惷くんの、しゅんとしちゃいます

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惷くんの、しゅんとしちゃいます

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「叔父さんがおもちゃを買ってあげようね、陽ちゃん」
「わ~い! ありがと叔父さん!」
「何でも好きなものを選ぶんだよ?」
「やった~!」
 神戸陽こうべようちゃん、5歳。
 叔父さんがおもちゃを買ってくれるみたいで大喜び。

 そんな陽ちゃんの隣で、叔父さんを見上げるのはお兄さんの神戸惷こうべしゅんくん。
 惷くんは陽ちゃんの2歳年上、7歳の小学一年生。
 2人は兄妹で、叔父さんと一緒にお買い物に来ているみたい。

「ねえ、叔父さん! 僕はあれほしい!」
「ん? ああ……あれは……」
 惷くんが指さしたおもちゃは、最新ヒーローのおもちゃでした。
「う~ん、惷くんはもう少し我慢しないか?」
「え、なんで!?」
「あれは高すぎるよ」
「……そっか。じゃあ……いいや……」
 惷くんががっかりしたようにうなだれる一方、陽ちゃんは大きな大きなぬいぐるみを持ってきました。

「叔父さん叔父さん、あたしこれがほしい!」
 陽ちゃんは満面の笑みで自分よりもはるかに大きなあるぬいぐるみを引きずるように抱え、叔父さんに見せました。
 惷くんがお願いしたおもちゃは1000円ちょっと、一方の陽ちゃんが持ってきたぬいぐるみは7000円もするではありませんか。
 しかし、叔父さんはそのぬいぐるみを陽ちゃんから受け取って微笑みました。
「よぉし、叔父さんが買ってあげちゃうぞ~!」
「わ~い! ありがと叔父さん!」

 おもちゃを買ってもらえると知って嬉しそうな妹の姿を見て、惷くんはもう一度叔父さんにお願いしてみることにしました。
「お、叔父さん、僕もあのおもちゃ……」
「惷くん、さっき叔父さん言ったよね? あれは高すぎるからもう少し我慢しないかって」
「う、うん……」
「惷くんならできるよね?」
「え……でも……あのおもちゃは……」
「もうお兄ちゃんだから、できるよね?」
「……うん……」
 惷くんは少し残念そうな顔をしましたが、それ以上おねだりはできませんでした。

 大きなぬいぐるみを買ってもらえてご満悦な陽ちゃんと、満足そうに笑う叔父さん。
 惷くんは自分だけが仲間に入れてもらえなかったような、そんな気持ちになっていました。
 しゅん、としてしまう惷くんでした。


 下校のチャイムが鳴ると、廊下が一気ににぎやかになりました。
 ランドセルを背負った子どもたちが、笑いながら教室を飛び出していきます。
 惷くんも、机の横でランドセルのベルトを直しました。
 そのとき、同じクラスの男子が、机を叩くようにして声を上げました。

「なあ! 今日、公園でサッカーしようぜ!」
「いいね! 何時?」
「すぐ! 帰ってランドセル置いたら集合な!」
 わあっと盛り上がって、みんなが顔を見合わせます。
 惷くんも、思わず少しだけ目が輝きました。

「神戸も来いよ!」
「う、うん……」
 言いかけて、惷くんは口の中で言葉を止めました。
 胸の奥に、ちくっと小さなものが刺さります。

 ――今日は、陽ちゃんのピアノの日。

 惷くんは、親から渡されたメモ書きをランドセルの横に押し込みました。
 そのプリントには、太い字でこう書いてあります。
『陽 15:30 ピアノ』
 惷くんは、それを見ないふりをするみたいに、ランドセルのふたをぱちんと閉めました。

「神戸、じゃあな! 先に行ってる!」
「……え、えっと……」
 惷くんが返事をすると、男子のひとりが、ふっと思い出したように振り返りました。
「え、神戸も来るんだよな?」
「……あの……」

