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第零章 先代編(後編)
歌姫
しおりを挟む食事の支度が終わり数十分。
二人がバルコニーの席で食事をしていると公演の開始を報せる鐘が鳴って舞台の幕があがる。
舞台の中心で一際眩いライトに照らされる女性。
濃いブルーの瞳とふわりとした水色の長い髪が印象的。
オーケストラの演奏が始まると美しい歌声が劇場に響き渡る。
その歌声に春雪はフォークとナイフを持った手を止めた。
「……凄い」
巨大な劇場に響く力強い歌声。
水色の魔力が歌姫を包んでいる。
「激流みたいだ」
川を激しく流れる水のように発されている魔力。
その魔力の美しさと心にズシリと響く歌声は圧巻。
祭典で見た生徒は煙のような薄黄色の魔力だったが、歌姫のそれはもう格が違うと素人の春雪にも分かる。
「激流?歌声がですか?」
「魔力が。激しい水のような魔力が綺麗です」
手を止め歌姫を凝視している春雪から返った返事。
色彩能力を持っているのかとその返事で察する。
食事の手が止まるほど夢中になっているのにこれ以上話しかけるのは無粋かと、ドナは再び食事を再開して曲が終わるのを待った。
「何だか胸がドキドキします」
最初の一曲は短めの曲。
その曲が終わって春雪は自分の胸に手をあてる。
「感受性が豊かなのでしょうね」
「ドナ殿下は何ともないのですか?」
「ドキドキとまでは。素晴らしい歌声だとは思いますが」
心酔して聴いている者ほど感情を揺すぶられる。
ドナも王城で聴いた時は期待値のぶん大きく心を揺さぶられたが、今となっては素晴らしい歌声という感想に留まる。
今舞台に立っている歌姫を心酔する感情が一切ないことと、覚醒して魔力への抵抗力が高くなったことも重なって。
「一人で楽しんでいて申し訳ありません」
「私も楽しいですよ?夢中で見る春雪さまが愛らしくて」
「それは歌とは関係ないかと」
「どう楽しむかは個人の自由では?」
「……うん。たしかに」
納得して呟いた春雪にドナは笑いを堪える。
私の好いた人は強く美しい上に素直で愛らし過ぎると。
「歌姫の歌声はもちろん素晴らしいと思いますが、私にとって重要なのは春雪さまが喜んでくださるかどうかなのです」
自然な笑みを浮かべて言ったドナにドキっとする春雪。
歌姫の歌声にドキドキしたのとはまた別のもの。
温かい何かが胸に込み上げキュッと締め付けられる。
「食事も美味しいですよ。冷めない内に食べましょう」
「はい」
次の曲が始まり平然とした顔で食事をしていても、春雪の心は暫く落ち着くことはなかった。
「失礼いたします。お食事はお口に合いますでしょうか」
「ああ。私たちの好みに合う味で楽しませて貰っている」
「私も美味しくいただいてます。ありがとうございます」
「勿体ないお言葉を賜り光栄にございます」
途中で次の料理やアルコール類を運んできた支配人。
公演中は邪魔をしないよう料理もある程度まとめて数品ずつ出しているが、言葉通り食事を楽しんでくれていることが空いた皿で伝わり笑みを浮かべる。
「本日の肉料理はアヴァールのお肉をご用意しました」
「頬肉か」
「左様でございます」
魚料理のあとは肉料理。
それに合う赤ワインを注ぐ支配人の手許を見る春雪。
「春雪さま?」
「あ、無作法に眺めて申し訳ありません」
「なにか気になることが?」
「美しい所作だと思いまして。こうして丁寧におもてなししてくださる方々がいるから私たちも気持ちよく食事や公演を楽しむことが出来るのだと思うと、改めて有難いなと」
料理より支配人の所作を見て感謝の心が芽生えたと。
恥ずかしそうに頬をほんのり染めた春雪にドナは笑う。
「たしかに。美味しいお料理や素晴らしい演目だけでなく、影で支える方々のもてなしの心にも感謝しなくては」
「はい。お蔭さまで楽しく過ごすことができています」
「恐悦至極に存じます」
なんという素晴らしい人格のご令嬢なのか。
