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第2話「やよい ~森に潜む者~」前編
風が止むと、街は音さえ忘れた。
錆びた看板と割れたガラス。雨に黒ずんだ壁面に、夕闇がゆっくりと沈殿していく。人気のない通りを、レイア・ルーネウェンは無言で歩いた。肩の小型ポーチの中で、金属が小さく触れ合う。任務の重さは、音を立てないほうが増すものだ、と彼女は知っている。
——怪物、行方不明者、森。
割り当てられた語の並びは簡潔だが、背後にぶら下がる死体の数は簡潔ではない。目撃者は口を閉ざすか、口ごと失われている。つまり、これは「夜」に属する仕事であり、彼女の所属が「表」にないことの証明でもあった。
森の入口へ続く緩い坂を上る手前、公園がある。斜面に沿って作られた小さな広場。砂場は草に侵食され、ブランコは片鎖が切れている。ベンチのひとつに、誰かが座っていた。
レイアは自然に歩幅を緩める。こんな場所で、こんな時間に。——注意喚起をして帰らせる。そう決めて、視線を上げた。
少女だった。
肩で切られた髪は埃で灰色がかり、頬は土に塗れて薄く傷が走る。両手で抱えるパンは、すでに食べ物と呼ぶにはほど遠かった。緑の斑、白い綿。少女はそれを、祈りのように静かに口へ運ぶ。
「……こんなところにいると、怪物——」
言い切る前に、レイアの足が止まった。少女の目が、上がったからだ。
乾いた、というより、凍っている。肉の熱を忘れて久しいガラス片のような瞳。そこに映る世界は色を失い、光だけが表面を撫でて消えていく。レイアは、胸の裏側を冷たい指で押された気がした。
——これは、恐怖だ。彼女自身が長く飼い慣らし、使役してきたはずのもの。
ひさしぶりに噛まれた。
ポーチから携帯糧食を一つ取り出し、差し出す。少女は、視線でそれが何かを測り、次の瞬間には動物のような速さで奪い取った。噛む音は驚くほど小さく、喉が動くたび、細い首筋に陰影が走る。
服は薄汚れ、袖口には古い血が貼り付いて乾いている。指先は土と冷えでひび割れ、しかし掌の皮だけは硬く、刃物に馴染んだ者のそれだった。
食べ終わると、少女はかすれた声を落とした。
「……ありがとう」
名を問うと、一拍ののち、小さな音が返る。
「やよい」
その名に世界共通語の鈍い響きが混じる。ユェントン地方……特に灯ノ原国の抑揚。レイアは無意識に方位と距離を頭に描く——遠い。ここから見れば、ほとんど別の空だ。次に、親は、住処は、と続けようとして、やめる。質問は刃になる。折れた骨に更に刃を差し込む必要はない。
彼女は代わりに、薄く、笑おうとした。笑み方を忘れた人間の、ぎこちないやり方で。
隣の気配がふっと軽くなる。目を向けた時、ベンチには誰もいなかった。
幽鬼、狐……そういう言葉が脳裏をよぎる。だがレイアは首を振る。生きている匂いがした。血と土と、体温の混じる匂い。
——どこへ行った。
追うべきではない。任務が先だ。任務が、先。そう心の中で二度繰り返し、三度目で飲み込んだ。
公園の端で立ち止まり、森の黒さを遠くに見る。木々は互いの影を重ね合わせ、空に開いた孔のようだ。レイアは地図を頭から引き剥がし、地形と風向をいま一度確かめる。
森の中に踏み入るのは悪手だ。見通しが悪く、音が跳ね返り、気配が混ざる。そこが奴の巣なら、土そのものが敵になる。
——ここで待つ。
レイアは決めた。獲物が公園まで降りてくるのを、闇の縁で待つ。夜が深まれば、境界は曖昧になる。狩る者と狩られる者の線は、足下の砂より簡単に崩れる。ならば、その崩れる瞬間を、こちらで用意する。
陽は落ち切った。街灯は三つに一つが死んでいる。残りも、光というより色の薄い膜を撒くだけだ。ブランコの鎖が、風もないのに微かに鳴った。