 惷くんは、足を止めました。
 何か悪いことをを言うみたいで、喉がきゅっと細くなります。
「……今日は、ちょっと……」
 みんなの歩く音が一瞬だけ弱くなって、空気が薄くなったように感じました。

「また?」
「神戸ってさ、いつも“ちょっと”って言うよな」
 笑い声ではありません。
 でも、からかいとも違う、軽い言い方でした。

 惷くんは、あわてて首を振りました。
「ご、ごめん。今日は……妹の……」
「妹? 陽ちゃん?」
「……うん。ピアノ。迎えに行く……」

 男子のひとりが「へえ」と言いました。
 別の子が、あっさりと言いました。
「じゃあ無理じゃん。まあ、また今度な!」
「うん、また今度!」

 そう言って、みんなは公園の方へ走っていきました。
 走りながら、誰かが振り返って手を振ってくれました。
 惷くんも、反射みたいに手を振りました。
 でも、手を振り終わったあと、惷くんの手は行き場をなくして、ランドセルのベルトを握ったまま止まりました。

「……また今度」
 惷くんは小さく言いました。
 誰にも聞こえない声でした。

 惷くんは道の角を曲がって、ピアノ教室のある通りへ向かいました。
 建物の前に着くと、壁に貼られた看板の音符が、傾き始めた日の光に白く光っていました。

 しばらくして、扉が開きます。
「おにいちゃーん!」
「……おかえり、陽」

 陽ちゃんが、にこにこしながら駆け寄ってきました。
 小さな手には、かわいい音符のシールが貼られたノート。
「見て! 今日ね、先生にね、“とっても上手”って言われたの!」
「そっか。すごいね」
 惷くんが言うと、陽ちゃんは得意そうに笑って、惷くんの腕にぎゅっとしがみつきました。

「おにいちゃん、帰ろ! おうちでおやつ!」
「うん」
 惷くんは、笑おうとしました。
 ちゃんと笑えた気がしました。
 でも、歩きながらふと、背中の方から聞こえた気がしました。

「また今度なー!」
 公園の声かもしれません。
 ただの風かもしれません。
 惷くんは振り返りませんでした。

 陽ちゃんの手を引く指に、少しだけ力が入りました。
 胸の奥は、なんだか友人にたちに置いていかれたみたいに、少しだけ寒くて。

 しゅん、としてしまう惷くんでした。


 日曜日。
 惷くんと陽ちゃんの家の近くにある、親戚の家に集まる日でした。
 玄関を開けると、ふわっと、煮物のにおいとお酒のにおいが混ざって流れてきます。
 大人たちの笑い声が、部屋の奥から聞こえてきました。

「いらっしゃーい!」
「まあまあ、惷くん! 陽ちゃん! 大きくなったねえ!」
 惷くんは、少しだけ背中を丸めて「こんにちは」と言いました。
 陽ちゃんはすぐに「こんにちは!」と元気よく言って、靴をそろえる前に奥へ走っていきます。

「陽ちゃーん!」
「こっちおいで~!」
「見て見て、お菓子あるよ!」

 陽ちゃんは、呼ばれるたびに「はーい!」と返事をして、笑いながら駆け回りました。
 惷くんはその後ろを、急がない速度でついていきました。

 居間には、知らない顔もいました。
 見覚えのある顔もいました。
 でも、みんな惷くんより大きいか、ずっと大きいか、どちらかでした。

「惷くん、もう一年生だっけ?」
「うん……一年生」
「えらいねえ。お兄ちゃんだもんね」
 そう言われるたびに、惷くんは小さくうなずきました。
「お兄ちゃん」という言葉は、褒められているはずなのに、どこか重たいです。

 しばらくして、誰かが言いました。
「ねえねえ、せっかくだから写真撮ろうよ!」
「あっ、いいね! 集合写真!」
「スマホ出してー!」

 一気にみんなが動き出しました。
 座布団がずれたり、膝がぶつかったり、テーブルが少し押されてお茶が揺れたり。
 大人たちが「はいはい」と言いながら、なんとなく丸い形を作っていきます。

