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第一譚:はじまりは時の線路
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しおりを挟む澄み渡る青天。青天に相反する朱色の煉瓦で敷き詰められた地盤。青天の下で並立する石造りの建築物。民衆の喧騒が近づくにつれイリヤの眉間が徐々に険しさを増していく。
アルスに連れられるがままやってきたのは、ユトレヒトの中心部に位置する噴水公園。
とはいえその広さはとても百貨店の一軒二軒で収まりきれるように狭小ではなく、もはや広場といっても差支えないほどの規模であった。
――これ、本当にドラハテンまで着くんだろうな?
しかしどう取り繕っても人混みは苦手だ。喧しく狂ったようにはしゃぎ立てる烏合の衆と空気を共有していると考えただけで、言わずとも知れた吐き気が込み上げてくる。
先刻からの突発的な事故の連続と、素性の知れぬ死神に振り回されてきた事への疲労が蓄積されて、イリヤの口から思わず深い溜息が漏れた。
「そろそろ昼頃だし、何か食べに行かない?」
その溜息を空腹と察して自分の身を案じてくれるアルスにそこそこの感謝と、痒いところの間近を擦られたような、惜しいと言いたくなる気持ちが半々だ。
「別にいいケド。……奢れるほどの金は持ち合わせてねーぞ」
「大丈~夫、勘定はオレに任せて。さ、行こっか」
出発の合図代わりに手を引かれ、怪訝に皺を寄せて彼の横顔を窺うと、いかにも楽しそうに鼻歌を鳴らしながら足取りを弾ませていた。
そのため歩調が狂って何度も転びそうになるが、その度に騎士の如くエスコートされて何とも度し難い気分になる。
死神同伴の旅路も案外ラクではない。……第一、男同士で手を繋いで寄り添って街を駆けていく旅など決して楽しい訳がない。
ふと立ち止まった先に小さな露店が広場のメトロポリスを囲んでいるのが見え、アルスはイリヤの手を引っ張りながら並々とならぶ店先へ駆けていった。
「わ、ちょ! 待ーてーよっ!」
「彼処なんか良いんじゃない? ねぇ、行ってみようよ!」
「おい! 引っ張んなって、コラ! ああもう、お前の好きにしろよ……ったく」
突拍子な彼の行動についていけないイリヤはもはや、諦めにも近い様相を表し始めている。
しかし芳しい匂いにつられて気持ちの行き所が右往左往していくのも確かで、焼菓子売り場へ立ち寄った途端にはいつの間にか大らかな心に戻っていた。
「おじさーん! ワッフルサンドのLサイズみっつと……キミは何がいい?」
「んーとじゃ、ハチミツがかってるこれで。……いいのか?」
ためらいがちな視線を送りながらサンプルに指をさすと、アルスはニッコリ笑いながら店員に呼びかけた。
「ハニーワッフルひとつ! いいよいいよ、気にしないで。他に欲しいものがあったら遠慮なく言ってよ」
初対面の旅人に惜しげない笑顔で飯を奢る彼の器量に驚かされつつそれを甘受してしまったのも、食欲を前にして本来の意地が発揮できない人間という証拠故だろう。
露店から離れた草むらのベンチで腰掛けて、芳醇な湯気をまとう包みを手にしながら雑談していると、イリヤはふと思い立った疑問を口にした。
「思ってたよりイメージが軽いというか……人間よりも人間くさいっていうか」
横目でそう問いかけると、アルスは心当たりのなさそうな面持ちで此方を向いてきた。
「そうかい? どうやらキミとオレとでは人間に対する価値観が大分違うみたいだね。……好意と嫌悪の差が特に」
浮かない顔で呟いて、アルスは大の字でだらしなくベンチにもたれ掛かる。
「そりゃあ、お前は死神を名乗ってんだから多少はヒトとの思考が違って当たり前だろうよ。特にお前は人類の墓守を謳ってる割にゃ、ずいぶんと人間くさいじゃねーか」
彼の事を誰にでも対等に接する善人とばかり認識していたイリヤとしては、その否定的な意見に意外な側面を感じずにはいられなかった。
翌々考えてみれば友達が出来たことがないなどと言っていた気もするが……それが一重に真実ならば、人間という存在を好意的な視点で捉えられないのは無理もない話だろう。