彼女は木陰に膝を折り、狙撃体勢に入る。呼吸を浅くし、鼓動のリズムを音楽のように均す。ポーチの奥で、道具たちは眠ったふりをして、いつでも目を開けられる。
——勘は、いやなときほど当たる。外れてくれ、と誰かが心の中で呟く声がした。たぶん、自分だ。
それはまず、匂いとして来た。
酒。安い蒸留酒の、甘さの抜けた匂い。その匂いの持ち主は足音まで安く、路面の割れ目に何度も靴を引っかけては、独り言のように罵っていた。世捨て人の言葉と、捨てられた夜の言葉は、よく似ている。
男がベンチに寄り、腰を下ろす。瓶が石に当たり、鈍い音がする。
空気が、変わった。
温度が半歩ほど下がり、音が数語抜ける。殺気は、隠されていない。否、隠し方を知らないのだ。野生の牙は、剥き出しのまま鋭い。
レイアの視界が狭くなる。銃口の先だけが、夜の中央へ線を引く。男は気づかない。人は自分に欠けた感覚には、永遠に鈍い。
——来い。
レイアは願う。願いは職務に似ている。形になった瞬間、後戻りはできない。
公園の入口から、影が滑り込む。
地面に落ちる影の長さも、靴音もない。人影は、しかし確かに人であり、そして人の動きではなかった。
肩、肘、手首。その順に線が抜ける。夜に浮かんだ細い輪郭がふっと薄れ、次の瞬間には酔っぱらいの背後に立っている。
レイアの背骨に、冷たいものが走る。昼のベンチ。乾いた瞳。
——やよい。
少女の掌が柄に触れる。抜刀は、動作というより状態の切替に近い。刀の存在が夜の中で濃くなり、空気が刀身の形に沿って細る。彼女は、振りかぶらない。振りかぶる必要がない速さを持つ者は、最短距離で死を置く。
レイアは、心を無にした。
引き金にかけた指の温度を消し、呼吸の数を数字以外の何かにする。三。
銃声は、夜に穴をあける音だ。あけたはずの穴が、次の瞬間には闇で塞がることも、レイアは知っている。だから、続けて撃つ。
——外さない。
錆びた看板と割れたガラス。雨に黒ずんだ壁面に、夕闇がゆっくりと沈殿していく。人気のない通りを、レイア・ルーネウェンは無言で歩いた。肩の小型ポーチの中で、金属が小さく触れ合う。任務の重さは、音を立てないほうが増すものだ、と彼女は知っている。
——怪物、行方不明者、森。
割り当てられた語の並びは簡潔だが、背後にぶら下がる死体の数は簡潔ではない。目撃者は口を閉ざすか、口ごと失われている。つまり、これは「夜」に属する仕事であり、彼女の所属が「表」にないことの証明でもあった。
森の入口へ続く緩い坂を上る手前、公園がある。斜面に沿って作られた小さな広場。砂場は草に侵食され、ブランコは片鎖が切れている。ベンチのひとつに、誰かが座っていた。
レイアは自然に歩幅を緩める。こんな場所で、こんな時間に。——注意喚起をして帰らせる。そう決めて、視線を上げた。
少女だった。
肩で切られた髪は埃で灰色がかり、頬は土に塗れて薄く傷が走る。両手で抱えるパンは、すでに食べ物と呼ぶにはほど遠かった。緑の斑、白い綿。少女はそれを、祈りのように静かに口へ運ぶ。
「……こんなところにいると、怪物——」
言い切る前に、レイアの足が止まった。少女の目が、上がったからだ。
乾いた、というより、凍っている。肉の熱を忘れて久しいガラス片のような瞳。そこに映る世界は色を失い、光だけが表面を撫でて消えていく。レイアは、胸の裏側を冷たい指で押された気がした。
——これは、恐怖だ。彼女自身が長く飼い慣らし、使役してきたはずのもの。
ひさしぶりに噛まれた。
ポーチから携帯糧食を一つ取り出し、差し出す。少女は、視線でそれが何かを測り、次の瞬間には動物のような速さで奪い取った。噛む音は驚くほど小さく、喉が動くたび、細い首筋に陰影が走る。