「陽ちゃん、こっち! こっちおいで!」
「陽ちゃんは真ん中ね! 真ん中がいい!」
「ほら、かわいいから~!」

 陽ちゃんは「わーい!」と言って、真ん中に座らされました。
 膝の上に乗せられて、髪を整えられて、肩を抱かれて。
 陽ちゃんはまるで、ぬいぐるみみたいに大事にされていました。

「おにいちゃん、ここー!」
 陽ちゃんが、にこにこしながら手を振りました。
 惷くんは、その声に少しだけ安心して、みんなの輪に近づこうとしました。
 そのとき、後ろから大人の声がしました。

「惷くんは……そうだねえ」
「惷くん、ちょっとこっち」
「端っこでいいよね? 男の子だし」

 言い方は、とても軽いものでした。
 怒っているわけでもありません。
 本当に、ただの段取りです。

 惷くんは「うん」と言いました。
 言いながら、自分の足がどこへ向かうのか分かっていました。

 大人たちが作った輪の、いちばん端。
 カーテンの近く。
 陽ちゃんのいる真ん中が、少し遠く見える場所。

「はい、そこそこ。惷くん、もうちょい右!」
「そうそう。映るようにね」
「笑って笑って~!」

 惷くんは笑おうとしました。
 口の端を上げて、目も少し細めて。

 でも、みんなの視線は陽ちゃんに集まっていました。
「陽ちゃんかわいい!」
「こっち見て~!」
「はい、ピース!」

 惷くんは、ピースを作るタイミングを少し遅らせてしまいました。
 それでも、誰も気づきません。

「じゃ、撮るよー! 3、2、1!」
 カシャッ。
 シャッターの音がして、すぐに大人たちが覗き込みます。

「見せて見せて!」
「うわ、陽ちゃん超かわいい!」
「最高最高!」

 画面の中の自分を、惷くんは見ました。
 端っこに、ちょっとだけ写っている自分。
 笑っているように見えるけれど、笑っているかどうかは、自分でもよく分かりませんでした。

「惷くんも写ってる写ってる!」
 誰かが、気づいたみたいに言いました。

「よかったねえ。ほら、ちゃんと入ってる!」
「惷くん、影になってない? 大丈夫?」
「まあ男の子は多少暗くてもね!」

 みんなは笑いました。
 冗談みたいに。
 でも、惷くんにはそれが冗談かどうか、よく分かりませんでした。

 陽ちゃんが、画面を覗き込んで言いました。
「おにいちゃんも、いる!」
「うん……いるね」
 惷くんは言いました。
「いる」と言いながら、胸の中で別の言葉が出そうになりました。

 ――“いるけど、真ん中じゃない”。
 惷くんはその言葉を、飲み込みました。
 飲み込むのが上手なのは、お兄ちゃんだからです。

 それからしばらくして、食卓に戻ると、陽ちゃんはみんなにお菓子を渡されていました。
「陽ちゃん、これも食べな」
「これは陽ちゃんの分ね」

 惷くんにも、お菓子は出ました。
 でもそれは、「みんなで食べようね」のお皿の中でした。
 惷くんは、手を伸ばして一つ取ると、紙皿の端に置きました。
 すぐに食べるのは、なんだか、いけない気がしたからです。

 居間の壁に、さっき撮った写真がもう一度映し出されました。
 テレビにスマホをつないで、みんなが「かわいい」「かわいい」と言います。

 その画面の端に、惷くんもいました。
 ちゃんと写っていました。
 ちゃんと写っているのに、
 惷くんは、自分がそこに“いる”感じがしませんでした。

 惷くんは、陽ちゃんが笑っている顔を見て、もう一度、口の端を上げました。
 今度は少しだけ、上手に笑えた気がしました。
 でも、胸の奥は、写真の端っこと同じで、少しだけ冷たくて。

