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第一譚:はじまりは時の線路
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しおりを挟むほんの少し昔の話をしてもいいかい?
ある少年が魔法を世界に持ち込んだ日から始まったおとぎ話。
その魔法は誰にでも使える奇跡の象徴だった。けれどある時を境にそれは突然と姿を変え、やがて誰も見向きもしなくなっていった。
――1945年、零戦時に現れた悪意の体現者。彼の暴走によって塵と化した箱庭の世界。
当然、彼らはそんな悪夢のような存在を崇める筈などなかった。
ある者はそれを奇跡ではなく災厄と呼び、ある者は悪魔の操る呪術とまでも呼んだ。
魔法はもう、大衆の願いを叶える希望ですらなくなっていた。
だからこそ、僕は神秘の力を呪詛に変えた彼を激しく憎んだ。
僕の大切な家族の力を穢した、悪魔の存在。
その者の遺した禍の負債で、どれだけの人が今も苦しんでいることか。
彼は知らないのだ。自身の大罪が生んだ、余波に巻き込まれた者たちに刻まれた呪いと苦悩を。
彼には知り得ないのだ。癒えない傷が腐り果て、蝕まれた痕を化け物の証として虐げられてきた彼らの孤独を。
知る者は少ないだろう。なぜなら、このお話を現世に出すことは固く禁じられている。
それでも知りたいと願う君にだけ、こっそり教えてあげるね。
あの子の力が世界に伝わったのはほんの数年前のこと。
その名は赦さざる禁忌の術式『ジルヴォンニード』――
第一譚『はじまりは時の線路』
幸せと、願いと想いと償いと――それは遠い記憶のおとぎ話。
『幸せの意味が理解できないうちは、あなたはまだ幸福という証なのよ』
少女の声が反響する。
まるで濃霧の果てから呼ばれているような、そんな遠い響きだった。
その言葉は過去の記憶か、未来からの警鐘か、もしくはこの場で放った少女の詭弁か。
――だとしても、なぜこんな時に伝える必要があったのだろう。
目の前で倒れ伏す少女の残骸は、思い出に閉じ込められたガラクタの破片でしかないのに。
「これが……これが幸せだっていうのかよ」
自分を家族と呼んでくれた親友たちの声も聞こえない。すべては鉄屑の女たちが奪ったから。
ひび割れた地べたの上でたそがれている今だって、ほら。木も、人も、家も、道も……何もかもが燻されて、茜色の空とともに猩々へ呑み込まれていくのに。
そんな馬鹿なと魂の底から叫びたかった。けれど流す涙も枯れ果てた。
意識が惨憺たる紅の景色に焼き尽くされてしまった以上、喉を振るわすこともままならない。
柄をにぎる指先の感覚も、地と溶接されたようにまるで無い。
歩みだそうと叱咤する足もおぼつかない。
何もかも、あの焔に侵蝕されてしまった。知覚も、体感も、遠い日の記憶さえも――
涙の意味を忘れて一つの歳次が経った頃。
アムステルダム行きの列車が軋みを立てて運行する中、イリヤ・シャルナクは紙面に広がる蘭語の媒体を指でなぞりながら車窓の空を眺めていた。
車内にイリヤと車掌、運転手以外の姿は見当たらない。ほぼ貸し切りとなった客車の旅。
車掌見習いのイリヤは研修先のドラハテンをめざし、アムステルダムの鉄道をくぐっていた。
戦乱で焼け果てた遠い故郷の復興資金をまかなうため出立したイリヤであったが、彼にはあるひとつの悩みがあった。
――亡き恋人の写し身たちが、『人形兵器』として世界中にナパームの雨を降らせている。
彼女らを野放しにしておけば、いずれ自分の故郷にも未曾有の災いが及んでくるかもしれない。
戦闘機が耳障りな騒音を立てながら列車の真上を駆けていくようなご時世だ。
何が起こるか分かったものではない。未来の行く末を秤にかけた戦いが今、世界を侵し続けている。