服は薄汚れ、袖口には古い血が貼り付いて乾いている。指先は土と冷えでひび割れ、しかし掌の皮だけは硬く、刃物に馴染んだ者のそれだった。
食べ終わると、少女はかすれた声を落とした。
「……ありがとう」
名を問うと、一拍ののち、小さな音が返る。
「やよい」
その名に世界共通語の鈍い響きが混じる。ユェントン地方……特に灯ノ原国の抑揚。レイアは無意識に方位と距離を頭に描く——遠い。ここから見れば、ほとんど別の空だ。次に、親は、住処は、と続けようとして、やめる。質問は刃になる。折れた骨に更に刃を差し込む必要はない。
彼女は代わりに、薄く、笑おうとした。笑み方を忘れた人間の、ぎこちないやり方で。
隣の気配がふっと軽くなる。目を向けた時、ベンチには誰もいなかった。
幽鬼、狐……そういう言葉が脳裏をよぎる。だがレイアは首を振る。生きている匂いがした。血と土と、体温の混じる匂い。
——どこへ行った。
追うべきではない。任務が先だ。任務が、先。そう心の中で二度繰り返し、三度目で飲み込んだ。
公園の端で立ち止まり、森の黒さを遠くに見る。木々は互いの影を重ね合わせ、空に開いた孔のようだ。レイアは地図を頭から引き剥がし、地形と風向をいま一度確かめる。
森の中に踏み入るのは悪手だ。見通しが悪く、音が跳ね返り、気配が混ざる。そこが奴の巣なら、土そのものが敵になる。
——ここで待つ。
レイアは決めた。獲物が公園まで降りてくるのを、闇の縁で待つ。夜が深まれば、境界は曖昧になる。狩る者と狩られる者の線は、足下の砂より簡単に崩れる。ならば、その崩れる瞬間を、こちらで用意する。
陽は落ち切った。街灯は三つに一つが死んでいる。残りも、光というより色の薄い膜を撒くだけだ。ブランコの鎖が、風もないのに微かに鳴った。
彼女は木陰に膝を折り、狙撃体勢に入る。呼吸を浅くし、鼓動のリズムを音楽のように均す。ポーチの奥で、道具たちは眠ったふりをして、いつでも目を開けられる。
——勘は、いやなときほど当たる。外れてくれ、と誰かが心の中で呟く声がした。たぶん、自分だ。
それはまず、匂いとして来た。
酒。安い蒸留酒の、甘さの抜けた匂い。その匂いの持ち主は足音まで安く、路面の割れ目に何度も靴を引っかけては、独り言のように罵っていた。世捨て人の言葉と、捨てられた夜の言葉は、よく似ている。
男がベンチに寄り、腰を下ろす。瓶が石に当たり、鈍い音がする。
空気が、変わった。
温度が半歩ほど下がり、音が数語抜ける。殺気は、隠されていない。否、隠し方を知らないのだ。野生の牙は、剥き出しのまま鋭い。
レイアの視界が狭くなる。銃口の先だけが、夜の中央へ線を引く。男は気づかない。人は自分に欠けた感覚には、永遠に鈍い。
——来い。
レイアは願う。願いは職務に似ている。形になった瞬間、後戻りはできない。
公園の入口から、影が滑り込む。
地面に落ちる影の長さも、靴音もない。人影は、しかし確かに人であり、そして人の動きではなかった。
肩、肘、手首。その順に線が抜ける。夜に浮かんだ細い輪郭がふっと薄れ、次の瞬間には酔っぱらいの背後に立っている。
レイアの背骨に、冷たいものが走る。昼のベンチ。乾いた瞳。
——やよい。
少女の掌が柄に触れる。抜刀は、動作というより状態の切替に近い。刀の存在が夜の中で濃くなり、空気が刀身の形に沿って細る。彼女は、振りかぶらない。振りかぶる必要がない速さを持つ者は、最短距離で死を置く。
レイアは、心を無にした。
引き金にかけた指の温度を消し、呼吸の数を数字以外の何かにする。三。
銃声は、夜に穴をあける音だ。あけたはずの穴が、次の瞬間には闇で塞がることも、レイアは知っている。だから、続けて撃つ。
——外さない。
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