 しゅん、としてしまう惷くんでした。


 親戚の集まりは、だんだん終わりに近づいていました。
 テーブルの上には空になった皿が増えて、湯のみがあちこちに置かれています。
 大人たちの声は少しだけ大きくて、笑い方も少しだけ長くなっていました。

 陽ちゃんは、居間の隅でお菓子の袋を抱えて、まだ元気そうです。
 惷くんは、その隣で正座の形を崩して、足をこっそり伸ばしました。

「惷くん、もう一年生だもんねえ」
「うん……」
 そう言いながら、惷くんの頭をなでる手がありました。
 なで方は優しいのに、惷くんは少しだけ身を固くしました。

「一年生ってことはさ」
 別の大人が、ふっと思い出したみたいに言いました。
「もう将来のこと、考えなきゃじゃない? 漠然でもさ」

 惷くんは、目を瞬きしました。
 将来。
 その言葉は、机の上に置かれた湯のみみたいに、突然そこに置かれた感じがしました。

「ねえ惷くん」
 大人が、にこにこしたまま言います。
「大きくなったら、何になるの?」

 居間が静かになったわけではありません。
 テレビもついているし、誰かは別の話をしていました。
 でも、その瞬間だけ、惷くんの周りの音が少し遠くなったように感じました。

「……えっと……」
 惷くんの口から出たのは、空気みたいに薄い声でした。

「なにがいいかな~? ほら、サッカー選手とか?」
「YouTuberとか言うのかな、今の子って」
「いやいや、今はそういうんじゃないでしょ?」
「お医者さんもいいよねえ。頭いい子だし」

 みんな、勝手に答えを並べていきます。
 悪いことを言っている顔ではありません。
 むしろ、楽しそうです。
 惷くんの未来を、面白がっているみたいに。

 惷くんは、笑いました。
 笑ったつもりでした。

「……まだ、わかんない……」

 すると、大人の誰かが言いました。
 少しだけ、困ったみたいな声で。

「えー? 男の子なのに?」
「男の子は夢がないとねえ」
「ほら、惷くん。なんでもいいんだよ? 何かあるでしょ」

 “なんでもいい”。

 その言葉が、惷くんには一番難しく聞こえました。
 なんでもいいのに、
 答えられないと、いけない。

 惷くんは、膝の上で指を握って開いて、また握りました。
 爪の先が手のひらに当たる感覚だけが、はっきり分かりました。
 陽ちゃんが、横から口を挟みました。

「おにいちゃんはね、やさしいよ!」
「そうそう、惷くんは優しい!」
「じゃあ先生かな? 優しい先生!」

 大人たちはうれしそうに笑いました。
 でも、その笑いは惷くんの答えにはなってくれませんでした。

「先生かぁ~」
 誰かが言いました。
「先生もいいけどさ、“すごい”のがいいよね。せっかく男の子なんだし」

 せっかく。
 惷くんは、その言葉の意味が分からないふりをしました。
 せっかく男の子。
 男の子だと、何かを“すごく”しなきゃいけないのかな。

「惷くん、今のうちから頑張らないとね」
「陽ちゃんみたいに、何か賞取れるといいねえ」
「そうだよ、惷くんも、何か得意なのあるでしょ?」

 ――得意なこと。

 惷くんは、頭の中を探しました。
 探したけれど、どれも小さくて、誰にも見せたことがなくて、
 言葉にしていいのか分からないものばかりでした。

 たとえば。
 陽ちゃんが転んだときに、すぐに絆創膏を持ってくること。
 大人が話しているときに、邪魔をしないこと。
 怒られないように、音を立てないこと。
 おねだりをしないこと。
 泣かないこと。

