純血の姫と誓約の騎士たち〜紅き契約と滅びの呪い〜

来栖れいな

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第八章:湯けむりに包まれて

第137話・誓いを重ねた夜、穏やかな朝

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離れの寝室を静かに出ると、外は穏やかな夜気に包まれていた。
山あいの空気は澄み、風に乗って湯けむりの香りが漂う。

広間には小さな明かりが灯され、卓の上にはユリウスとフィンが買ってきた酒と軽い肴が並んでいた。

「……よく眠っておられた」

静かに杯を取りながら、ヴィクトルが呟く。

「まるで、何の不安もないように。……あんな安らかな寝顔を見るのは、久しぶりですね」

「そりゃあ、当然だよ」

フィンが笑う。

「温泉もご飯も良かったし、今日はずっと楽しそうだったからね」

「……あの顔を見ていると、こっちまで息が楽になる」

シグがぽつりと呟くと、ユリウスが杯を傾けながら目を細めた。

「——そうだな。あれは、誰もが守りたいと思う顔だ」

静かな頷きが続いた。
しばしの沈黙の後、ヴィクトルがふっと微笑む。

「ルナ様に対しては、忠誠という言葉では足りません。
私はあの方のもとで剣を振るうためだけに生まれたと思っていました。
でも今は……違う。ただ、生きていてほしい。
笑って、幸せであればそれでいい。それだけが望みです」

「へえ、元王家の騎士がそこまで言うなんてね」

ユリウスの声音には、わずかな興味と寂しさが混ざる。

「……僕は、理で生きてきた。
感情など無駄なものだと思っていたよ。
けれど、あの子を見ていると、理屈なんてどうでもよくなるんだ。
ただ心が動く。何百年と生きてきて、初めてのことだよ」

その言葉に、フィンは笑みを浮かべながらも少し視線を落とした。

「僕は最初から探してた。ずっと。
ルナが生きてるって信じて。
……でも、見つけてから気づいたんだ。探してたのは“生きてる彼女”じゃなくて、“笑ってる彼女”だったんだって」

「……なるほどな」

シグが低く笑った。

「俺はその逆だ。あいつに助けられたときは、正直どうしていいか分からなかった。
命を拾われたから、返す。それだけのつもりだった。
だが、今はもう、借りなんてどうでもいい。
ただ、二度と……あいつを一人にしない。それだけだ」

その言葉に、ふっと沈黙が訪れる。
ヴィクトルもユリウスも、何も言わずに杯を見つめた。
薪の爆ぜる音がやけに大きく響く。
やがて、ユリウスが低く、少し寂しげに笑った。

「……“二度と一人にしない”、か。
でも、あの子は――僕らより、ずっと長く生きる」

その言葉に、空気がわずかに揺れる。
誰もが分かっていたこと。
けれど、誰も口にしたくなかった現実。

「……そうだな」

シグの声が、焚き火の音に溶けるように小さく響く。

「けど、それでもいい。
今だけは、俺たちがそばにいる。それで十分だ」

「……ああ」

ヴィクトルが静かに頷いた。

「ルナ様が笑ってくださるなら、その笑顔を胸に……俺は何度でも、この命を捧げる」

「……ほんと、みんな甘いね」

フィンが小さく笑い、涙ぐむように目を細める。

「でも……そんなみんなが好きだよ」

「ふふ、そういうお前が一番甘い」

ユリウスの冗談めいた一言に、ようやく空気が少しだけ緩んだ。

フィンが小さく息をつき、杯を掲げる。

「じゃあ——乾杯しよう。ルナの笑顔と、今のこの時間に」

4つの杯が静かに触れ合う。
かすかな音が夜気の中に溶け、
湯けむりの向こうで、ぬいぐるみを抱いて眠るルナフィエラの寝息が静かに響いていた。



翌朝ー。
障子越しに、柔らかな光が差し込んでいた。
湯けむりが静かに立ちのぼる谷の朝は、鳥のさえずりさえも遠く、世界全体がまだ夢の中にいるような静けさに包まれている。

ルナフィエラはゆっくりとまぶたを開けた。
ほんのり温かい。
体を包むそのぬくもりに、彼女は一瞬――昨夜抱いていたぬいぐるみを思い出す。

けれど、腕の中にあるのはふわふわの毛並みではなかった。
硬く、広く、包み込むような腕。
そして、髪にかかる穏やかな吐息。

「……ユリウス?」

かすかに呟くと、すぐ傍で小さく笑う気配がした。

「おはよう、ルナ」

その声は、夜の名残を引きずるように低く柔らかい。
振り返れば、ユリウスが穏やかな微笑を浮かべ、まだ眠そうな瞳で彼女を見つめていた。

「ぬいぐるみが……どこかに行っちゃってて……」

「僕じゃ不満?」

ユリウスの冗談めいた囁きに、ルナフィエラは頬を染める。

「……そんなこと、ないけど」

彼の腕の中は、安心するほどあたたかくて。
その温もりが、胸の奥まで染み渡っていく。

しばしの静寂。
外では湯けむりの向こうに、宿の人たちが朝の支度をしている声が遠くに響く。
窓の外の光が少し強くなり、木の床に柔らかな模様を描いた。

「……今日は、どこに行こうか」

ユリウスが小さく問いかけると、彼女はその腕の中で顔を上げ、微笑んだ。

「今日は、温泉郷をちゃんと見てみたいの。昨日は、夜だったから」

その紅い瞳は、光を受けてきらめいていた。
それを見て、ユリウスはそっと髪を撫で、手を離した。

「わかった。今日はいい朝だね。……支度をしよう」

「うん」

ルナフィエラが微笑むと、どこかからフィンの明るい声が聞こえてきた。

「ルナー! おはよー! ごはん行こうー!」

その声に、ユリウスは小さくため息をつき、けれど微かに笑みをこぼす。
今日もまた、穏やかで賑やかな朝が始まろうとしていた。
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