見目麗しいだけでなく性格もよいとあらば、勉学と公務に忙しい王子が逢瀬に長い時間を割くことも理解できる。
「どうぞごゆっくりとお楽しみくださいませ」
「心配り感謝する」
「ありがとうございます」
「温かいお言葉の数々に感謝申し上げます」
丁寧に頭を下げて部屋を出る支配人の心は喜びとやり甲斐に満ちていた。
「さて。続きをいただきましょうか」
「はい。お肉も美味しそうですね」
王子として敬われ生きてきた自分には気付けないことに気付く春雪を見ながら、この方の傍に居れば自分の歪んだ性格も少しは変えることが出来るのだろうかとドナは思う。
そんなことを考えていることなど露知らず、美しい所作で食事を再開した春雪に自然とドナは微笑した。
・
・
・
食事が済んでも二人はそのままバルコニーでお酒を楽しみながら舞台を楽しむ。
「面白いですね。演劇と歌が融合した公演で」
ずっと歌姫が歌っているのではなく所々で演劇が入る。
地球の歌手のコンサートのようなものと考えていた春雪にはそれが真新しくて面白い。
「劇も曲に関係する劇なのです。劇場での公演は長時間ですから、魔力が尽きないよう劇の最中に歌姫は休憩します」
「ああ。たしかにそうですよね」
歌姫はただ歌っているだけではない。
声に魔力を乗せて歌っているのだから、休憩を挟んで回復しなくては魔力が枯渇して大変なことになってしまう。
それで歌唱と劇で構成されているのかと納得した。
「思えば先程の話はお聞かせいただけないのですか?」
「先程の?」
「誰かが覚えて歌ってくれると」
「あ。忘れていました」
食事や公演に夢中で後で話すと言ったことを忘れていた。
「私の家のヒューマノイドです」
「ヒューマノイド?」
「人型のロボット……じゃ分からないか」
この世界にはロボットというものが存在しない。
人工知能を搭載した機械と言っても理解できないだろう。
「動いたり喋ったりする人形のことです」
「人形が?」
「人そっくりに作られていて家事をやってくれます」
「家事をする人形」
ああ、ピンときていない。
腕を組んで考えているドナを見て春雪は察する。
それもそのはず。
この世界で人型の人形と言えば地球にあるフランス人形のようなもので、それが動いて家事をすると言われても奇っ怪な想像にしかならない。
「お見せした方が早そうですね」
そう言って春雪は椅子を立って部屋に戻る。
「春雪さま?」
「以前私の能力を確認した際に陛下とミシオネールさんにもお見せしたのですのが、危険な物ではありません」
一足遅れて部屋に戻ったドナの前で創造魔法を使う春雪。
消す時に複雑な心境になるからあれ以来作っていなかったが、口で話してもこの世界の人には伝わらないだろう。
「……女性?」
絨毯の上に現れた金属のケース。
蓋が透明で中に裸体の女性が眠っているのが見える。
「ヒューマノイドは人間ではありません。容姿は人の形をしていますが、体はもちろん体内も人が作った機械です」
そう話しながら春雪がボタンを押すと透明の蓋が開いて眠っていた女性の目が開く。
「おはよう、ゼット」
「おはようございます。マスター」
本当に喋った。
起き上がった女性が人形と言われても人にしか見えない。
研究好きの私からすれば隅々まで調べたいが、春雪の能力で創られたものは本人以外が触ると消えてしまうのが残念だ。
「会話が出来るのですか?」
「今話したのは初期搭載してある言葉です」
「初期搭載」
「初回に起動した際に喋るようインプットされているだけで、会話をするにはデータを取り込む必要があります」
座ったまま動かない女性。
確かに人にしては目一つ動かず感情も感じられない。
ただ、ここまで人にしか見えないものを創る技術はこの世界にはないもの。
「私如きの頭脳では理解が及びませんが、春雪さまの居られた世界がこの世界とは全く別の高度な技術を持っていることは分かります。まさか人を作り出してしまうとは」
「人ではありません」
「ああ、ヒューマノイド?でしたね」
人ではないことを強調した春雪。