 それは、得意なことではなくて、
 できるようにしなきゃいけなかったことでした。

「……」
 惷くんは、口を開けたまま閉じました。

 そのとき、別の大人が助け舟みたいに言いました。

「まあまあ、まだ一年生だし。これからだよ」
「そうそう! 今はいっぱい遊んで、勉強して!」
「でも、夢くらいはねえ。持ってた方がいいよねえ」

 最後の言葉が、ふわっと惷くんの肩に乗りました。
 軽い言葉のようで、重い手のひらみたいでした。

 惷くんは、また笑いました。
 笑いながら、頷きました。

「……うん……がんばる」

 そう言うと、大人たちは満足そうに「えらいえらい」と言いました。
 その声に、惷くんの胸の奥が少しだけ冷たくなりました。

 陽ちゃんが、惷くんの袖を引きました。
「おにいちゃん、帰ろ。おうちでねる?」
「うん……帰ろう」

 惷くんは立ち上がって、靴を履きました。
 玄関で「さよなら」を言うと、みんなは「またね」「頑張ってね」と言いました。

 外に出ると、夜の空気はひんやりしていました。
 惷くんは、肩をすくめました。

「おにいちゃん、さむい?」
「ううん。だいじょうぶ」

 惷くんは言いました。
 大丈夫、は便利な言葉です。
 言うと、それで終わるからです。

 歩きながら、惷くんはさっきの質問を思い出しました。

 "大きくなったら、何になるの?"

 惷くんは答えられませんでした。
 答えられなかったのに、みんなは笑って終わりました。
 笑って終わったのに、惷くんの中だけ、終わっていませんでした。

 惷くんは陽ちゃんの手を握って、少しだけ強く握って、また力を弱めました。
 握る力の強さが、分からなくなったからです。

 しゅん、としてしまう惷くんでした。


 公園は、夕方の風が少し冷たくなっていました。
 すべり台の銀色が、空の色をうつしてぼんやり光っています。

 惷くんは、ベンチのそばに立っていました。
 陽ちゃんは砂場の近くで、しゃがんで石を集めています。

「陽、そろそろ帰ろ」
「やだー! まだあそぶ!」
「もう暗くなるよ」

 惷くんが言うと、陽ちゃんは顔を上げて、頬をふくらませました。
 その顔は、さっきまで笑っていたのに、急に別の顔に変わります。

「おにいちゃん、ずるい!」
「ずるくないよ。帰る時間だから」
「やだやだやだ!」

 陽ちゃんの声が少し大きくなりました。
 近くで遊んでいた子が、ちらっとこちらを見ました。
 惷くんは、喉の奥がきゅっと細くなるのを感じました。
 周りの視線が集まるのが、苦手でした。

