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16話 一歩進んで五歩下がる

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 長い廊下を歩きながら、この屋敷に帰ってくるのはいつぶりか、とアシュレイは考えていた。半年……いや、一年? もっと前だった気もする。彼は自分自身が三流だと思っているから、一流しかいないこの屋敷に自分の居場所はないと感じて、自分の屋敷に移ってからはあまり帰らないようにしている。そう思っているのも、気にしているのも、本人だけなのだが。
 やがて父親、バーチの執務室に辿り着いたアシュレイは、一度深く呼吸をしてから扉を叩いた。

「父上、アシュレイです。ただいま帰りました」

 入れ、とすぐに中から返答があり、アシュレイは扉を開く。バーチは大きな執務机の向こうで背を向けて立っていた。アシュレイが扉を閉め、部屋の中ほどまで進んだ辺りで、バーチはゆっくりと振り返る。威厳のある顔を、だらっと緩ませて。

「アシュ~! 久しぶりだなぁ! ちょっと大きくなったか?」

 何を隠そう、バーチは家族……とりわけ妻とアシュレイには、デレデレの甘々なのだ。

「……変わってません。嫌味ですか?」

 頬を引き攣らせて、アシュレイは一歩後退した。……彼が実家に寄りつかないのは、いつまでも子離れできないこの父親のせいでもある。

「いいや! 少なくとも三ミリは伸びている! パパの目にはわかっちゃうんだよなぁ」
「キモいからその喋り方やめやがれください」
「くぅ、アシュの罵倒が疲れた心身に沁み渡る! ささ、いつまでもそんなところに立ってないで、座りなさい!」

 部屋の中央にあるソファに座ったバーチは、自分の隣をバシバシ叩いてアシュレイを呼んだ。もちろん、アシュレイがそこに座るはずがない。彼はバーチをまるっと無視して、向かいのソファに腰掛けた。

「ぴえん」
「もう死語ですよ、それ」
「そうなのか? 若者の流行は移り変わりが早すぎて困る」

 むう、と唇を尖らせてバーチは拗ねる素振りを見せた後、軽く手を上げて合図をした。すると、部屋の隅にいたメイドが茶の手配を始める。数人がかりでテキパキと作業を終え、ささっと隅に戻って気配を消した。さながらニンジャである。ミュルズ侯爵邸の使用人は皆優秀だ。

「さて……滅多に帰ってこないアシュがわざわざ顔を見せたくらいだ。何か聞きたいことがあるんだろう?」

 ゆったりと茶を一口飲み、バーチはアシュレイに尋ねた。父親らしい態度だが……ウインクつきだ。それさえしなけりゃマトモなのにな、とアシュレイは鳥肌の立った腕をこっそり摩る。

「まず……なんでオリヴィアが魔法を使えないことを、僕には教えなかったんです?」

 じとり、とアシュレイは半目でバーチを睨みつける。自分がオリヴィアに失礼な言葉を浴びせてしまったのは、元を辿ればこの男のせいだと考えていた。

「理由は二つ。オリヴィア嬢は魔法なしでも十分に働けるから。そして、彼女自身がそれを隠したがっていたから」

 バーチの答えに、アシュレイは苦い顔をして、どかりとソファにもたれかかった。それを言われてしまっては、文句も言えない。

「では、臨時である理由は?」

 ぶっきらぼうに、続けて問う。

「そりゃあ、例の薬が完成するまでの間だけでいいと思ったからだ。そもそも、人嫌いのアシュが同じ人間を長くそばに置くとも思わなかったし……。というより、薬の開発は進んでいるのか?」

 アシュレイの体がぎくりと強張った。

「……まさか、薬が完成したらオリヴィア嬢がいなくなると思って、わざと進めてなかったりしないよな?」

 今度はバーチが半目になりながら問い詰めると、アシュレイはわかりやすく動揺した。眼球が忙しなく揺れているし、熱くもないのに額に汗を滲ませている。にたぁ、とバーチは相好を崩した。

