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現実

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明け方、恵美さんが目醒めたと看護師が告げにきた。

「じゃあ、俺、行くね。」
「うん、ありがとう。」

笑顔で拓郎を見送る。幾度この背中を見たんだろう。
いつだって拓郎はこうやって私に背中を向けて去っていく。
それをいつまでも笑顔で見送る私。
こんな事がいつまで続くのか、いつまで続けられるのか。

次の約束はしない、意味がないから。
拓郎のと間に約束なんか必要がない。

夜間通用口に向かって歩き出した。一方通行のこの扉を潜ったら、もう拓郎のところには戻れない。
私は迷いなく通用口を抜けた。

野上さんとの約束を思い出した。
「ここに帰ってきて。」だったっけ。

…さすがにもうダメだろう。
何もかも知っていてくれたとはいえ、それを実体験したら、考えも変わっているだろう。
何より4時間、放り出したままだ。

それよりも何よりも…。
ハァーっと大きく息を吐いてアスファルトに座り込んだ。
もう立っていられなかった。

…良かった。恵美さんが死ななくて良かった…。

恵美さんのことはきっともう好きにはなれない。拓郎に強いている事は許せない。だからって…死ねばいいとも思えない。
本当に死なれてしまえば…2度と取り返せない。

恐怖から解放されたのに…手が震えてる。足も…。
でも些細なこと。しばらくこうしていたら、きっといつか立ち上がれる。

「ユキ!」
「…野上さん。待っててくれたの?」
「そう約束しただろう?」
ああ、と野上さんは私の身体を引き寄せて、抱きしめた。
ヒンヤリと冷たいコートに包み込まれた。
「…冷たい。」
「ああ、済まない。直ぐに温かくなるから我慢して。」

ずっと外にいたんだ…。
なんで野上さんが謝るんだろう。
なんで野上さんは怒らないんだろう。

うっ、うっ、と、堪えていた涙が溢れ出した。
「ズルい…狡いよ。」

命を盾にして拓郎が手に入るなら、私だってそうしたい。
何度も何度もそう思うけど、板挟みになるであろう拓郎を思うと出来ない。
恵美さんは狡い!
私が出来ない事を平然とやってしまえる。

「優希、どうなった?」
健太に聞かれて、目覚めたらしいと教える。
本当健太は空気を読まない奴だ。
今の状況で私たちに話し掛けらるなんて、なんて健太らしい。
フフフ、となんだか笑えてくる。
泣いたりして恥ずかしい気さえしてくるから不思議だ。

うん、もう平気。立てる。

「拓郎は病室に行ったから…私はもう用済みみたいだったから…。」

そっか、そっか、と健太は言い、岸野のおばさんに連絡しないとだからとここで別れると言う。

「優希はもう帰れ。先輩あとは頼みます。」
「うん、そうする。」
じゃあ、と健太は走って行ってしまう。

冷たいアスファルトに座り込んだ私と、その背中に覆い被さる大きな身体。
立てるのに…立てない。
野上さんが抱きついてるから立てないよ。

「帰ろう。」
「…帰れない。ソコまで甘えられない。」
「構わない。」

有無を言わさないとばかりに野上さんは私を抱き上げた。

「降ろして下さい。歩けますから。」
「降ろさない。」

野上さんはスタスタと歩く。

「じゃあ、私と別れて下さい。」
いいよ、と野上さんはそう言った。

「そのかわり、その次の日にもう一度交際を申し込むから。
告白は基本は断らないんだろう?
小梨が言ってた。」

そう言って野上さんは私を見た。
「拓郎くんに会いたくなったら別れて、その次の日にまた付き合い始めれば良いじゃないか。
いいよ、それくらい。」

…この人、何を言い出すんだろう。
それから、健太、やっぱり余計な事ばかり喋ってた。
今度会ったらタダじゃおかないから、と決めた。
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