そろそろ中央駅が近づいてくる頃だろう。
先日まで宿泊していたアルクマールから発って半刻が過ぎようとしている。
不安に胸を焦がしつつ、イリヤは到着の時を待った。
そのためか少し油断していたらしく、腕輪に提げていた鈴の根付けを落としてしまう。
途端、視界が玉響とともに暗転する。
『どんなに重い咎を背負ってでも、必ずキミに逢いにいく』
ぐらりと視界が歪んだのを合図に、聞いたことのない男の声が響き渡った。
まどろみから一気に覚めたイリヤは、思い出したようにさっと鈴を拾い上げる。
列車はすでに止まっていた。安堵した彼は到着に気付かず、ずるずると窓の下にへたり込んだ。
「……誰だい、あんた」
ある夢を見ていた。
道会った旅人に惹かれ、そしてその旅人に看取られながら朽ち果てていく自分の夢を。
それは自らに訪れるであろう畢生の終幕なのだろうか。だとしても気掛かりに思う事はない。何も憂慮する必要はなかった。人は誰しも、一定の耐用年数を持ち備えているのだから。
世には摩訶不思議な話がある。なんでも、心から会いたいと思う人の夢を見ると、その想いが届きづらくなるのだそうな。そこで青年は、かつて先人から飽くほど聞かされてきた詩を思い出す。
『天地を揺るがす時の波動、人と人は生と死を折り返し、時と時は繰り返す。
それは噴き立つ熔岩のように。
空と地は行き渡ってはその輪廻を描き、真理の螺旋は構築される。
それは先人たちが築き上げた文明のように。
やがて強欲な人間は自らが造り上げたモノもろとも崩し、破壊の限りを尽くす。
かつての歴史も、自然の摂理も、全ては虚実という歪の奥底へと。
やがて狡猾な人間は愛しき者もろとも常闇の淵へ突き落とす。
籠絡と懐柔に溺れさせた果てに暴虐の限りを尽くす。
かつての朋友も妻子も、全ては混沌という禍の中軸へと。
そうした過程と軌跡を経て、刻の線路は続く。
運命と銘打たれる錆びついた車輪で、その轍を残しながら』
戦時中の今に当てはめるとすれば、あながち間違いでもなかった。
人間は本当に欲深な生き物になったものだと、この詩を想起し、そして年数を重ねていくにつれ変貌の一途を遂げるスイスの街を歩くたびに実感する。
とはいえ今となっては遠い故郷の話だ。意に介する必要もなければ、憂うこともない。
ここはマインツの森深く、人知れぬ道さかいの教会。――内部の深奥に位置する礼拝空間に、十字架のような意匠と『Um sustenance sieben Sterne…』などと彫刻で記された柩棺が設えられていた。
まるで吸血鬼が眠っていそうな卦体で如何わしいそれを寝床にしている青年は、漏れ出した日射しを受けて微睡みから遅々と覚醒し、柩の蓋を押し気怠げに起き上がって群青の空を仰ぐ。教会の天蓋は昨夜から開け放たれたままだった。
「……眩し」
容赦なく差し掛かる陽光に目を眇めながら、端に置いてあった二挺の得物をくるりと回し、緩慢な動作で扉へと向かう。
最後に扱った時から相当のブランクを経ている筈だが、おぼつかない方向感覚も久々に握った銃把の感触も、さして支障には至らない。それもまた、いつもの腐った世界へ出向くだけだ。
冷たいノブに手をかけ、拝廊の扉を開いた時、青年はこの世界において何の理を思い知らされるか――答えは、道中の旅人が握っていた。
ある話を思い出した。
旅人が死神と出会うとき、それまで平行していた世界は滞留する。
停止した時空はいつしか歪な変化と改悪を遂げ、世界は廃退の一途を辿る。
二人の邂逅どきには、妄想が世界の大半を覆い尽くし、被された景色は混迷を露にする……
となっているが実際、行人の身である自分はどうなるのだろう。出立の前日まで、その伝承を耳にする機会は頻繁にあった。その旅人が人間であれば、果たして相手は……とんでもない際物だったりしないだろうか?