「陽、お願い。帰ろ」
「やだ! すべり台する!」
「もう一回だけ?」
「もっと!」

 陽ちゃんは立ち上がって、すべり台の方へ走ろうとしました。
 惷くんは慌てて追いかけて、陽ちゃんの手をつかみました。

「危ないから、走らないで」
「いたい!」
「痛くしてない」
「いたいって言ってるもん!」

 陽ちゃんは、手を振りほどいて、そのまま地面に座り込みました。
 そして、口を大きく開けて泣き出しました。

「うわああああん!」
「……陽」

 泣き声は、思ったより大きくて、思ったより遠くまで届くみたいでした。
 惷くんの耳が熱くなります。

 ベンチに座っていた大人が、こちらを見ました。
 犬を散歩していた人も、足を止めました。

 そして、すぐ近くでブランコを押していた別の子共のお母さんが、陽ちゃんの泣き声に気づいて近づいてきました。

「どうしたの?」
「……」
 惷くんは言葉が出ませんでした。

 陽ちゃんは、惷くんを見上げて泣きました。

「おにいちゃんが……おにいちゃんが、いじわるした!」
「いじわるじゃないよ……」
 惷くんの声は小さくて、泣き声に消えそうでした。

 お母さんは、陽ちゃんの前にしゃがんで、優しく頭をなでました。

「よしよし。怖かったねえ」
「こわくない! すべり台したいの!」
「そっかそっか。楽しいもんね」
 陽ちゃんは泣きながら言いました。

 お母さんは一度だけ惷くんの方を見ました。
 責める顔ではありません。
 でも、何かを“お願いする”顔でした。

「おにいちゃん、ちゃんと見てあげてね」
「……はい」
 惷くんは、反射みたいに返事をしました。

 そのとき、別の大人の声もしました。
 ベンチにいたおじさんです。
「お兄ちゃんなんだからさ、泣かせないの」
「……」

 お兄ちゃんなんだから。

 惷くんは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し冷たくなりました。
 “泣かせない”って、どうやったらいいんだろう。
 陽は泣くし、泣き止むし、また泣くし。
 惷くんは、陽ちゃんの気持ちを全部、動かせるわけじゃないのに。

「ほら、陽ちゃん。お兄ちゃん困ってるよ」
 お母さんが言うと、陽ちゃんは顔をくしゃくしゃにして言いました。

「おにいちゃんが、すべり台だめって言った!」
「だめじゃない。帰る時間だから……」
「やだあああ!」

 惷くんは、砂のついた陽ちゃんの手をそっと握りました。
 握ると、陽ちゃんは少しだけ泣き声を弱めました。

「陽、すべり台……一回だけにしよう。そしたら帰ろ」
「……ほんと?」
「ほんと」

 陽ちゃんは涙で濡れた顔のまま、すっと立ち上がりました。
 泣き止むのが早すぎて、惷くんは少しだけ置いていかれた気がしました。

 すべり台の階段を、陽ちゃんは上っていきます。
 惷くんはその後ろで、足元を見ながらついていきました。

 陽ちゃんが滑り終えると、何事もなかったみたいに笑いました。

「もういっかい!」
「……陽、約束」
「えー!」

 陽ちゃんの声がまた尖りかけたので、惷くんはすぐに言いました。

「じゃあ……もう一回だけ。ほんとにほんとに最後」
「やった!」

 陽ちゃんはまた走り出しました。
 惷くんは追いかけながら、胸の奥がじんと痛くなるのを感じました。

 ――約束を守らせるために、
 ――約束を増やしていく。
 それは、うまくいっているようで、どこか違う気がしました。

 二回目が終わると、今度こそ帰ることになりました。
 陽ちゃんはすぐに機嫌を直して、惷くんの手を握りました。

「おにいちゃん、かえろ!」
「……うん」

 公園の出口に向かって歩いていると、さっきのお母さんが笑いながら言いました。

「おにいちゃん、えらいねえ。しっかりしてる」
「妹ちゃんはまだ小さいもんね。お兄ちゃんは大変だね」

 惷くんは、うなずきました。
 うなずくしかありませんでした。

「……大丈夫です」

 自分でも驚くくらい、すっとその言葉が出ました。
 “便利な言葉”は、すぐ出ます。
 出すと、その場が終わるからです。

 陽ちゃんは、惷くんの手をぶんぶん振りました。

「おにいちゃん、おやつ! おやつ!」
「うん……」

 惷くんは笑いました。
 笑っているふりじゃなく、笑ったつもりでした。

 でも、歩きながら、さっきの言葉が頭の中で何度も繰り返されました。

 お兄ちゃんなんだから。
 泣かせないの。
 ちゃんと見て。

 惷くんは陽ちゃんの手を握ったまま、握る力を少しだけ弱めました。
 強く握ったら、また「いたい」と言われるかもしれないからです。
 弱く握ったら、また走って行ってしまうかもしれないからです。
 ちょうどいい力が、分かりませんでした。

 惷くんは、前を向いたまま小さく息を吐きました。
 冷たい風が、喉の奥に入ってきました。

 しゅん、としてしまう惷くんでした。


 家に着くと、玄関の灯りがぽっと足元を照らしました。
 靴を脱ぐと、陽ちゃんはすぐに廊下を走っていきます。

「おにいちゃーん! おやつ! ある?」
「……あるよ」

 惷くんは、荷物をそっと下ろして、台所の方へ行きました。
 棚の中を開けると、小さな袋のお菓子がありました。
 前に親戚でもらったものです。
 “みんなで食べようね”のお皿に乗っていたもの。

