玄関フードの『たま』

ながい としゆき

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第一話 この世の垢落とし

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 それから僕は、ふと千恵子さんのことを思い出した。
千恵子さんというのは、僕がこの家に来るまで十年以上も一緒に住んでいた人のことだ。女性の年齢は見た目ではわからないけど、僕が出会った頃には四十歳を超えていたらしい。物静かな人だったから、僕に話しかけたり抱っこしたりとかはしてくれなかったけれど、傍にいる時にはいつも頭や背中を優しく撫でてくれた。それがとっても気持ち良くて、僕はいつも咽喉をゴロゴロ鳴らしてそれに応えていた。手からの温もりだけで十分愛情が伝わってきたからね。
 でも、今年の雪解けの時期に、仕事から帰ってきて居間で眠っている間に亡くなってしまった。
 千恵子さんの家の隣にお兄さんが住んでいたけれど、千恵子さんがいなくなってからの僕はみんなにすっかり忘れられた存在になってしまった。誰もいない家で空腹と寒さと寂しさで震えていた僕を、亡くなってから三日目の朝に千恵子さんの友達がようやく助けに来てくれて、現在の同居人夫婦と合わせてくれたんだ。
 寒さと体力が落ちたことで猫風邪を引いてしまい、鼻水と埃にまみれていた僕をお風呂に入れてくれて、動物病院にも連れて行ってくれた。本当はどっちも大嫌いなんだけど、その時の僕は身体がだるくてボーッとしていたし、抵抗する気力もないくらい身も心もボロボロだった。
 二人の愛情表現は千恵子さんと違ったから、最初はすごく戸惑って、緊張が解けるまでちょっと時間がかかってしまったけど、明るくて、温かくて、ご飯もあって、今では一番落ち着ける場所だ。
「千恵子さんは、ちゃんと天国に行けたのかな。お兄さんや親戚の人はこの世の垢をちゃんと落としてくれたのかな。だったら良いけどな・・・」
そんなことを考えながら、僕は誰もいなくなった外を見つめていた。

 しばらく待っていたけれど、千恵子さんは現れなかった。きっと天国で幸せに暮らしているんだと思う。自分よりも相手のことを先に考える人だったから、ひょっとしたら僕の同居人夫婦に気を遣って現れないのかもしれない。
 大きな音を立てて家の前の道路をトラックが一台通り過ぎた。庭の松の木が風で揺れる。玄関フードのドアもガタガタ揺れたから、結構なスピードを出していたんだと思う。それに続いて、今度は反対側から走ってくる車のライトに松の木たちの影が踊っている。
 どうやらいつもの夜に戻ったようだ。
「千恵子さん、僕は大丈夫だよ。新しい同居人とも上手くやっているし、楽しく暮らしているから心配しないで。千恵子さんも天国で楽しく暮らしてね」
僕は心の中で、千恵子さんに『さよなら』を言った。もう新しい生活が始まっているし、千恵子さんの『たま』ではなて、同居人夫婦の『たま』になったんだから。それに猫は過去を振り返らない生き物だしね。
 僕は玄関フードに背を向けて、居間のドアに向かった。ドアのガラスからは明るい光が漏れていて、テレビの音と 同居人たちの笑い声が聞こえる。あったかい家族たちだ。
 僕には幸せにしなければならない家族が二人もいるんだ。僕は大きく息を吸って、ドアを引っかきながら
「にゃあ!」
と大きく一声鳴いた。
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