そんなにそこが重要なのかと少し不思議に思いつつドナは言い直す。
「人なのは、」
自分。
ゼットは機械だけれど、春雪は人工的に作られた人間。
いや、人間ともまた違う人工生命。
「私の家で家事をしてくれていたこの型のヒューマノイドが曲を覚えて歌っていたんです。家事のデータしか取り込んでいなかったのに歌うという行動を学習したみたいで」
話題を変えた春雪は動かないゼットを見て苦笑する。
人の心を持たない機械のゼットの方が幸せなのか、人の心を持たされた人工生命の自分の方が幸せなのか。
どちらも人の手で作られた人工物であることは変わらないが。
「消しますね。誰かに見られると大変ですから」
「はい」
「おやすみ、ゼット」
「おやすみなさい。マスター」
あの時と同じように自分で横になったゼットは自らの手で内側のスイッチを押して再び眠りについた。
「申し訳ありません」
「なにがですか?」
「私が訊いたために寂しそうな顔をさせてしまいました」
ゼットを消した春雪の顔が寂しそうで、ドナは春雪の前に跪いて頬を撫でる。
「人型のものを消すのは複雑な心境ですよね」
例え人ではないと言っても人に近いものではある。
生命を消してしまったかのような罪悪感があるのだろう。
「大丈夫です。ゼットは人ではありませんから」
ああ、それで人ではないと強調したのかと。
そう自分自身に言い聞かせることで、消す時の罪悪感を少しでも拭いたかったのだろう。
「やはり春雪さまに歌っていただくしかありませんね」
「嫌です」
キッパリ断った春雪を腕におさめてドナは笑う。
人ではないと自分自身に言い聞かせようとも割り切れず、寂しそうな目で見ていた優しい春雪が堪らなく愛おしい。
「では歌姫の歌声をまた二人で聴きましょうか」
「はい。そうしましょう」
今は劇の最中で歌姫は舞台に居ないけれど。
研究好きなのだから本当は聞きたいこともあるだろうに、もうゼットのことには触れないよう話題を変えたドナの優しさに春雪は笑みを零しつつドナの手を取り再びテラスに戻った。
劇が続いて数十分。
公演もそろそろ終盤に差し掛かる。
そこで再び歌姫が舞台で歌い出した。
「今度は少し切ない気分に」
「そういう場面の曲ですので」
この演目は悲恋の物語で後半になるほど悲しい展開になり、最終的には主人公の男女が別れを迎えることになる。
それでも国民には人気の演目の一つなのだが。
「歌姫も悲しい恋をしたことがあるのでしょうか」
「どうしてそう思うのですか?」
「経験したからこんなに悲しく歌えるのかなと」
悲しいような寂しいような歌声。
感情がこもっているからこそ胸に響くのではないかと。
「経験したことがあるかは分かりませんが、彼女は歌声に魔力を乗せているだけですよ?歌姫の能力はその人がその時に抱えている感情を揺さぶっているのであって、楽しい気持ちを憎らしい気持ちに変化させるようなことは出来ません」
楽しい気持ちの時にはより楽しく。
悲しい気持ちの時にはより悲しく。
抱えている感情を強くさせるのが歌姫の能力。
「でも最初に聴いた時に胸に響くと感じたのですが」
「それだけ期待が大きかったのでしょう。春雪さまの場合は色彩能力をお持ちのようですから、目に見える魔力の美しさも相俟って綺麗だと感情を揺さぶられたのかと」
「そうだったのですか」
言われてみれば魔力が激流のようで綺麗だと感じた。
胸に響いたのも先に歌姫の能力は感情を揺さぶることだと聞かされていたからという理由も有り得る。
「逆に私のような者には歌声の美しさしか分かりません。じっくり劇を観たり曲の歌詞を聞いたりして感情移入すれば、それで芽生えた感情を擽られることはあるでしょうが」
劇にも歌詞にも感情移入できないドナは全く擽られない。
開演後すぐは食事の手を止め夢中で見ている春雪が可愛らしいと思っていたために、そちらの感情は擽られたが。
でも魔力抵抗力の高いドナには然程の変化はなかった。