如何なる事情であれ、本人が語るまでこれ以上の答えを追究するのは避ける事にした。
「オレって、そこまで冷酷な生き物に見えるかな……? 冷酷は間違ってないかもしれないけど、さすがに人間ほどってワケじゃ……」
「いや。話が噛みあってないぞ。俺が言いたいのは人間という動物の在り方うんぬんじゃなくてだな……」
自然な流れから生じたイリヤからの素朴な問いかけに、どう答えるかを神妙に考え込むアルス。人間らしさについての議題ではなく、アルスという人物を単純に評価しただけのイリヤとの間に、ちぐはぐな疑問の線が交錯した。
「え。だって人間は残酷で、私益のためにしか動かない打算的な生き物だろ?」
ならびに、人間のことをこの世で最も恐ろしい化け物と彼は称した。対し、イリヤ自身は彼の認識における人間という生物を自分と同じ存在と認めることができなかった。
――この男もまた、自身と同じ闇を抱えているのではあるまいか。僅かながら期待を抱いてしまう自分はもしかしなくても不謹慎な生き物なのかもしれない。
「皆がそうとは一概には言えねーだろ。少なくとも、お前の画に描いたような人間の像と俺を一緒くたにされちゃ堪ったモンじゃねーぜ」
だがきっと何かしらの苦労を積んできたのは間違いないだろう。彼の両手に刻まれた無数の傷痕と青痣が、幾ばくか憶測のつきそうな負の深層を物語っている。
イリヤの周りには軍事関係者が多数で、彼自身も何度かは減退していく軍隊の実態について聞かされていた。アルスという男もまた、凋残の一途を辿るばかりの趨勢に翻弄されてきた者のひとりに過ぎないのだろうか。
「あはは。まあ適当に流しといてよ。……それにしても、キミは人間なのに優しいんだね。オレのくだらない話に乗っかってくれるなんて、よほどの物好きかそれこそ聖人君子の器くらいのもんさ」
「別に暇だからさして気にならねぇ。そういうお前こそ、死神にしては人が好すぎるんじゃねーの?」
ここまで居心地の良い思いをさせられると、自身はこの死神の掌で踊らされているのではないかと無意識に疑り勘ぐってしまう。
今までこういった手合の者には決して近づく事すら恐ろしくて出来なかったのに、気忙しいきらいのある彼に対してアルスは現在もこのようにうまく波長を合わせている。
「そんなことないって。たまたまオレがそうしたかっただけに過ぎないよ」
諧謔を弄するようにイリヤの言葉を否定する死神からは、相手の警戒心を爪で一枚ずつ剥いでいくようなフランクさがあった。
「でも助かった。シニガミって口にしてみりゃカッコいいけど取っ付きにくそーな先入観があったからさ」
それに美味いモン奢ってくれる奴に悪い奴は多分いねぇからな。と続けたイリヤは、心を開いたのかと誤解されないように小さく愛想笑いを零した。
「死神がカッコいい、か……ねぇ、キミはどこから来たの?」
最後の一口を豪快に飲み込んだアルスは、ベンチから背中を浮かせてイリヤに問い質した。
気恥ずかしさに耐えかねて話題を変えようとしている辺り、満更でもなさそうなのが透けて見える。あまり触れられたくない話題だったが、隠す理由も特にはない。
「どこって、俺は台北の……まあいいや、一年前にソ連から台湾に移住したんだ。前住んでたトコは……スターラヤルッサ。少数民族の暮らす村」
早くから両親を亡くしたイリヤは叔父の住まう台北のもと、車掌見習いとして駅に身を置いていた。今ではその叔父も逝去し、度重なる戦渦で存在する意義すら失われた駅に留まる理由もなく、イリヤは知人に新たな駅舎を斡旋してもらう手筈となっていた。
それが件の、ドラハテンまでの旅程にさかのぼる。
「ああ、聞いたことあるよ。ソ連の辺境にある、水力発電が盛んな場所」
「詳しいんだな」
「オレも一年前に訪れたことがあるんだ……ちょっとした偵察でね」
含むような沈黙の意味を理解できず、立ち上がって伸びをする彼の横顔をただ眺めるしかなかない。
「さて」
「? ほーひゃふぃひゃほは?」
未だ菓子を頬張っていたイリヤに微笑みかけると、彼はまたイリヤの手をとって広場の先へと走り出した。
「えぇっ!? ちょちょちょ、またかよーッ!? てか食い終わってねーよ!」
