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第二譚:幽世に墜つクレプシドラ
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しおりを挟む春先の正午は穏やかだ。木々を通り抜ける風が心地好い。
マーサに連れられるまま、イリヤの足はハルデルウェイクへ。彼の示した道は、列車で1時間とも掛からなかった。すでに流されるだけ流されてきたため、イリヤの脳内は研修などもうとっくにどうでも良くなっている。
「で、こっからネルチンスクまでどれくらいかかんだ? ……まあ長旅はある程度覚悟してっけどよ」
ドラハテンの賑わいを過ぎたところで二人の歩調は落ち着いていき、周りの景色を堪能するまでの余裕は徐々に生まれつつあった。
「丸5日はかかるのねん」
「やっぱり……でも今回はアンタの流れに任せるよ」
それが旅の醍醐味ってやつだしな。とイリヤは続けた。
川沿いに拓けたホテルの列はまるで街並みの外壁と呼ぶに相応しい。壁から護られるように河川敷にはヨットや方舟がそよいでいた。
「はっはーん! よいよい、それでこそ我が同志! 泥船に乗ったつもりでボクちんについてくがよろしいのねーん」
腕を組んで大威張りする檸檬色の後ろ姿。殺し屋を名乗るにはむしろ目立ち過ぎる風体であるが、今さら勘繰りしても遅い。こんなハイテンションな人間がそもそも裏稼業なぞ勤まるハズもないのだから。
「ほいほい、好きにはしゃいでな」
イリヤは深く息をつきながら苦笑した。
摩訶不思議な旅路になることは最初から予感していた。第二次世界大戦における禍根と困窮のつま弾く世界で、むしろ今日までよく生きてこられたものだとしみじみ思う。
――そう。想像していたよりもずっとずっと、平和なくらいだ。
「こんだけスムーズに行けたのも誰かさんのおかげかな……調子に乗るだろうから死んでも言わねーけど」
川岸に流れるヨットを前にたそがれていると、弾んだ声が自分の名を呼んだ。悪りぃ、と一言添えながらイリヤは自身に手を振るその人の方へ駆けていく。
そこで、マーサではない黄色の影がイリヤの真横を通り過ぎる。
「待っちなされ~~~い!!」
本日で何度目だろうか。旅先出会い人の雄叫びを聞くのは。というか怒号を聞くのは。
足下にこれまた黄色いベレー帽を落としていった影は、どうやらマーサを追っているらしい。
「うぉっ! ちょちょちょちょ、どなたッ!?」
慌てて制止して帽子を返そうとしたが、徒競走で必死な彼女の耳には入ってこなかった。
「おぉぉっと~、逃げろ~~~っ!」
マーサの首元で揺れる小瓶が光を放つと、イリヤの視界が灰色に染まり、景色もぐにゃりと曲がっていく。なぜか二人の空間だけが時を止めたような錯覚を起こすその力は、彼の依り代によるものだった。
「ちょちょ、何してんだマーサっ! 往来で術式ブッ飛ばすなんてよ!?」
下手したら憲兵サンにおっ捕まって収容されちまうぞ! 俺ごと! イリヤの文句もお構いなしに、黄色い影の――帽子の少女を横切ってマーサはイリヤの手を掴み街中を全力で走っていった。
「こぉらマーサくぅぅぅん! 店番ポイ捨てしてドコほっつき歩いてんですかぁああっ!?」
……どうやらバイト仲間のようだ。しかもマーサはサボりらしい。
「あ、あ~ははははは! ちょっとヤボ用だからすぐ戻る~……のね~~~ん!」
焦りで「なのねん」を付け忘れるほどに、自分の腕を引っ張るマーサの手は汗でべっとりしている。正直あまりさわりたくない。
「待たんか~~~いっ!」
彼女の交差した両手から青いワイヤーが絡み、二人に肉薄する勢いで伸長した。動力源は存じないが、とにかく今は逃げ切ることに専念する。
「ひゃっほほーい! さぁチミ、ボクちんの手をしっかりつかんでおくのねん!」
「はぁ……ったく、まるでいつかの死神みてえじゃねーか……」
船倉に飛び乗り、橋を跨ぎ、ハルディウェイクの河川を突っ切っていく。
