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元の暮らし

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カフェのバイトを再開し、夜は自分の実家で過ごすようになった。

ーおはようございます。今日は通しのシフトです。

ー休憩です。新人の教育係りになりました。

ー今日のバイトは終わりました。結構忙しかったので足がパンパンです。

野上さんに定型のようなメッセージを送るのがまた日課になった。

「…ただいま。」
「おっ、おかえり。ユウ、飯は?」
「…椎茸。」

ちゃんと食え、と芳兄が冷蔵庫から小さなバットを取り出す。
椎茸、ししとう、ササミ…。私のために用意してくれていた特別な焼き鳥たち。

カウンターに座って、それらが焼き上がるのを待つ。
「…飲むか?」
「うん、水。」

居酒屋で飲むって聞かれたら酒だろ!って芳兄は苦笑い。
それでもちゃんと氷を入れた水をジョッキで出してくれる。

「…ああ、そういえばユウ、拓郎がね。」
「うん。元気だった?」
「帰ってきた。」

えっ!?

「今さ、新入学用品の注文の受注のためにあちこち回ってるじゃん。んで病院にも見舞いに行ってて。疲れたんだと思う。」
「拓郎今どこに?」
「2階。」

焼鳥どころじゃない!!

私はスクッと立ち上がって、2階へ上がるべく靴を脱いだ。

「拓郎…入るね?」
襖をそっと開けて、拓郎の部屋に入った。
拓郎は布団に潜り込んで丸まって眠っていた。
その横に座り込んで、じーっと拓郎を見つめていた。

…顔色良くないな。
…ちゃんと食べてないのかな。
…しんどかったんだよね、きっと。

…お見舞い、行ってるんだね…。

起こしてしまわないように、心の中だけで拓郎に話し掛ける。
…疲れるまで頑張るなんて似合わないのにね。
それなのに、今、目の前に拓郎がいることでどこか安心しちゃう。

「なあ、ユウ。」
気付いたら芳兄が立っていた。

「…飯出来てる。お前もちゃんと飯は食え。」
うん、そうする。

静かにそっと立ち上がった。拓郎は起きなかった。
私が隣にいても、芳兄とおしゃべりしながらゆっくりご飯を食べても。

「…帰るね。」
「おう、またな。」
私が立ち上がってお店を出るまで、拓郎は起きなかった。

隣の実家の美容室にはまだお客さんがいて、お母さんはカーラーを巻いたままのお客さんとお喋りに勤しんでいた。

「あら?おかえり。」
「…ただいま。」

彼は?と聞かれて、
「まだ春季キャンプ。」
とだけ答えた。

あーら、別れたわけじゃないのね、とアハハとお母さんは笑い声をあげた。

恵美さんが入院した事を母は知っている。そして私がとりあえず家に戻ってくることも想定してたっぽい。
最初に帰った夜、布団は干してあったらしくお日様の匂いがした。
何にも言わず、当たり前のように部屋を整えてくれていた。

変に心配して構うこともなく、かといって完全に放置されるわけでもなく。

…そうだよね。もう何回も同じことの繰り返し…。

「…疲れた。」
部屋に入って、ベッドにバサリっと寝転んだ。

…化粧落とさなきゃ。お風呂にも入らなきゃ…。

…ちゃんとしなきゃ。

スマホが鳴って慌てて起き上がる。

あ、野上さんだ。

「もしもし。」

まだ付き合い始めの頃みたい。
画面越しの野上さんは、何故だか2割、ううん5割はカッコよく見える。

「何してた?」
当たり障りのない会話の糸口だった。
「家に帰ってきた所です。」
「家?どっちの?」
「自分の家ですけど。」

はぁー、っと野上さんの溜息が聞こえる。

「俺達の家にいてよ。」
「だって…。明日もカフェですよ?」

野上さんのマンションに電車で帰るとなると電車を乗り継いで1時間ちょっと掛かる。
自分の家なら歩いても10分掛からない。
駅前の北側商店街と南側のショッピング通り。

「俺がいなくて寂しい?」
「はい。」

暫しの無言が続いた。
「冗談だったのに…。なんか嬉しい。」
「冗談…だったんですか?」

野上さんは、私は寂しいとか言わないのだと思っていたらしい。
「ひとりでも全然平気で、その方が合理的だからとか押し切られるかと思ってた。」
「酷い!」

私にだって感情はある。
この4ヶ月、一緒にいられて楽しかった。
また元の、試合後や移動日にしか会えない暮らしに戻っただけなのに、あのマンションにいるとつい野上さんを探しちゃう。
だからあのマンションには居られないのに。

「明後日は休みなので、掃除くらいはしに行きますよ。」
残してきた冷蔵庫の中の物も整理しないとだし。

取り止めのない会話をしばらく続けている時に、
「私、やっていけるのかなぁ…。」
と呟いてしまった。

何が?とは言わなかった。
何が?とも聞かれなかった。

ただ、
「俺、やっていけるのかなぁ。」
と言われた。

「やってもらわないと困ります。」
期待の4番バッターなのだから。

「そうだな、だからユキも。」

ああ、そうだ。

「ごめんなさい。弱くなり掛けてました。」
「うん、こんな時に側にいれなくてごめん。でも。必ず帰るから。見てて。」

はい、と答えた。
そう答えることしか今は出来ない。
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