「定時のスプリングラーまであとどれくらい掛かるかな……」
背後から浴びせられる非難もなお知らず、アルスは風の向くままに駆けていく。そんな彼のペースに、イリヤの体力はもう限界寸前までキテいた。
「ぅおおおおおおおいいっ!?」
パーカーの下に提げていた懐中時計を引き上げると、時針は12時の目盛を指す頃合いとなっていた。秒針が重なったと同時に、広場周辺から吹き上げてきたスプリンクラーのカーテンが出迎えるように二人を囲う。
「すっげぇー……こんなのまだやってたんだ!」
戦時中とはいえ、由緒ある有数の広場が大勢の人で賑わっているのは変わらない。この広場に似た場所を通りかかるたびに、当時は深い溜息が途絶えなかったものだ。
しかし立錐の余地もない人だかりではないかと腹を括っていたが案外、白昼のユトレヒトは閑散としていてイリヤの懸念は杞憂に終わった。
食べ終わるや否や広間の奥まで引っ張り回される始末となったが、長距離を走り抜けて汗ばんだ体に、車軸のように降りしきる噴水の飛沫はちょうど心地良いのかもしれない。
「こんな風に街を走り回ったの俺、初めてかもしんねぇ」
さっきの憔悴とした形相からはまるで想像がつかぬほどはしゃぎだすイリヤに、人の感情の機微はこんなにも目まぐるしく変わるものなのかとアルスは苦笑する。
「オレもだよ。こんな風に誰かと街を見て回ったり食べ歩いたりするの、初めてなんだ」
「そりゃ意外だな。お節介なお前の事だからてっきり、目に付いた人間みんなこういう風に引っ張りだして振り回しまくってんのかと思ってた」
それにお前の容姿なら女10人くらいは元が取れそうだしな。冗談を交わしながらも水浴びに興じてすっかりびしょ濡れになったが、そんな二人はお構いなしで湿り気を帯びた芝生で寝転んだ。
頭上を駆け巡る水のスクリーンが燦然とした陽射しと重なり、思わず目を眇めるほどの輝きを放つ。如何わしい存在にここまで干渉して振り回されるのも、たまには悪くない。
このままずっと浴び続けていたかった。15分にはこの水の庭園もお開きとなる。もし世界が戦火に包まれる未来から逃れられないなら、いっそ自身を取り巻く水の精に清められながら逝きたいとも、ひそかに思っていた。
「そんな軟派な真似はしないさ。だいいち初対面の子にここまで干渉したことなんて今まで一度もなかったし、それに……オレは嫌われ者だからね」
これまた意味深長に、死神はこちらに微笑んでみせた。穏和な顔立ちに誠実な人柄、どちらも大衆を惹きつけてやまない要素でありながら、自分と近い年まで彼はどういった半生を送り続けてきたのか。
さもイリヤには関係のない事柄だと知りながらも、人は未知なる事象に対し非常に貪欲な探究心をもつ生き物である。それを一番よく理解しているイリヤだからこそ、個人の出生や生い立ちに関する言及は極力避けてきた。
「……そうは、見えねーけど」
含むように呟いたアルスの言葉を否定するまでには、イリヤの胃と心はすっかり満たされていたらしい。なにせ物音には人一倍敏感なイリヤが、噴水の音にかき消された伏兵の気配に気付けなかったぐらいなのだから。
「へ? ごめん、スプリンクラーでまったく耳に入ってこなか……っ」
本当は射水機のせいでないことを、アルスも十分に理解していた。なるだけ気づかないふりをしていたかったというのも、正直な気持ちだ。
水の壁を越して映っていたのは数多な機銃を携えた戦闘機の数々。その様はまるで青天を覆い尽くす鴉の大群のようである。
「……あーあ。やっと疲れが取れかけたとこだったのに」
彼の声音に凄然たる温度を感じ取り、イリヤの背に底知れない寒気が走った。
考えるよりも先に、奴らは此方の都合も知らぬまま一斉に高射砲の火花を散らせていく。
おそらく自身を狙っていると思われる慎みのない地上砲撃が広場を蹂躙し、賑わっていた民衆の嬉々とした喧騒が阿鼻叫喚の図へと一変する。
だからこそ聞き逃さなかった。アルスが悪態をついた直後、小声でひそかに「初めて友達が出来ると思ってたのに」と呟いていたことを。