やがてイリヤも彼の手を握り返し、キーマンの導く『おとぎ話』を自ら紐解いていこうと考えに至る。
その目は登場人物の出会い人に対する諦めでも呆れでもなく、いつしか忘れかけていた童心を思い出すような優しい色に変わっていた。
ベレー帽の少女をどうにか撒いた二人は、上流の域を進んだところで歩を落とす。都心からは離れるが、より静かな場所で話ができる事だろう。
この際イリヤは一つ、是が非でもマーサに確かめなければならない事があった。
「ひゃっほーい! あははっ、きっもちーっ! ほらほらっ、こっちきてこっち!」
川沿いで無邪気にはしゃぐ金髪の殺し屋は、どの眼鏡をかけて見回しても等身大の少年にしか見えない。微笑ましいような、どことなく虚しいような、そんな光景に目を眇めながらも、ある“違和”がイリヤの頭を駆けめぐっていた。
「ひとつ聞いてもいいか?」
登場人物とおぼしき者との接触は慎重に行わねばならない。わずかな手がかりでも逃してしまえば、その分だけシエナ達の討伐が遅れてしまうのだから。
「お前さ……お前のホントの目的ってなに? 偶然にしてもドラハテンに何の用があって……そういやアルスもお前に似たよーなコト聞いてたっけか」
他にも聞くべき事はあった筈なのだが、核心を突くと“おとぎ話の魔法が解けてしまう”
「ボクの探している人がドラハテンに向かうだろう、ってエイドが言ってたのさ」
「……エイドが?」
意外な名前が挙がって、思わず復唱した。先ほどマーサは彼に武器を送っていると言ったため面識があるのは当然だろうが、性格も雰囲気も対極的な二人が利害以外での関わりを持っている事に何より驚きを隠せない。
二人の話し声と川のせせらぎが穏やかな調和をもたらしていた。マーサが比較的落ち着いているのか、アルスがうるさすぎたのか。……面と向かえばどちらもさして変わらない。
「そ。……だから駅で偶然見つけたアルキョーネに聞いてみたかったのねん」
「するとアホ面晒してやりたい放題びっこいばっこいのアイツにムカついて狙撃してやりたくなったと」
「ま~それも一つの理由かなぁ。でも、会いたい人がいるのはホントね」
「……会いたい人?」
黒皮の手袋が外れ、人工皮脂に覆われた薬指が露わになる。マーサは自ら義指を抜き、代わりに重たげな鉄の腕輪を差すように填めこんだ。
「その会いたい人ってのは、今会わなきゃ駄目か? 戦線が落ち着いてからでも遅くはないんじゃないか?」
かつて暗殺業界で巣を張っていた友人にして、故人の話だ。仕込み籠手にはリングを引いて刃を押し出す機構があり、その妨げとなる薬指を切り落とさねばならないという。
「ううん、今じゃなきゃダメなんだ。だってボクも、君と同じ――」
実物を目にしたのは初めてで、それも日溜まりの泉を具現化したような、快活な少年が使いこなしている。そう考えただけで言葉にできない気鬱とした感情が心を覆い尽くす。
「ボクは人として生きる道をこの戦争でやめたって、自分で勝手に思い込んでた。妄想は、妄想でしかなかったよ。人里に下りればボクも同じ、無力な人間で非力なキーマン」
大概はイリヤの妄想だが、マーサにも心を蝕み尽くす毒のような感情はあったらしい。
「この時計はただの飾りでしかない。兄ならきっと使いこなせたかもしれないけど」
彼の首紐に提げられた小瓶が陽を透かして、イリヤの目を眇めさせた。どうやらマーサのキーマンとしての動力源らしい。青い液体が反転するように上下する。
「探したい奴の背を追う余裕はその時点でなくなっちまった、つーワケか」
ふと首の後ろがむず痒くなる。また誰かに付け狙われていたのだろうか。
考えるより先にマーサの眼光が鋭くなって、途端にイリヤは振り返る。しかし、気配の正体はすでに黒の塊となって藪の方向へ崩れ落ちていった。空挺部隊の残党のようだ。
「ご名答。チミはあの男とつるんでる割に勘が鋭いのねん」
その瞳に殺意などまるで無く。ただ爽やかな達成感のみが宿っているように見えた。
左手のブレードから煙が晴れると、何事もなかったように刃をしまい込んだマーサは飄々と話を続ける。
