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第25話 森の訓練場

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「目を覚ませ。訓練を始めるぞい」
 
 ぼやけた視界には……正一爺の深くシワの刻まれた顔が、ボンと大きく広がっていた。
 
 小鳥の甲高いさえずりが、一日のはじまりを知らせる。
 俺は、泥沼に浸かった意識を引きずり出すようにして、眠い体を無理やり起こした。
 
 朝靄の海にただよう森。そこには、驚くべき光景が広がっていた。
 
 木々の間を縦横無尽に縫うロープ。
 地面に突き刺さって、段々と高くなってゆく、幹のように太い杭。
 横並びになった、体のそこら中に裂傷のあるカカシ。まるで闘技場のような、円形の金網……。
 
 森の中につくられた、自然のアスレチック。
 いや、アスレチックと呼ぶには、あまりに殺伐とし過ぎているのかもしれない。
 茶目っ気の一つもない。そこにあるのは、挑んだ者を容赦なく叩き返そうとする、濃厚な殺意……。

「すごい……。こんな山奥に、こんな場所があったなんて」

「ワシが昔、勇者を目指していた頃に使っておった、自作の訓練場だ。ここには、体を効率よく鍛えるための道具が、すべて用意されている。勇者になるために必要な、ありとあらゆる試練を、人工的に作り出すことができるのだ。それだけじゃないぞ。周囲を森に囲まれた環境は、パフォーマンスを最大限に引き出すのに最も適しておるときた。まさに、どれをとっても勇者クオリティーの、超ハイテクジムだっ!!」
 
 朝陽に冷やされた風が、森の間をザーと吹き抜けた。
 殺気を放つアスレチックの数々が、意志を吹き込まれ俺を睨むかのようにして、不気味に揺れ動く。
 
 まるで、訓練場そのものが一体の巨大な怪物となり、今にも俺を丸吞みにしようとしているかのようで、俺は、思わずその場で立ちすくんでしまった。

「昨晩からなんにも食べていないから、無性に腹が減ったろう。腹が減っては戦ができぬ。よし、こっちへついて来い。朝飯を用意しよう」

 そう言うと正一爺は、クルっと背を向け、訓練場の奥に設置された木の小屋の方へ歩いて行く。

 俺は、あたふたと正一爺の後を追った。

 小屋の中は、森の訓練場とは打って変わり、とても快適な空間だった。

 全面が木目調の壁に囲まれ、部屋の中央には、正一爺の自作らしい、大きな木のテーブルが置かれている。
 休憩所だろうか。どうやら小屋にはシャワールームやトイレ、洗濯機まで完備されているらしく、なんだか畑の家よりも、よっぽど近代的に思えた。

「目玉焼きとパンでいいか?」

「ありがとうございます」

 すっかり土で汚れてしまった装備品を玄関に置くと、俺は木のテーブルに腰かけた。 

 ああ、やっと落ち着くことができる。
 俺は、天井を見上げながら、フウと長く息を吐いた。
 暖炉で爆ぜる炎が、パチンと火の粉を散らした。
 
 ジュージュー。正一爺は大きな換気扇のついた立派な台所に立ち、慣れた手つきで熱したフライパンに油をひく。
 ……まるで、出会った頃とは別人のようだ。
 てきぱきと職人のように仕事をこなす、その矍鑠とした様子は、くたびれた老人とは程遠い。
 
 きつい訓練の記憶が体に染みついたせいで、ここへ来ると、自然と本気スイッチが押されてしまうのだろうか。
 ああ、裏を返せば、人格を変えてしまうほどに、ここで行う訓練は、厳しく辛いということだ。
 
 グウウゥー。とつぜん俺の腹がだらしなく鳴る。
 台所からただよう、食べ物の焼ける芳醇な臭いに刺激され、今更になって自分が空腹であることに気づいたらしかった。

「ほれ、できたぞ」

 正一爺が、皿とホットミルクの入ったコップを持って、こちらに近づいてきた。

 皿には、湯気の立つ目玉焼きと、ベーコン、それからイチゴジャムが塗られた食パンが乗っている。

 口元から涎が溢れて止まらない。
 俺は、まるで何週間ぶりに飯にありつくかのような、ひどい高揚感と焦燥感を覚えた。
 
 すると、なぜだか正一爺は、皿とコップを持ったまま、クルっと踵を返し、小屋の玄関の方へ向かっていってしまう。

「あれ、正一爺さん、どこへ行くんですか」

「こんなにいい天気の日は、外で食べよう」

 なんだ、そういうことか。
 たしかに、日向ぼっこをしながらの朝食は、格別に違いない。

 俺はウキウキと心を弾ませながら、玄関を出た。

「おや、装備するのを忘れているぞ」

「え?」
 
 小屋を出たところで、正一爺が放った予想外の言葉に、おもわず素っ頓狂な返事をしてしまう。

「食事中というのは、否が応でも外敵に対して無防備になる。そんなときに、モンスターの奇襲があったら、どうする? こんどはワシらが食い物になってしまうだろう。常に身の安全を第一に考え、行動する。それが勇者の鉄則だっ!!」

「……ん、え?」

「幸い、あんたにはフルで装備品が揃っているだろう?」
 ええと、つまり……くっそ重い勇者の装備をすべて身につけなければ、食事にはありつけないということか?
 
 ああ、鬼畜の所業! 正一爺のいじわるっ!!
 
 すると、俺のびっくり顔を読み取ったのか、

「なんど聞き返しても、ワシの教えに変わりはないぞ。食事中は、必ず自分の装備を身に着けることっ! 勇者の鉄則、鉄則ッ!!!」

 そうきっぱりと言い放つ。

  俺は、絶望のあまり、その場で膝から崩れ落ちた。
 まだ装備をしていないのに、重力が倍になったみたく体が重たい。

「急いで着替えないと、目玉焼きっが冷めちまうぞい?」

 顔中をシワにして無邪気に笑う正一爺の顔が、朝陽を浴びて、キラキラと輝いて見えた。
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