 惷くんは、それを一つだけ取って、陽ちゃんの前に置きました。
「はい」
「わーい!」

 陽ちゃんは、何も考えずにうれしそうでした。
 袋を開ける音がぱりっとして、陽ちゃんの頬がふくらみました。

「おにいちゃんも食べる?」
「……うん。あとで」

 惷くんは言いました。
 あとで、という言葉も便利です。
 今の自分がどうしたいかを言わなくてすむからです。

 陽ちゃんはテレビをつけて、床にぺたんと座りました。
 画面の中の歌が流れて、陽ちゃんは足をぶらぶらさせました。

「今日ね、公園たのしかった!」
「……そっか」

 惷くんは笑いました。
 笑うのは、苦しくありませんでした。
 陽ちゃんが楽しかったなら、よかったと思えたからです。

 でも、笑いながら、惷くんの胸の奥には、さっきの言葉が残っていました。

 惷くんは、台所の水道の前で、コップに水を入れました。
 水の音を聞きながら、少しだけ息を吐きました。
 吐いた息は、誰にも見えません。

 自分が“しゅん”とした理由は、ひとつじゃありませんでした。
 今日だけのことでもありませんでした。

 叔父さんが陽ちゃんにだけおもちゃを買ってあげたこと。
 写真の端っこにいたこと。
 将来の夢を聞かれて、答えられなかったこと。
 陽ちゃんが泣いたときに、自分だけが悪いみたいになったこと。

 全部、小さなことです。
 小さなことだから、誰も気にしません。
 小さなことだから、惷くんも「大丈夫」と言えてしまいます。

 惷くんはコップを持って居間に戻りました。
 陽ちゃんは口の周りにお菓子の粉をつけて、画面に夢中です。

「おにいちゃん!」
「なに?」
「明日も、公園いこ!」

 陽ちゃんはにこにこして言いました。
 惷くんは、その笑顔を見て、少しだけ胸があたたかくなりました。

「……うん。行こう」

 惷くんは、陽ちゃんの隣に座りました。
 テレビの光が、陽ちゃんの髪を明るく見せます。
 陽ちゃんはまだ小さくて、世界のことをあまり知りません。
 だから笑えます。
 それが、うれしいことだと惷くんは思いました。

 惷くんは、陽ちゃんの頭をそっとなでました。
 陽ちゃんは目を細めて笑いました。

「くすぐったい!」
「ごめん」

 惷くんも笑いました。
 陽ちゃんが笑うなら、自分も笑えると思いました。

 ――陽の前では、笑おう。

 惷くんは、胸の中で小さく言いました。
 声に出すほど立派な誓いではありません。
 でも、惷くんにとっては大事なことでした。

 陽の笑顔を、こわしたくない。
 陽が泣いても、すぐに笑えるようにしてあげたい。
 自分が“お兄ちゃん”だから。

 惷くんは、テレビの音にまぎれるように、もう一度だけ胸の中で言いました。

 ――陽の前では、笑おう。

 そして、もし笑えないくらい胸が苦しくなったら。
 そのときは、誰にも見えないところで、しゅん、としてしまえばいい。

 惷くんは、自分の手のひらを見ました。
 今日は何回も、陽ちゃんの手を握りました。
 強く握るのが怖くて、弱く握るのも怖くて、ちょうどいい力が分からなかった手。

 惷くんは、その手をそっと膝の上に置きました。
 指を握って開いて、また握って。

「おにいちゃん、みて! これおもしろい!」
「うん。見てる」

 惷くんは笑いました。
 陽ちゃんが隣にいるから、笑えました。

 それでも、胸の奥は、ときどき冷たくなります。
 それは、明日もきっと、同じです。
 明後日も、きっと。

 惷くんは、笑いながら、少しだけしゅんとしていました。
 それが、惷くん。

 しゅん、としてしまう惷くんでした。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

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克全
エッセイ・ノンフィクション
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