「納豆の他にも入ってたんかよ……」
「ボクちんの仕込みブレードは唯一無二の万能砲なのねん」
その笑顔に作為は見受けられず、むしろこれが素の彼なのかもしれない。
「お前といいアルスといい、裏の連中はよく笑うのな」
楽しそうで羨ましい限りだぜ――イリヤが皮肉を込めると、殺し屋はえくぼを見せた。
「そら世知辛いこの世の中ですし、大事なのはありあまる元気と笑顔でしょ~? 元気がないと笑えませんし。ホラ笑って。チミはチャーミングな子だから、笑うと人気者の車掌になれるのねん」
マーサの手が伸びると、イリヤの頬が限界まで引き延ばされる。他人に皮膚をこねくり回される不快感に腹を据えかねながら睨みを利かせ、制止を訴えた。
「笑ったところで別に楽しくもなんとも無ーだろうがよ」
どうでもいい事柄でいじり回されるのは嫌いだ。ましてや、笑顔なんて必要ないとさえ感じているのに。イリヤの表情が渋っていく。
他人の笑顔が不愉快だった。だから自分も笑えなかった。他人を自分の“鏡”であると勝手に見なしていたから。
「笑うと楽しいんじゃなくて、楽しいから笑うのねん」
無邪気に彼は語りかけた。背はイリヤの頭一つ分抜けているものの、まるで子供のように笑うマーサは自身より年下なのではと勘ぐってしまう。
アルスの苦悶を堪えるような笑顔を引きずって、目の前の輝かしい表情にすら妙な痛々しさを覚えていた。
困っている人間を見るとつくづく思う。笑顔で隠し通すのではなく、泣いて素直に自分を頼ってほしいと。そうでないと自分は気づけないから。
「……どーでもいいコトで意地張りやがって」
ふと自身の心に湧き起こった感情を字で示すならば、それは庇護欲だろうか。思わずマーサの頭に手が伸びていた。
「へ?」
彼の頭の上を疑問符たちが跳ね回る。まるでその行為の存在自体を知らないかのように、口を半開きにして、自身の髪をかき上げるイリヤの手を見上げていた。
「お前、殺し屋のくせにウソは下手なのな」
自分でもこの気持ちの表しようは分からない。母性という感情が自身の中にあるならば、どこまでの干渉が許されるのか、そのさじ加減すらも。
「……ボクちん、これといってホメられるよ~なコトはしてないのねん」
「労いだよ、労い。お前さんたち勤労者のおかげで世界が回ってる、っつー日頃の働きに対しての感謝。おつかれさん、ってイミ」
マーサはじっとイリヤの目を見ていた。なぜ自分が労われているのか、その意味さえ理解していないような面持ちだ。
共に旅をして分かった事だが、彼はお調子者であれどカマッテチャンではない。ましてや評価など望んでいない。殺し屋としての根幹はしっかりと据わっていた。
「むむむむ? ボクは物心ついた時から殺し屋をやってきたけど、一度も依頼主から労いなんて言われた事もないのねん。そんな言葉があるのも知らなかった……勉強になったのねん」
だからこそ、殺して生きる事しか知らない暗殺者の目線を追うのが痛ましい。けれど彼らにその哀情は虚しい同情でしかない。
イリヤ自身が何よりその煩わしさを理解している。内から込み上げてくる哀切の情をぐっと抑え、活もほどほどに彼の胸を軽く小突いた。
「知らないなら今覚えとけ。そして任務の後にでも思い出せ。“この世界でたったひとり、自分のおかげで救われた人間が今も生きてる”ってな」
マーサは依然とポカンとしたままだ。けれど自分の忠言を頭の隅にでも置いてもらえればそれに越した事はない。
「……ホント、アルキョーネの好みそうなタイプ」
「はぁ?」
自身の手を柔く押しのけた殺し屋の掌は、いじましいほどに冷たく痛切な温度を放っていた。ふと遠い昔の迷信を思い出す。手の冷たい人は、心が温かいのだと。
立ち上がった彼は先ほどまでの自然な笑顔がまるで嘘だったような、ぎこちない笑みを浮かべて告げた。
「チミは誰よりも優しくて、残酷で無慈――」
彼の白い胸甲を赤い鎖が貫いたのは、イリヤが顔を上げて一瞬の事だった。
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