「うーん。歌姫のように歌声に魔力を乗せなくても感情を込めて歌っている人の歌声は胸に響くものがありますよね」
「もちろん。吟遊詩人がそちらのタイプかと」
「別ものなんですね」
「表現に迷いますが、魔力を使っている歌姫の方は人々の感情を強引に引き出している感じでしょうか」
そう説明されて納得する。
魔力を使うとなると強引にと言う方がしっくりくる。
例え感情を揺さぶられたくなくても、魔力を使われてしまっては魔力に抵抗力のない人が避けることは難しい。
「強引にと言って印象を悪くしてしまったかも知れませんが、歌姫も当然吟遊詩人と同じく歌は上手いです。肝心の歌が下手では負の感情が強調されるだけで感情移入できませんので。容姿が美しく歌も上手い歌姫ほど人気があります」
音の外れた歌を聴かされても煩いだけ。
魔力を乗せ歌うことで聞き手が抱える感情を強くさせるのだから、下手をすれば苛立ちを強くさせてしまうことになる。
「使う者を選ぶ能力ですね。今日の舞台に立っている歌姫は綺麗な方で歌も上手だから人気があるのも納得ですが」
「使う者を選ぶ能力というのはご尤も。だからこそ歌姫にまでなれる者はひと握りしかおりません」
「素晴らしい才能ですね」
勇者に素晴らしい才能と褒められるのは複雑だろう。
この世界で何よりも素晴らしい〝勇者〟の才を持った者から言われているのだから。
「あ。次も歌うみたいですよ」
隣同士で並んでいるドナの袖を軽く引いた春雪。
私は公演よりもその愛らしい行動にこそ夢中なのだが。
理性で抑えられるようこの感情を擽るのは勘弁願いたい。
約三時間ほど続いた公演も佳境。
「今の間に席を外してもいいですか?すぐ戻ります」
最終幕になる次の劇が一番長いと聞いた春雪は、歌姫が歌うラストの前にトイレに行っておこうとドナに声をかける。
「護衛をお連れください」
「はい」
行き先は聞かずとも察したドナは、外に居る護衛を連れて行くよう言って春雪を見送った。
「ゆ、春雪さま。如何なさいましたか?」
春雪が部屋のドアを開けると椅子に座っていた護衛がサッと立ち上がる。
「御手洗に行きたいのですが」
「専属の召使をお呼び致しますか?」
「いえ。場所だけ教えていただければそれで」
「では私が護衛を兼ねてご案内いたします」
「助かります。ありがとうございます」
王子のドナには言葉にしなくても護衛には別。
行き先をはっきり伝えて護衛の一人に案内して貰う。
「静かですね」
「私ども以外には人がおりませんので」
「そうなんですか?」
「特別室の客人専用のフロアとなっております」
廊下を歩きながら言った春雪に護衛がそう説明する。
相当いい部屋(席)をとったのではと思ったものの、王子が居るのだから安全面を考えれば当然かとすぐに納得した。
正確には『王子と勇者だから』なのだが。
護衛には外で待って貰い立派なトイレで用を足したあと、手を洗いながらも鏡を見る。
こうして見ると女性にしか見えない。
半陰陽だから男性でも女性でもあるのだが、今まで女性としては振舞ってこなかっただけにどうも見慣れない。
自分の性認識ではどちらの性別の衣装を着てどちらの性別を振舞おうとも両性以外の何物でもないのだけれど。
着替えた時にダフネから渡された口紅を塗り直す。
化粧などしたことがないのだからそれ以外は出来ない。
かと言って演劇を観るせっかくの機会なのにダフネをわざわざ呼んで直して貰うことはしたくなかった。
トイレを出て再び護衛と歩いていると人の姿が目に入る。
特別室の客人専用と言っていたのに。
「勇者さまお待ちを」
小声で言ってスっと春雪の前に立った護衛。
「あれは」
護衛の呟きと同時に気付いた春雪は後ろから確認すると、護衛や警備だろう男性二人を連れた水色髪の女性の姿が。
「あちらの女性は歌姫ですよね?」
「そのようです」
不法侵入した危険人物ではなく先程まで舞台に居た歌姫。
護衛の後ろから覗いて様子を見ていると、人が居ることに気付いて顔を上げた歌姫がこちらを向く。
「この階は立ち入りを禁じております」