最もそんな夢物語のような事は有りもしないだろうが、一抹の懸念とともに、彼は行く。
亡き恋人の形見である腕輪と、“依り代”の鈴を手にして。
春のせせらぎに沿って、A7線のホームへ乗り継ぐ乗客らがめったやたらに押し寄せていく。その中で一人の小柄な少年が人々の喧騒に気圧され流されながら受付へと進む姿が見受けられた。
人混みの渦にもみくちゃにされながらも無事に駅内へ入ることのできた彼は、狼狽するあまり切符の発行口に硬貨を投入しかけたり、改札で太腿を引っかけたりするなどの下手を打ったが、どうにかホームへと到着する。行先を間違えてないかなどの確認も、もちろん怠らなかった。
懐中時計を確認すると時刻は出発間際で、発車直前の列車へ慌てて猛然と駆けていったが、生憎その列車には扉がない。
「次の駅はユトレヒト、ユトレヒト駅――」
車掌のアナウンスが駅全体にこだまする。こんなに全力で走るのも久しぶりだ。出発合図から突如の警笛に驚いた少年は勢い余って点字ブロックの凹凸に足を引っ掛けて転倒し、ホームの外側へと投げ出される。
遺憾な事に発車開始の警笛が悲鳴を上げ、列車は車輪を廻しついに走行を開始した。
線路に投げ出されそうになった、その刹那。
「――大丈夫?」
列車の警笛が朝日の下、金切り声をあげる。顔を見上げた先には空に流れていったキャスケットと、少しばかり幼さを残した穏やかな笑顔があった。
「危機一髪だったね」
風圧と車輪の軋みで何と言っていたかは聞こえない。しかし、その表情が安堵によるものとだけは分かる。あどけない顔立ちの男は少年を引き揚げて、にへりと笑った。
「キミ、ユトレヒトを伝ってドラハテンまで行くんだろ?」
もはや問いかけさえ耳に入らない。なぜ此方の目的を把握しているのかという疑問すらとうに失せて、今の彼には見知らぬ人物から話かけられること自体への動揺を隠すので精一杯だった。
「旅は道連れ世は情け、ってね。目的は同じだし、だったらユトレイトまで一緒に行こうよ」
男はその端正な容貌に不相応な茶目っ気のある笑顔で、少年の眼を見据える。
「そういえば、まだ名乗ってなかったね。オレの名はアルス。――冥府より馳せ参じた、“死神”さ」
アルスを名乗る彼の双眸を垣間見た。その深々とした精彩に吸い込まれそうになったところで少年はふと我に返り、今まで停滞していた時間を取り戻す。
きっと、表社会の者ではないだろう。穏和に微笑む死神の、まるで世界の深遠を覗き込むような若草色の眼差しが決して夢想ではないことを強く主張している。
少年は一瞬たじろいで、差し出された手に己のそれを重ね合わせた。
「えと……イリヤっての。まあ、その……よ、よろしく」
ただの挨拶なのに人の発する声として成り立っているかもわからない。
握った手は思いのほか冷たく乾いていて、まるで此方からその体温を吸収して生命活動の粮糧にしているかのようだった。よく見るとひび割れて傷だらけなのに、それでもイリヤは気づかない。
ただ彼の、異様な情調に圧倒されるばかりだった。
「こちらこそよろしくね。――運命の旅人さん」
運命を結ぶ警笛が猛獣の如く吠え上がる。
運命を繋ぐ車輪が火花を散らし、始まりの刻を告げる。
「運、命……?」
イリヤは自身に語りかけるようにそっと呟いた。その言葉の孕む意味を復唱し、解釈し、斟酌し、汲み取って、どうにか大脳の中枢で処理しようとする。
人だか人ならざる者だか判らぬ、謎めいた死神との。
「そ、運命。――死神同伴の片道切符は高いよ、旅人のイリヤ」
アルスは微笑して、硬直し当惑するイリヤを背に奥側の席へ足を進めた。
果たして彼は、死神という穏やかでない響きに慄いたイリヤをからかい、敢えて挑発するような物言いをしてきたのか。あるいは偽りでなく、本当に死神なのか……いずれにせよ、この男から他人事では済まされないような四囲の気配が漂っていたのも事実だ。
――運命の秒針が開幕の時刻を示す。すべてのおとぎ話が、始動する。
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