたりというのには向いていない。人の――特に婦女子の心理を推し量るというのは昔から致命的に苦手だった。
 だから彩夢が何故、デザートの手作りカスタード・プディングを親の仇を見るような目で睨みつつスプーンで掘っているのか、創介には見当もつかない。

〈卵液濃度の配分を少し間違えたかな?〉

 などと見当違いなことを考えていると彩夢はふと思い出したように呟いた。

「〝たまたま事件に巡り合う〟のが〝名探偵〟の才能だとしたら、既に二回も経験している兄さんも十分見込みがあると思うんだけどなぁ~」
「なんだい、それ?」
「最近ハマってる推理作家の皆葉みなばイリアさんの本に書いてあったの。〝名探偵〟に必要なのは推理力や観察眼でもなく、だって。警察と違って探偵が活躍するには直接事件の現場に居合わせる必要があるじゃない?」
「確かに言われてみれば、探偵モノってだいたい出かけた先や旅行先で事件に巻き込まれる事が多いね」

 レストランに入れば店主が凶器の冷凍肉を振る舞い、旅行に行けば人里離れた山荘で連続殺人が起こり、移動の船や列車はたちまち巨大な密室になってしまう。
 そんなある意味呪われた運命を古今東西の〝名探偵〟たちは背負っている。
 しかしそれはあくまで物語の中での話だ。

〈現実にそんな悪運が続いたら、おちおち買い物にも出かけられないじゃないか……〉

 彩夢が片付けを申し出てくれたので、そのままスーパーの折込チラシのチェックを始めると、ふとそんな益体もない感想が浮かんだ。
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