「ドナ殿下へご挨拶に参りました。お目通り願います」
護衛が声をかけると歌姫はすぐに俺を見ていた顔を護衛に向けてふわりと軽くカーテシーをする。
テラスから見ていても綺麗な人だとは分かっていたが、近くで見ると深いブルーのキリッとした瞳の美形。
「恐れながら、ドナ殿下のお連れさまでしょうか」
「はい。お初にお目にかかります」
再び目が合った春雪は護衛の後ろから出て丁寧なカーテシーで挨拶をする。
歌姫に付き添いここまで来た男性二人は、鮮やかな真紅のドレスを身につけた見目麗しい春雪に釘付け。
言葉にして表すことが無粋に感じるほど美しい、と。
「ご丁寧にありがとうございます。本日の公演で歌姫をつとめておりますビビアナと申します」
「こちらこそご丁寧なご挨拶をありがとうございます。素晴らしい歌声と演劇を楽しませていただいております」
違う。
このご令嬢はただの婚約者候補ではない。
それに気付いたビビアナは摘んだスカートをグッと握る。
「お美しいドレスをお召しで。とてもお似合いです」
「ありがとうございます」
真紅のドレスに金糸を使った刺繍。
その刺繍は王家の衣装にのみ使われている意匠で、このご令嬢はそれを許されている者と言うことになる。
許可なく王家の意匠を施した物を身につければ貴族でも罰せられるのだから。
「ドナ殿下へのご挨拶でしたね」
「左様にございます」
「ご一緒してもいいですか?ドナ殿下に聞いてみます」
「春雪さまが宜しいのであれば」
護衛の本心としては勇者の傍に信用ならない者を居させたくはなかったが、国王に次ぐ身分の春雪が一緒にと言うのだから断ることはできない。
「では参りましょう」
「……お心遣い感謝申し上げます」
まるで王子妃かのような振る舞いをして。
堂々とした振る舞いの春雪を見て奥歯を噛むビビアナ。
ただ、幾ら人気の歌姫でも身分は平民には違いなく貴族令嬢より身分が低いため、下手なことは言えない。
部屋の近くまで行くと護衛が気付いてギョッとする。
支配人や料理を運ぶ一部の者以外の立ち入りは禁じているのに人数が増えて戻って来たのだから驚くのも当然だ。
「歌姫がドナ殿下へご挨拶をと」
「確認いたしますのでこちらでお待ちを」
「春雪さまは中へお入りください」
「はい。聞いてみますから少しお待ちください」
護衛の手で開かれたドアから入る春雪。
その後ろ姿を見ながらビビアナは扇をギリリと握った。
「ドナ殿下」
「如何なさいましたか?」
戻ったと思えば足早に近付く春雪にドナは首を傾げる。
「歌姫がご挨拶に来てくださってます」
「挨拶?」
春雪から聞いて一緒に部屋に入って来た護衛の顔をちらりと確認すると頷きでの返事が返ってくる。
「劇が終わる前に戻らないといけないでしょうから、すぐにお伝えした方がよろしいかと思いまして」
それを気遣って足早だったと。
まさか特別室まで足を運ぶと思わなかった自分が甘かった。
公演の主役が王家の王子に挨拶をとなるのは自然な流れで、支配人も何の悪気もなく許可をしたのだろう。
「彼女と話したのですか?」
「え?はい。駄目でしたか?」
「どのようなお話を?」
「ご挨拶と公演を楽しんでいることをお伝えしましたが」
「そうですか」
それを聞いて少しホッとした様子を見せたドナ。
少し考えピンときた春雪はドナの顔を伺い見る。
「私と来たことを誤解されては困る相手なのですね」
「はい?」
「友人だと説明すれば誤解は解けるのでは」
春雪にそう言われてドナは愛想笑いに変わる。
たしかに今時点では友人関係でしかないが、それを言われてはドナを友人以上には思っていないように聞こえる。
ドナ殿下、お可哀想に。
表情は変えず心の中でドナに同情する護衛。
勇者さまは勇者さまで、先程のドナ殿下の表情を見て何か関係があると察して気を使ったのだろうが。
「彼女に誤解されたところで何ら問題ありません」
その逆。
彼女が春雪に何か余計なことを言ったのではと思って聞いたのであって、自分と春雪の関係を彼女がどう思おうがどうでもいいこと。