「ふぅ~ん、へぇ~、うへへへへ」
「……キモい」
「照れるな照れるな。パパは嬉しいぞ」

 ゆるく握った両方の拳を顎に当て、きゅるんと瞳を輝かせたバーチだったが、そのポーズのまますぐに真面目な顔に戻った。

「しかし……短期間の仕事でも構わないか、とオリヴィア嬢に尋ねると、彼女は『そちらの方が好都合』と言ったんだ。もしかしたら、長く勤められない理由があるのかもしれないぞ」

 ぴくっとアシュレイの指先が痙攣した。それを誤魔化すように、彼は指を眼鏡のつるへ移動させ、押し上げる。しかし、父親にはバレバレだ。息子の焦燥に気づいたバーチは、またにたりと笑った。

「どうする? 私から聞いてもいいが……そういうことは、アシュ自身が聞くべきだとパパは思うなぁ」
「……わかってますよ」

 お節介な父親にイラついて、アシュレイは乱暴に席を立った。それが八つ当たりだということは、本人にもよくわかっている。父親もまた、理解している。そろそろ着せ替えも終わったかな、とバーチは独り言のように言った。

「……少し、席を外します」
「うん、行っておいで」

 申し訳程度に礼をして、アシュレイはバーチの執務室を出た。まだまだ自分は子供だな、だなんてことを考えながら。


 バーチの執務室は屋敷の東棟の端、マグノリアの自室は西棟の端にある。その間の廊下を、アシュレイは小走りで進んでいた。行儀が悪いが、そわそわと落ち着かない。気持ちに急かされたせいか、鈍足のアシュレイでもすぐにマグノリアの私室にたどり着いた。
 アシュレイは扉の前に立ち、ノックをしようと手を上げかけて、躊躇った。もしかしたら、まだ着替えをしているかもしれない。着替え中に訪問するのは、なんとなくまずい気がする。しかし、廊下や付近にメイドがいる気配もないから、中の様子を聞くに聞けない。さて、どうするか……。アシュレイはしばし逡巡し、扉に耳を近づけることにした。……決してやましい気持ちからではない。ちょっと状況把握をするためだ。仕方ないんだ、と自分に言い聞かせて。
 耳をすませば、二人の女性の話し声が聞こえてきた。

『それは、そういう契約ですので……』

 オリヴィアの声だとすぐにわかった。彼女の声は高すぎず、低すぎず、女性の声特有の棘もない、とアシュレイは密かに気に入っていたからだ。 

『あなたは優秀。ずっと、アシュレイのそばにいてほしい』

 これはマグノリアの声だ。彼女はハスキーな声で、何より喋り方が独特。

──母上……ありがたいけど、もう少し言い方ってもんがあるでしょう……!

 アシュレイは一人、扉の前で赤面する。客観的に見たらただの変態だ。

『それは、できないんです』

 次に聞こえた声は、震えている気がした。危険を報せる鐘のように、ドクドクと心臓が強く脈打つ。聞きたくない。そう思えど、聴覚は研ぎ澄まされたままだ。

『私は成人したら、ある家に入らなければならないのです』

 血の気が引き、首を絞められていると錯覚するほどの息苦しさをアシュレイは感じた。『ある家に入る』。それは、結婚するということか。彼女も貴族令嬢だ。婚約者がいても、なんらおかしくはない。何故、その可能性に気がつかなかったのか……
 それ以上その場にいられなくて、アシュレイは覚束ない足取りでマグノリアの自室前から立ち去った。茫然自失のまま、体が勝手に歩みを進める。気づけば、アシュレイはかつての自室に入っていた。定期的に掃除されているのだろう清潔な部屋は、彼が立ち去る前から時が進んでいないように見える。ぼすり、と彼はベッドに身を投げ出した。
 学生時代の陰鬱をため込んだ部屋は、あの頃と同じように、今のアシュレイをも包み込んだ。
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