散り散りになった彼らには目もくれず、ただイリヤのみを捕捉する北のアカ――心当たりは幾つかあっても、大抵すぐに解決できるような問題ではない。
だが此方に置かれている状況をまったく知らないであろうアルスにとってはあくまで、空軍からの奇襲は偵察の妨げでしかない。ましてやそんな彼に自身が連合の標的となった経緯を説明することなど尚更できなかった。
「いよぉ~久しいお客さんじゃねえかい、これぁまたぁナチスの手先ときたもんだぁ~」
いつの間にか地上でも包囲されていたらしい。潜伏兵を先導していた大男が、下卑た笑いを浮かべては開口する。
――汚らわしい。一目見ただけで直感した。貧民街を彷徨する、あらゆる欲望に飢えた野獣へボロ切れの服を着せたような男だ。イリヤの知る世界にこういった手の浮浪者は決して珍奇でも異端でもない。
「ナチス……ナチス、ドイツ」
ふと、かつて自身のいた“あの世界”へ戻ってきたような気分になり、思わず男から目を逸らした。過激な独裁政治の指導者。非情な大量殺戮の輩。それに便乗する酷薄な兵士諸君。
――まるで“あのとき”と同じではないか。
イリヤがぶつぶつと言っている傍らで、アルスはというと無言で男の挨拶を聞き流し、漆黒のアームカバーを填めた両手にそれぞれ種類の異なる拳銃を納めていた。
先ほどまで鎖をじゃらつかせていた手錠が見当たらないということは、やはり何らかの手順を踏んでそれらを銃器に換装させていたのだろう。
「ここはぁ~いっちょ、おらと遊んでいかんかぁい? オニーサンたちよぉ~~~っ」
どしり。と地響きがして、予期せぬがたつきによろめくと、アルスがドライゼを握っている腕で抱きかかえてくれた。同時にアルスは男を睨み据えて、
「邪魔したからにはその命ひとつで支払ってもらうわけなんだが」
これ以上オレの時間を無駄にしてくれるなよ……その優しげな容貌からは想像つかない大きな舌打ちにイリヤが委縮すると、「ごめんね、キミに向けたやつじゃないから安心して」とアルスが断りを入れてきた。
「んおおぉ? ずいぶんとデカいクチを叩くモンだなぁこのお坊ちゃんはぁ~」
また地響きが鳴った。傾く平衡感覚にもういちど舌打ちすると、イリヤを脇に抱えたまま拳銃を交差させてアルスは迎撃の構えに移行する。
「待、おい、ちょ、おまっ! そろそろ降ろせ――」
長年その燃費と効率の凶悪さから忌避されてきた、小銃を握り戦場を駆る者にとっての妙技・二挺拳銃の構え。まさか娯楽映画以外で目にすることは到底有り得ないと思っていた。この死神の非現実的な側面を一際引き立てるのも、その技巧のひとつだろう。
先刻助けてもらった際にも目にした回転式拳銃の派手な光沢と、初めて姿を現した自動拳銃の不気味なシルエットに、イリヤは非難を忘れて深く息を呑んだ。
どちらも正規の品では本来考えられない質量で、降ろしていると銃口が地につきそうな程の大きさもある。
「あ・れ・ま・かっくぃいいねぇ~オニーサンよぉ。シニガミのお役目すっぽぬかして騎士サマ気取りかぁい? いやぁあ実に気前がぃいこったなぁ~~~Fuck of!!」
低劣な罵倒を大音響で叫ぶと同時に、地響きで生じた破片が男の周辺を囲った。
それらはみるみる青い光を帯びていき、見覚えのある文字列が大男を取り囲む。アルスがドライゼを構える際に発した光の原理とまるで同一だ。
――こんな奴に、形見の鈴を渡すわけにはいかない。
眉を顰めながら、腕輪に結び付けていた鈴を握り締める。
「虚空に吼えろ! 『ドラグーン』ッ!!」
奴らを地獄のブタ箱にブチ込めってんだぁああああああッ!!
麁陋そろうな雄叫びを上げながら煉瓦の地面に突き立てられたバズーカから、噴火の如きひしめく爆音が広場中に轟いた。
同時に上空からのミサイルと潜伏兵からの狙撃も相まって、四面楚歌の跳弾が一斉に飛び交っていく。15分が経過するまで止まらない噴射も今では障害物に過ぎず、その視界も大いに制限される。
それらを避けつつ、一歩飛び退って地割れの衝撃を逃れたアルスは、庇うように彼らとイリヤの線に立ちはじめた。
「大丈夫。キミに手出しはさせない」
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