「通せ」
「はっ」
春雪の手をとりソファに座らせると隣に座ったドナ。
礼儀として王家の王子へ挨拶に来たと言うのなら、このまま断るのも外聞が悪い。
「謁見を許可する。御無礼のないよう」
「承知いたしました」
部屋の前で待っていたビビアナは表情を明るくする。
逢瀬として来たのなら断るはずで、ドナ殿下の方はあのご令嬢にその程度の感情しかないのだろうと。
「謁見の許可をいただき光栄にございます」
付き添いの男性を連れて入室したビビアナ。
入口近くでスカートを持ち姿勢を低くして頭を下げる。
「挨拶に来た者を断る理由もない。顔をあげよ」
許可が出てビビアナは顔をあげてドナを見る。
「…………」
そこに居たのは見知らぬ男性。
いや、髪の色を見るに第五王子で間違いないだろうが……このように整った顔をしていたのかと。
「騒ぎにならないよう内密に行動したつもりだったが、どこからか耳に入り気を使わせたようだな」
真紅の生地に金の刺繍を施した軍服を身につけた王子。
ビビアナが王城で見たのは長い前髪で顔を隠した目立たない王子で、このように風格のある華やかな王子ではない。
「尊き王家の殿下が私の公演にお越しくださったとあらば、こちらからご挨拶に伺うのは当然のことにございます」
令嬢が着ているのも王子と同じ真紅に金の刺繍のドレス。
王子が自分の瞳の色と同じ色のドレスや装飾品をご令嬢へ贈ったのだと、初めてまともに見た瞳の色で分かった。
「彼女が歌姫に興味があると言うから逢瀬の場所の一つを劇場にしたが、民に人気のある歌姫の貴殿が舞台に立つ日で幸いだった。お陰で喜ぶ姿が見れた」
彼女が見たがっていたから劇場に来ただけ。
春雪の長い髪を少し摘んで口付けながら説明するドナ。
思惑があって足を運んだのだろうビビアナへの忠告と、誤解していた春雪に本当に知られたところで問題がないということを知って貰うために。
「左様でございましたか。ありがとうございます」
ドナの言動で、その程度の感情しかないから謁見を断らなかったのではなく今の姿を見せるために許可をしたのだと察したビビアナは、表情には笑みを浮かべていながらドレスを掴んでいる手には悔しさで力がこもる。
「あまり足留めさせては悪いな。舞台に遅れてしまう」
「ええ。皆さま楽しみにしておられるでしょうから」
自分の方を見て言ったドナの普段とは違うその口調で、『勇者だと伏せてるから身分が下の者へ話している時のように口調を変えたのか』と気付いた春雪も笑みで答える。
国王と大公以外で第五王子のドナより身分が高い者は勇者しか居ないのだから。
「劇中だというのにわざわざ挨拶のために足を運んでくれたことに感謝する。この後の劇も楽しませて貰う」
「……光栄にございます」
あえて見せつけられたビビアナは内心穏やかではない。
付け入る隙などないと遠回しに態度で示されたのだから。
気弱な王子だと思っていたのにあてが外れた。
「下のフロアまで見送りを」
「承知いたしました」
「失礼いたします」
三人がこの階から出て行くまでしっかり見届けるようドナが護衛に伝えると、ビビアナと付き添いの男性二人は丁寧に挨拶をして出て行った。
「すみません。私の都合に付き合わせてしまって」
二人きりになるとドナは眉根を押さえて溜息をつく。
「以前お付き合いしていたとか?」
「いえ。彼女は一般国民ですので」
「付き合うのも駄目なのですか?」
「王子が交際するとなれば成婚も視野に入りますから」
王子は平民とは結婚できない。
だから最初から一般国民とは付き合わない。
「でも何の関係もない訳ではないですよね?」
「どうしてそう思うのですか?」
「私に敵対心があるようでしたので」
恋愛沙汰に疎い春雪でもさすがに分かる。
ビビアナが見せた表情や態度は悔しさや嫉妬だと。
「一夜だけ関係を持ったことがあります」
分かっているなら隠せないと諦めたドナは白状する。
「関係を持った相手にしては冷たかったような」
「そうしなければ利用されてしまいますから」
「え?」
「彼女は貴族になりたいのです」
一度肉体関係を持った相手だけに気まずいというのも分からなくはないけれど、もう少し柔らかい対応をしても良かったのではと思った春雪にドナは再び溜息をつく。
「彼女は王家であれば誰でも良かったんです。最初は無謀にも父上に取り入ろうとしていたのですが、父上は色仕掛けに惑わされるほど未熟ではないので軽く流されていました」
「え、陛下に?」
それを聞いて春雪は驚く。
国王に色仕掛けとはよく首を刎ねられなかったなと。
仕掛けられたミシェル自身が軽く流して問題にしなかったから許されたんだろうけど。
「王城の晩餐会に来たことがあると話しましたよね」
「はい。その時ですか?」
「そうです。父上だけでなくマクシム兄さんやセルジュ兄さんやフレデリクと節操がないと思って見ていたのですが、結局関係を持ったのは私でした。しかもお酒の入った状態で」
あちらこちらと色仕掛けをかけている姿を見ていたのに、愚かにも一夜限りの関係を持ってしまった。
「お酒に酔ってということですか?」
「多少の酔いはありましたが、一番は歌です」
「歌?」
「歌姫の能力に興味のあった私が一番真剣に聞き入ってしまったんでしょうね。お酒も入り多少なりともその気が芽生えていたところを歌で擽られてしまったんです」
それを聞いて先程ドナが『期待が大きかったから』春雪は大きく感情を揺さぶられたと言っていたことを思い出す。
ドナも晩餐会で聴いた時には『能力に興味があったから』大きく感情を揺さぶられてしまったということなのだろう。
「それは……見事にとって喰われてしまいましたね」
「数年前の話ですが、気付いた時には上に彼女が」
「それはそれは」
後悔が大きいのか顔を伏せ溜息をつくドナに苦笑する。
歌姫の方が何枚も上手の策略家だったと。
「王子に能力を使って問題にならないのですか?」
「歌姫は人の心を操るのではなく聞き手のその時の感情を擽っているだけですから、攻撃には値しません。楽しい感情を持っている人はより楽しくなるだけですし」
歌姫の能力は人を傷つけるための能力ではない。
誰かを憎らしいと思っている人が感情を揺さぶられたことで憎しみが増長し悲劇的な結末を起こすということは有り得るが、それは聞き手がそもそも心に憎しみを抱えていたから起きたことで、歌姫がそうするよう仕向けた訳ではない。
「ドナ殿下もその時にたまたまその気があったから起きてしまったことで、歌姫には責任がないと」
「そういうことです。もっとも歌姫に対してその気になっていたのではないのですけどね。あくまでお酒が入った時の生理的な欲求を擽られたのであって」
不能だと思っていたくらいの春雪には経験がないけれど、お酒を飲むことで快楽物質のドーパミンが分泌されて性欲が増すということは知っている。
「今後は気をつけてくださいね?」
「普段は理性で抑えられてますよ?」
「それは何よりです」
「……気を付けます」
こめかみを押さえて呟いたドナに春雪は笑った。
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この世界では『ミーツ』と名乗ることにし、安い賃金ながらも洗濯などの雑用をこなしていくうちに、金が貯まり余裕も生まれてきた。その頃、ミーツは気付く。自分の使っている魔法が、非常識なほどチートなことに――
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『王道とは歩むものではなく、その隣にある少しずれた道を歩くためのガイドにするくらいが丁度いい』
平凡な生き方をしているつもりが、結局騒ぎを起こしてしまう男の冒険譚。困ったときの魔術頼み!大丈夫、俺上手に魔術使えますから。※主人公は結構ズルをします。正々堂々がお好きな方はご注意ください。
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